私は日本の大学の数学科を出た。
数学科に行ったのは一義的には、数学の事をもっと知って研究者になりたいからだったし、
もしそれが叶わない場合でもその知恵を活かして他の分野で活躍できるだろう
と考えたからだった。
高校に入った頃は、授業がつまらないので高校を辞めようかと思ったのだが、
自分の好きな仕事につくためには結局数学科に行かなくてはならず、
そのためには高校を卒業して進学するのが一番近道なので
思い直して辞めるのを止めた。
(私の大学時代の友人には高校があまりに下らないので
1週間で辞めて大検から数学科に入ったという人もいた。)
何が言いたいのかというと、
大学への進学というのは私にとってそれくらいキャリアパス
と直結した選択だったということだ。
そんな私にとって、発●小町なる掲示板で
「教養のため」とか「人生を豊かにするため」に大学に行ったと
主張する人が結構いるのだと最近知ったことは、晴天の霹靂だった。
以下は
「大学は職業に直結しないと意味がない?」 というトピからの抜粋である。
>共働き世帯の妻です。子供は一人います。夫は1歳下です。 >夫と私で、子供の教育のことで意見が合わない点があり、 >皆様のご意見もお聞きしたくトピを立てます。 > >私は経営学部卒で、大手SI企業に就職したものの出産を機に退職しましたが、 >現在は別の会社で総務をやっています。 >夫は専門卒、以前は私と同じSI企業にいた派遣社員で私の部下の一人でしたが、 >現在は子供の頃からの夢だったゲームプログラマーをしています。 > >夫は、自分の経験からこう言います。 >「娘を大学に入れるのは構わないが、ただ勉強したいってだけじゃダメだ。 >医者とか弁護士とか大学に行かないとできないような >仕事をするのでなければ進学する意味がない。」 > >私もやはり自分の経験から >「大学は将来の職業と関係があるかどうかより、自分がやりたい勉強をとことんやる場所。 >大学で勉強した経験は人生を豊かにしてくれる。それを理解できる人が行けばいい。」 > >皆様は、大学に進学するには将来の職業に直接関係がなくては意味がないと思いますか? >それとも純粋に勉強することそのものに価値があるので >職業と関係がなくても良いと思いますか? これに対するレスは様々だが「教養賛成派」からは、
「意味がないからこそ面白い」 「教養こそが人間の価値」 といった、私からすれば驚愕の意見が並べられている。
理屈として可能なのは分かる。他の人が一生懸命勉強している間、
あまり働く必要がない人や能力に余裕がありすぎる人は
優雅に別世界で教養を嗜む。
教養はあくまで仕事とは関係ないから、卒業後は関係ない仕事につき、
教養で培った人間的豊かさを活かしていい人生を送る。
こんな人生なら非常に羨ましいのだが、
残念なことに私がそんな人に会ったことは今まで一度しかない。その人は、家柄の良い資産家で頭もよく、
気晴らしに大学の非常勤を少しだけやりながら、
趣味で中国文学と骨董品集めをして優雅に暮らしていた。
しかし、こういった羨ましい人生は明らかに例外的で、
生まれもった環境や才能に大きく依存する。
大半の人は、自分のキャリア設計の失敗や、 怠惰な学生生活の言い訳として、 「教養」を持ち出しているに過ぎないのではないか。 例えば「法学部を出ても法律に関係ない仕事につく人が大半だ」という人がいるが、
「教養」のために法学部を出て法律に関係ない職業についた人の人生が、
法律に関係のある職業についた人の人生に比べて
平均的に充実しているとはとても思えない。
もちろん、結果的に法律よりも好きなことが見つかったので
別の仕事を選択したというケースはたくさんあるだろうが、
それは「教養」のために大学に入ったのとは決定的に異なる。
意味がないことを進んですることと、 意味があると思ってやって事が結果的に無駄になることは全く違う。 同様に、先の目標に進むためにまずは「教養」科目をとるというのも
「教養」が目的化していない点で決定的に異なるだろう
(アメリカのまともな学部生の大半はこのパターンだ)。
「教養」という言葉は響きが良い。
豊かな日本社会で、切羽詰った状況にない18歳にとって
何もやりたいことがないとき、教養を身につけるために大学に行く、
というのはもっともらしく聞こえる(*1)。
しかし、将来、充実した知的な生活を送りたいのならば
それは途轍もなく大きいリスクを負っているように思う。
99.9%の人は、明確な職業意識を持って大学に行くべきだ。(*1) 日本の雇用システムを考えると致し方ない面もあるのが悩ましい。
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テーマ : キャリアを考える
ジャンル : 就職・お仕事
初等では、三角関数、双曲方物面にとりつかれていました。ほんの少し仕事になりました。
数学科に落ちて、電気工学科に行くハメになりました。
今は、結び目や分割数といった、空間や数量の保型形式のようなものにとりつかれて、くだけちっています。仕事に応用する道も見えません。
NOR回路、楕円関数論にも少し浮気をしました。
C言語やアセンブラには、浮気以上の時間もかけ、少しは仕事になりました。
特定の自分の力量を超えた数学にとりつかれると、もう数学人生、役立たずで終わりそうです。今は畑違いの関係ない仕事です。
教養ということばもずいぶん使われなくなりましたね。
新聞の社説とか読むと、ちゃんと知ってて古典を引用しているんかな?とか
教養すらもちゃんと学べないのが現状ですね。論語暗記とか。文理問わずの勉強とか。
教養とは 一人で時間をつぶせる技術である
ってのをどっかの本で読んだな。
キャリアパスと進学が無関係なのは文系だけではないですか?理系(とくに工学部)は、職業選択において大学の専攻はとても重要ですよね。
一方、文系は何を学ぼうと多くの人は営業マンになるので、大学の専攻は趣味みたいなモンにならざる得ません。でも、そんな(B/SやP/Lすら読めない)おバカさんたちが将来経営者になるんだから、まあ、世の中怖ろしいもんです
現実問題、文系の専攻を職業でいかせる場面はほとんどないので、大学にとっては教養をうたうがオトクなんでしょう。
大学四年間ずっと教養学部でした。ま、好きなことをやっていただけですね。
>「意味がないからこそ面白い」
>「教養こそが人間の価値」
こういうことを言う人は多いですが、これはおっしゃる通り「言い訳」です。私は意味があってかつ面白かったと思いますし、「教養こそが人間の価値」と主張する(せざるをえない)人は本当は価値を感じていないのでしょう。自分で納得している人間はそれを他人の認証を求めませんから。
教養教育については多少あってもいいと思います。これは単に民主主義との関係です。法律・経済・思想といったものが何かついて、全く触れないで大学を卒業するのはもったいないとは思います。もちろん自分で幅広くものを考えるかたには不要ですが、そもそもそういった問題に気付かないひともいます。
毎回、興味深く拝見させていただいております。
共感するエントリーが多いのですが、今回のエントリーは少し突っ込みたくなる内容がありましたので、書かせていただきます。
>大学への進学というのは私にとってそれくらいキャリアパスと直結した選択だったということだ
数学科→金融機関でキャリアと直結していたは言いすぎだと思います。それをいえるのは数学者、ぎりぎりで数学教師になった場合のみでしょう。
>「教養のため」とか「人生を豊かにするため」に大学に行ったと主張する人が結構いるのだと最近知ったことは、晴天の霹靂だった。
晴天の霹靂は言いすぎでしょう。そういう考え方はかなり一般的だと思いますよ。周りにどんな友達がいたのでしょうか?
>99.9%の人は、明確な職業意識を持って大学に行くべきだ。
別にそうは思いません。今は一流になっている方で、大学進学時点ではそれほど明確な目標意識はなかったという人はたくさん聞いたことがあります。私はそこに良し悪しの差はないと思います。目標意識を持って行くのも良し、その間に目標を見つけるのも良しだと思います。
私は大学で専門以外のいわゆる教養を学ぶことはその後のキャリアにおいて無駄だとはまったく思いません。教養を学ぶことは思考の幅を広げてくれるし、自分の専門と教養で学んだ知識をつなげることで新たな価値を生み出すことはよくあることだと思います。(純粋数学や哲学は専門以外の人には教養だと思いますが、思考力をつけるという意味で無駄だとは思いません)。
優れた人は後々経営者や管理者になっていくと思いますが、専門馬鹿では組織の方向性を決定することはできないのではないでしょうか。経済、会計、法律、哲学など専門家にとっては教養である知識も必要になってくると思います。理系、文系を問わず専門なんかは長くても10年学ぶ、もしくは実務を経験すればマスターできるものがほとんどだと思います。65歳まで働くことを考えると、別に大学時代に専門をやる必要性は薄いと感じています。アメリカのリベラルアーツの理念は学部時代は教養を身につけるだったと思います。それを通して、論理的思考力、文章力、プレゼン力、数理分析力、自分で考える習慣を身につけようということだと思います。
自分の主張に一貫性を持たせるためだとは思いますが、今回の内容はあまりに極論が目立ちました。
の社長までいった人の「私の履歴書」をみたら、
面接までうけているのに、自分が受験している
会社の事業内容がわからなかったと
書いてありました。
そういう意識の学生を、企業は採用してきたの
ですよね。
だとすると、日本労働市場での買い手は、
大学で勉強した中身は、本当にみていないので
しょうね。
とある大手企業の採用担当者の方は
「目をみる」
これだけできめるといってましたし。
Willyさんの提言はアメリカなら当然でしょうが、日本だと首を傾げられてしまっても当然でしょうね。
結局は大学の先にある雇用形態の問題かと思います。働いてお金を得るということはこの世の殆どの人間がしなければ生きていけないことだから、卒業後に実感できる大学教育の価値が、人生設計にどのように直結するかという問題にたどり着くと思いますね。
日本企業にとって大卒をとるメリットは、学生が偏差値で表される学力で既にランクづけされており、自ら選抜する手間を省けるという部分が大きいでしょうから、専門職でもない限り大学では何を勉強していても大した問題じゃないわけです。ある程度知能指数があって、しかも社会に敷かれたレールを無難に歩けると証明された人材のほうが、まっさらから日本企業色に染めたい方々にとっては望ましいわけです。
アメリカだと、何を勉強したかも求職時にqualificationsのひとつになるので、目的を持たずに大学へ行くと単に授業料をぼったくられるはめになるわけです。それを払える人は、リタイア後に教養をひろげるというのもアリですけど。
僕は教養がある人と話すのは楽しいと思うので、専門バカばかりの環境がいいとは思いませんが、日本で教養云々おっしゃる方は、専門教育の真の価値に気がついていないのではないかと思います。
なんちゃって文化人がやたらと人気があるのに、エンジニアなどの専門職が冷遇されているのも、その延長でしょう。
私は40年以上前に大学(理学部)に入ったのは、理学的なことが好きで、その方面の学者になりたかったからです。教養部から専門へ進む時に、数学が面白そうなので数学科に進みました。
結局、会社でプログラマーを主としてやっていましたが、ほとんど数学は使っていません。
今は脱サラして数学の研究をやっていますが。
アメリカは大学の時にリベラル・アーツを学んで大学院で専門の勉強をするらしいですが、私の時代はそれを2年間の教養部というところでやったわけです。
今は、1,2年生もかなり専門的なことをやっているようです。特に私の知っている工学部の場合。
たとえば断層撮影の技術を医者が大きく関与して開発するようなことは、日本の大学では起こらないでしょうね。
私の場合は教養部で数学とあまり関係ないことを勉強したのが今の自分の柱の1つになっています。あと数学が柱ですけれど、それは互いに関連しています。人間力みたいなもので。
自分の専門しか知らない人は話してて面白くないですね。専門の無い人も同様ですね。つまり得意ジャンルをいくつも持っているのが面白い人で、私はその種の人に入ると思いますが、専門と切り離された教養部という2年間がそうなる基礎を作ったですね。ただし、そういう人はごくまれです。
>地下水さん
もちろん、結果的に全てのことが役に立つ訳ではなく、いろいろなことを学んで何かを仕事に結びつけられることを探す、ということだと思います。
>sunagaさん
生きていく上で必要な教養は、昔とは大きく変化していると思います。研究でも教養でもそうですが、一番大事なのはどこを当たれば知りたい情報があるか、というのを押さえておくことだと思います。論語を暗記していなくても、記事を書く時に手早く確認するという習慣がついていれば基本的には困らないわけです。
>クルックルさん
うまい表現ですね。覚えておきます。
>通りすがりさん
大筋合意です。ただ以前の職場では、法学部卒で法律真面目に勉強してこなかった人はいなかったですし、経済学部卒で経済学を真面目にやっていない人もいませんでした(ただし体育会系とか庶務的な仕事をやる人は別ですw)。まともな人は文系でもちゃんとやってると思います。まともな人の比率が低いだけで。
>Rionさん:
>ま、好きなことをやっていただけですね。
私もそうです。でも本当に好きだったら、それを何らかの形で将来に活かしたいと思うのが自然だと思うんですよ。発言小町のトピ主は「大学は自分がやりたい勉強をとことんやる場所」と言っているのに、「仕事とは関係なくていいい」っていう発想が私には理解できない。純文学みたいな分野だと職業に結びつけることは難しいかも知れないけど、それでも、もし私がそうだったら、「なんとか作家になってやろう」とか「なれなくても出版社に努めて良い文学を発掘するんだ」と考えると思うんです。そういう夢がなかったら私は4年間勉強できないですね。
教養教育「も」やるのが良い、という意見には反対ではありません。
>Yoppiさん
はじめまして。確かに私のキャリア・労働関連の記事はポジションを明確にするための極論もありますが、基本的には思ったことをそのまま書いています。
>数学科→金融機関でキャリアと直結していたは言いすぎだと思います。
金融機関で計量的ことをやるために数学科より良い選択肢を思いつきません。敢えて挙げれば応用数学系・計算機系の学科、物理学科でしょうか。経済学科でも可能だけど実体は数学をやることになる。数学の研究職志望でなければ応用数学系に行っていたかもという程度の差はあるかも知れません。
>晴天の霹靂は言いすぎでしょう。
これは言い過ぎといえば言い過ぎでしょう。
>周りにどんな友達がいたのでしょうか?
例えば、数学科には1年生の前期でもう数学が嫌いになっちゃう人って結構いたんですよ。あと、機械に興味がないのに偏差値(?)だけで機械学科を選んだ人とか。でも、そういう人が4年間耐えて卒業しちゃうんですよ。私には彼らの行動が理解できませんでした。もちろん、日本では新卒時の年齢が若い方が良いというのは分かりますが…。私なら興味がなくなれば辞めますね。
大学入学時に、明確なキャリアパスを描いているかは本質的には重要ではないと思います。東大なんかは教養が2年間あるからその間に決めればいいし、東工大等も1年目は割と緩やかなグループ分けで自分の適性を見極める期間があります。アメリカのリベラルアーツはその期間が4年間あるわけですが、それはあくまで先の選択をするための準備であって、リベラルアーツ単独で価値があると考えている人は流石に今は少数派でしょう。
しかし、例えば法学部に入学するには法学を学ぶという目的を持っている人でないと意味がないと私は思います。法学ばかり学べば専門馬鹿になりますが、法学部で法学を学ばなければただの馬鹿です。専門を持った上で教養をやるという意味はもちろん分かります。
>「優れた人は後々経営者や管理者になっていく」
>「専門なんかは長くても10年学ぶ、もしくは実務を経験すればマスターできるものがほとんどだと思います。」
そういう考え方もあると思いますが私は賛成しかねます。
>自分が受験している会社の事業内容がわからなかった
極端な話、これは構わないと思うんですよ。
事業内容なんて実体は入ってみないと分からないですから。
会社が応募者がやってきたことを見極め、自社で使えると思えば取ったらいい。
逆に、会社の事業内容を詳しく調べてから
採用面接受けなきゃいけないなんて日本だけかも?と思います。
>とある大手企業の採用担当者の方は「目をみる」これだけできめるといってましたし。
そういう人/こういう会社は近い将来だめになるでしょうね。
>毒の助さん
同意です。補足すると日本では「大学で何を勉強していても(いなくても)大して問題じゃない」のはそうですが「何かを専門的に勉強した方が断然良い」のも確かだと思います。
>足立さん
>アメリカは大学の時にリベラル・アーツを学んで大学院で専門の勉強をするらしいですが、
>私の時代はそれを2年間の教養部というところでやったわけです。
これは、単純にアメリカの方が進度が2年分遅いということだと思います。
>私の場合は教養部で数学とあまり関係ないことを勉強したのが今の自分の柱の1つになっています。あと数学が柱ですけれど、それは互いに関連しています。人間力みたいなもので。自分の専門しか知らない人は話してて面白くないですね。専門の無い人も同様ですね。つまり得意ジャンルをいくつも持っているのが面白い人で、私はその種の人に入ると思いますが、専門と切り離された教養部という2年間がそうなる基礎を作ったですね。ただし、そういう人はごくまれです。
ここが見逃せない点だと思うんですよね。ある程度知的に生きていくためには幹になる部分が必要で、それに付随して教養が互いに関連する形で付くのが好ましい。教養というのは木の葉みたいなもので幹がないと高い所に達することができない。それに、葉っぱだけたくさん集めるのは手間がかかるし、すぐ枯れてしまう。そして大学は低い木を育てるところではない。従って、大学ではまず立派な幹を育てることを目標にし、枝葉の部分は興味が出てきた時に学ぶ、というのが一つの良い方法だと思います。中には器用な人がいて、最初からどんどん葉っぱを集めているのに、いつの間にか後から作った幹にくっついている。足立さんは、きっとそういうことができる方なんだと思います。
>大学入学時に、明確なキャリアパスを描いているかは本質的には重要ではないと思います。東大なんかは教養が2年間あるからその間に決めればいいし、東工大等も1年目は割と緩やかなグループ分けで自分の適性を見極める期間があります。
早稲田理工も最近三つに分かれたようで、数学科のある基幹理工学部は二年から学科別に分かれます。
ま、数学嫌いの人が出るというのは何やってもしょうがないと思いますよ。
コメント欄狭くて書きにくっ!
このねた、盛り上がってますね。私も、社会人を経験した後、あらためて大学院に入った経験があるので、いろいろ感じる所があります!
たぶん、教養教育に価値がでるのは、専門性をある程度身に着けたつけたあとかもしれません。
分野が違っても同じような問題意識を持っている・あるいは問題解決のために同じテクニックを使う学問分野は割と多いものです。
私は市場調査会社で、たまに統計学を使っています。そんな私が、線形モデルの考え方ってのは、別に社会調査に限らないことに気づいたのは、ある程度多変量解析を理解した後に、教養教育でミクロ経済学とか(簡単な)物理学を勉強した事を思い出した後でした。
そう考えると、専門性あってこその教養教育って気がします。教養教育だけだと、単なる雑学王ですよね、、、、まあ、、、雑学が好きな人も多いってのも事実なんですけどねー
おじゃましました。
>あたたたさん:
私はいろんな大学の数学科の人を知っているのですが、入学時に緩やかに分けて2年目から学科分けという東工大式が一番良いな、という感覚を持っていました。慶応もそうですが、今は早稲田も同じシステムですね。これが結構多くの人にとって最適なんでしょう。東大は端から見てると進振厳しすぎ&専門を遅れを一気に挽回するのが大変すぎです。東大生が優秀だから成り立っているシステムだと思います。
>通りすぎさん:
同意です。私も、歴史とか美術とか、今習ったらもっと楽しめるのになぁと思います。大体、こういう科目は歳取ってからでも学べますし。毎年夏休みが一ヶ月取れて、知識を補充出来るような社会が理想です。日本や米国はあくせくしててダメだなあ、と思ったりします。
『~明確な職業意識を持って大学に行くべき』とありますが(読み違えているかもしれませんが),当時,ナイーブですが,各学部で実際に何を学べ,何が出来,どういったことをやっているのか,といったことが実際のところ分からないまま受験先を決めました(非首都圏で全員大学進学という高校でした)..今はネットもあり随分違うのかも知れません.
>東大は端から見てると進振厳しすぎ&専門を遅れを一気に挽回するのが大変すぎ
ご存知のことと思いますが,東大は数年前から進振りが「厳しく」なり,文一ならほぼ必ず法学部といった形はなくなりました.その結果,学部生が平均的によく勉強するようになったのではないかと思います.図書館が随時混むようになったからです..また,この新しい進振り制度を前提にすれば,文科・理科・医学部と区分し直して入試をしてよいようにも思います(医学部はさしあたり特殊扱いということにしました.昔の進振りは確かに緩めだったように思います…).
>や さん:
進振のために勉強させるのが望ましいのかどうかには、私は疑問に感じています。受験で染み付いた「競争に勝つのが偉い」という意味のない価値観を更に2年間引きずるだけのように見える。それに進振を厳しくすると、専攻の選択をて2年間遅らせても、自分の適性が見極められず、結局間違った分野に進んでしまう人が増えてしまうんですよね。東大の理系はそういう人が結構多いのが事実だと思います。
大変面白い議論で、楽しめました。僕は日本とカナダの大学を出ましたが、「教養系」は役に立たん!!と嘆くカナダ人もいます。実際、北米では大学は職業訓練校的側面と純粋学者培養的側面に分かれてると思います。
ただ、問いの立て方がおかしいのでは?とも思いました。「将来のキャリア」を目標にするのであれば、「目的意識を持って大学へ行け」と結論付けるのは当たり前であって、特に議論の余地はないと思います。「教養派」の人たちはキャリアの話はしてないのでしょう。自分の人格安定に教養は役立ちますので、それを目的に大学に行くのは十分にありだと思います。
そもそも大学は少数のエリート(一流の学者、将来のリーダー)を養成するために始まったものであるので、そうした層に当てはまらない人たちは、大学を職業訓練校として活用するのが望ましいと思います。その点でWillyさんに同意です。が、将来のリーダー(表現が稚拙ですが・・)層になるべき人間は幅広い教養が必須です。社会制度全体を設計するのに一分野しか深く知らないのでは役に立たないどころか有害ですから。
複雑化した社会システムが近代成熟期ともなると強固に確立されたので、殆どの人は教養などなくても、もっと言えば、一般常識すらなくても、専門知識があれば歯車として貢献できます。それがないと歯車にすらなれない。が、全体のマシーンを設計するには、学問全体へある程度精通する必要があり、その土台がLiberal Artsと言うことなんだと思います。
結論としては、パンピーは専門バカで良いが、真のエリートには深い教養が求められるって感じでしょうか。
>Yasさん
私とYasさんでは意見が違うのだと思います。私の立場は、ごく一部の人たちを除くと「教養自体を目的に大学に行く」のは「ナシ」ということです。そして、「ごく一部の人たち」というのは、社会の指導層ではなく食べるのに一生困らない人たちのことです。もちろん、いわゆるエリートには、専門性に加えて教養も求められることは確かでしょう。それをどの段階で身につけるべきかは、いろいろな考え方があると思います。
>匿名さん
本のご紹介ありがとうございます。今度、買って読んでみたいと思います。(うーん、教養っていうのはこういう風に問題意識が高まったときに本を読んで身につければいいと思うんですよね。)
はじめまして、Willyさん。
あけましておめでとうございます。
教養ですね。これは、ヨーロッパの階層社会の産物ですので、ヨーロッパの上流以外の人には無縁と言いますかどうでも良いと思います。
次に、教養主義者の良く使う言葉「人格」ですが、今まで人格と教養を結びつけるデータを見たことが無いのです。おそらく、願望の言葉と思います。
また、日本の教養には黒歴史が有ります。
参考文献・HP
竹内洋:教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化, 中公新書
http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/university/index.html
概要として、
・明治中期に社会階級ポンプとして高級学校制度ができる
・学問が広がった理由は立身出世の道具であったが、そのうち教養をやりさえすればと思い込んだ人が…
・日露戦争後の不景気により教養の牙城(東大文学部)の就職が破綻。就職率37%。
・大正時代に教養が宗教と化し、教養主義(人格を磨くことを目的)が起こる
・そのうち、教養が左翼の温床と化す
・最後に、教養主義は学生運動で止めをさされる
これを知ると、教養は日本から廃止すべきと思ってしまいます。教養を薦める人の論点で一番おかしいと思うのが、「職業が欠けている」ことです。これって、お金持ちと引退者以外には職業が必須ですから。
本来の教育の姿は、教養でなく実用知・職業と思います。
具体的に、医療、法律、農工商の知識を普通高校と大学教養課程で教えて、その後専門に特化と思うのですが。教養というのは公教育でなく、町のカルチャーセンターで良いと思うのは、私の暴論でしょうか?
>会社員さん
あけましておめでとうございます。
本のご紹介、ありがとうございます。日本の大学制度を整える過程に問題があるのだろう、という漠然とした問題意識は日本で学生の頃から持っていたのですが、そうした点について掘り下げて考えるのは興味深そうですね。人格と教養の因果関係、そして、職業意識が欠如していることの問題など私も同意です。
高等教育レベルでの教養が公教育である必要がないというのは私も感じていることです。最低限の知識は高校までで教え、それ以上は学びたい人が学びたいときに自由にやるのが一番効率がいいのではないかと思います。現実には大学の雇用の問題が絡んでいるのでしょうね。
こんばんは。
良く考えますと、Willyさんはアメリカでしたので、日本の本を入手するのは困難と思われます。
※日本の本には、明治時代に高等教育を設計して今の失敗形になった経緯を書いた本が幾つもあるのですが、ちょっと残念です。
出来るだけ、HPにて。追加文献を。
立命館大橋口昌治氏のメモ
http://www.arsvi.com/0e/1801h.htm
労働省濱口桂一郎(労働研のHPに色々と文献があります)
http://www.jil.go.jp/article/index2.htm
大学が職業訓練から始まって、今、虚学と実学のジレンマにある状態を述べたもの
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo6/06_8_ueno.pdf
リンクありがとうございます。日本の本は年に2回くらい、アマゾンでまとめ買いして配送してもらうので入手はできますが、ウェブ上の情報があれば助かることは間違いありません。
99.9%の人は、明確な職業意識を持って大学に行くべきだ
賛成です。
皆行くからとりあえず行ってみた、大学は行っておかないとという知り合いは沢山いました。
かつやさん:
>皆行くからとりあえず行ってみた、
>大学は行っておかないとという知り合いは沢山いました。
日本より実践に重きをおいたアメリカの大学にもそういう若者は溢れています。
だからいいのかというとそうではなくて、
それは先進国共通の病気と考えた方が良いように私は思います。