教育の機会平等と選抜
松本徹三氏がアゴラで日本の教育問題、特に中学受験の問題に関して発言して、
それに対して金融日記の藤澤氏が噛みついている。
ごく簡潔に構図を説明すると、松本徹三氏が教育方針に悩む知人の例を挙げて
「良い中学に入るために塾に通い詰めて受験勉強をしなきゃいけないのはおかしい」と主張し、
それに対して藤沢氏が「中学受験こそ日本の教育システムの肝」と反論している。
それぞれの主張に、もっともなところがあり、疑問なところもある。
教育を国全体として考えたとき、重要なことは、
1) 全ての子供に平等に機会を与える一方で、
2) 前途有為な子供を選抜して教育リソースを重点配分する
ことであると思われる。
もちろん、全ての子供に最高の教育を受けさせることができれば一番いいが
地方自治体の決算や私立学校に掛かっているコストを見れば、
それが経済的に非現実的だということはすぐに分かるだろう。
私は日本とアメリカ以外のことはあまり知らないが、
結論から言うと、1) と 2) のいずれの点でも、
日本のシステムは比較的優れていると思っている。
まず、機会平等の観点から見ると、
全ての科目を教える通常の学校を運営するには相当なコストが
かかっていることには注意が必要だろう。
アメリカではこの部分で、公立学校にしか通えない中流以下の層と
充実した教育を受けられる一握りの上流階級が分かれてしまっている。
公教育にしても、所得によって居住地域が異なり、
それによって教育環境は異なってくる。
上流階級の子供は日本より良い初等・中等教育を受けられるかも知れないが、
その結果、選抜においても生まれ持った環境の占める比重が高くなり、
必ずしも能力に優れた子供が選抜されないので
リソースの配分も非効率的になる。
日本では、小学校までは全ての子供に比較的公平に初等教育が施されている。
中学受験という選抜で有利な立場に立つには
確かに進学塾に通うなどして相当な準備をしなければならないが、
そうした教育を受けるために必要な経費は恐らく2〜3百万円ほどで
中流階層までのかなりの割合の子供がこのチャンスに恵まれる。
完全な平等からは程遠いものの、
学校教育に全てを託すのに比べれば
機会は広く公平に与えられているのではないだろうか。
少なくとも、経済力で良い学校に通えるどうかが決まる社会よりは
教育リソースは有効に配分されているだろう。
日本の教育の問題は、教育リソースが重点配分されたあとも
更なる選抜のためにリソースが費やされていることだと思う。
超一流の私立中高に入った生徒は、
再び超一流の大学に入るためにエネルギーを費やし、
大学に入ってからは希望の学科に進めるようにエネルギーを費やし、
更に超一流の企業や官庁に入ったり、難関の資格を取るためにエネルギーを費やす。
今や会社に入ってまで、各種検定試験を受けさせられる
ところも珍しくない。
確かに中学受験の入試問題を見れば12歳の子供の思考力を
試すのに十分な、趣向を凝らした問題に感心させられる。
一方で、例えば国家公務員I種試験の問題を見ると、
子供の思考力を試すような幼稚な問題に呆れさせられる。
確かに、頭の回転の早さや記憶力のようなプリミティブな能力を
試すには適した問題かも知れないが、
あの試験を作っている人達は日本の将来の一端を担う人たちに
12歳から22歳までの10年間に何を学んで来てほしいのか、
私には全く見えてこない。
学校に入るための選抜はあくまで教育リソースを最適に配分するための手段だ。
配分されたリソースは将来を支える人材を育てるために
有効に使われるべきである。
そもそも日本は米国や中国などと比べれば元々規模が小さい上に
少子化も進んでいる。選抜にかけるコストをある程度小さくしても
教育資源をうまく配分できてしかるべきだ。
個人的には日本の中学受験のシステムは結構よくできていると思っている。
経験的には、日本の難関中高(例えば上位10校程度)の出身者は、
頭の回転の早さや理解力という点において
平均すると一流大卒の平均的な人たちよりも優れていると感じる。
もし中学受験のシステムを今のまま維持するのであれば、
彼らの一定の潜在能力を認め
トップ数校の入学者に対しては大学入試を免除して、
その代わりに全人的なエリート教育を施すのも一案だろう。
いや、それは少々極端かもしれないが、
教育リソースをひたすら次の競争のためだけに使うのは
そろそろ辞める時期なのではないだろうか。
それに対して金融日記の藤澤氏が噛みついている。
ごく簡潔に構図を説明すると、松本徹三氏が教育方針に悩む知人の例を挙げて
「良い中学に入るために塾に通い詰めて受験勉強をしなきゃいけないのはおかしい」と主張し、
それに対して藤沢氏が「中学受験こそ日本の教育システムの肝」と反論している。
それぞれの主張に、もっともなところがあり、疑問なところもある。
教育を国全体として考えたとき、重要なことは、
1) 全ての子供に平等に機会を与える一方で、
2) 前途有為な子供を選抜して教育リソースを重点配分する
ことであると思われる。
もちろん、全ての子供に最高の教育を受けさせることができれば一番いいが
地方自治体の決算や私立学校に掛かっているコストを見れば、
それが経済的に非現実的だということはすぐに分かるだろう。
私は日本とアメリカ以外のことはあまり知らないが、
結論から言うと、1) と 2) のいずれの点でも、
日本のシステムは比較的優れていると思っている。
まず、機会平等の観点から見ると、
全ての科目を教える通常の学校を運営するには相当なコストが
かかっていることには注意が必要だろう。
アメリカではこの部分で、公立学校にしか通えない中流以下の層と
充実した教育を受けられる一握りの上流階級が分かれてしまっている。
公教育にしても、所得によって居住地域が異なり、
それによって教育環境は異なってくる。
上流階級の子供は日本より良い初等・中等教育を受けられるかも知れないが、
その結果、選抜においても生まれ持った環境の占める比重が高くなり、
必ずしも能力に優れた子供が選抜されないので
リソースの配分も非効率的になる。
日本では、小学校までは全ての子供に比較的公平に初等教育が施されている。
中学受験という選抜で有利な立場に立つには
確かに進学塾に通うなどして相当な準備をしなければならないが、
そうした教育を受けるために必要な経費は恐らく2〜3百万円ほどで
中流階層までのかなりの割合の子供がこのチャンスに恵まれる。
完全な平等からは程遠いものの、
学校教育に全てを託すのに比べれば
機会は広く公平に与えられているのではないだろうか。
少なくとも、経済力で良い学校に通えるどうかが決まる社会よりは
教育リソースは有効に配分されているだろう。
日本の教育の問題は、教育リソースが重点配分されたあとも
更なる選抜のためにリソースが費やされていることだと思う。
超一流の私立中高に入った生徒は、
再び超一流の大学に入るためにエネルギーを費やし、
大学に入ってからは希望の学科に進めるようにエネルギーを費やし、
更に超一流の企業や官庁に入ったり、難関の資格を取るためにエネルギーを費やす。
今や会社に入ってまで、各種検定試験を受けさせられる
ところも珍しくない。
確かに中学受験の入試問題を見れば12歳の子供の思考力を
試すのに十分な、趣向を凝らした問題に感心させられる。
一方で、例えば国家公務員I種試験の問題を見ると、
子供の思考力を試すような幼稚な問題に呆れさせられる。
確かに、頭の回転の早さや記憶力のようなプリミティブな能力を
試すには適した問題かも知れないが、
あの試験を作っている人達は日本の将来の一端を担う人たちに
12歳から22歳までの10年間に何を学んで来てほしいのか、
私には全く見えてこない。
学校に入るための選抜はあくまで教育リソースを最適に配分するための手段だ。
配分されたリソースは将来を支える人材を育てるために
有効に使われるべきである。
そもそも日本は米国や中国などと比べれば元々規模が小さい上に
少子化も進んでいる。選抜にかけるコストをある程度小さくしても
教育資源をうまく配分できてしかるべきだ。
個人的には日本の中学受験のシステムは結構よくできていると思っている。
経験的には、日本の難関中高(例えば上位10校程度)の出身者は、
頭の回転の早さや理解力という点において
平均すると一流大卒の平均的な人たちよりも優れていると感じる。
もし中学受験のシステムを今のまま維持するのであれば、
彼らの一定の潜在能力を認め
トップ数校の入学者に対しては大学入試を免除して、
その代わりに全人的なエリート教育を施すのも一案だろう。
いや、それは少々極端かもしれないが、
教育リソースをひたすら次の競争のためだけに使うのは
そろそろ辞める時期なのではないだろうか。
テーマ : 教育問題について考える
ジャンル : 学校・教育







