自動運転で日本勢が米国勢に絶対勝てない理由 -- このエントリーを含むはてなブックマーク


1997年にトヨタがわずか215万円でプリウスを発売し、世界の度肝を抜いた時のことを僕は今でも覚えている。当時の多くの日本企業の技術力は世界を圧倒しており、例え金融市場で日本のプレゼンスが多少下がったとしても、その栄華は永遠に続くようにも思われた。

それから20年、日本の技術力に陰りが見られるようにはなったものの、今でもトヨタをはじめとした日系自動車メーカーは総合力で世界のトップに立っている。

しかし、これから時代は急速に動いていく。運転が機械学習モデルによって自動化され、自動車の利用方法や所有形態までが大きく変わることのインパクトは、自動車の動力源がガソリンから電気などに変わることよりも何倍も大きい。

現在、自動車メーカーやIT企業は自動運転技術にしのぎを削っているが、私が確信していることは、トヨタや日産のような日本の大手がフォードやGMのような米系大手、テスラなどの新興メーカー、Waymo、Apple、Uber、AuroraなどのIT企業との開発競争に勝つことはできないだろうということである。その理由を示したい。

1. 現在のタイムライン

フォードやGM、その他の米IT企業の多くが2020〜2022年に事実上の完全自動化であるSAEのレベル4の商用化を計画しているのに対し、日系メーカーは2020年初頭に高速道自動運転を目指しているところが大半で既に2年程度の遅れを取っているように見える。

下は米Navigant Research社がまとめた自動運転進捗の概念図である。こうした技術面は主に縦軸に反映されていると言って良いだろう。
Autonomous.png

注目して欲しいのは、技術面だけでなく横軸の戦略面で日本は米国勢に、より大きく引き離されているということである。GM、フォード、Waymo+クライスラーのいわゆるビッグ3は既にライドシェア各社との提携や買収を決めるなど、着々とインフラ面に浸透している。


2. 米国で先に実用化されるという壁

さらに現在の進捗と並んで決定的なのは、実用化がほぼ確実に米国から始まるということだ。

元々米国は文化的にも法律面でも、まず新しいものを試し、起こった問題に後から対処していくという方法論が根付いている。自動車運転のような人命にも関わる重大な決定においては、この格差はより大きなものとなるだろう。日本でも、経産省が自動車運転に関する問題点を議論する有識者会議を設置するようだが、今後の問題点を議論するのではなく、まず先に自動運転を導入して起こった問題に対処していくという意識でなければ、米国の流れに追いつくことは難しいと思う。

米国の交通事情も普及の後押しとなっている。自動運転の最初の大きなマイルストーンは、高速道運転の自動化である。高速道路は信号や歩行者がいないなど考慮しなければいけない変数が格段に少ないため、自動運転の実用化はかなり早期に実現できる。米国は元々国土が広い上に、自動車メーカーのロビーが強く鉄道網が発達していないため、高速道自動運転の経済的インパクトが大きい。高速料金が安いことも日本などと比べたアドバンテージだ。例えばフロリダの観光地に行くにしても、自動運転が実用化されれば10以上の州の州民が飛行機から車に切り替えることを検討するに違いない。

こうした事情を考えると、もし日本メーカーが米国に進出していなかったならば米国勢に完敗することはほぼ100%確実だっただろう。しかし、日本メーカーがかなり米国に浸透している今でも、やはり日系メーカーが勝てないと私が考える理由がある。それは、ダブルスタンダードが適用される恐れのある訴訟リスクである。

トヨタは2010年代前半のプリウスの急加速問題で、最終的には全く瑕疵が見つかっていないにも関わらず司法省に10億ドルもの和解金を支払った。一方で、長年欠陥が放置され10人以上の死者を出しているGMのリコール隠しに対しては、一日7千ドルという途方もなく安い制裁金しか課されなかったのは記憶に新しい。

こうしたダブルスタンダードが疑われる状況では、非米系メーカーの戦略はどうしても、目立たないように他メーカーの後追いをするということになる。実際の運用データが競争力の鍵になる自動運転分野ではこれは大きなディスアドバンテージだ。

TeslaX.jpg
(Los Angeles Times より)

テスラはつい先日も、自動運転支援システム=オートパイロットを搭載したモデルXで死亡事故を起こした。この事でテスラの株価も下落したが、テスラ社がイノベーティブなイメージを獲得して積極的に新技術を試せる状況にあることは、アドバンテージである。トヨタやホンダが同様の事故を起こした場合に、同程度の制裁で済むのかは甚だ疑問だ。


3. 言葉の壁

日本の自動車メーカーが世界を席巻した一つの理由は、設計図が日本語でも英語でも品質に変わりはないということだろう。つまり工業製品は非常に言葉の壁が低いのである。販売面では生産面よりは言葉の壁が大きいが、強大な影響力を持つディーラーに売ってもらうだけで問題を解決できた。

しかし、自動運転ではこの方式はもはや通用しない。コアとなる技術が機械学習などのソフトなので、元々ハードウェアよりも言葉の壁が高い。その上、技術開発が完成に近くなるほど、許認可などが商品の成功に占める割合が高くなり、より高度なコミュニケーションが求められることになっていくだろう。もちろん日系メーカーも現地で人員を大量に採用しているものの、米国人社員の質と量、リーダーシップのレベルでは米系と差があると考えるのが自然だ。


4. 技術者の層の厚さ

トヨタがハイブリッド車を世界に先駆けて発売する事ができたのは、当時の日本の技術者のレベルの高さ、層の厚さ、若さが大きくプラスに働いたと言える。

一方で、繰り返しになるが、自動運転分野においては基幹技術はソフトの部分であり英語圏の方が人材の厚みがある。このことは日系メーカーも分かっており、トヨタはAIソフト開発の研究所(TRI-AD)を設立し英語を公用語化して人材を集める予定のようだ。しかし、大学などを見ても分かるように、日本の組織は海外の一流人材を集めるのに非常に苦戦しており、どの程度うまく行くかは不透明だ。


日本メーカーの望みは?

このように考えて行くと、日本メーカーが自動運転分野で米系に打ち勝って優位を築くことは至難の技に思える。それでは日本メーカーは米系に惨敗して、歴史的な再逆転を許すのであろうか。その可能性も十分にあるが、希望がない訳ではない。

逆説的ではあるが、私が希望を感じたのは昨年、優位に立つGMが「スーパークルーズ」と呼ばれるほぼ高速道自動運転を備えたキャデラックCT6を市場に送り出した時だ。スーパークルーズは非常に優れたシステムだが、GMはこの車に8万4千ドルという値札をつけた。大ヒットが狙えるような値段ではない。

CT6.jpg

自動運転の基幹技術はソフトウェアであり一台あたりの追加コストが低い。そのため、技術で優位に立つメーカーが安価で売り出して一気に市場を寡占することはそれほど難しくない。特にハイブリット車のような複雑な機構と比べれば、その違いは明らかだ。

しかし、そうした技術的優位がもっぱら利益の最大化に使われるだけでシェアの獲得に使われないのであれば、それほど決定的な差別化にはならず、車自体の信頼性などで高い評価を得る日本勢がキャッチアップすることは十分可能であるようにも思える。

つまり日本メーカーは、自動運転関連の実用化が一番でなかったとしても、基幹技術の特許などを十分に抑えて先頭集団に遅れないようにピタリとついていくことが大事だろう。それができれば、今後も長期に渡って競争力を維持できる可能性は十分にある。自動車は、テレビや携帯などの電気製品で韓国に惨敗した日本にとって数少ない得意分野である。今後も世界市場での健闘を期待したい。


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米国の崩壊した数学中等教育 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

昨秋から娘が現地校でも6年生になった。こちらでは6年生から8年生がミドルスクールに通う事になっている。数学はレベル分けが始まり、日本語補習校で習う算数よりも進度自体はだいぶ早い。娘は誕生日の関係で、現地校の学年の方が半年遅れているにもかかわらず、である。

娘の中学校は課外活動にて州内の数学コンクールで2年連続優勝しており、数学の担任はその顧問の先生である。「米国の教育も捨てたものでもないじゃないか」などと楽観的に考えていたのだが、今日、授業の内容を少し聞いてみたところ、あまりに雑なので暗澹たる気持ちになった。

次の練習問題をみていただこう。
Q9.jpg


Rドルを売り上げ、Aドルを広告費としたとき、R = 10A - 20 の関係がある。質問は、売り上げが110ドルのときの広告費を答えさせている。R=110としてAについて式を解くと A=13となり、単位がドルなので答えは、13ドルとなる。

写真のように娘もその友達もそのように解いたようだが、A = $13 と書いて四角で囲まないと(笑)1点減点だそうだ。元の式に R = 110 を代入しても、A=13としかならず、A=$13とはならないので、満点をとるためには論理的に正しくない推論をする事が求められるというオリジナリティーの高い授業だ。ちなみに問題文中にあるように広告費は"A dollars"なので、A=$13とすると、広告費は、"$13 dollars" あるいは "13 dollars dollars"である。

ちなみに、-20 を移項するために、写真の元の式の下に書いてある "+20 +20"というひとりよがりなメモがない場合は更に減点されたそうだ。意図はわからないではないが、移項(transposition)という名前から示唆される直感的な計算が許されないのは全然、好ましい事ではない。


次の問題も同様である。文中のxと図中のそれぞれの辺の長さを求めさせる問題だが、"x = 30 ft" が正解だそうだ。図中にはっきり書いてある通りこの場合の右側の辺の長さは "30 ft ft"となるが娘にその意味を聞いたところ「分からない」との事である。
Q10ver2.jpg


一方、同じ練習問題シートの次の問題では図中のxを答えさせているが、この場合にはxには単位がないようで "x = 160"が正解とのことだ。(160°-25)°という表記に怯んだのだろうか。
Q8.jpg


私が中学生の頃であれば「せんせい!これバツだけど合ってますよね!いやバツでいいです!合ってるので!」くらい言ってしまいそうであるが、そこは米国のお行儀の良い子が集まる学校だけあって、文句を言う子はいなかったそうである。


教員の本分は質の高い授業をすること -- このエントリーを含むはてなブックマーク

小中高の学校教員の長時間労働が話題になっている。

優秀な先生が高給を貰って、最高の授業をするために日夜頑張っているという話であればそれも美談になりうるが、そういう話ではなさそうである。長時間労働の原因は、部活動であったり、保護者への対応であったり、事務書類の提出であったりする事が多いようだ。

教員がそうした労働環境に置かれる事の問題は、本来の主要な業務であるはずの教科の指導レベルが落ちてしまうこと、本当に教科に情熱を持った人が先生にならなくなってしまうこと、である。

現状では教科指導というもっとも重要なはずの点で日本の学校は塾に後塵を拝しているように思う。

私は中学時代、地元の公立中学校と地元の小さな塾に通っていた。塾というと入試のために必要な事だけ詰め込むというイメージもあるが、少なくとも私の経験では正反対であった。

その塾の国語の先生は、2年間も自分の名前すら明かさないようなとても文学オタクっぽい中年の男の先生であったが、授業では常にとても丁寧に文章を解説した。その解説を聞くだけで、問題の答えを聞かなくても、自分の読み方のどこに問題があるのか、どこを間違えたのかが、自然に分かってしまうような解説である。本を読むのは嫌いだった私だが、塾の国語の授業で文章を読むのが私は好きになっていった。その先生は、文学史、文法、漢字、古文のような知識がメインになるような事にはほとんど時間を割かず、ひたすら生徒の読解力や文章力をあげることに集中していた。力のある先生にしかできない授業だったように思う。今でも私の国語力の原点はそこにあると思っている。

その塾の英語の先生は、その教室の室長で厳しい先生であった。その先生の授業は、重要な事項をかなりのスピードで何度も何度も反復する形式だった。プリントが一斉に配られ、全速力で解いていく。一枚のプリントには15問くらいの問題が並んでいるが、同じような内容を繰り返し学ぶので殆どの問題はすぐに解ける。分からないのは、せいぜい一問か二問くらいだ。先生はランダムに生徒を当てていくが、不思議と私が当てられるのは解けていない問題なのだ。何だかいつも運が悪いななどとぼんやり思っていたが、ある時、その先生は私を
「Willy、お前、その問題が解けていないのは3回目だぞ!」
と叱った。要するに私はお調子者の上に英語だけ成績がイマイチなので、その先生は私がどの問題を解けないのか全て暗記していたのである。もちろん、英語の基礎を叩き込まれたお陰で、それは米国で暮らす今でも役に立っている。

数学の先生は、とてもリラックスした雰囲気の授業をした。私はいつも、タケダという苗字で何となく肌が緑っぽい「インゲン君」(信玄とインゲンをかけている)という友達と一緒に喋りながら問題を解いていた。国語や社会では意見がぶつかりあうと議論が進まないのに、数学ではアイデアを出しあうと問題が早く解けていくのが楽しくて私は数学を好きになり、数学科に進んだ。授業を受けていた別の同級生の一人も数学科に進んだようだ。

素晴らしい先生ばかりの塾だったと思うが、私にはその小さな塾の先生が中学校の先生よりも良いお給料を貰っていたとは思っていない。実際、その教室は私が卒業してから一年後には潰れてしまい、別の校舎に合併されてしまったほどだ。

一方で残念ながら、私が中学校で受けた授業の中で塾の授業ほど印象に残っているものはない。なぜこんな事になってしまっているのだろうか。

一つの理由は、中学教員という仕事がマルチタスクすぎて、文学オタクの先生のような教科にだけ秀でた存在を許さないことだろう。もう一つのもっと重要な理由は、たとえ優れた教員がいても、中学校が各々の先生の魅力を十分に引き出すような体制になっていないということだ。レベル分けがされていないことで有意義な指導ができなかったり、授業を妨害する子を追い出す事ができないような体制になっていたり、雑務に忙殺されるせいで準備や自己研鑽がおろそかになったりする。

事務仕事や保護者対応、生活指導、部活動指導などは本来、別に人を当てるべき業務だ。必修になった小学校の英語なども同様である。部活を一生懸命指導する先生はいても良いと思うが、あくまで各々の教員の強みを活かすような仕組みにしなければならない。理解が早く意欲的な子にどんどん新しい事を教えることと、授業について行くのが大変な子が落ちこぼれないように教えることもまた、違う能力が必要だろう。

子供が減っていく中で、ただなし崩し的にクラスの人数を減らしたり複数の担任をつけたりするのではなく、業務を切り分けて分業を進めれば、より先生の魅力を引き出し有意義な授業ができる体制になるのではないだろうか。


なぜ英語の科学分野の入門書はナンセンスに見えるのか? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

米国の大学で学部生に統計学を教えるのは私の仕事のうちの一つだが、米国の統計学の入門書というのはおしなべて本当にひどい。ここでいう入門書というのは高校数学の統計程度の内容の本の話である。もちろん優れた入門書など一冊も見た事がない。例えばビル・ゲイツなども、米国の科学分野の教科書は分厚いだけで内容がひどいという類いの発言したというのを聞いたことがあるので、実際にひどいのは間違いないのだろう。

入門書という呼び方は誤解を招くかもしれない。こうした本は、何かの分野を学ぶために初めに読む本という位置づけではなく、その分野の内容を簡単に紹介するための本だからだ。読者が次にもっと難しい本を読むことは想定されておらず、実際もっと難しい本を読むために特段、役には立たない。日本で言えば、大人向けのカルチャー講座のような内容だと思ってもらえればいい。

こうした入門書はフルカラーのハードカバーで500〜1000ページくらいあるものが多く見た目は立派だが、もっとも正確な表現をするとすれば「目次付きの粗大ゴミ」である。

例えば以下はある教科書の「平均」に関する説明のページだが、巨大な本のカラー2ページも使って平均の最初の計算例が終わっていない。

統計教科書


もちろん、私は教える時にも教科書など真面目に読まない。目次だけ読んで、あとはパラパラめくって自分で説明を組み立てるだけだ。

私が今の勤務先で初めて統計学の入門クラスを教えたとき、指定されていた教科書は私から見るとごく普通の(ひどい)統計の入門書だったが同僚の間での評判はとても悪かった。なぜそんなに評判が悪いのだろうかと少し話をしてみると、なんと同僚はその教科書を「読んでいた」ことが判明して驚いたことがある。

しかし先日、数学科の米国人同僚が次のような発言をしていて気付いたことがある。その同僚は、

「うちの学科のTは統計学にはとても詳しいが教科書を選ぶのには向かないね。なぜなら、彼は統計のことは何でも知っていて教科書が必要ないのだから。」

と言ったのである。要するにTは私と同じスタイルなのだ。Tは台湾出身の老教授で、やはり非英語圏出身である。

そこで私が気付いたのは、教科書に対する評価には使用言語が影響しているという点だ。

統計学のアイデアはほぼ全てデータを元にできており、それを数式や数学的イメージを用いて論理的に組み立てていく。簡単化のため、データと数式、数学的なイメージをまとめて「数式」と表現することにすれば、統計学の本質にもっとも近いのは「数式」である。その方法で理解できない人のために、「日本語」や「英語」での説明がある。要するに「日本語」や「英語」の説明は、内容を理解をする上では邪道だと言える。簡単に表現すれば下の図のようになる。

入門書-実体


しかし一般的に英語圏の人々の数学的リテラシーは低いので、教科書はほとんどの概念を「英語」で説明することになる。ひどい場合になると、筆者でさえきちんと数式を使って理解できていないのではないか、と思わせるほどである。

これを非英語圏の出身の私が見ると下の図のように見える。つまり、統計学を理解する方法が「数式」「日本語」「英語」の3通りあるとすれば、わざわざ最悪の方法で理解しようとしているようにしか見えないのだ。

入門書-脳内


さらに言えば、「英語」が「日本語」より分かりにくい理由は必ずしも、語学力の問題だけではない。英語の文章は、箇条書きなどを排して「分かりにくく」書くのが正式であるという文化があるし、例え最短で10単語で説明できる文章であっても、余計な説明をつけて20〜30単語にした上で3回くらい説明するのが説明文のスタイルなのである。分かりにくく書く代わりに直線的に読める文章にはなっているし、わざわざ冗長な説明するのは読解力の低い人や共通認識が違う人にも理解できるようにという配慮なので、これは文化の違いであるとも言える。しかし科学が簡潔さを美と見做している以上、これはほとんどの他国語話者にとっては、あまりセンスの良いものには感じられないはずだ。

統計学の入門書がひどいと感じられるのに比べて、より専門的な本や数学の教科書はそれほど悪くないし、歴史の教科書や、文学作品を読んでいる時も同じようなフラストレーションは起らないという点も以前は不思議だったのだが、上の概念図をもってすれば全て説明できる。

つまり、専門書や数学の教科書は著者も「本質に近いのは数式である」という認識のもとに書いているから違和感がない。また、文学などにおいては言語そのものが本質であるので、例えその文章が難解だったとしても、統計学の入門書を読むような違和感を感じないのである。

このように考えて行くと、本来、数式や図など他の方法で理解すべきものを無理矢理に英語の文章で回りくどく説明するような本、つまり数式やイメージによる理解が難しい読者のために書かれた科学分野の入門書は、外国語話者にとっては特にナンセンスに見えるのではないか。

そして、私のような外国語話者が米国のような完全な英語圏において科学分野の入門書を使って講義することの難しさは、そのあたりにあるのではないかと思う。


テーマ : 英語
ジャンル : 学問・文化・芸術

日本人が米国で働いた場合の年金事情 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

以前、学会で会った日本人の方に「米国で働くと年金はどうなりますか?」
という質問をされたことがあるので、在米日本人の立場から少し書いてみたい。
ただし、私は年金の専門家でも何でもないので、以下はあくまで参考情報であり
正確な仕組みや金額などについては各自でお調べ頂きたい。

1.公的年金

現在の年金の仕組みでは基本的に、
日本で働いている間は日本の年金制度に保険料を払い、
米国で働いている間は米国の年金制度に保険料を払うことになる。
したがって、日本で15年、米国で20年働いた人なら将来、
それぞれの納付期間に応じて両国から年金を受け取るというわけだ。

ただし日本の国民年金については、海外在住者でも任意で加入することができる。
ある程度の経済的余裕がある人の場合は、米国で働きながら日本にも保険料を
納めているという人もいるようだ。

逆に、米国に在住しているが働いていない学生などの場合、
どちらの国にも保険料を納めていない期間が発生することになる。
また、学生ビザでTAやRAなどの仕事をしている場合にも、
暦年ベースで当初5年間は米国の年金に加入できないといった特例がある。

なお、日米とも原則的には10年以上の保険料を納めないと年金を受給できないが、
現在では日米社会保障協定により、納付期間と国外在住期間の合計が10年を超えれば
年金を受け取ることができる。したがって、多くの人にとっては支払った年金保険料
に見合う額が貰えなくなるという心配はなくなった。

一方、米国は累進年金という複雑な制度を取っているため、
他の国などから年金収入がある人に対して米国の社会保障年金を減額する
WEP(Windfall Elimination Provision)という制度もある。
米国での就労期間が30年未満の場合は、就労年数に応じてこの制度が適用される。

次に両国各々の制度についてだが、
実は、日本の公的年金制度(国民年金+厚生年金)と米国の年金制度(Social Security)は制度としては非常に似ている。日本の制度が元来、米国の年金制度を参考にしている点が多いからである。

米国も日本と同様、労使折半で給与に比例した額が給料日ごとに差し引かれる仕組みだ。
保険料率は、日本では18.3%、米国では15.3%である。
ただし米国の保険料は、うち2.9%ポイントは高齢者向け医療に使われている。
また、保険料の上限が決まっているのも日米で共通している。

一番気になるのは年金額だが、計算方法が異なるので一概には比べられない。
例えば、日本の厚生年金給付が保険料に比例しているのに対して、
米国では累進的になっており、年収の多い人ほど損な仕組みになっている等の違いがある。
参考までに、私が標準的なケースの試算をしてみたところ、
同じ年収であれば米国の給付額が1.6倍程度になった。
保険料の差を考慮すると米国の給付が2倍弱ということになる。

働いていない配偶者、つまり主婦や主夫の年金はどうなっているだろうか。
米国ではこうした人の年金は、配偶者の半分ということになっている。
日本では、専業主婦(主夫)が年金保険料を払っていないことが問題になっているが、
意外なことに、日本より米国の方が専業主婦(主夫)は恵まれているという訳だ。

さて、もっと肝心なのは現在の計画通り年金が貰えるかということだろう。

残念ながら、両国とも年金の持続性には疑問符がついている。

米国では2037年頃には、社会保障基金(Social Security fund)の
残高がゼロになると予測されている。残高がゼロになった場合、
収支を均衡させるには単純計算で約2割の減額になるという。
実際には様々な手を使って減額幅を圧縮させるだろうから、
目安としては「最悪2割減る」と考えれば良いかもしれない。

日本の制度は、以前のエントリー(http://wofwof.blog60.fc2.com/blog-entry-687.html)
で考察したように、マクロスライドを忠実に実行すれば破綻はしないが、
受給額は35年後に約4割減というものだ。

簡単にまとめれば、
米国の年金は日本に比べると太っ腹ではあるが、
制度の将来は全くといっていいほど無計画で不確実性を伴うと言える。



2.退職金・企業年金

日本の退職金や企業年金にあたるものは、米国にもあるが、
当然ながら企業や大学によってその制度は異なる。

私のいる大学では、勤続3年目から
従業員が給与の5%以上を確定拠出年金(403b)に拠出し
大学がそこに給与の10%分を追加拠出するという制度になっている。
ハーバード大のようにいろんな意味で私の在籍する大学と違う大学でも、
大雑把に言えば年収の10%程度を大学側が積み立てるという事になっている
ようなので、大学としてはある程度標準的なケースとは言えるだろう。

403b(401kの非営利団体版)とは、従業員や企業が税引き前の所得から
資金を拠出して積み立て、59.5歳以降になると引き出せるという仕組みだ。

例えば35年間働いたケースを考えてみよう。
大学は33年間、毎年の給与の10%を積み立てることになる。
確定拠出なので給付額は何に投資したかによって異なり確定しないが、
教職員保険年金組合の確定年金の予定利率は私の口座では3.6%なので、
インフレ率を年2%とすれば実質利回りは1.6%ほどだ。

退職時点での受け取り総額を等比数列の和の公式で計算すれば、
年収を一定と仮定した場合には、実質でその4.3倍程度になる。
オーダーとしては日本企業等の退職金と大差ないだろう。
ただし、これは課税前の金額なので、
その額を退職後に運用しながら少しずつ引き出すことになる。

米国の方が好都合な点もある。企業が毎年一定の割合を拠出するので、
転職を何度しても基本的に不利になることはないという点だ。
米国では同じ会社に何十年も勤める人の割合が低いので、
それに合わせた制度になっているということだ。

なお一部の大学や企業などには、確定拠出ではない独自の年金制度が
残っていてこれはかなり大盤振る舞いのものもあるようだ。

裕福な市の市役所は、その極端な例だ。
ロサンゼルス市では、年間20万ドル以上の年金を貰う元公務員が8人いるそうだ。
念のため書いておくが、この額を公的年金に加えて受け取っているのである。
警察署では給与100ドルあたり71ドルの年金費用がかかっている。
(出所)http://www.latimes.com/projects/la-me-el-monte-pensions/


3.私的年金

上の2つに加えて引退後の生活に備えたい人は、
確定拠出年金に追加拠出するのが一般的だ。
運用益が非課税になるメリットがあるし、
税引き前所得から拠出すれば、老後の税率が低い人には節税効果があるからだ。

州立大の大学教員の場合は最大で
上に述べた403bへ年18,000ドル(50歳以降は24,000ドル)、
類似の457bへ年18,000ドル(50歳以降は24,000ドル)、
雇用主と関係ないIRA(または税引後所得から拠出のRoth IRA)へ
年5500ドル(50歳以降は6,000ドル)まで拠出することができる。
夫婦とも大学教員というようなケースではこれを二人分使えることになる。

企業などにおいては、403bの代わりにほぼ同様の401kがあり、
IRAは同じで、457bは使えない。

これらの積み立ては元は給料の一部なのであるが、
こうした多額の積み立てから得られる株式の売却益や配当、
債券や年金の利子が非課税になるメリットは大きく、
米国人の投資を促進していると言えるだろう。


4.まとめ

このように見て行くと、日本と米国の年金制度は一定程度似通っており、
日本のサラリーマンを辞めて米国の企業や大学に転職するというケースでも
常識的な額の年金は貰えるので、過度な心配はなさそうだ。

一方で老後の年金受け取りに関しては、米国で日本の年金を受け取る、あるいは、
日本で米国の年金を受け取る手続きが必要になり、煩雑であることには注意が必要だ。
数年間だけ米国に勤務してその後日本に永住帰国するケースでは、
この外国から年金を受け取る面倒を避けるために、10%の税金と
高い所得税を払って現金化してしまう人もいるようだ。
この場合は、合計で残高の40%程度を差し引かれることになる。
退職後に分割して受け取れば平均税率は10%台半ばだろうから、
現金化によってだいぶ損をすることになる。

日米両国で働く場合には、単に両国の年金制度を理解するだけでなく、
様々な可能性を考慮しつつ最適なリタイアメント計画を立てる必要が
あるということだ。


テーマ : アメリカ生活
ジャンル : 海外情報

ヘイトスピーチが絶対にダメな理由 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

 日本ではここ数年、外国人が増えたことや経済力が弱くなって自尊心が損なわれたことから、社会への不満が外国人に向く、ヘイトスピーチ(憎悪表現)が社会問題になっている。ヘイトスピーチはより良い社会を築く上であってはならないものだが、日本のように大多数の国民がマイノリティーの痛みを感じたことがなく、またグローバル化の進展度合いが低い国では、なぜいけないのかがあまりはっきりと分からない人も多いのではないだろうか。そこで今回はこの問題を、分かりやすくお金に置き換えることで説明してみたい。


 仮に、あなたが仕事で年収500万円を得ていたとしよう。もし全く同じ労働条件と生活環境で年1000万円貰える代わりに、一日に一回、見知らぬ人から
    "GO HOME JAP!"
と罵られる国や地域があったらあなたはそこに引っ越したいだろうか?

 私がこの質問を一人の日本人にしてみたところ「ノー」と答えたので、「それでは、どのくらいの頻度であれば我慢してその国で働いてみたいか?」と続けて質問したところ「月1回程度なら」という回答を得た。この答えは、普通の日本人の感覚として常識的なものではないだろうか。それでは、これを金額に置き換えてみるとどうなるだろう。月1回、つまり年12回のヘイトスピーチに見合う報酬が500万円(=1000万円—500万円)だと見做していることになるので、ヘイトスピーチ1回あたり40万円のコストがかかっていることになる。ヘイトスピーチが行われる国では必要としている労働者を呼ぶためのコストがそれだけ跳ね上がってしまうというわけだ。(ここでは賃金に置き換えたが、他にも旅行者が減ったり、日本に反感を持つ人が増えるなど様々な経路で損失は生じる。)直感的にはこの額はとても大きく感じられるが、条件を多少変えてみたところで、その額が思ったよりもずっと大きいという事実は動かないのではないだろうか。これは、ヘイトスピーチを行う「話し手」とその痛みを受け止めるマイノリティーの「受け手」の間に、非常に大きな認知ギャップがあるからに他ならない。

 ヘイトスピーチが絶対に許されないのは、「人類みな兄弟」などという理想主義的な価値観からのみ出る結論では決してない。ヘイトスピーチは社会的に「とても高くつく」ものなのだ。

 私は日本国民全員に外国人を大好きになれと言うつもりはない。しかし、ヘイトスピーチのニュースを見るたびに「これをやってる人たちは自分のストレス発散のために日本に巨額の損失を与えているのだな」と思うし、「もしかするとこれをやっている人達は反日なのでは?」とか「日本を陥れるための外国人工作員なのでは?」と疑ってしまうレベルなのである。


大学時代に何を学ぶべきか -- このエントリーを含むはてなブックマーク

若い時に何を勉強すべきかは言うまでもなくとても大事だ。しかし、この動きの速い時代に何を勉強すれば良いのかを考えるのはとても難しくなっている。最近、そのことを改めて考えさせられることがあったので少し書いてみたい。



3ヶ月ほど前に、医学関係の研究部門でスタッフとして働いている修士課程の社会人院生2人から「夏に1〜2単位のセミナーコースを開講して欲しい」との相談を受け、3人で相談した結果、混合効果モデルという統計モデルの勉強会を開く事にした。

私はその分野に詳しい訳でもないので、軽い気持ちで院生時代に使ったテキストだった Pinheiro & Bates の Mixed-Effects Models in S and S-PLUS (Statistics and Computing) という本を提案してそのまま使うことになった。この本が出版されたのは2002年と「ほんの」15年前であり、さらに私が統計学科の院生だったのは「ほんの」10年前くらいだったし、それにその分野の入門書としては今でもアマゾンでも常に上位に来る本なので、何も問題はないと考えていた。



しかしセミナーが始まると学生は、本のコードが古いことに不満を漏らすようになった。確かに、オープンソースの統計やデータサイエンスのパッケージは文字通り日進月歩の世界なので、言われてみると実際の処理に関して時代遅れである感は否定できない。学生達は、現場で医療データを分析しているので不満を持つのも無理はない。理論面についても、基礎は変わらないものの、分析用のパッケージが充実してくれば理解すべきモデルの幅も広がる。本の記述が物足りないと感じても不思議はない。私は、たった15年前に書かれた教科書が古臭くなってしまったことにうろたえた。

だが、話はここで終わらない。応用統計の本なので理論面ではどうしても行間のギャップが大きい。セミナーは学生と私を含めた輪講式(順番に発表者を決めて進める方式)でやっていたのだが、準備の途中で式が成り立つ根拠が分からなくなって見直したのは、60年近くも前に出版された佐竹一郎の 「線型代数学」 という教科書だった。日本では数学科の1〜2年生が集中的に学ぶ内容の本である。セミナーの学生達はとても優秀だが、元々のバックグラウンドが数学ではないので、きちんと数学的基礎を追う事ができないことが多い。そして、米国で統計を教える人が足りないのはきちんと基礎を教えられる人が少ないからなのである。





実務家として働いたことのある私が、大学でカリキュラムを決めたり教科書を選んだりする時に一番に考えることは、学生が社会に出た時にその内容が役に立つかどうかだ。そのために、理論的には多少質が下がっても応用面を重視するようにしているし、最近の社会の動向も気にするようにしている。だが、実践的な内容が書かれた教科書がたった10年で陳腐化するのであれば、若い学生達にそうした内容を教えることは正しくないのではないかと再考させられる。18〜22歳という一番、脳が冴えている時期に何を勉強するべきなのだろうか。やはり、若い貴重な4年間には、より普遍性と一般性が高く、現代人として役に立つスキルを集中的に学ぶのが良いということになる。ただ、具体的に何を学ぶべきかは難しい。

古くから欧米の大学が行ってきたリベラルアーツ教育は、元来それに近い考え方だった。リベラルアーツ教育とは、人が自由に生きて行くための本質的なスキルとして、文法、論理学、修辞学などを重視する教育のことだ。アイビーリーグのほとんどはリベラルアーツ教育を行う大学として設立された。そうした考えに沿って今でも、文学、哲学をはじめ、数学、科学などを重視したカリキュラムを組むリベラルアーツ系の大学や学部が北米や欧州などには多い。

だが現在のリベラルアーツ教育の比重が、現代社会に最適化されているかどうかには疑問が残る。

例えばその中心をなす文学や哲学は一部の偉人達の才能によって成り立った面が大きい。そうした成果が偉大だとしても、何十年、何百年の時間をかけて継続的に発展している数学や科学に比べて、相対的な重要性が低下していることは疑いがない。

科学を学ぶこともまた万能ではない。確かに、積み重ねが必要な科学を学ぶことで高い思考力が身に付くとは言える。しかし学ぶ者自身が積み重ねなければならないという制約によって、人の積み重ねたものの上に積み上げれば良いと考える工学にくらべ実用性に劣るという側面がある。過去100年の人類による膨大な積み重ねにより、工学の相対的な重要性が科学に比べて高まっているのもまた疑いがない事実だ。

そして話はふりだしに戻ってしまうが、最新の工学だけを学べばその技術は簡単に陳腐化する。近い将来に陳腐化する技術を一生に一度しかない貴重な時期に学ぶ必要があるのだろうか。

さらに言えば、英語を重点的に学ぶというかつて日本において手堅かった戦略も、自然言語の処理技術の急速な発展によりその将来は不確実なものになってしまった。

こう考えていくと、現在の社会において大学時代に何を学ぶべきかがいかに難しいかが分かる。おそらく最適なミックスは、伝統的なリベラルアーツ教育よりも現代社会の基幹技術である数学や科学に重点をおいたものになる。そして働き始める2年前くらいには、良い仕事に就くための応用技術を学ぶ必要があるだろう。そしてフルタイムで働き始めた後も知識が陳腐化しないよう継続的に応用技術を学んでいく必要がある(これは現在の日本人が弱いポイントだ)。時間的な厳しさを考えると、外国語は高等教育以前に仕事の制約にならない程度のレベルまで上げておくのが最善ということになるだろう。


テーマ : 大学
ジャンル : 学校・教育

アエラよりジュニアエラの方が内容がまともな件 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

朝日新聞が出している小中学生向けの月刊誌「ジュニアエラ」が創刊100号を迎えた。日本に住んだことがない娘の日本語と日本文化の勉強のために、毎月アマゾンを使ってアメリカまで届けてもらっているのだが、記事は子供向けながら毎回なかなかの力作ぞろいである。

今月号の特集は「旅で学ぶ日本の世界遺産」で、世界文化遺産候補の宗像•沖の島の風景、国宝の写真や歴史的な背景などの説明にはじまって、世界遺産の数が増え過ぎて今後の登録は厳しくなるといった事情までが書かれていた。

(ジュニアエラ今月号の目次ページ↓)
ジュニアエラ

ニュース特集も、「トランプ政権の150日」、「文大統領誕生でどうなる日韓関係」、「小池氏は政権を脅かす存在に化けるのか」、「なぜ歴史教科書に最新研究が反映されないの?」など、社会人、国際人として知っておくべき内容を取り上げている。

手間をかけて取材した記事も多い。毎回、世界の子供達のなかから一人を選んで、その子の生活の様子を写真と本人のメッセージで伝える「子ども地球ナビ」は娘のお気に入りのコーナーの一つだ。今月は、アフガニスタンの少女を取り上げて家族や食事、勉強の仕方などを紹介している。


雑誌を眺めてふと思ったのは「もしかすると、そこらの大人が読んでる雑誌よりずっとまともなのでは?」ということだ。試しに同じ週に発売されたAERA6/19号を調べてみると「やっぱり」と言わざるを得ない。

アエラ中刷り

特集は「最良の友は犬か猫か」で、主なトピックは「ネコがイヌ化する」「犬より安上がりネコノミクスが拡大中」「築地移転延期で頓挫したネズミ退治」と、まあ気晴らしに読むには面白いかもしれないが、はっきりいってどうでもいい内容が並ぶ。

有名人に関する記事も対照的だ。

今月のジュニアエラで紹介されているのは、史上初の性別を分けない演技賞を受賞したエマ・ワトソン、フランス大統領のエマニュエル・マクロン、大関昇進を決めた力士の高安の3人だ。いずれもどの国の人が読んでも、記事としてなるほどと思える内容だろう。

一方でアエラの特集記事は「滝沢秀明×有岡大貴 僕らは同じ輪の中に」。東京勤務のアイドル好き28歳OLはこの記事に胸キュンするのかも知れないが、一言で言えば極東の小さなの国のアイドルがだらだら話しているというどうでもいい記事だ。


ジュニアエラとアエラの内容は、日本社会の縮図だと思う。中学受験生に代表されるような驚くほど洗練された博識なこどもたちと、昔はすごかったはずなのに最新の世界や社会の事情に疎い大人たちが共存するなんだか不思議な国、それが現在の日本の姿である。

たしかに、ジュニアエラには昔真面目に勉強した大人であれば既に知っていることもたくさん書かれている。しかし、大人に必要な内容も、本質的には子供が読むべき内容と大差ないのではないか。それは既に持っている知識をきちんと確認しながら、世界で起きている社会問題や科学の最新事情の中で本当に重要なことを、簡潔に、かつ論理的に理解することである。



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ジャンル : 政治・経済

東京への人口集中と地方の過疎化は予想以上に進むと思う理由 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年頃に日本の人口減少が始まってから、将来推定人口への関心が高まっている。特に、いわゆる「増田レポート」(地方消滅 - 東京一極集中が招く人口急減 (中公新書))が出てからは、急激な人口減少による地方都市の消滅危機が騒がれるようになった。

増田レポートは単に2010年国勢調査に基づく2013年推計に基づいたものだが、私がより多くのデータを見ていて思うのはむしろ「本当の未来はもっと厳しいのではないか」ということだ。

以下のグラフを見て欲しい。これは、1995年から2010年の4回の国勢調査に基づく東京都と秋田県の推定人口の推移である。首都の東京と、人口の減少率の最も大きい秋田を選んだ。グラフを見ると、東京都の人口予測はほとんど「減る減る詐欺」みたいなもので全く当たっておらず、毎度上方修正されている。逆に秋田県の人口予測は、ほぼ毎度下方修正されている。

東京人口

秋田人口


ちなみに最新の2015年国勢調査の結果(将来推計は未発表)を見ると、またしても東京の人口は予測より増えた。2010年国勢調査に基づく予測では、2010年の1316万人から2015年には19万人増の1335万人となっているが、実際には36万人増の1352万人となった。秋田の人口はほぼ予測通りとなったが、日本の総人口が上方修正されたことから相対的には引き続き下方修正されているとも言える。

そもそも地域別人口予測というのは非常に難しく、例えば、専門の統計屋を200人以上雇っている米国センサス局による州別人口予測も全く当たっていない。

地域別予測が難しいのは、地域間の人口移動が予測しにくいからだ。国をまたいで移動する人は少ないので日本の総人口であればそれなりに予想はつくが、国内での移動を予測するのは困難だということである。推計を行っている社人研も毎度のように「移動率の予測は難しいのでエイヤで決めました」という趣旨のことが書いてある。推計の前提は調査毎に異なるが、ここ20年の調査では移動率が徐々に落ち着くという前提で推定されているものが多い。

今後の人口移動率が推計通りに落ち着くのかどうかは分からないが、私はこの前提にはかなり疑問を抱いている。なぜなら、人口(正確に言えば世帯数)が減少する社会では住宅が余るので住宅確保の困難さが人口移動の制約になりにくいからだ。具体的には、人口集中に一定のブレーキをかけていた東京での住宅確保の困難さが今後、大幅に緩和される。少子化が激しい東京では、ただでさえ人口の自然減で住宅があまるというのに、建築規制の緩和でますます多くの高層マンションが建てられている。住宅の需給が緩み続けるのは必定で、いずれ家賃の下落が新たな需要を呼び起こすだろう。一方、過疎化が進む地方では都市の中心部以外ではもはや住宅市場は成立しておらず、今後価格によって需要が喚起される見込みはほぼない。


社人研による政府公式の人口予測は、あくまで過去の人口データに基づくベースラインを提供しているに過ぎない。総人口が減少する中で建築規制を緩和し自由な競争の中で各地域や自治体が人口を奪い合えば、恐らく現在の政府予測以上に東京への人口集中と地方の過疎化が進むだろう。


<増田レポート>



<近年の住宅政策について>


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香港の大学が助教に1600万払う理由 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

前回のエントリー「大学教員"1600万貰えるから海外移籍"から考える頭脳流出問題」では日本からの頭脳流出全般について書いた。

この問題が注目を浴びて分かったことの一つは、日本国内だけを見ている一般の人には世界が専門家に払っている給料水準がよく分かっていないということである。そこで今回は香港の大学がなぜ助教に円換算で1600万円も払うのかということを少し詳しく書いてみようと思う。

(1) 経済学者の給与水準

圧倒的な規模を誇る米国の大学産業では、給与水準は分野毎に決まる。医学部、ビジネススクール、ロースクールなど他の労働市場で付加価値の高い分野の教員の給与が圧倒的に高く、エンジニアリングスクールや経済学科などがこれに続く。

米国の経済学科で博士新卒のテニュアトラックに支払われる9ヶ月分のサラリー(米国の大学では9ヶ月契約が一般的であり人によっては外部からの資金を獲得して追加で1〜2ヶ月分の上乗せがある)は、研究大学の平均で11万5千ドル、上位30校では13万6千ドルである(出典:アーカンソー大レポート)。これは3年前の数字であり、こうした分野の給料は近年高騰しているので来年度は1万ドル程度の上乗せと考えるのが自然だろう。したがって、川口氏が得た14万4千ドルというオファーはおおよそ米国の上位校に匹敵する水準だと言う事ができる。

英語圏の他国のサラリーも米国との裁定が働くが、それでは他の国はどうだろう。中国の一流大学では助教の年俸は30〜40万元程度だという。米ドルに直せば5万ドルくらいになる。米国に比べるとだいぶ安いが、中国の物価は地域による違いはあるものの大雑把にいえば米国の半分くらいである(IMF調べ)。したがって購買力としてはやはり米国の大学と同程度ということになる。また国内の平均所得との比で言えば中国の大学の方が賃金は高いとも言える。

(2)ビジネススクールという環境

同じ経済学者でも、ビジネススクールでは経済学科より更に高額のオファーが貰えるというのが一般的な認識だろう。資金の出所はMBAの学生などが払う高い学費や、卒業生や企業から集まる寄付金である。

一方で、この上乗せの代償もある。高い授業料を払うMBAの学生は授業内容には非常にうるさいことで有名である。彼らのほとんどは学問に興味がないので、分からない授業や自分に役に立たなそうだと感じれば、学問的な価値とは関係無しにすぐに文句を言う。したがって、授業準備もビジネススクールで教える方が大変だろう。

経済学者であれば、できれば経済学に興味を持っている学問的に優秀な学生に教えたいと思う人の方が多いだろうから、需給の面でもビジネススクールの給与は高くならざるを得ない。

また教員に対する英語の要求水準も、経済学科に比べれば格段に高い。「私たちは下手な英語を聞くために高い授業料を払っている訳じゃない」という訳だ。香港やシンガポールのような中華圏の大学ではそこまで高くはないが、それでもアカデミックな学科に比べると高いはずである。

(3)初年俸が重要

これは特に米国で顕著な傾向だが、良い人材を獲得するために初年俸を高く設定することが多い。逆に言えば一旦雇われてしまえば、その後の昇給は限定的なものになる。近年、大学教員の獲得コストは高騰しているので、何年か大学にいる准教授の給料が新任の助教の給料より安いというような逆転現象も見られるのである。これは年功序列の日本とは違うところである。

一方で、英語圏でも昇給のチャンスがないわけではない。スター教授には引き抜きがかかり年俸は高騰する。実際に移籍しなくてもオファーを貰い本気で移る気があれば、カウンターオファーで同額を提示する大学が多い。そうやって実力の高い人の給料は上がっていくのだ。

(4)人材流出問題を抱える香港

いくら香港の大学は世界的評価が高いとは言っても、14万4千ドルというオファーが米国対比でもやや高額であることは確かだろう。これは米国対比で香港の人気が低いということに起因している。

同僚の老教授によれば97年に香港の中国への返還が決まって以降、政治的な不安定さを嫌気して、香港から大量に人材が流出した。そこで香港の大学は給与を引上げて人材を引き留めた。シンガポールの大学の給与が高いのも、香港に対抗して引上げたことが理由だという。

欧米人は同じ英語圏でもアジアに来ることを好まないし、ましてや香港は英語が問題なく通じるのは大学やビジネス街の中心だけで、事実上の中国語圏だ。中国人の米国留学生も母国が好きな人ばかりではなく、できれば米国に残りたいと思う人の方が多い。

それに加えて、こどもを持つ人にとっては教育の問題もつきまとう。中国返還後の香港の公立学校では中国語で教育が行われているので、インターナショナルスクールに通う必要があるが、その数は不足気味だという。特に歴史的経緯からアメリカンスクールは少なくブリティッシュスクールがメインになる。こうした教育環境の問題から赴任を断る外国人は少なくないそうだ。

香港が日本人研究者に人気なのは、こうした特有の問題があまり障害にならないことが影響しているだろう。英語の壁が低いのは日本人にはありがたい。地理的にも食文化も町並みも日本に近くて生活しやすい。いざとなれば、日本に帰る手があるので政治的な不安もそこまでない。子供の教育もインターが難しければ香港日本人学校という選択肢もある。



このように見ていくと、今回の川口氏のケースは幸運ではあったかも知れないが、それほど特殊な事例ではないということが理解できると思う。

確かに日本には大学教員になりたいという人はわんさかいるので、人材が海外に流出したからといって大学の授業ができなくなるほどの事態にはならないだろう。だが、もし日本の大学の研究者の質を維持・向上させたいのであれば、もはや日本の国立大教員の待遇を叩いている場合ではないのである。


プロフィール

Willy

Author:Willy
日本の某大数学科で修士課程修了。金融機関勤務を経て、米国の統計学科博士課程にてPhD取得。現在、米国の某州立大准教授。

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お勧めの本
1.ルベーグ積分30講
―― 統計学を学ぶために。
   小説のように読める本。
   学部向け。


2.Matematical Statistics and Data Analysis
―― WS大指定教科書。
   応用も充実。学部上級。

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