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子供が最初から海外で暮らすということ -- このエントリーを含むはてなブックマーク

「子供が急に海外で暮らすということ」というエントリーを読んで、自分も1つエントリーを書いておきたいと思い立った。

私が住んでいるデトロイトの日本人は駐在員が多いし、Twitterで絡んでいる人の中にも米国に来たくて家族を説得して家族で来たという人がそれなりにいる。配偶者やお子さんが米国生活に順応するのに苦しんだり失敗したという話はたくさん聞いてきた。(もちろん、何の問題もなく元気にやっている人もたくさんいるので、渡米前の人が悲観的に考えた方が良いのかはまた別問題である。)

しかし我が家のストーリーは、どちらかというとその逆である。比較的少ないケースかも知れないが、逆に言えば見落としがちな視点でもあるので紹介させて頂きたい。

私が2004年に米国に来たのは、米国はNo.1だからとか米国が好きだからとかでは断じてなかった。キャリアの選択肢としてそれがベストだと思ったからに過ぎない。私は日本の生活環境が大好きだし、キャリア上の問題がないなら日本に住みたいと常に思ってきた。

妻は私が行きたい所なら何処にでも付いていくと言ってくれていたが、英語圏の大学を卒業していた事もあり日本よりむしろ海外暮らしの方が楽で良いというタイプだ。そして娘は渡米の1年後に生まれて以来、13年間ずっと米国に住んでいる。

娘が生まれて3年弱、私はずっと日本の方を向いていた。娘は家の中で純粋に日本人の子として育っていたし、私は留学生活が終わったらたぶん日本で働くことになると思っていた。

娘が3歳になる少し前、私達は娘を英語生活にも慣れさせておこうとプリスクール(幼稚園)に入れた。もちろん英語は全くできなかったが特に問題は起こらなかった。そもそも3歳前の子は話す言葉に関係なくあまり周りの子とコミュニケーションを取らないし、娘はぼんやりとした能天気なタイプなので気にならなかったようだ。(外国人の子が低年齢から幼稚園い通うメリットは語学の習得よりもこの点にあると思っている。)

私は大学院を卒業後、米国の大学からオファーをもらって働く事になった。別に米国で働きたかった訳ではなく、大学院の友人たちと情報交換しながら必死で就職活動をしたら、成り行きで米国で働くことになったというのが正しい。しかし、大学の仕事はテニュアトラックといういわば6年間の試用期間のあるポストなので、相変わらず私は日本の方を向いていた。

娘は4歳を過ぎるとようやく、
「◯ちゃん(自分の名前)、英語あまり分からないんだよね。」
と自分が言葉に不自由している事に気付き始めた。そんな事もあり、4歳から5歳にかけて何度か学校に行くのを渋ったが、Kindergarten(いわゆる小学校0年生)に上がる頃にはほぼ英語ネイティブの子と遜色なくなっていた。

東日本大震災があり、その後に学校でも世界の色々な事を学ぶようになると娘は
「日本は昔は戦争に負けたし、最近は地震や津波がきてかわいそうな国だね。」
と言いだした。妻と私は、
「そういう事もあったけど、日本はとても豊かで良い国だよ。」
と教えたが、なるほどそういう風に見えるのかと思ったものである。

大学が私を任期無しポストに転換するかどうかを決めるテニュア審査が近づくと、私はそれに悲観的であったので「日本に帰ることになるかも知れない」と家族に伝えた。意味もなく理屈っぽい文章が好きな娘は無邪気に、
「私は日本に帰ることはできないよ。日本に行くことはできるけど。」
と私に言った。娘の言葉遊びに特に深い意味はなかったようだが、その頃から日本に「帰る」のか「行く」のか、娘と話す時には考えるようになった。

期せずして私のテニュアが認められると娘はもう10歳になっていた。日本語を話すし、日本の小学校に3度も体験入学をしたし、私から見ると生粋の日本人に見えるが、本人は日本は旅行や祖父母に会うために行くところだと思っている。

妻はグリーンカードが取れた2013年から働き始めた。米国中西部では労働許可を持った日本人が少ない一方で多数の日本企業があるため、グリーンカードを持った日本人は仕事を探しやすい。いま、日本に帰っても妻が仕事を探すのは結構難しいのかも知れない。

一昨年、ミドルスクールに入った娘には親しい友達も格段に増えた。ほとんどが小さい頃から近くに住んでいる幼馴染やその友達で、その大半は韓国系や中華系の米国永住者である。友人たちの年上の兄弟はおそらく全員が米国の高校や大学に進学している。私は相変わらず自分の日本の母校を娘に推しているものの、娘にはもはや米国での生活以外考えられないようだ。

幸運なことに、私は家族の米国への適応にほとんど不自由がなかった。一方で、家族ですぐに日本に引っ越すことはもはや難しくなってしまったと感じている。日本に親しんだ家族を米国に連れてくることも大変だが、米国に親しんだ家族を日本に連れていくとしたら、それもまた困難を伴うのだと思う。どこの国に住むにしても、家族の国への帰属意識をコントロールすることはできないということである。

まだどうなるかは分からないが、現時点での私のプランは米国で引き続き働き、リタイア後に日本に住むことだ。娘が驚いたり悲しんだり困ったりしないようにそれは伝えてある。その頃には娘も自分で好きな場所でやっていけるようになっているだろうし、引退した両親が日本に住んでいるというのは娘にとっても馴染みのあることだろう。


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経済統計の社会的価値を考え直してみよう -- このエントリーを含むはてなブックマーク


毎月勤労統計の調査において不正が発覚した。法律によって従業員500人以上の規模の事業所を全て調査すべきところを、1996年より一部の事業所を調査せず、2004年より東京都の分について一部だけを抽出して調査する方法に無断に切り替えていたという。また、抽出調査が不適切で、2018年以前はその復元処理が行われていなかった事も分かった。

関連記事:
- 資料に「全事業所が対象」 厚労省、昨年提出 実態と違う記載 統計不正
- 不適切統計は厚労省だけなのか 担当職員の減少で精度の甘さも…省庁横断的な統計部局が必要だ 

まず全数調査を抽出調査に変更するというのは、ほとんど全てのケースで調査コストを削減する事が第一の目的である。毎月勤労統計の不正も、統計調査のリソースを削減しすぎた事が要因になっているというのはほぼ間違いない。もちろん例えリソースに問題があったとしても法を犯してはいけないが、この問題に関して犯人探しをすることは経済統計の質の向上にはあまり意味がない。むしろリソースを削減すれば質は低下するという統計的に捉えるべき事実を、個別の人間の過失で片付けてしまうなら、そういう風潮こそが統計軽視そのものだからである。

私がこの問題を機会に日本社会に一番考え直して欲しいのは、経済統計の社会的価値である。

90年代後半以降、政府債務の増加が注目され政府支出が削減されるなかで、政府の統計に携わる部署でも合理化のプレッシャーが高まったのは想像に難くない。総務省によれば、厚生労働省の統計職員数は2004年の351人から2018人の233人へと大幅に減っているし、都道府県の専任職員数も2004年の2242人から2014年の1811人へと2割減っている。もちろん無駄な部分があったのであれば削ることに問題はないが、根本的な問題は、社会に経済統計の重要性が認識されず、なし崩し的にリソースが削減されていることだろう。

身近なところで物価統計にはどんな社会的意義があるか考えてみよう。

例えば、総務省の消費者物価では紙おむつの値段を調べている。皆さんは「紙おむつ」と聞いて何を思いかべるだろうか?私はまず、優しそうなお母さんがかわいい赤ちゃんに微笑むテレビCMの事を思い浮かべ、次に娘が小さい時に安い店を探して紙おむつを買った事を思い出した。しかし、私が思い浮かべたステレオタイプは紙おむつ全体の半分でしかない。実際のところ、総務省は乳幼児用の紙おむつと大人用の紙おむつを同じウエイトで調査しているのである。

もしも乳幼児用の紙おむつの値段が低迷し、大人用の紙おむつが長期にわたって値上がりしたら、紙おむつのメーカーは何をするだろうか?

値段はモノやサービスの需給を反映している。すでに両方のおむつを作っているメーカーであれば、おそらく高齢化によって大人用の紙おむつの需要が増えていて供給が追いついていないと考えて、大人用の生産をすぐにでも増やすだろう。乳幼児用しか作っていないメーカーであれば、しまったと思って、大人用の製品開発を急ぐかも知れない。結果として、大人用おむつ市場で品不足が解消されたり、競争が生まれて値段が下がったり、品質が上がったりするだろう。その結果、社会はより豊かになるのである。

マクロ経済全体に関わる問題についても考えてみよう。

大企業の経営陣であれば、経済統計を見ることによって、業界全体や景気の動きをみて、自社の投資の方針を決めたりすることになる。そうやって、例えば車を国全体で作りすぎてしまったり、大盤振る舞いで銀行が貸しすぎてしまったりというような悲劇を最小限に抑えているのである(それでも不幸にして度々起こってしまうのだが)。

もちろん経済統計がなくても、オムツのメーカーは必死で需給を追うだろうし、大企業や銀行も必死で他社や景気の状態を追うだろう。しかし、それぞれの会社が独自に調査をするのは非常にコストがかかるし、調査をせずに感覚で判断すると大抵は判断が遅れるものである。統計は実態に1-2ヶ月遅れるが、人々の意識は数ヶ月から数年遅れるというのが面白いところである。

一部の分野では、政府が統計を作らなくても企業が集まって業界団体を作り、集めた調査結果を共有する事もある。この事は、重要な統計の作成は経済的にペイするものであることを示唆している。

しかし、こうした統計の社会的意義が一般国民に意識される機会はほとんどない。残念ながら、政治家や予算を取り仕切る官僚であっても、そうした事をきちんと理解している人は少数だろう。直接一人一人に配られる補助金などと異なり、社会に薄く広くメリットをもたらす業務の価値を把握することは、感覚的にとても難しいことだからだ。

確かに、時代と共に役割を終える統計もある。詳細な農業統計の重要性が50年以上前に比べて低下して大幅な合理化が図られたことなどには理由がある。しかし、国民の暮らしに大きな影響を及ぼす経済統計については、制度設計と実際の調査の両面で十分な人的資源と財源を投入し続けていく事が国として不可欠なのである。


テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

全ての人に数学を学ばせる理由 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

橋下徹氏の「三角関数は絶対必要な知識なのか」との問題提起を読んだ。

結論から書けば、個人的には三角関数なり三角比を全員必修にする必要はないと思っている。しかし、橋下氏が書いているように、「三角関数なんか深く知らなくても人間的に立派な人、仕事を成功させている人、人生を謳歌している人たちはたくさんいる」ことをもって「"人生において三角関数は絶対に必要不可欠な知識ではない"と断言できる」と結論付けてしまうのは短絡的に思える。

確かに現状で高度な数学を使わない職業はたくさんあるが、その職業に就いた人が一生その仕事を続けるかどうかは分からない。情報技術の発展によって、その見込みは日に日に小さくなっている。

30歳や40歳になって、やっていた仕事がなくなってしまったり、その仕事に興味がなくなったりした時に、もう一度勉強し直して新しい種類の仕事を就こうとするのは、個人にとっても社会にとっても望ましいことだ。そうやって個人も社会も豊かになっていく。

その際にネックになるのは、言語的な能力であったり、数学的な能力であったりすることが多い。いま一度考えて見て欲しいのだが「読み書きそろばん」と言われたように、国語や算数・数学の基礎が小中学校で重視されてきたのは、多くの人の生活に必要とされることだけでなく、若い頃の方が身につけやすいこと、歳をとってからやり直すことが難しいことが大きな理由である。

米国ではデータサイエンティストが人気の職業となっているが、あまりに数学が苦手な人がデータサイエンティストになることの困難さを表現したこんな風刺画もある(www.andertoons.comより転載)。

Cartoon.jpg

大人になって新しいことを学ぶ意欲が高い米国人と彼らに数学を教えている私には、数学がボトルネックになることの多さがよく分かる。後から数学を学び直せるレベルの数学力を必修にするというのは、政府の方針としては妥当なものだろう。

これは感覚レベルの話になるが、大人になってからやり直せるレベルの数学力というのは、おそらく中学3年ないし高校1年くらいのレベルであると思う。実際に、大人になってから数学に苦しんでキャリア計画に支障をきたしている米国人を見ると、中学終了程度の数学をきちんと理解できていないケースがほとんどだからだ。この手の議論で、三角関数が話題になることが多いのは、それが「将来やり直せるレベルの数学力」にかろうじて必要ないレベルだからなのかも知れない。


もちろん、資本主義の流儀にしたがって数学の必修化を最小限に止めるという考え方もあるだろう。数学を一生懸命勉強してそれを社会に活かそうと思った人には現状でも十分過ぎるほどの恩恵があるので必修にせずとも学ぼうとする人はたくさんいる。恩恵を受けなくても良いと思っている人に強制的に学ばせる強い理由もない。むしろ学ぶ人が減ればその格差は固定され、ますます数学を学ぶことのメリットは大きくなるだろう。その点については、以前のブログポスト「数学を勉強する事は無益」で触れた。

だが、元政治家である橋下氏が、そのような徹底的な弱肉強食の資本主義社会につながる数学教育を支持していることは面白い。もしそれが橋下氏の本意でないとすれば、橋下氏の数学教育に対する私見は、職業が安定していた時代、大人になって学び直すことが必要なかった古き良き時代を懐かしむものだと捉えた方が良いだろう。


大学非常勤講師はなぜ大変なのか? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

高学歴ワーキングプアが社会的に注目されるようになって久しい。
特に大学非常勤講師が経済的に非常に厳しい環境に置かれていることはよく話題になる。

52歳大学非常勤講師「年収200万円」の不条理

しかし、こうしたストーリーにネットでは結構厳しいコメントがつく事が多い。
上の記事に対するコメントには例えばこんな感じのものがある。

非常勤2

非常勤1


年収200万という極貧生活なのに同情を得られない大きな理由の一つは
表向きの時給が高い事だろう。まとめサイトによれば
「首都圏の大学での平均的な金額は1週間に1回(1コマ)90分の授業で1万円」
とのことで、これは知人などから聞く水準とも概ね合致する。
時給にすれば6700円と言ったところだ。

ただこれは講義する時間で考えた時給の話である。
例えば顧客の前でのプレゼンするのがメインの仕事であるビジネスマンに、
時給6700円でプレゼンの時間しか給料が出なくても高いと思うだろうか。
高いと思う人はほとんどいないだろう。

もう少し近い、他の教育機関での教職と比べたらどうだろうか。
実は、大学で授業をすることは小中高や塾などで授業をするよりも
とても時間がかかるのが普通である。
ここでは似たようで違いの大きい、塾と大学の授業を説明したいと思う。

私は日本で院生だった頃に時給6000円くらいで塾で数学を教えていた事があるが、
塾の仕組みというのはとても効率的考えられていて教える負担が小さい。
まず、教える内容がかなり細かく決まっている。
教える範囲はかなり狭いし、内容が大きく変わることも稀だ。
長年、文科省や出版社、塾などがカリキュラムを煮詰めてきているので
論理的にもあまり破綻のない議論の組み立て方が確立されている。

数学などでは
多くの塾は問題集を教えやすい順序に並べたようなタイプの独自の教科書を使っている。
講師はそれをみて理論の説明を簡単に黒板で説明したあと、
問題の解説を淡々と進めて行けば良い。
宿題は授業一回分ごとにオリジナルの教科書に載っており、解答と共に整理されている。

IT化も概して遅れているので、準備は板書する内容を詰めておく程度で済むのも楽だ。

試験の作成は塾全体で統一されているか、他の業者に委託されているのが普通だ。
採点は塾全体でまとめて行っていてそれなりの給料が出た。

コピーなどの雑用は事務のアルバイトがやってくれたし、
休んだ学生のために生徒のノート係のノートのコピーを塾が保管していたので
そうした対応も必要なかった。

もちろん、塾でも科目の責任者などになればそれなりに様々な業務があり
忙しくなるだろうが、私が言いたいことは、
企業として経営されている事の多い塾や予備校では
業務が無駄を省いたかなり効率的なものになっており、
コマをもつ講師自体の負担は最小限に止められているという事である。


一方の大学はどうだろう。
教科書が決まっておらず、まずその選定から始めなければいけない。
出版社からサンプルを送ってくるものもあるが、手配も面倒だし
連絡が取れなければ自腹で買わなければいけないこともある。

高校の教科書と違い、著者が1人あるいは数人だけで書いているので
説明が破綻していたり、流れが不自然なところも多い。
学生のレベルとの比較で一部だけ難しすぎたり易しすぎたりすることもあるし、
内容によっては複数の教科書を指定しなければならないこともある。

教科書を選んだら、次はシラバスを作りだ。
選んだテキストを元に15週に収まるように授業を計画しなければならない。
適当に計画すると、飛ばした章があとでどうしても必要になったりして破綻してしまう。
大学生向けの教科書は読めるように書いてあるので、
教科書の説明だけなぞっていれば学生から不満が出るので工夫が必要ということもある。

そして何より時間がかかるのはスライドの作成などだ。
教科書の内容のまとめだけでなく、
私が教えている統計で言えば、図表を作成してスライドに入れたりする必要がある。
全て板書なら準備はだいぶ楽なのだが、
統計の場合だと板書が不可能な図表も多いし、大学生レベルでは
説明の部分も全て書いていると時間がかかりすぎるという問題もある。
半期30回×100分のスライドだと大雑把に言って500枚くらいになる。
一時間に5枚作っても100時間かかることになる。

一旦準備すれば何年か使い回せるケースもあるものの内容は徐々に古くなるし、
毎年教える科目が変わったりするので、新しく準備する必要は常に出てくる。

教科書に演習問題は載っているケースもあるものの、
教員が適切に選んで出さないといけない。
解答がついていないものも多いし変な問題も多いから
これを選んだりするのも結構な手間がかかる。
自作の宿題を準備することも多い。
解答を作成したり、回収して採点すれば当然かなりの時間がかかるし、
「祖父の葬儀があったから宿題の期限を延長してくれ」
などという生徒もしょっちゅういる。
塾と異なり、学生にとって成績は大事なのでその辺りの要求も強くなる。

宿題の回収は手間がかかりすぎるので、
授業中に小テストをやったりするが
その準備と処理にも多少の時間はかかるし、
中間テストや期末テストも自作して採点することになるので
それなりに時間がかかる。

少なくとも授業時間の2倍くらいの時間は
授業の準備や雑用に取られるのが常だろう。
内容の難しい授業であればもっと時間がかかる。

私が教えているのは統計学はまだ準備は少なくて済む方かも知れない。
人文社会系など教える内容の何倍もの知識がないと
授業できないような分野では準備はさらに大変なケースもあるだろう。



そんな訳で非常勤の方が各学期に10コマも授業を持てば
計算上は一週間あたり90分×10コマで15時間に過ぎなくても、
実際には週40時間労働のサラリーマンに比べて
相当大きな負担になるのは間違いない。
しかも、一つの大学で10コマも持てることは稀で
通常は2-4校の大学を兼務するため移動にも時間がかかる。
それでも得られる年収は税込300万円程度に過ぎないのである。


そして何より大変なのは、
教えるという業務の本質は知識やノウハウの切り売りであり、
純粋な仕事とは別に時間をとって新たな事をインプットしていかないと
教員の知識はどんどん老朽化していく
事だ。
そして、もし専任教員へのキャリアアップを図るのであれば、
新しい知識を元に論文を書いて実績を作っていく事が必須になる。
上記のような、非常勤講師としての多忙な非仕事を
片手間に行わなければならないというわけだ。


以上、大学にいない方にも、
非常勤講師の繁忙度と待遇の厳しさ、キャリア構築の難しさを
なるべく理解してもらえるように書いたつもりである。
「自己責任」
「好きでやってる仕事でしょ」
「もっと大変な人もたくさんいる」
と厳しい見方をする方々にも、
「あー、そういう大変さがあったのか」
と理解して頂ければと幸いである。



自動運転で日本勢が米国勢に絶対勝てない理由 -- このエントリーを含むはてなブックマーク


1997年にトヨタがわずか215万円でプリウスを発売し、世界の度肝を抜いた時のことを僕は今でも覚えている。当時の多くの日本企業の技術力は世界を圧倒しており、例え金融市場で日本のプレゼンスが多少下がったとしても、その栄華は永遠に続くようにも思われた。

それから20年、日本の技術力に陰りが見られるようにはなったものの、今でもトヨタをはじめとした日系自動車メーカーは総合力で世界のトップに立っている。

しかし、これから時代は急速に動いていく。運転が機械学習モデルによって自動化され、自動車の利用方法や所有形態までが大きく変わることのインパクトは、自動車の動力源がガソリンから電気などに変わることよりも何倍も大きい。

現在、自動車メーカーやIT企業は自動運転技術にしのぎを削っているが、私が確信していることは、トヨタや日産のような日本の大手がフォードやGMのような米系大手、テスラなどの新興メーカー、Waymo、Apple、Uber、AuroraなどのIT企業との開発競争に勝つことはできないだろうということである。その理由を示したい。

1. 現在のタイムライン

フォードやGM、その他の米IT企業の多くが2020〜2022年に事実上の完全自動化であるSAEのレベル4の商用化を計画しているのに対し、日系メーカーは2020年初頭に高速道自動運転を目指しているところが大半で既に2年程度の遅れを取っているように見える。

下は米Navigant Research社がまとめた自動運転進捗の概念図である。こうした技術面は主に縦軸に反映されていると言って良いだろう。
Autonomous.png

注目して欲しいのは、技術面だけでなく横軸の戦略面で日本は米国勢に、より大きく引き離されているということである。GM、フォード、Waymo+クライスラーのいわゆるビッグ3は既にライドシェア各社との提携や買収を決めるなど、着々とインフラ面に浸透している。


2. 米国で先に実用化されるという壁

さらに現在の進捗と並んで決定的なのは、実用化がほぼ確実に米国から始まるということだ。

元々米国は文化的にも法律面でも、まず新しいものを試し、起こった問題に後から対処していくという方法論が根付いている。自動車運転のような人命にも関わる重大な決定においては、この格差はより大きなものとなるだろう。日本でも、経産省が自動車運転に関する問題点を議論する有識者会議を設置するようだが、今後の問題点を議論するのではなく、まず先に自動運転を導入して起こった問題に対処していくという意識でなければ、米国の流れに追いつくことは難しいと思う。

米国の交通事情も普及の後押しとなっている。自動運転の最初の大きなマイルストーンは、高速道運転の自動化である。高速道路は信号や歩行者がいないなど考慮しなければいけない変数が格段に少ないため、自動運転の実用化はかなり早期に実現できる。米国は元々国土が広い上に、自動車メーカーのロビーが強く鉄道網が発達していないため、高速道自動運転の経済的インパクトが大きい。高速料金が安いことも日本などと比べたアドバンテージだ。例えばフロリダの観光地に行くにしても、自動運転が実用化されれば10以上の州の州民が飛行機から車に切り替えることを検討するに違いない。

こうした事情を考えると、もし日本メーカーが米国に進出していなかったならば米国勢に完敗することはほぼ100%確実だっただろう。しかし、日本メーカーがかなり米国に浸透している今でも、やはり日系メーカーが勝てないと私が考える理由がある。それは、ダブルスタンダードが適用される恐れのある訴訟リスクである。

トヨタは2010年代前半のプリウスの急加速問題で、最終的には全く瑕疵が見つかっていないにも関わらず司法省に10億ドルもの和解金を支払った。一方で、長年欠陥が放置され10人以上の死者を出しているGMのリコール隠しに対しては、一日7千ドルという途方もなく安い制裁金しか課されなかったのは記憶に新しい。

こうしたダブルスタンダードが疑われる状況では、非米系メーカーの戦略はどうしても、目立たないように他メーカーの後追いをするということになる。実際の運用データが競争力の鍵になる自動運転分野ではこれは大きなディスアドバンテージだ。

TeslaX.jpg
(Los Angeles Times より)

テスラはつい先日も、自動運転支援システム=オートパイロットを搭載したモデルXで死亡事故を起こした。この事でテスラの株価も下落したが、テスラ社がイノベーティブなイメージを獲得して積極的に新技術を試せる状況にあることは、アドバンテージである。トヨタやホンダが同様の事故を起こした場合に、同程度の制裁で済むのかは甚だ疑問だ。


3. 言葉の壁

日本の自動車メーカーが世界を席巻した一つの理由は、設計図が日本語でも英語でも品質に変わりはないということだろう。つまり工業製品は非常に言葉の壁が低いのである。販売面では生産面よりは言葉の壁が大きいが、強大な影響力を持つディーラーに売ってもらうだけで問題を解決できた。

しかし、自動運転ではこの方式はもはや通用しない。コアとなる技術が機械学習などのソフトなので、元々ハードウェアよりも言葉の壁が高い。その上、技術開発が完成に近くなるほど、許認可などが商品の成功に占める割合が高くなり、より高度なコミュニケーションが求められることになっていくだろう。もちろん日系メーカーも現地で人員を大量に採用しているものの、米国人社員の質と量、リーダーシップのレベルでは米系と差があると考えるのが自然だ。


4. 技術者の層の厚さ

トヨタがハイブリッド車を世界に先駆けて発売する事ができたのは、当時の日本の技術者のレベルの高さ、層の厚さ、若さが大きくプラスに働いたと言える。

一方で、繰り返しになるが、自動運転分野においては基幹技術はソフトの部分であり英語圏の方が人材の厚みがある。このことは日系メーカーも分かっており、トヨタはAIソフト開発の研究所(TRI-AD)を設立し英語を公用語化して人材を集める予定のようだ。しかし、大学などを見ても分かるように、日本の組織は海外の一流人材を集めるのに非常に苦戦しており、どの程度うまく行くかは不透明だ。


日本メーカーの望みは?

このように考えて行くと、日本メーカーが自動運転分野で米系に打ち勝って優位を築くことは至難の技に思える。それでは日本メーカーは米系に惨敗して、歴史的な再逆転を許すのであろうか。その可能性も十分にあるが、希望がない訳ではない。

逆説的ではあるが、私が希望を感じたのは昨年、優位に立つGMが「スーパークルーズ」と呼ばれるほぼ高速道自動運転を備えたキャデラックCT6を市場に送り出した時だ。スーパークルーズは非常に優れたシステムだが、GMはこの車に8万4千ドルという値札をつけた。大ヒットが狙えるような値段ではない。

CT6.jpg

自動運転の基幹技術はソフトウェアであり一台あたりの追加コストが低い。そのため、技術で優位に立つメーカーが安価で売り出して一気に市場を寡占することはそれほど難しくない。特にハイブリット車のような複雑な機構と比べれば、その違いは明らかだ。

しかし、そうした技術的優位がもっぱら利益の最大化に使われるだけでシェアの獲得に使われないのであれば、それほど決定的な差別化にはならず、車自体の信頼性などで高い評価を得る日本勢がキャッチアップすることは十分可能であるようにも思える。

つまり日本メーカーは、自動運転関連の実用化が一番でなかったとしても、基幹技術の特許などを十分に抑えて先頭集団に遅れないようにピタリとついていくことが大事だろう。それができれば、今後も長期に渡って競争力を維持できる可能性は十分にある。自動車は、テレビや携帯などの電気製品で韓国に惨敗した日本にとって数少ない得意分野である。今後も世界市場での健闘を期待したい。


米国の崩壊した数学中等教育 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

昨秋から娘が現地校でも6年生になった。こちらでは6年生から8年生がミドルスクールに通う事になっている。数学はレベル分けが始まり、日本語補習校で習う算数よりも進度自体はだいぶ早い。娘は誕生日の関係で、現地校の学年の方が半年遅れているにもかかわらず、である。

娘の中学校は課外活動にて州内の数学コンクールで2年連続優勝しており、数学の担任はその顧問の先生である。「米国の教育も捨てたものでもないじゃないか」などと楽観的に考えていたのだが、今日、授業の内容を少し聞いてみたところ、あまりに雑なので暗澹たる気持ちになった。

次の練習問題をみていただこう。
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Rドルを売り上げ、Aドルを広告費としたとき、R = 10A - 20 の関係がある。質問は、売り上げが110ドルのときの広告費を答えさせている。R=110としてAについて式を解くと A=13となり、単位がドルなので答えは、13ドルとなる。

写真のように娘もその友達もそのように解いたようだが、A = $13 と書いて四角で囲まないと(笑)1点減点だそうだ。元の式に R = 110 を代入しても、A=13としかならず、A=$13とはならないので、満点をとるためには論理的に正しくない推論をする事が求められるというオリジナリティーの高い授業だ。ちなみに問題文中にあるように広告費は"A dollars"なので、A=$13とすると、広告費は、"$13 dollars" あるいは "13 dollars dollars"である。

ちなみに、-20 を移項するために、写真の元の式の下に書いてある "+20 +20"というひとりよがりなメモがない場合は更に減点されたそうだ。意図はわからないではないが、移項(transposition)という名前から示唆される直感的な計算が許されないのは全然、好ましい事ではない。


次の問題も同様である。文中のxと図中のそれぞれの辺の長さを求めさせる問題だが、"x = 30 ft" が正解だそうだ。図中にはっきり書いてある通りこの場合の右側の辺の長さは "30 ft ft"となるが娘にその意味を聞いたところ「分からない」との事である。
Q10ver2.jpg


一方、同じ練習問題シートの次の問題では図中のxを答えさせているが、この場合にはxには単位がないようで "x = 160"が正解とのことだ。(160°-25)°という表記に怯んだのだろうか。
Q8.jpg


私が中学生の頃であれば「せんせい!これバツだけど合ってますよね!いやバツでいいです!合ってるので!」くらい言ってしまいそうであるが、そこは米国のお行儀の良い子が集まる学校だけあって、文句を言う子はいなかったそうである。


教員の本分は質の高い授業をすること -- このエントリーを含むはてなブックマーク

小中高の学校教員の長時間労働が話題になっている。

優秀な先生が高給を貰って、最高の授業をするために日夜頑張っているという話であればそれも美談になりうるが、そういう話ではなさそうである。長時間労働の原因は、部活動であったり、保護者への対応であったり、事務書類の提出であったりする事が多いようだ。

教員がそうした労働環境に置かれる事の問題は、本来の主要な業務であるはずの教科の指導レベルが落ちてしまうこと、本当に教科に情熱を持った人が先生にならなくなってしまうこと、である。

現状では教科指導というもっとも重要なはずの点で日本の学校は塾に後塵を拝しているように思う。

私は中学時代、地元の公立中学校と地元の小さな塾に通っていた。塾というと入試のために必要な事だけ詰め込むというイメージもあるが、少なくとも私の経験では正反対であった。

その塾の国語の先生は、2年間も自分の名前すら明かさないようなとても文学オタクっぽい中年の男の先生であったが、授業では常にとても丁寧に文章を解説した。その解説を聞くだけで、問題の答えを聞かなくても、自分の読み方のどこに問題があるのか、どこを間違えたのかが、自然に分かってしまうような解説である。本を読むのは嫌いだった私だが、塾の国語の授業で文章を読むのが私は好きになっていった。その先生は、文学史、文法、漢字、古文のような知識がメインになるような事にはほとんど時間を割かず、ひたすら生徒の読解力や文章力をあげることに集中していた。力のある先生にしかできない授業だったように思う。今でも私の国語力の原点はそこにあると思っている。

その塾の英語の先生は、その教室の室長で厳しい先生であった。その先生の授業は、重要な事項をかなりのスピードで何度も何度も反復する形式だった。プリントが一斉に配られ、全速力で解いていく。一枚のプリントには15問くらいの問題が並んでいるが、同じような内容を繰り返し学ぶので殆どの問題はすぐに解ける。分からないのは、せいぜい一問か二問くらいだ。先生はランダムに生徒を当てていくが、不思議と私が当てられるのは解けていない問題なのだ。何だかいつも運が悪いななどとぼんやり思っていたが、ある時、その先生は私を
「Willy、お前、その問題が解けていないのは3回目だぞ!」
と叱った。要するに私はお調子者の上に英語だけ成績がイマイチなので、その先生は私がどの問題を解けないのか全て暗記していたのである。もちろん、英語の基礎を叩き込まれたお陰で、それは米国で暮らす今でも役に立っている。

数学の先生は、とてもリラックスした雰囲気の授業をした。私はいつも、タケダという苗字で何となく肌が緑っぽい「インゲン君」(信玄とインゲンをかけている)という友達と一緒に喋りながら問題を解いていた。国語や社会では意見がぶつかりあうと議論が進まないのに、数学ではアイデアを出しあうと問題が早く解けていくのが楽しくて私は数学を好きになり、数学科に進んだ。授業を受けていた別の同級生の一人も数学科に進んだようだ。

素晴らしい先生ばかりの塾だったと思うが、私にはその小さな塾の先生が中学校の先生よりも良いお給料を貰っていたとは思っていない。実際、その教室は私が卒業してから一年後には潰れてしまい、別の校舎に合併されてしまったほどだ。

一方で残念ながら、私が中学校で受けた授業の中で塾の授業ほど印象に残っているものはない。なぜこんな事になってしまっているのだろうか。

一つの理由は、中学教員という仕事がマルチタスクすぎて、文学オタクの先生のような教科にだけ秀でた存在を許さないことだろう。もう一つのもっと重要な理由は、たとえ優れた教員がいても、中学校が各々の先生の魅力を十分に引き出すような体制になっていないということだ。レベル分けがされていないことで有意義な指導ができなかったり、授業を妨害する子を追い出す事ができないような体制になっていたり、雑務に忙殺されるせいで準備や自己研鑽がおろそかになったりする。

事務仕事や保護者対応、生活指導、部活動指導などは本来、別に人を当てるべき業務だ。必修になった小学校の英語なども同様である。部活を一生懸命指導する先生はいても良いと思うが、あくまで各々の教員の強みを活かすような仕組みにしなければならない。理解が早く意欲的な子にどんどん新しい事を教えることと、授業について行くのが大変な子が落ちこぼれないように教えることもまた、違う能力が必要だろう。

子供が減っていく中で、ただなし崩し的にクラスの人数を減らしたり複数の担任をつけたりするのではなく、業務を切り分けて分業を進めれば、より先生の魅力を引き出し有意義な授業ができる体制になるのではないだろうか。


なぜ英語の科学分野の入門書はナンセンスに見えるのか? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

米国の大学で学部生に統計学を教えるのは私の仕事のうちの一つだが、米国の統計学の入門書というのはおしなべて本当にひどい。ここでいう入門書というのは高校数学の統計程度の内容の本の話である。もちろん優れた入門書など一冊も見た事がない。例えばビル・ゲイツなども、米国の科学分野の教科書は分厚いだけで内容がひどいという類いの発言したというのを聞いたことがあるので、実際にひどいのは間違いないのだろう。

入門書という呼び方は誤解を招くかもしれない。こうした本は、何かの分野を学ぶために初めに読む本という位置づけではなく、その分野の内容を簡単に紹介するための本だからだ。読者が次にもっと難しい本を読むことは想定されておらず、実際もっと難しい本を読むために特段、役には立たない。日本で言えば、大人向けのカルチャー講座のような内容だと思ってもらえればいい。

こうした入門書はフルカラーのハードカバーで500〜1000ページくらいあるものが多く見た目は立派だが、もっとも正確な表現をするとすれば「目次付きの粗大ゴミ」である。

例えば以下はある教科書の「平均」に関する説明のページだが、巨大な本のカラー2ページも使って平均の最初の計算例が終わっていない。

統計教科書


もちろん、私は教える時にも教科書など真面目に読まない。目次だけ読んで、あとはパラパラめくって自分で説明を組み立てるだけだ。

私が今の勤務先で初めて統計学の入門クラスを教えたとき、指定されていた教科書は私から見るとごく普通の(ひどい)統計の入門書だったが同僚の間での評判はとても悪かった。なぜそんなに評判が悪いのだろうかと少し話をしてみると、なんと同僚はその教科書を「読んでいた」ことが判明して驚いたことがある。

しかし先日、数学科の米国人同僚が次のような発言をしていて気付いたことがある。その同僚は、

「うちの学科のTは統計学にはとても詳しいが教科書を選ぶのには向かないね。なぜなら、彼は統計のことは何でも知っていて教科書が必要ないのだから。」

と言ったのである。要するにTは私と同じスタイルなのだ。Tは台湾出身の老教授で、やはり非英語圏出身である。

そこで私が気付いたのは、教科書に対する評価には使用言語が影響しているという点だ。

統計学のアイデアはほぼ全てデータを元にできており、それを数式や数学的イメージを用いて論理的に組み立てていく。簡単化のため、データと数式、数学的なイメージをまとめて「数式」と表現することにすれば、統計学の本質にもっとも近いのは「数式」である。その方法で理解できない人のために、「日本語」や「英語」での説明がある。要するに「日本語」や「英語」の説明は、内容を理解をする上では邪道だと言える。簡単に表現すれば下の図のようになる。

入門書-実体


しかし一般的に英語圏の人々の数学的リテラシーは低いので、教科書はほとんどの概念を「英語」で説明することになる。ひどい場合になると、筆者でさえきちんと数式を使って理解できていないのではないか、と思わせるほどである。

これを非英語圏の出身の私が見ると下の図のように見える。つまり、統計学を理解する方法が「数式」「日本語」「英語」の3通りあるとすれば、わざわざ最悪の方法で理解しようとしているようにしか見えないのだ。

入門書-脳内


さらに言えば、「英語」が「日本語」より分かりにくい理由は必ずしも、語学力の問題だけではない。英語の文章は、箇条書きなどを排して「分かりにくく」書くのが正式であるという文化があるし、例え最短で10単語で説明できる文章であっても、余計な説明をつけて20〜30単語にした上で3回くらい説明するのが説明文のスタイルなのである。分かりにくく書く代わりに直線的に読める文章にはなっているし、わざわざ冗長な説明するのは読解力の低い人や共通認識が違う人にも理解できるようにという配慮なので、これは文化の違いであるとも言える。しかし科学が簡潔さを美と見做している以上、これはほとんどの他国語話者にとっては、あまりセンスの良いものには感じられないはずだ。

統計学の入門書がひどいと感じられるのに比べて、より専門的な本や数学の教科書はそれほど悪くないし、歴史の教科書や、文学作品を読んでいる時も同じようなフラストレーションは起らないという点も以前は不思議だったのだが、上の概念図をもってすれば全て説明できる。

つまり、専門書や数学の教科書は著者も「本質に近いのは数式である」という認識のもとに書いているから違和感がない。また、文学などにおいては言語そのものが本質であるので、例えその文章が難解だったとしても、統計学の入門書を読むような違和感を感じないのである。

このように考えて行くと、本来、数式や図など他の方法で理解すべきものを無理矢理に英語の文章で回りくどく説明するような本、つまり数式やイメージによる理解が難しい読者のために書かれた科学分野の入門書は、外国語話者にとっては特にナンセンスに見えるのではないか。

そして、私のような外国語話者が米国のような完全な英語圏において科学分野の入門書を使って講義することの難しさは、そのあたりにあるのではないかと思う。


テーマ : 英語
ジャンル : 学問・文化・芸術

日本人が米国で働いた場合の年金事情 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

以前、学会で会った日本人の方に「米国で働くと年金はどうなりますか?」
という質問をされたことがあるので、在米日本人の立場から少し書いてみたい。
ただし、私は年金の専門家でも何でもないので、以下はあくまで参考情報であり
正確な仕組みや金額などについては各自でお調べ頂きたい。

1.公的年金

現在の年金の仕組みでは基本的に、
日本で働いている間は日本の年金制度に保険料を払い、
米国で働いている間は米国の年金制度に保険料を払うことになる。
したがって、日本で15年、米国で20年働いた人なら将来、
それぞれの納付期間に応じて両国から年金を受け取るというわけだ。

ただし日本の国民年金については、海外在住者でも任意で加入することができる。
ある程度の経済的余裕がある人の場合は、米国で働きながら日本にも保険料を
納めているという人もいるようだ。

逆に、米国に在住しているが働いていない学生などの場合、
どちらの国にも保険料を納めていない期間が発生することになる。
また、学生ビザでTAやRAなどの仕事をしている場合にも、
暦年ベースで当初5年間は米国の年金に加入できないといった特例がある。

なお、日米とも原則的には10年以上の保険料を納めないと年金を受給できないが、
現在では日米社会保障協定により、納付期間と国外在住期間の合計が10年を超えれば
年金を受け取ることができる。したがって、多くの人にとっては支払った年金保険料
に見合う額が貰えなくなるという心配はなくなった。

一方、米国は累進年金という複雑な制度を取っているため、
他の国などから年金収入がある人に対して米国の社会保障年金を減額する
WEP(Windfall Elimination Provision)という制度もある。
米国での就労期間が30年未満の場合は、就労年数に応じてこの制度が適用される。

次に両国各々の制度についてだが、
実は、日本の公的年金制度(国民年金+厚生年金)と米国の年金制度(Social Security)は制度としては非常に似ている。日本の制度が元来、米国の年金制度を参考にしている点が多いからである。

米国も日本と同様、労使折半で給与に比例した額が給料日ごとに差し引かれる仕組みだ。
保険料率は、日本では18.3%、米国では15.3%である。
ただし米国の保険料は、うち2.9%ポイントは高齢者向け医療に使われている。
また、保険料の上限が決まっているのも日米で共通している。

一番気になるのは年金額だが、計算方法が異なるので一概には比べられない。
例えば、日本の厚生年金給付が保険料に比例しているのに対して、
米国では累進的になっており、年収の多い人ほど損な仕組みになっている等の違いがある。
参考までに、私が標準的なケースの試算をしてみたところ、
同じ年収であれば米国の給付額が1.6倍程度になった。
保険料の差を考慮すると米国の給付が2倍弱ということになる。

働いていない配偶者、つまり主婦や主夫の年金はどうなっているだろうか。
米国ではこうした人の年金は、配偶者の半分ということになっている。
日本では、専業主婦(主夫)が年金保険料を払っていないことが問題になっているが、
意外なことに、日本より米国の方が専業主婦(主夫)は恵まれているという訳だ。

さて、もっと肝心なのは現在の計画通り年金が貰えるかということだろう。

残念ながら、両国とも年金の持続性には疑問符がついている。

米国では2037年頃には、社会保障基金(Social Security fund)の
残高がゼロになると予測されている。残高がゼロになった場合、
収支を均衡させるには単純計算で約2割の減額になるという。
実際には様々な手を使って減額幅を圧縮させるだろうから、
目安としては「最悪2割減る」と考えれば良いかもしれない。

日本の制度は、以前のエントリー(http://wofwof.blog60.fc2.com/blog-entry-687.html)
で考察したように、マクロスライドを忠実に実行すれば破綻はしないが、
受給額は35年後に約4割減というものだ。

簡単にまとめれば、
米国の年金は日本に比べると太っ腹ではあるが、
制度の将来は全くといっていいほど無計画で不確実性を伴うと言える。



2.退職金・企業年金

日本の退職金や企業年金にあたるものは、米国にもあるが、
当然ながら企業や大学によってその制度は異なる。

私のいる大学では、勤続3年目から
従業員が給与の5%以上を確定拠出年金(403b)に拠出し
大学がそこに給与の10%分を追加拠出するという制度になっている。
ハーバード大のようにいろんな意味で私の在籍する大学と違う大学でも、
大雑把に言えば年収の10%程度を大学側が積み立てるという事になっている
ようなので、大学としてはある程度標準的なケースとは言えるだろう。

403b(401kの非営利団体版)とは、従業員や企業が税引き前の所得から
資金を拠出して積み立て、59.5歳以降になると引き出せるという仕組みだ。

例えば35年間働いたケースを考えてみよう。
大学は33年間、毎年の給与の10%を積み立てることになる。
確定拠出なので給付額は何に投資したかによって異なり確定しないが、
教職員保険年金組合の確定年金の予定利率は私の口座では3.6%なので、
インフレ率を年2%とすれば実質利回りは1.6%ほどだ。

退職時点での受け取り総額を等比数列の和の公式で計算すれば、
年収を一定と仮定した場合には、実質でその4.3倍程度になる。
オーダーとしては日本企業等の退職金と大差ないだろう。
ただし、これは課税前の金額なので、
その額を退職後に運用しながら少しずつ引き出すことになる。

米国の方が好都合な点もある。企業が毎年一定の割合を拠出するので、
転職を何度しても基本的に不利になることはないという点だ。
米国では同じ会社に何十年も勤める人の割合が低いので、
それに合わせた制度になっているということだ。

なお一部の大学や企業などには、確定拠出ではない独自の年金制度が
残っていてこれはかなり大盤振る舞いのものもあるようだ。

裕福な市の市役所は、その極端な例だ。
ロサンゼルス市では、年間20万ドル以上の年金を貰う元公務員が8人いるそうだ。
念のため書いておくが、この額を公的年金に加えて受け取っているのである。
警察署では給与100ドルあたり71ドルの年金費用がかかっている。
(出所)http://www.latimes.com/projects/la-me-el-monte-pensions/


3.私的年金

上の2つに加えて引退後の生活に備えたい人は、
確定拠出年金に追加拠出するのが一般的だ。
運用益が非課税になるメリットがあるし、
税引き前所得から拠出すれば、老後の税率が低い人には節税効果があるからだ。

州立大の大学教員の場合は最大で
上に述べた403bへ年18,000ドル(50歳以降は24,000ドル)、
類似の457bへ年18,000ドル(50歳以降は24,000ドル)、
雇用主と関係ないIRA(または税引後所得から拠出のRoth IRA)へ
年5500ドル(50歳以降は6,000ドル)まで拠出することができる。
夫婦とも大学教員というようなケースではこれを二人分使えることになる。

企業などにおいては、403bの代わりにほぼ同様の401kがあり、
IRAは同じで、457bは使えない。

これらの積み立ては元は給料の一部なのであるが、
こうした多額の積み立てから得られる株式の売却益や配当、
債券や年金の利子が非課税になるメリットは大きく、
米国人の投資を促進していると言えるだろう。


4.まとめ

このように見て行くと、日本と米国の年金制度は一定程度似通っており、
日本のサラリーマンを辞めて米国の企業や大学に転職するというケースでも
常識的な額の年金は貰えるので、過度な心配はなさそうだ。

一方で老後の年金受け取りに関しては、米国で日本の年金を受け取る、あるいは、
日本で米国の年金を受け取る手続きが必要になり、煩雑であることには注意が必要だ。
数年間だけ米国に勤務してその後日本に永住帰国するケースでは、
この外国から年金を受け取る面倒を避けるために、10%の税金と
高い所得税を払って現金化してしまう人もいるようだ。
この場合は、合計で残高の40%程度を差し引かれることになる。
退職後に分割して受け取れば平均税率は10%台半ばだろうから、
現金化によってだいぶ損をすることになる。

日米両国で働く場合には、単に両国の年金制度を理解するだけでなく、
様々な可能性を考慮しつつ最適なリタイアメント計画を立てる必要が
あるということだ。


テーマ : アメリカ生活
ジャンル : 海外情報

ヘイトスピーチが絶対にダメな理由 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

 日本ではここ数年、外国人が増えたことや経済力が弱くなって自尊心が損なわれたことから、社会への不満が外国人に向く、ヘイトスピーチ(憎悪表現)が社会問題になっている。ヘイトスピーチはより良い社会を築く上であってはならないものだが、日本のように大多数の国民がマイノリティーの痛みを感じたことがなく、またグローバル化の進展度合いが低い国では、なぜいけないのかがあまりはっきりと分からない人も多いのではないだろうか。そこで今回はこの問題を、分かりやすくお金に置き換えることで説明してみたい。


 仮に、あなたが仕事で年収500万円を得ていたとしよう。もし全く同じ労働条件と生活環境で年1000万円貰える代わりに、一日に一回、見知らぬ人から
    "GO HOME JAP!"
と罵られる国や地域があったらあなたはそこに引っ越したいだろうか?

 私がこの質問を一人の日本人にしてみたところ「ノー」と答えたので、「それでは、どのくらいの頻度であれば我慢してその国で働いてみたいか?」と続けて質問したところ「月1回程度なら」という回答を得た。この答えは、普通の日本人の感覚として常識的なものではないだろうか。それでは、これを金額に置き換えてみるとどうなるだろう。月1回、つまり年12回のヘイトスピーチに見合う報酬が500万円(=1000万円—500万円)だと見做していることになるので、ヘイトスピーチ1回あたり40万円のコストがかかっていることになる。ヘイトスピーチが行われる国では必要としている労働者を呼ぶためのコストがそれだけ跳ね上がってしまうというわけだ。(ここでは賃金に置き換えたが、他にも旅行者が減ったり、日本に反感を持つ人が増えるなど様々な経路で損失は生じる。)直感的にはこの額はとても大きく感じられるが、条件を多少変えてみたところで、その額が思ったよりもずっと大きいという事実は動かないのではないだろうか。これは、ヘイトスピーチを行う「話し手」とその痛みを受け止めるマイノリティーの「受け手」の間に、非常に大きな認知ギャップがあるからに他ならない。

 ヘイトスピーチが絶対に許されないのは、「人類みな兄弟」などという理想主義的な価値観からのみ出る結論では決してない。ヘイトスピーチは社会的に「とても高くつく」ものなのだ。

 私は日本国民全員に外国人を大好きになれと言うつもりはない。しかし、ヘイトスピーチのニュースを見るたびに「これをやってる人たちは自分のストレス発散のために日本に巨額の損失を与えているのだな」と思うし、「もしかするとこれをやっている人達は反日なのでは?」とか「日本を陥れるための外国人工作員なのでは?」と疑ってしまうレベルなのである。


プロフィール

Willy

Author:Willy
日本の某大数学科で修士課程修了。金融機関勤務を経て、米国の統計学科博士課程にてPhD取得。現在、米国の某州立大准教授。

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お勧めの本
1.ルベーグ積分30講
―― 統計学を学ぶために。
   小説のように読める本。
   学部向け。


2.Matematical Statistics and Data Analysis
―― WS大指定教科書。
   応用も充実。学部上級。

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