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確率とは何か?〜娘の夏期講習から -- このエントリーを含むはてなブックマーク


中学生の娘はこの夏、近所の学校で開かれてる夏期講習を取っている。
自分で教えるのはやめたが、何をやったかくらいは2〜3日に一度聞くようにしている。
今日は確率をやったらしい。

私「お〜い、娘。今日の夏期講習は何やった?」

娘「確率。」

私「どんな問題やった?」

娘「例えばA,B,C,D,Eの5人が並ぶ時の並び方は何通りあるかとか。」

私「それ確率じゃないじゃん。」

娘「えっと、ある並び方をする確率はいくつかとか。」

私「AさんとBさんが仲良くていつも隣同士だったら、実現しない並び方もあるんでは?」

娘「そういう実際の確率とは違うんだけどね。」

私「実際の確率じゃないなら何を求めたの?」

娘「誰が好きとか、隣になりやすいとか一切ないって考えて計算するの。」

私「"同様に確からしい"っていう前提を置いて計算するってことだね。
  ところでペニー硬貨をスピンさせた時に表が出る確率はどのくらいでしょう?」

娘「50%?」

私「残念ながら約80%と言われている。」

娘「えっ。」

私「重い面が下に来やすいから。そもそもコインは表裏が違うのだから
  50%という読みはあまり合理的ではない。
  トスなら回転数が違うから確率は50%にもう少し近づく。」

娘「へえ。」

私「でも確率を考える時には、よく裏表が50%と仮定して論理を組み立てる。
  仮定をもとに頭の中だけで推論していくのが確率の理論なんだ。
  一方で統計は表の確率が何%になるのか観察していく。
  確率とはカジノを設計すること、統計とはカジノでプレーすることとも言える。
  確率を世の中に役立てるためには、頭の中で考えた仮定が妥当なのか
  いつも注意しておく事が大事だ。」

娘「なるほどね。」


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「君はどこにでも行ける」とはどういうことか、図にしてみた -- このエントリーを含むはてなブックマーク

ホリエモンの「君はどこにでも行ける」を読み終えた。とても面白い本だったのだけど、ホリエモンの言う「国境は君の中にある」というメッセージが、私には少しぼんやりとしているように感じられた。そこで「グローバル化とは何か」そして「なぜ外国の人とのコミュニケーションが重要になってきているのか」ということについて、私なりの言葉で説明してみたい。

まず、グローバル化の本質は、世界中を旅行したり、他の国で働いたりすることではない。

実際、日本人が世界を旅するのなら20年前の方がずっと安い値段で色々なところに行けた。各国間の貧富の格差が今より大きく、日本はその最上位に位置していたからだ。当時、大学の夏休み明けに海外旅行帰りの友人と話すと、海外の物価がいかに安いかを語ってくれるのが常だった。昔の方が国の風景の違いも大きく旅の楽しみも大きかっただろう。20年前まで日本にスタバはなかったし、25年前まで北京にはマクドナルドはなかったが、今はどこにでもある。世界各地の美しい風景も、いまはインターネットで簡単に検索できる。

働くという事に関しても、グローバル化は必ずしも世界に出て行くことを意味しない。昔であれば、米国でゴールドマン・サックスのような投資銀行に勤めて一旗あげることも考えられたが、今日、グローバル化した大企業はわざわざ純日本人を米国で採用したりすることは少ない。東京支社なり支店なりで採用すれば済むからだ。

勉強にしても、オンラインの授業が充実してくれば、必ずしも発展途上国から先進国に留学する必要は無くなるだろう。英語にしても、英語圏から各国に情報や人材が流入したことで英語圏にいなくても格段に習得しやすくなっており、意欲的な留学生は既に話せるようになってから米国に来るようになってきている。

「グローバル時代だから英語を習得しないと」というのも、必ずしも正しくない。もしかしたら、早晩機械翻訳が飛躍的に進歩して外国語を話す必要はなくなってしまうかも知れない。

それではグローバル化とは何なのか?

それは一言で言えば「世界中が同じようになること」だ。世界中の富裕層がBMWに乗り、世界中の中間層がiPhoneを使い、アジア各地の大衆が韓流ドラマやAKBグループのライブを楽しむ。世界中の学生がスタバでネット接続してKahn Academyのビデオをみて勉強し、世界中の貧困層がウォルマートで雑貨や食料品を買うようになるまでにも、大して時間はかからないだろう。

図にすると下のようになる。
Globalization.png


グローバル化する前の世界では、住む国によって生活の水準が決まった。例えばアジアについて言えば、日本人の生活は豊かで、韓国や台湾はそれより貧しく、マレーシアやタイはもっと貧しく、中国、インド、ベトナムなどは信じられないくらい貧しい、といった具合だ。だから例えば、富裕層や中間層向けの製品である大型テレビを作るにしても、アジアに限って言えば日本人の好みに合わせて作れば良かった。同じ日本の中でも管理職の給料は工場労働者のそれより高かったが、日本人の誰もが他の国より豊かであることに誇りを持てたし、国民はみな同じ番組や新聞を見て、一体感を持って生活できた。

グローバル化した世界では、財やサービスが国を超えて流通するため各国間の差はどんどん縮まり、それぞれの国に明確な富裕層、中間層、貧困層が生まれる。図は経済的な格差について描いたが、知識や情報のレベルという点でも同じことが言える。世界中の高学歴層や知識階層が、海外の競合他社や研究者の情報を得て知識を深めあう。世界中の多数のホワイトカラーが同じハードウェアやソフトウェアを使って仕事をする。世界中で、同じビジネスモデルに従って同じ製品やサービスが提供される。

国の間の距離が縮まる一方で、仕事の内容や生活の仕方によって、経済、知識、情報に関するばらつきが大きくなり、国民の一体感は損なわれていく。

そんな世界では、これまでと同じように生きているつもりでも、付き合う世界は非常に狭くなっていく。たとえば、グローバル化する以前に「日本の中間層」として生活することは「アジアの中間層」として生活することとほぼ同義(図の左側)だったが、今後は「アジアの旧先進国」かつ「中間層」という非常に小さい交わり(図の右側)で生活することを意味するようになる。

したがって、ビジネスをする上でもそれ以外の仲間を作る上でも、右の図の横方向の繋がりを強めていくことが、豊かな生活を送るための鍵になっていく。世界がどんどん同質化して、わざわざ外国に行く機会は減っても、世界を串刺しにする横のつながりはますます重要になっていく。

国境が心の中で無意識な壁となると、これからの世界を生きる上ではとても狭い世界に自分を追いやることになる。昭和の時代に図の左側のごとく同じ国の中を横に自由に歩き回ったように、これからは図の右側のごとく世界を横に自由に歩き回ればよいということだろう。



テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

日本人はなぜボトル入り飲料水の原料が水道水だと不満なのか -- このエントリーを含むはてなブックマーク

J-CASTニュースが「コストコで発売されているボトルウォーターの原料が水道水だったため、物議を醸している」と報じた。う〜ん、このネタ、海外の日本人コミュニティーでも定期的に鬼の首とったように非難する人がいるのだが、何が気に入らないのだろう。

まず、水道水もミネラルウォーターも軟水が多い日本では、基本的に水の味は大差ない。そのため、ミネラルウォーターには「天然に取れた水」という付加価値が必要で、売られているボトルウォーターはほぼ全てミネラルウォーターだ。



一方でアメリカの水質は場所によってかなり異なる。そのため、水道水も場所によって軟水から硬水まで幅広いし、ミネラルウォーターの水質も採水地によって異なる。日本で有名なクリスタルガイザーも(少なくとも米国では)採水地が何箇所かあるので、ラベルに採水地が書かれている。以前クリスタルガイザーが好きでよく飲んでいたのだが、先日安売りで買ったら、妻も私も以前飲んだものと違ってあまり美味しくないと感じた。採水地が違うものだったのだろう。



そんなわけで、米国ではミネラルウォーターの水質もブランドや採水地によって差があり使いにくい面がある。通常の水道水を成分調整しておいしくしたPurifiedウォーターには合理性があるということなのだ。

以前、ウィスコンシン州に住んでいた時に友人と議論になったことがある。紅茶を淹れる時に、ミネラルウォーターを使った方が美味しいか、水道水で入れた方が美味しいかという問題だ。

友人が、
「紅茶は軟水の方が美味しいから、水道水で淹れた方がおいしい」
と主張したのに対し、妻と私は、
「ミネラルウォーターで淹れた方が実際においしい!」
と主張して意見が噛み合なかったのだ。

実は、どちらもある意味では正解だ。

日本の水道水は軟水なので、輸入物の硬水のミネラルウォーターを使うよりおいしく淹れられるケースが多いだろう。

一方で、ウィスコンシン州の水道水はかなりの硬水で、水をコップに入れて何時間か置いておくと白いミネラル分(カルシウム?)が浮いてくるほどだ。それで紅茶を淹れると数分で真っ黒になってしまう。味も香り高くならない。買ってきたミネラルウォーターが軟水なら、そちらで淹れた方が断然おいしいというわけだ。

その後、我が家では買って来たミネラルウォーター(我が家では常に最安値のものを買うのでブランドはいつも違うのだ)が硬水だと、紅茶を淹れた時においしくないということに気付き、飲料水はミネラルウォーター、紅茶にはPurifiedウォーターを使っていた。飲料水もPurified ウォーターでも良いのだろうが、ミネラルウォーターを飲んでいるのは気分的な問題だ。あとは、多少味に(ブランドによる)ばらつきがあった方が飲んでて楽しいという事もあるかも知れない。

いま住んでいるミシガンでは、水道水は軟水だし、買って来るミネラルウォーターもほとんど軟水だ(ただし、以前に硬水だったものを外しているせいもある)。しかし水道水は水道管のサビのせいなのか少し臭いがあり、ボトルウォーターほどおいしく淹れられないので、アイスティーにはミネラルウォーターを使っている。

いずれにしても、ミネラルウォーター、Purifiedウォーターにはそれぞれの使い道があり、「水道水由来だからだまされた」というようなものではない。J-CASTの記事では、水道水だから安く売れるのだと書かれているが、そもそも米国のボトルウォーターは安く、ミネラルウォーターでも安売りで500mlのものが一本15セント程度。Purifiedウォーターでも2〜3セント安い程度だ。

Purifiedを買っている人も別にコストコにぼられてる訳ではないのでご安心あれ。


楽天市場では送料偽装の責任を誰も取らない件 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

つい先日、pucotan氏が「amazonマーケットプレイスの"1円+関東への送料無料"」 なる記事にて、事実上送料が380円であるにも関わらず商品の紹介画面で「関東への送料無料」と出品業者が表示させることができる、という現象を紹介されていた(ただし、実際に注文画面にいけば料金は合計381円と表示される)。こうした抜け穴はシステム側(アマゾン側)で防ぐべきである、という意見に賛同する。

しかし、私は楽天市場にて昨年、もっと不愉快な体験をしたので報告しておきたい。出品業者は「和気文具」で、創業1926年で今年創立14周年だそうだ。つまり今年は1940年。どうやら西暦ではないようだ。
waki.png

具体的に起こった事は次の通りである。

1.楽天市場から商品を注文。
  商品送料426円+送料(メール便)220円=合計646円
  をクレジットカードで決済。
  その際「送料等の諸費用は変わる場合があります」との但し書きあり(写真参照)。
値段1

2.「【和気文具/R】XXXXX様 発送日のご連絡です。【ご注文最終確認】」
  なるメール通知を受け取る。最後までよく読むと、一方的に
  「送料が580円(合計1006円)に変更になる」旨の連絡が含まれている。
  「ご注文内容の変更やお客様都合による取り消しについては
   お受けいたしかねますのでご了承ください。」との文言があり、
  2日後に一方的に発送される。

値段2

3.クレジットカードから1006円が引き落とされる。

4.過大請求につき差額を返金するよう電子メールで依頼。

5.5週間にわたり返信なし。

6.再度、過大請求につき差額を返金するよう電子メールで依頼。

7.「先日下記内容でメールをお送りさせて頂いておりますが、
   ご確認頂けていないとのこと、失礼致しました。」との連絡があり。
  先方は、差額返還を拒否。

 → 私はメールの削除は一切しないし、既にやりとりのある業者とのメールが
 (私の使っている)Gmailのスパムで弾かれることは99%あり得ないのだが。
  
8.返金はこの時点で諦め、この業者が返金しない事実を確定させるため、
  以下の内容のメールを送信。
 「今回の件に関しては、貴社は返金は行わないという
  最終決定したという事でよろしいですか。ご確認願います。
  その上で然るべき対応を取らせて頂きます。」

 → 「然るべき対応」というのは、運営サイトの楽天に問題を
   上げるというつもりで書いた。

9.先方より、最終決定で構わないとの通知あり。
  先方の主張も引用しておくと、
  『メール便不可商品の宅配便送料への変更につきましては、
  商品ページにメール便不可の記載をさせて頂いていること
  また、メール便不可の商品をメール便でご購入された時の対応を
  ご利用ガイド、ならびに買い物かごの説明文に記載させて頂いております。
  ネットショップの特性上、ご注文頂いた時点で
  上記を含めた注意事項等に「お客様がご同意の上ご注文頂いた」と
  判断させて頂いております。』
  とのこと。

 → 確かに上記「1.」に送料等が変更になることがあるとは書いてあるが、
  こうした文言さえあれば料金の一方的な変更はいくらでも認められるのだろうか?

 → そもそもネットでの少額の買い物では、購入の意思決定はほとんど
   送料に依存する。実際、この商品を買うときも、アマゾンや楽天の
   いくつもの業者の送料を見てから注文した。したがって、はっきりと
   送料が表示してあれば気付かなかったとは考えられない。
   つまり「メール便不可」とは書いたが、送料は書かかれていない上、
   注文画面ではメール便は選べるようになっているという事である。

10.楽天のカスタマーサービスのチャットにて、
   上記の一部始終に関し、楽天市場のシステムの問題として回答を求める。
   少々読みにくいが、やりとりを原文のまま紹介する。
   (ただし、プライバシー保護のため個人名や注文番号等は、担当者A、Willy, XXXXX 等と置き換えた。)

担当者A: お待たせいたしました、楽天市場の担当者Aと申します。
担当者A: お問い合わせいただきありがとうございます。
担当者A: お問い合わせ内容は以下でよろしいでしょうか?
「楽天で商品を購入した際の決済額の承認プロセスについて」
Willy: クレジットカード決済についての質問です。
Willy: 先日商品を購入したところ、代金が約400円、送料約220円で合計620円くらいの額を決済しました。
Willy: しかしながら、実際には送料が、メール便を使用できなかったため、との理由で自動的に変更され、発送後に1000円強の請求がありました。
Willy: 楽天市場のシステムにおいては、参加店舗が任意の金額を引き落とせるようになっているのでしょうか。
Willy: もし、そうでければどのような仕組みで利用者のクレジットカードの安全性は確保されているのですか。
担当者A: お知らせいただきありがとうございます。
Willy: 参考までに、加盟店(和気文具)からは差額の返金は拒否する旨、
正式な最終決定を頂いております。
担当者A: お知らせいただき恐れ入ります。
担当者A: それでは、確認いたしますので注文番号をお知らせいただけますか?
Willy: 注文番号 XXXXXX-XXXXXXXX-XXXXXXXXXX
注文日時 2014-12-DD HH:MM:SS
担当者A: お知らせいただきありがとうございます。
担当者A: 確認いたしますので、少々お待ちください。
----(中略?一部コピー失敗の可能性あり)----
Willy: 細くしたいのですが、
担当者A: お知らせいただきありがとうございます。
Willy: 捕捉したいのですが
Willy: すみません。補足したいのですが
担当者A: はい、お願いいたします。
Willy: 今回の件に関しては
Willy: 既に最終決定も出ており金額も小さいので
Willy: 結果がどうなっても構わないのですが
Willy: 一般的に、決済の安全性や公平性がどうなっているのか
Willy: という点にむしろ関心があります。
Willy: 実際に、少額の買い物においては
Willy: 送料の額が、どこで買うかどうかの意思決定に
Willy: 大きく影響していると
Willy: 考えています。
Willy: その際に、例え送料だけであっても
Willy: 加盟店が任意の金額を後から決定できるような
Willy: 仕組みがあるとすれば
Willy: 非常に問題であると思っております。
Willy: 他の大手サイトにおいて
Willy: そのような問題は今の所経験しておりません。
Willy: 今回の件に関しても
Willy: 加盟店はメール便が選べないにも拘らず、選べるように画面が設定されている不具合と主張しているのですが
Willy: 実際には、同一商品の他店舗のページをみると
Willy: メール便が可となっているものや
Willy: メール便が予め選べないようになっているサイトも存在するのです。
Willy: あくまで、楽天市場の仕組みがどうなっているのかと
Willy: 加盟店と楽天側、どちらの不備なのか、
Willy: あるいは消費者は現状を容認しなければならないのか、
Willy: という点に関して
Willy: 回答を頂きたいと思っております。
Willy: 長文失礼致しました。
Willy: 以上です。
担当者A: それでは、上記もあわせて担当部署に申し伝え、メールにてご案内いたします。
Willy: ありがとうございます。よろしくお願いします。
担当者A: 詳細の確認ができしだい、今回ご入力していただいたメールアドレス宛に、
弊社担当者よりご連絡させていただきますので、
そちらをご確認いただきますようお願いいたします。
担当者A: チャット窓口にお問い合わせをいただくお手数をおかけしたにも関わらず、
本窓口にてお力添えできず申し訳ございませんでした。
担当者A: ご丁寧にありがとうございます。
担当者A: その他、ご不明な点はございますでしょうか?
Willy: ありません。それではメールでのご返答をお待ちしています。
担当者A: かしこまりました。
担当者A: かしこまりました。
担当者A: はい、それでは、担当部署からのメールをお待ちいただけますと幸いでございます。
担当者A: このたびはお問い合わせいただき、ありがとうございました。
Willy: 了解しました。では。
お客様 が切断されました。

11.既に2ヶ月以上経過したが、結局楽天から回答は得られていない。


私は、もしはじめから426円の商品の送料が580円もかかると分かっていれば注文はしなかったし、上の業者の取引慣行がグレーであるとも思う。しかし、ネット上には信頼できる業者もあれば、できない業者もあるわけで、その点は致し方ないと考えている。

問題は、そうした玉石混淆の業者を扱う楽天側のシステムにある。そもそも、楽天やアマゾン、Yahooなどの大手サイトで多くの人々が買い物をするのは、名前も知らないサイトで買い物をするよりも安心した取引ができるというメリットがあるからではないのか。そうした大手サイトが、例え送料という名目であろうとも、消費者が承認していない額を自動的に決済できてしまう仕組みを放置しているというのは、ビジネスの根幹に関わる問題だと思うのだが、利用者のみなさんはどう思われるだろうか。


数学少年の実らぬ恋 -- このエントリーを含むはてなブックマーク



確か、高校3年生の頃のことだったと思う。

片道1時間40分もかかる遠くの高校に通うために
僕は毎朝、眠い目を擦りながら午前7時前にバス停に向かって歩いた。
そこには、いつも列の先頭で同じバスを待っている女の子がいた。
その子は前のドアからバスに乗ると、
バス中程の前向きの座席に座るので
いつも一瞬だけ目が合ったような気がする。
男子校に通っていた私は、
毎日のそんな些細な出来事から
その子のことを好きになってしまった。

その子とは帰りのバスが偶然同じになることも時々あった。

ある天気のよい日。
帰りも同じバスになったので、
バスを下りたら後ろから話かけようと決心した。

不思議な事にその子はその日だけ、
少し遠回りのはずなのに、
いつもの道ではなく、
私の帰り道をずっと歩いていく。

まさか私の気持ちに気付いているのか。

高まる鼓動。

縮められない距離。

その子は少し幼く見えたので、私はその子の年齢が気になっていた。
もしかすると中学生だろうか?
しかし、当時、数オタ(※注:数学オタクの略)だった私も
初対面の女の子にいきなり年齢を聞くほどの野暮ではない。
私はとっておきの質問を用意していた。

「ベクトルって知ってますか?」

さりげなく、
当時全員に必修だった「代数・幾何」を履修済みかどうか確認する事で、
学年がほぼ分かってしまう。
完璧な計画だった。

縮まらない距離。

「ベクトルって知ってますか?」

縮まらない距離。

「ベクトルって知ってますか?」

縮まらない距離…。












あの時、勇気が出ずに結局その子に話しかけられなかったことを、
本当に良かったと思っている。


警察官は交通違反の取り締まりでドンドン罰金を取っていい -- このエントリーを含むはてなブックマーク

久々にブロゴスを覗いてみたら、日本は交通安全週間だったのようで、大関暁夫氏の「やっぱりおかしい交通取締のあり方」がバズっていた。簡単に言えば「揚げ足とりみたいな方法で交通違反の罰金取るのはけしからん」というご意見で、かなりの賛同を集めている。

しかし、この記事やコメントを見て思うのは、逆に「普通の人の脳内と私の脳内ではこうも視点が違うのだなあ」ということだ。結論は表題の通りである。

別に、私が日本に住んでいないから取り締まりに賛成というのではない。私は米国のミシガン州に住んでいるが、この州の道路、特に高速以外の幹線道路で、沿道に警察署があるような場所では取り締まりの多さは日本の比ではない。時期にもよるが、高速を使わずに通勤すれば多い季節には行き帰り合計で一日平均10台程度のパトカーに遭遇する。おそらくその約半分は取り締まりをしているだろう。また、別の幹線道路では、スピードの出易い取り締まりスポットがあり、そこでは一年を通して、50%近い確率で取り締まりのパトカーに遭遇する。

結論にいく前に、まずは警察のダメ出しを先にしておこう。

まず交通違反の取り締まりが交通安全に資するかどうか、と言えば、はっきり言ってその効果はかなり限定的だろう。広い真っすぐな空いている道路で時速30キロ程度のスピード違反をしたところで、事故のリスクは極めて小さいし、見通しの良い誰もいない交差点で標識に従って一時停止しても、安全とは全く関係がない。看板が立っているのに、それを守らないドライバーが多いのは、それなりに合理的な理由があると考えるべきだろう。

もっと言ってしまえば、方法によっては交通取り締まりは危険を増やしさえする。私は取り締まりの多い道路ではパトカーが前方や分離帯に隠れていないか常にチェックしているので、それだけでも注意散漫になって、パトカーがいない場合に比べ危険だし、パトカーを発見した場合はいち早くブレーキを踏むので追突されるリスクも増している。また、取り締まり後は、路側帯で事情聴取が行われるために、ドライバーの注意がそがれて事故を誘発しやすいし、交通にも悪影響を与える。

さらに、仮に現状の交通ルールが理想的だとしても、それを完全に遵守させるためには警察官が取り締まるのは全く効率的ではない。スピード違反は路上や街灯にセンサーを設置すればほぼ100%取り締まることができるし、警察官を雇うよりも、センサーで置き換えた方が長期的に安く付くのは明らかである。また、交通を阻害する事もなくなる。

センサーで常に取り締まると違反をする人がいなくなって罰金が集まらなくなるから警察官がやるのでは?という推測も正しくない。センサーの稼働時間や取り締まり対象とする車のナンバーを最適化して罰金を課す方が、警察官が場当たり的に取り締まるより、はるかに罰金額を最大化しやすいからである。

それではなぜ私は、それでも警察官による交通違反の取り締まりを支持するのか?その理由は(1)警察が税金で運営されていること、そして、(2)警察業務には繁忙度の変化が激しいことだ。

まず考えてみて欲しいのは、どちらにせよ警察は税金で運営されているということだ。集めた罰金にしても、それは回り回って警察の運営費用に充てられているのと同じである。別に警察官の懐に入っているわけではない。つまり、我々市民の選択肢は「罰金を払うか、払わないか」ではなく「警察の運営費を税金で全て賄うか、罰金を充当して税金を節約するか」の二つなのだ。単純化すれば「一人一律5千円の税金を払うか、税金を払わない代わりに二人に一人の割合で交通違反を取り締まって1万円の罰金を課すか」の二択と言ってよい。私だったら、取り敢えず税金は払わずに、取り締まられないように気をつける方を選ぶ。一万円の罰金など気にしない富裕層は、危険でないと思えば違反をして運が悪い時には罰金を払えばいい。

もちろん集金額を最大化したいだけであれば、道路にセンサーを設置して、一時停止なりスピード違反なりを取り締まればいい。しかし、事はそう単純ではないように思われる。警察は、自然災害や、事故、サミット等の大きなイベント、デモや暴動などがあれば、大きな人手が必要になる一方、平常時には最低限の人員で済むという繁忙度の変化が激しい業務内容になっている。災害や事故が起ってからバイトを急募するわけにもいかないので、平時には大量の余剰人員を確保しておく必要がある。したがって、そうした予備的人員の有効活用という観点から、交通違反の取り締まりで「資金稼ぎ」をする、というのは経営方法として理にかなっている。程度問題ではあるが、例えば、業務を民間に業務委託して利益を外部に流出させるよりも、予備的人員で業務を賄った方が好ましい可能性が高い。仮に取り締まりが明白に事故の減少に結びつかなくても、ルールが恣意的でなく、比較的交通安全に資する方法で行われている限りは、市民の不利益にはならないだろう。

もちろん、大雨で事故が多発、交通が大混乱している時に「今週は交通安全週間だから」などと悠長に取り締まりをしている警官がいれば市民は苦情を入れてよいし、年中、取るに足らない交通取り締まりばかりしている警察官は社会の役に立たないので、そうしたポストは廃止すべきだ。

しかし、多くの国で行われている一見腹立たしい交通違反の取り締まりの多くは、実は警察という特殊な業務のコストを下げるのに貢献しているのではないか。


テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも
ジャンル : 政治・経済

日本の大学・研究機関には研究者向け英語支援が必要 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

先日、理研の小保方晴子ユニットリーダーが採用される際、特例として英語での公開セミナーが実施されず日本語の質疑応答だけで済まされた、と報じられた。この報道には「やはりか」と頷かされた。

1.小保方氏の不正疑惑は2つの問題に分けるべき

小保方氏の論文に様々な不正が疑われていると報じられているが、少なくとも2種類の不正があるように思う。第一に、画像を初めとする実験結果の捏造が疑われている問題、第二に、博士論文・学術論文における剽窃の問題である。これらを一緒くたにして、研究者としての資質や経験、姿勢の問題として考えてしまうと、問題の本質を見失う。

ここでは、小保方氏の英語面接問題を機会に、第二の問題に焦点を当ててみたい。確かに、少なくとも自然科学分野において第一の問題が主要であることには間違いないが、不正の有無に関して厳密に評価することはたった一本の論文でさえ極めて困難であるし、今後の予防策にしても、最終的には研究者個人の academic integrity に期待せざるを得ない側面が大きい。一方で、第二の問題については、英文執筆という技術的で日本特有の問題を含む、不正の有無をはっきりと判定できる、システマティックな対策が取れる、という点でより建設的な議論が可能である。また、この問題は、日本特有の問題を含むため一国のアカデミアの評判に結びつきやすいという点でも、注目に値する。

2.コピペの根本的な原因は何か?

小保方氏の博士論文の導入部には、米研究機関NIHのホームページにある一般的な説明を引用せずにそのままコピーした文章が見つかった。その後、私は「こうした問題は、米国のアカデミアでも一般的なものなのか?」という質問を日本人の知人から何度も受けた。

その時の私の答えは「おそらく、米国では同様の問題はかなり少ない」というものだ。もちろん、問題はどの国にもあるだろう。米国にはディプロマミルと呼ばれる偽の博士号を出す大学まで存在しているのだから、コピペ程度の問題が存在しないはずがない。しかし、私はこのコピペ問題は、基本的には科学者としての資質というよりも英語力の問題であると思っている。

例えば、英語を母語とする博士課程の院生が博論の導入部をNIHからコピペしようと考えたとしよう。全文そのままコピーしたのでは、不正検知ソフトに見つかるかも知れないし、論文の審査委員に剽窃を指摘されるかも知れず、とてもリスクが高い。一方で、複数の出所から良い部分を取ってきたり、文章を自分の言葉で置き換えたりすることなど、英語を母語とする人には大した手間ではない。つまり、そのまま全部コピペすることは、かなりいい加減な人にとっても、割の合わないリスクを取ることなる。そんな人が多いとは、とても思えないのだ。

3.日本のアカデミアはどう対処すべきか?

それでは、日本人の研究者ももっとみっちり英語を勉強すべきかというと、私はあまりそうは思わない。人が持ってる時間は有限であり、ネイティブスピーカーなら誰でも話せる英語に時間をかけるよりも、その人にしかできない研究に集中した方が生産性が高いからだ。問題となっている小保方氏の英語面接省略にしても、結果としては凶と出たが、本当に価値の高い研究者がいたなら、英語が苦手というだけで採用しないのはあまりに勿体ないだろう。

望ましいのは、日本にいる研究者が英文執筆を指導してもらえる仕組みを、大学内なり複数大学の連携で作ることだ。米国の大学ですら、大学図書館などが主体となって、研究者により良い論文の作成をアドバイスするライティングセンターが設置されているのが普通だが、日本では研究者向けのサービスは少ないようだ。英文執筆に不安をかかえる人が多い日本の大学では、こうしたサービスの効果は非常に大きいはずだ。特に、社会科学や人文科学の分野において、日本の大学の評価が全般的に高くない大きな理由の一つは、英文執筆の技術が雑誌掲載の可否を左右する、という事であろう。

「大学の研究者が "英語の先生" に英語を添削してもらうなんて情けない」などと世間には思われるだろうが、在米の日本人研究者でさえ、論文にネイティブチェックをかけてもらうのは全く珍しいことではないし、私も、例えば経済系など文章力が重要な雑誌に投稿する際にはネイティブチェックをしてもらうことが多い。しかも、実は米国にいる場合ですら、意外に "英語の先生" を探すことは難しかったりするのだ。一線級の研究者には頼みづらいし、分野外の人ではネイティブと言えども正しく直す事ができない。以前ある知人が、英文学の専門家に統計学の論文を直してしてもらったところ、とても洒落た文章になったが、レフリーから「統計学の論文は小説ではない」とリジェクトされてしまった、などという笑い話もある。結局、同じ分野の旧来の知人とか、分野が近くて比較的優秀なネイティブの大学院生を見つけて頼む、という結構面倒なことになるのである。

翻訳業者に頼む手もあるが、料金は非常に高いし、満足な結果が得られないことも多い。そもそも、書かれた文章を100%理解することは書いた人以外にはできないわけで、論文を丸投げして直してもらうのではその精度には自ずから限界があるのだ。機密保持契約はあるとはいえ、機密保持の観点からも不安がある。

それでは具体的に、どうすれば英文執筆支援の仕組みを整えられるだろうか。例えば、英語圏から博士課程の学生やポスドクを数年契約で受け入れて、勤務条件の中に、専門分野の英文指導を入れれば良い。海外の一流の研究者を日本の大学にパーマネントに招くことは非常に難しいが、博士課程やポスドクの若手であれば、金銭的な条件と十分な研究環境さえあれば、数年間来てもらうことは現実的なのではないか。

そもそも、多くの政治家や文科省の役人、そして多くの一般人が頭の中に描く大学の国際化というのは、何も、日本人研究者より一本でも論文の多い中国人や韓国人研究者に日本の大学を席巻させることではないだろう。それは、今ある日本の大学が、学問の中心である英語圏のコミュニティーと十分に連携を保てるようになることなのではないか、と私は思っている。そうした観点からは、上で述べたような仕組みを作ることは、むしろグローバル化の本来の目的に沿っているし、論文の増加を通じて日本の大学のランキングを上げることにも、もっとも直接的に貢献するだろう。


4.事態の改善を阻む、政府と大学のメンツ

なぜ、こんなに良いことずくめの改革が進められていないのだろうか。むろん、直接的には、どこから予算を持ってくるかかという問題がある。政治的には、大学の最大の顧客である学部生にあまり恩恵がないので、有権者の賛同が得にくいという面もあるだろう。しかし最大の問題は「大学の研究者が "英語の先生" に英語を添削してもらうなんて情けない」という世間体の問題ではないだろうか。「海外から一流の研究者を招聘し、世界で通用する大学へ」といったスローガンの方が「英語苦手だから米国人のポスドクでも雇ってなんとかして(泣)」というよりも、圧倒的にカッコいいし、プライドも維持できる。

しかし、地盤沈下の危機にある日本の大学にとって、いま必要なことは、より地に足が着いた政策を実施することではないだろうか。


奇抜な年賀状はやめましょう -- このエントリーを含むはてなブックマーク

海外にいることを言い訳に、ほとんど年賀状を出す事もなくなってしまった。
知人でこのブログを読んでいる方がいるならば、この場を借りてお詫びしたい。

そんな私も、実は高校生の頃は手紙が好きで、昔の数学の先生に手紙を書いたり、
遠くに住む女の子と文通したりと、結構筆まめな少年であった。

当時から他人と同じ事をするのが嫌いだった私は、
お決まりのやる気の無さげな干支のスタンプの脇に
「あけまして おめでとう」とか「今年もよろしく」なんて
書いてある年賀状が我慢ならなかった。

そこで私が高校1年生の時に出したのは、裏面が白紙の年賀状だ。
「Willy ならやりかねない。当然、故意に白紙で出したのだろう。」
とすぐに理解した友達、
「Willy のやつ手を抜きやがって!」
とキレ気味の友達、
「裏面白紙だったよ。印刷し忘れ?」
などと返事に書いてくれた生真面目な友達。
白紙にもかかわらず、反応は様々で面白かったのを覚えている。

この白紙年賀状の話題性に気をよくした私が次の年に考えたのは
特製の「両面年賀状」だ。
表裏は全く同じデザインで、上段は切手と宛先で、
下段にメッセージを書く欄を作った。
両面とも、絵はがきの宛先を書く面と同じ、と言えば分かりやすいだろうか。
当時調べた限りでは、どちらを表面と見なした場合でも
郵便のルールには抵触していなかった。
私はこの年賀状の二面に、異なる宛先を書いて発送した。
表裏どちらかの受取人にまず配達されるはずなので、
年賀状の両面に、
「最初の受取人は読んだ後でポストに投函して、
もう一人の受取人に届く様にして下さい。」
との注意書きを添えた。
一人目に届いた時には切手に消印が押されるから、
次は二人目に配達されるはずである。
ハガキ1枚で、二人に年賀状が出せる上、
一人目の受取人が二人目の受取人にメッセージを送ることもできるという
究極の「エコ年賀状」であった。

しかし、壮大な計画とは裏腹にこの年賀状は混乱を極めた。
最初の受取人なのに意図が理解できずにポストに投函しなかった友人、
受け取った年賀状をポストに投函したものの再び自分の所に戻ってきてしまった友人
が多く、当初の計画通りに配達された年賀状は数えるほどという残念な結果となった。
特に郵便局員が表裏を間違えるというのは、大変がっかりした出来事であった。

かくして「1年かけて友達の家を巡回するリレー年賀状」
という3年目の最終計画はあえなく水泡に帰したのである。


テーマ : **暮らしを楽しむ**
ジャンル : ライフ

共働きをゆるく考えよう -- このエントリーを含むはてなブックマーク


ここ数年、イクメンがどうだとか、育休を延長するとか、
共働き夫婦がキャリアと子育てをどうやって
両立して行けばいいのかの議論が盛んだ。

社会的、制度的な面に目を向ければ、
保育所の待機児童問題、産休の問題、
長時間労働の問題、子供が病気になった時の問題、
時短や残業不可などによる職場への影響の問題、
と一朝一夕には解決できない問題がたくさんあることはすぐに分かる。

こうした問題の中には、日本独特の問題もあるけれども、
それでは、共働きの多いアメリカなどと比べて
日本の育児環境の方が障害が多いかと言えば、
必ずしもそういうわけではない。

例えば、保育所の待機児童問題は日本独自だけれども、
一方で米国のプリスクールや託児所の保育料は桁違いに高いし、
私の住んでいるような典型的なアメリカの地方都市では、
午後6時半以降も子供を預かってくれる託児所は皆無だ。
また、子供との移動は車社会の米国の方が楽だが、
学校や習い事も全て送り迎えが必要な車社会は
親にとってはとても大きな負担だ。

それでは、日本で制度面や社会的な問題に対する不満が
こうもたくさん上がる理由は何なのだろうか?
私は、結局のところ、制度的な問題そのものよりも、
日本が「融通の効かない社会」「余裕のない社会」
になってしまっていることが問題を大きくしているように思う。

共働き世帯のスケジュールがタイトであるにしても、
生活がうまく回るかどうかは、普段の予定よりも
イレギュラーな事が起こった時に本人と周囲がどれだけ
柔軟に対応できるかが肝だろう。

アメリカは、制度的には子育てについて不便なところも多いが、
「子供や家族の事は大目に見よう」という社会の雰囲気が
問題を軽減しているように思う。

例えば、米国のいくつかの州には3月にグッドフライデーという
小中高校は休みになるのに大学は休みにならないという祭日が一日あるのだが、
その日は多くの大学教員が子供を連れて大学に来て、
授業にまで連れて行ってしまう人も珍しくない。
子供のいない教員も、たくさんの子供を見て、
「今日は子供がたくさん!こんな日は、大学も休みにすべきだよ。」
などと雑談しているくらいだ。
私も娘を連れて大学に行き、授業の間は知り合いの院生に頼んで
私のオフィスで子守りをしてもらった。
子供にとっても、たまには親の職場に来てみたり、
知らない大人と二人で1〜2時間過ごすという経験は
プラスにはなってもマイナスにはならないだろう。
授業に限らず、昨年夏にセミナーに訪れたゲストスピーカーは、
10歳位の娘を連れて来て、自分の講演の間同じセミナー室に座らせていた。

もちろん、そうした特殊な日に限らず日常的にも、
困った人がいたら助けようという人が多い。
先日、数日の間、どうしても夜間の授業のある日に
娘の面倒を見なければならなくなった事があった。
学科のメーリングリストで手伝える人を探したところ、
すぐに子守りをしてくれる学生や事務員が見つかったのだが、
心配した知り合いの教授(full professor!)が
「僕が見ててもいいよ!」と言ってくれたほどであった。

大学以外の多くのホワイトカラーの職場にしても、
繁忙期の残業や子供の病気の時だけでも
子供を職場に連れてきて置いておくことができれば
助かる人はたくさんいるのではないか。

ベビーシッターを頼むにしても、
ベビシッターにも予定外の事がいろいろ起こるわけで、
都合が付かなくなった際に別のプランがあるかというのは重要だ。
その時に、いざとなれば職場に連れて行けばいいから、
という手段があるのとないのとでは全然安心感が違ってくる。
オフィススペースが限られている日本ではあるが、
例えば広めのキュービクルを1つ作っておいて、いざと
いう時にはそのために使うとか、そういうユルいプランBを
作っておくというのは悪くない案ではないか。
また、普段は在宅勤務不可の職場でも、
やむを得ない事情の時は融通を利かせて自宅での仕事を認めれば良い。

そもそも今日では、
簡単な業務を除くほぼ全てのホワイトカラーの仕事はイレギュラーなものだ。
どうしても、不規則な時間帯に仕事が入ったり、
特定の時期に業務が偏ったりする。
一方で、人と会わない時間に職場にいなかったからといって、
業務に支障が出るわけではないことが多い。
朝8時に子供を預けて、9時から5時まで仕事、6時に子供を迎えに行く、
などという典型例を元に各種の制度を決めたところで、
頭脳労働者の共働き世帯にはあまり便利にはならない可能性が大だ。
硬直的な物事の考え方では、費用ばかりが嵩んでいく。

工場や単純業務が海外に移り、日本の人口は減り始め、
物理的にも日本の街にはゆとりが出てくる時代だ。
当の共働き世帯もそれを支える社会も、
共働きの子育てをもっとゆるくとらえることが、
これから多くの問題をスムーズに解決する鍵になっていくのではないか。



テーマ : 育児日記
ジャンル : 育児

ネット上の犯罪予告は有罪にすべきか -- このエントリーを含むはてなブックマーク

2000年の西鉄バスハイジャック事件や2008年の秋葉原通り魔事件など、
ネットでの犯罪予告後に事件が起った事から、警察は近年ネット上での犯罪予告の
取り締まりに躍起になっている。具体的には、偽計業務妨害、威力業務妨害と、
軽犯罪法違反といった罪に問われることが多いようだが、匿名掲示板への1件の
書き込み程度で、こうした法律の適用をすることは、果たして社会にとって
好ましいのだろうか。

言うまでもなく、犯罪予告と実際の犯罪についての組み合わせは4種類ある。
1.予告:なし、実行:なし
2.予告:あり、実行:なし
3.予告:なし、実行:あり
4.予告:あり、実行:あり

このうち、1と4は予告と実行状況が一致しているため罪の有無は明白である。
2のケースでは、結果的には対処する必要がなかったが、予告時点では
実行の可能性を否定できず、予防のために(金銭的な意味に限らず)
コストがかかるので有罪になるというのが基本的な考え方である。

しかし、実際の犯罪実行件数を減らすことが目的であると考えた場合には、
2のケースを厳しく取り締まることが果たして最善かどうかは極めて疑わしい。
予告と実行が一致しないケース2と3を、もう一度考えてみよう。

2.予告:あり、実行:なし
3.予告:なし、実行:あり

このうち、実際の犯罪抑制の観点から明らかに損失が大きいのは3のほうであり、
2を抑制する事は、3を抑制することに比べれば全く無意味だ。
例えば、あなたに対する次の2つのケースのうち、望ましいのはどちらだろうか。

2.あなたに対して掲示板で10年間、一日平均10件の詳細な殺人予告
  (計約3万件)が続くが、実際には何も起らない。
3.殺人予告は全くなく、10年後にいきなり殺される。

特殊な人を除けば、2の方が好ましいのは明らかではないだろうか。
そもそも、2を減らす事にはほとんど意味が無い事が分かる。

「そうは言っても予告自体が社会を不安に陥れるし、
予防のためのコストも馬鹿にならない」
というのが現在の警察や司法の立場なのだろうが、
私の考え方は全く正反対だ。

私は毒舌なので、学部生の頃に先輩から、
「おいWilly、お前そのうち後ろから刺されるぞwww」
と言われた事があるのだが、そのような人間としては、
犯罪予告が自由、大量に行われデータとして存在していた方がむしろ好ましい。
そうしたデータをもとに予告の信憑性を判断して予防に繋げられる可能性があるが、
そうした行為が禁止されていれば危険を予知する情報が入手できないからだ。
つまり、上の4つの分類で言えば、2を増やす事によって
3を減らせる可能性があるのであれば、
むしろその方が好ましいということである。

一般庶民レベルではそうしたデータの活用はまだ難しくても、
実際に政治家などのリスクの高い職業についている人であれば、
犯罪予告の増減によって警備体制を調整する事もできるようになるだろう。

犯罪予告が合法になれば、
どこかの企業がインターネット上で有料で犯罪予告を出来るサイトを設けて、
実行可能性の大きさを計測する事も可能になるかも知れない。
これまでの政治家は主に支持率を気にしていたが、そうしたサイトにおける
「犯罪予告件数」は政治家にとって、クーデターを始めとするテールリスク
を評価する貴重な指標となる可能性もある。

そうした情報が氾濫する世界を殺伐とした悪い世の中だと思うとすれば、
それは、情報が希少で全ての情報を解釈するのが常だった時代の意識を
引きずっていることによる錯覚なのではないかと思う。
上の例で言えば、一日10件の犯罪予告を全て自分で読む必要は無く、
究極的には、コンピューターアルゴリズムに分析させてシグナルだけを
受け取れば良い。過渡期には不十分なアルゴルズムや人々の錯覚に基づく
混乱が予想されるものの、長い目で見れば、貴重な情報が増加した社会は
現在よりも必ず良くなるはずだ。

それでは、なぜ警察や検察、司法は犯罪予告に対して極めて厳しい態度を取るのだろうか。
それは、上で述べたように情報が希少だった時代の錯覚や、情報処理能力の低さに加えて、
そうした組織が官僚組織であることに起因しているように思う。

上記の分類の3と4の違いに着目してみよう。

3.予告:なし、実行:あり
4.予告:あり、実行:あり

冷静に考えれば損害は3と4では対して変わりがないが、
警察にとってはこの二つでは意味が全く異なる。

すなわち、3のケースが「未然に防ぐ事が不可能な事件」として
お咎め無しとなるのに対して、4のケースでは「なぜ警察は
未然に防げなかったのか」とされて大問題になる。
したがって、それを防ぐためのコストを過剰に掛ける必要性に駆られる。
もし、ネット上の書き込み一件程度の予告で警察が糾弾されるとすれば
それは一般市民の錯覚による見当違いだと思うが、そうした固定観念が
変わるのには何十年という時間がかかるものである。

つまり、警察にとっては、実行件数を抑えることはもとより、
予告件数を抑えることにも極めて大きなインセンティブが存在しているのだ。
警察が一般市民の「安心感」を向上させるための組織である以上、
こうしたジレンマは避けられない。

かくして、2ちゃんねるに
「○○小学校の前で小女子(編注:食用魚の名前)を焼き殺*す」
と書き込んだだけで懲役1年6ヶ月になる、
というような不思議な判決が下されるのであろう。

現在の状況が、市民の情報リテラシーの低さと制度の不備から発生している以上、
警察や検察、司法だけを責めることはできない。
より良い情報社会を作るためにはまず市民一人一人が意識改革し、
そうした組織の方向性を変えてゆく努力が必要になるだろう。

それでは、コメント欄に私に対する犯罪予告をどうぞ ↓
(注:私は通報しませんが、第三者による通報は止められません。あしからず。)




テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

子持ち学生カップルを応援しよう -- このエントリーを含むはてなブックマーク

昨年から今年にかけて、私のまわりではずいぶんと
子供が生まれた、あるいは、子供が生まれる予定であるという話を耳にした。
日本人の知り合い、米国人の知り合い、その他の国の出身者と
バックグラウンドは様々だ。

日本にずっと住んでいる方には少し意外かも知れないが、
結構多いのが、博士課程在学中の2〜3年目あたりで
子供が生まれるというケースである。
私の娘も、博士課程2年目に生まれたし、
大学院時代の知り合いにもそういう人が多い。
日本人の場合は、夫が博士課程在学中というケースが殆どだが、
他国の人を含めると、女性の方が修士課程や博士課程在学中に、
というケースも結構多い。

日本の感覚で言うと、仕事も決まっていないのにという気分にもなるが、
最終的に子供が欲しいと思うなら、
時間のある院生のうちに子供が生まれた方が触れ合える時間も多いし、
卒業する頃には子供も大きくなっているのでいろいろと融通が利く。
最終的に子供が欲しいという前提の下でよく考えれば、
進学前や在学中に結婚して、在学中の一番余裕のある時期に子供を、
というのが最適解なのだろう。
米国では、大学院生が社会人に近い存在と見なされていることも大きい。

翻って日本の状況を見ると、
学生結婚や学生のカップルが子供をもうける事に対する世間の目は
まだまだ冷たいように思う(私自身が少し保守的なのかも知れないが)。
特に女性にとっては出産に関する時間的な制約がタイトなこともあり、
このことが、女性の大学院進学を妨げる一因になっているのではないか、
と思うほどである。

こうした日米の雰囲気の違いは、
誰が何をやっていても気にしない米国社会と
同調圧力でなりたっている日本社会の差も大きいが、
もう少し具体的な違いもあるように思う。

国土の広い米国では、
大きな大学を中心に学園都市が形成されているところが多く、
様々な場所から引っ越してきた人が集まってできているそうした
都市は開放的な雰囲気になる。
そのため、どんな人でも世間体をあまり気にしなくて済む。
また、家族用の大学寮や、在学中の家族が多く住むアパートがあるため、
家族持ちの学生も社会との一体感を保ちやすい。

一方、日本の一流大学の大半は大都市に集中しているため、
少数派である子供のいる学生カップルは疎外感を感じやすく
心地よい空間が社会の中にあまりないのではないか。

大学院進学者に限らず、晩婚化が長期的な少子化傾向の原因となっている中、
日本でも、学生カップルが子供を作りやすい環境を整えることはできないのだろうか。
社会の仕組みや、人々の意識、地理的な違いを一気に変える事は難しいが、
やれることはまだまだあるように思う。

もちろん、経済的な問題は一番大きいだろう。
米国でも大半の博士課程の学生は貧しい生活を送っているが、
少なくとも学費を免除してもらった上で、
最低限の生活をするだけの賃金を受け取っているのが普通だ。
文部科学省は、他国からの留学生に奨学金を出している余裕があるのなら
まず日本人の大学院生が独立した生計を営めるようにすべきだろう。

また例えば、研究大学が集中する東京や京阪神などの地域に、
国が少しばかりの補助金を投入して、
家族持ち学生用の借り上げアパートなり寮なりを設置してはどうか。
激安でなくても、民間のアパートなど、他の住居に比べて割安で
入居希望が十分に集まる家賃水準であれば良い。
(実際、米国の大学寮の家賃は、民間対比でわずかに安い程度である。)
少数派の学生カップルも立場の近い人たちと接することが出来れば、
社会との一体感を感じることができるだろう。

大学内の託児所に関しては、近年かなり開設が進んでいるようだ。
東大本郷キャンパスでは2008年、慶応大日吉キャンパスでは2009年、
早稲田大学では2011年に、大学内の託児所が開設した。
いずれも、教職員だけでなく全ての学生が施設を利用できるようだ。
こうした動きを見ると、大学で学びながら子育てをするのが
当たり前の社会は、もうすぐそこに来ているのかも知れない。

子供をもうける学生カップルは少数なので、
こうした施策でマクロの出生率に大きな影響が出るほどの効果は
上げられないかも知れないが、
社会が結婚や子育てに関して多様な価値観を認めることは、
これから子育てをする若者に対して良いメッセージを送ることができるだろう。

政治家の方達には、育休3年間などという無茶な政策を打つ前に、
もう少し柔軟に子育てのあり方を考えて欲しいものである。


テーマ : 子育て・教育
ジャンル : 学校・教育

オンライン授業は教育を変えるか -- このエントリーを含むはてなブックマーク

1.オンライン教育の現状

先日、ミシガン州内の別の大学の教員が数学科を訪れて、
オンライン授業を行うことの論点について簡単な講演を行った。

米国の大学でも教室を使う従来型の授業が大半を占めるが、
一部の講義をオンラインで行うことは、
実質的に学科単位の末端レベルの意思決定によって一般的になってきている。
数学科でも、いわゆる教養科目の中にオンライン化された授業がある。

実験を伴う分野ではオンライン授業は難しいだろうが、
人文系、社会科学系、数学系などの分野は
オンライン授業に向いていると言えるだろう。

オンライン授業というと録画された講義を見るだけ、
というようなイメージが先行しがちであるが、
実際には様々なタイプの授業がある。

双方向のコミュニケーションを重視するアメリカでは、
全ての学生が自宅でヘッドセットをつけて、学生が質問したり、
教員が学生に意見を求めたりすることができる状態で
授業をするというような授業も一般的に行われている。
「オンライン授業」というよりも「テレビ会議」という言葉の方が
その様子をしっかり表しているかも知れない。

こうした授業では、従来のオンライン授業のイメージとは
異なる問題がいろいろと起こっている。

例えば、録画あるいは衛星中継した授業を見せるだけであれば、
教室の大きさという制約が無いため
一度に多くの学生を受け入れることがメリットとなるが、
双方向型のオンライン授業では
顔が見えないことがコミュニケーションの制約になるので、
教室での授業よりも受け入れ可能な人数が少なくなるという。

双方向性の弱いオンライン授業では、
学生による教員評価が厳しくなると指摘されており、
オンラインには物理的なメリットがある半面、
従来と同じ質を維持するためには
教室での授業よりもコストを払わなければいけない側面もある
ということだろう。

また、録画されたビデオを見るだけなら手軽で便利ということになるが、
学生と会話したり、授業中に学生に問題を解かせたり、
ということになると、
教員も学生も機器の操作にそれなりに
習熟しなければならないという点も問題となる。

また、英語圏の大学等では世界中から学生が集まるため、
オフィスアワーの時間設定が問題になったり、
同じ時間に試験を行う事が困難になるという問題もある。


2.大学の授業をオンラインで行うことの問題

しかしこうした問題はむしろ小さな問題で
何よりも大学側が心配しているのは、
オンライン授業で不正に単位を取得する学生が
出てくるのではないかという懸念である。

大学入学が比較的易しい一方で
学位取得による社会的なメリットの大きい米国では、
ディプロマ・ミルと呼ばれる不正に学位を発行する大学の
存在が問題となっている。
顔の見えないオンライン授業であれば出席は問題にならないし、
小テストや期末試験の際には、カンニングをしたり、
家庭教師を雇って一緒に受けることが出来てしまう。
名の通った大学も一夜にして
ディプロマ・ミルになってしまうリスクがあるのだ。

そのため大学側は慎重を期して、試験だけは大学の教室で行うという、
やや本末転倒な仕組みをとったりしているのが現状である。

こうして状況を見ていくと、
オンラインのコンテンツというのは本質的に、
単位や資格を与えたり、何かを権威づけたりすることには
向いていないのであろう。

10年前、MITは Open Course Ware にて多くの授業を
オンラインで無料公開して世間に衝撃を与えた。
また昨年には、プリンストン大、カリフォルニア大バークレー校、
ミシガン大、ブリティッシュコロンビア大、ロンドン大、香港科技大、
エコールポリテクニークなど世界の名だたる大学が
Coursera を設立してやはり同様の無料公開を行った。


一流大学の授業を世界中どこからでも無料で見られるということは
間違いなく大きなイノベーションだった。
しかし Open Course Wareから十年経った今も、
従来の大学の姿にあまり大きな影響を与えていないのは、
やはりオンラインで何かを権威づけることの難しさを表している。

もちろん、教員と全ての学生があたかも教室に集まるのと同じように
オンラインでつながることが出来れば、大学は変わっていくだろう。
しかし、そのためにはまだ色々な面で時間が必要だということだ。


3.オンラインの普及が見込まれる分野

一方で、米国の大学の授業以外で、オンライン授業が極めて有用で、
爆発的に広がってもおかしくないと思う分野もある。

(1) 学生側の学習意欲が高い分野

学生側が、単位のためではなく自分のためにどうしても授業を聞きたい、
という場合にはオンライン授業は好都合だ。
例えば、上で述べたMITの授業を純粋な知的好奇心から受けたい場合
などもそれに当たるだろう。

最も適していると思うのは、大学受験や資格試験対策の塾の授業などだ。
これは、資格取得や認定の部分をアウトソースしてしまっているので、
学生の評価そのものをする必要がなくなるからである。

日本では、地方と都市部の情報格差は依然として大きいが、
オンラインはこうした格差を急激に縮小させるだろう。
そのうち、地方からの難関大学合格者数がもっと増えるかも知れない。

ただし、ビジネスとして成立するためにはハードルもある。
モチベーションが高すぎれば、大勢で授業料を折半して申し込み
大画面を使ってみんなで見る、ということに成りかねないためだ。
即ちオンラインの問題は「場」を管理できないということにある。

(2)地域内の需要が小さすぎて講義が成立しない分野

非常に専門細分化した学術分野の授業や、
分野を絞ったニッチなビジネスに関するセミナーなど、
物理的に一カ所に十分な人数を集められないケース、
一堂に会することが難しいケースでは、
オンラインによるメリットは当然ながら大きい。

(3) 形式的に授業だけすればいい分野

日本の有名私立大学の文系学部などでは、
入学が難しく単位取得が易しいという仕組みになっているため、
授業の履修そのものをあまり真剣にチェックする必要はないかも知れない。

そうした状況では、単にコストや手間を削減したいという理由で
一方向型で廉価なオンライン授業を
大学が推進するということはあり得るだろう。
教育の更なる退廃を生む原因ともなりうるが、
オンラインであまりにもやる気の無い授業をすることには
教員も抵抗があるだろうから、
案外授業の質が改善するかも知れない。



このように、現状では
オンラインによる教育はまだまだ試行錯誤の段階だ。

いつの日か、ハワイや沖縄のビーチの見える部屋から
全ての授業が出来るようことを楽しみに待ちたいと思う。


使い道が見当たらない Kindle Fire -- このエントリーを含むはてなブックマーク

先日 Kindle Paperwhiteレビューを書いたが、
実は Kindle Fireの方を前から持っている。
というのも、すぐ近くにある銀行の口座開設キャンペーンがあり、
8月の終わりにタダでもらったからだ。
(したがって持っているのは一世代のモデルである。)
それで使い勝手はどうかというと、
タダだったので個人的にはあまり文句はないのだが、
はっきり言って使い道があまり見つからない、
というのが正直な感想である。

思いつく使い道は、
電子書籍の閲覧とアマゾンやオンラインストアでの買い物くらいで、
あとは暇つぶしのゲームをするくらいだろう。
基本的に何をするにも中途半端で、
アマゾンが通販カタログ代わりにタブレットを安値で
売りさばいているというのが実態だろう。

米国はほとんどのカフェに無料Wifiがあるため
軽いネットサーフィン用に日本よりは使い道があるが、
それでもサンクスギビング以降は
特売をして販売をテコ入れしている程である。
一方のPaperwhiteは、定価のままで、
待ち時間はだいぶ短くなったものの依然として
1週間のバックオーダーとなっている。

以下、用途別に感想を書いてみる。

1.電子書籍端末として

Paperwhiteに対する優位性があまり見当たらない。

Paperwhite と Fire の一番の違いは、
前者がマットな感じで見やすいのに対して、
後者は基本的にテカテカしているということである。
Fireは画面の移り込みも大きいし、
指紋など画面の汚れも気になりやすい。
また、Fireの方が画面は大きいが、
縦横比が異なるため横方向のサイズはほぼ同じで
解像度に至ってはFireのベースモデルはPaperwhiteにも劣る。
重さもFireの方は約2倍あり、
感覚の言えば文庫と単行本くらいの違いがあると言って良い。

カラー液晶はFireの特徴の一つだが、
残念ながら写真の多い雑誌を読むほどの解像度や
画面の大きさではないので実際にはあまり意味がない。

2.インターネット端末として

Paperwhiteでネットサーフィンは
ほぼ不可能と言って良いレベルなので、
それに比べれば格段に使いやすい。
一方で、デフォルトのままでは動かないコードも結構多いことも事実だ。
テクニカルには解決可能なのかも知れないが、
そもそもタブレット端末がライトユーザー向けである以上
これは問題だろう。

また、ここでも動画に合わせた16:9に近い縦横比は使いにくい。
例え解像度が高くなっても、文字の大きさの問題もあるし、
指でタッチパネルを操作する際には物理的な大きさが
大きな制約になる。
Kindle Fire HDはかなりハイスペックのようだが、
こうした物理的な制約を考えると、
iPadよりもずっと使いにくい端末なのではないかと思う。

そして、起動が思ったほど速くないのも予想外であった。
私は普段、Macbook Airを使っているのだが、
実は、Kindle Fireを立ち上げるより、
Macbook Airでウェブを閲覧する方が早い。

3.通販カタログとして

結局のところ、アマゾンの狙いはここなのだろう。
Paperwhiteでも書籍購入にはあまり不便はないが、
日用品、家具、電気製品、食品などはやはり
カラー画面のサクサク動く端末で選びたい。
Kindleがリビングに置いてあれば、
アマゾンは商売をかなり有利に進められる。
むしろKindle Fireは消費者が買うというよりも、
消費者に「配る」べきものだし、
実際アマゾンは最低限のコストでそれを販売している。

ヤマダやヨドバシなど大手家電量販店は
キンドルを販売しないことにしたらしいが、
私にはそんなことで何ら事態が改善するようには思えない。
そもそも製品の性質からして、
実店舗で販売していないということは
キンドルの販売に全く影響を与えないだろう。

興味深い事は、キンドルはブラウザを持っているので
楽天やヨドバシカメラ、ヤマダ電機で買い物を
することも問題なくできるということである。
しかも、アマゾンはキンドルのsilkブラウザによって
キンドル経由の全ての通販会社へのアクセスや売り上げを
消費者の個人情報付きでリアルタイムで
全て入手することができる。
アマゾンと他の小売業者の関係を戦争に例えるなら、
アマゾンは敵軍の兵士にGPSとマイクロホンとスピーカーを
取り付けているようなものである。
しかも費用は敵軍の兵士持ちなのである。

その上、アマゾンがその気になれば、
kindleから楽天やヨドバシドットコムなどのアクセスを
遮断することさえ、一瞬のうちにできてしまう。

そう考えていくと逆に
Kindle Fireには「使い道が無限にある」のである。



テーマ : マーケティング
ジャンル : ビジネス

中国人とどう付き合うか -- このエントリーを含むはてなブックマーク

尖閣諸島で揉めている日中の感情的対立は過去最高の水準に達している。
一方で、経済的な日中の結びつきも過去最高に達しており、
これから日本人が中国人とどう付き合うかは大きな課題だ。

私のやっている統計学は、おそらく中国人の比率が最も高い学術分野の一つで
北米の国際学会でさえ、中国人や中華系の参加者の数は全体の半数に近い。
そして私が5年間学んだW大M校の統計学科は、伝統的に中国人が多く、
博士レベルのコースを取れば、中国人が8割超ということも珍しくない。
アドバイザーや研究室の仲間もみな中国人だったし、
一緒に働いた中国人、指導した中国人も数多い。
娘の学校の知り合いにも中国人は何人もいる。
北米に来た8年間で中国人の知人は50人近くに達するし、
これからも彼らと一緒に仕事をしていくことは避けて通れない。
そこで、私は香港を除けば中国に行ったことはないけれども、
米国での経験をもとに
中国人は個人レベルの付き合いでどう振る舞うのか、
そして日本人は中国人とこれからどう付き合って行くべきか、
ということを少し書いてみたい。


まず、一番言いたい事は、
中国人は非常にフレキシブルである、ということである。
これは英語の掲示板で「日本人は賢いんだけどフレキシブルではない」
とアメリカ人が書いているのを読んで明確に意識したことだ。
あるいは批判的に捉えたいならば、ご都合主義と言っても良い。

例えば、大学で授業を教える際にも、
外国人の講師にはいろいろなこだわりがあるのが普通だ。
多くの国の数学教育は少なくとも修士までのレベルにおいて
米国より優れていると思うし、米国でも自分のスタイルを
通したいという意識が働くせいだろう。
フランス人は自分達の教育方法に自信を持っているし、
日本人やベトナム人なども、控えめながら自分たちの
やりかたに固執しているように見える。
一方で、中国人は一般的にそうした方法論についてこだわりがない。
米国人が好む方法で文句を言われないならば、
それでやっておけば良い、というスタンスを取る。
彼らは基本的に教育に熱意も関心も薄い場合が多いように感じるが、
それでも投入した労働量の割りには
問題の発生を比較的抑えているように思える。

日本に密接な問題を考えてもそうだ。
中国は国を挙げて反日教育で子供を洗脳し、
反日デモでは日本車が焼き討ちにあっているにも拘らず、
どうしてあれだけ日本製品が売れているのか考えたことがあるだろうか。
これは、それだけ彼らがフレキシブル、あるいはご都合主義である
ことを示している。
もし逆の立場だったら、日本人は中国製の車など決して買わないだろう。
実際、米国や欧州でこれだけ売れている韓国車や韓国の電気製品が
日本ではいまだに苦戦しているというのは、
根強い嫌韓ムードの感情や社会的圧力によるものが大きいだろう。

そうした点を鑑みると、
中国人の反日感情が強いからといって
全ての交流を諦めるのは良策ではないということだ。
特に個人レベルの関係においては、
まずは友好的に歩み寄り、それが上手く行かない場合は
善後策を考えるというスタンスが良い。

状況をこじらせているのは、
中国人はもともと他人に対して愛想が悪い人が多いということだ。
これは文化的な面が大きいのだろう。
そして、個人差はあるものの全般的にいってマナーも良くない。
これは発展途上国としての側面を考えると致し方ない面もある。
しかし一旦親密になれば、親切な人も結構多い。
感情的には少し不愉快かも知れないが、
初めは日本人から友好的に語りかけるしかないという面がある。



もう一つ大事だと思うことは、
中国人は上下関係や立場を非常に重んじるということである。
大学院時代も、個人差はあるものの
中国人の上級生、同級生、下級生の私に対する態度は全く異なったし、
中国人学生が教員としての私に接する態度は更に異なる。
また教員同士の人間関係においても、
ランクの高い教授と後から入って来た助教では
私に対する接し方が傾向としてみれば全く異なる。

私は院生時代に学科長に頼んで非常勤講師をやったことがあり、
その時に二人の中国人TAがついたのだが
そのうち一人のTAは非常に問題があった。
真実が一つしか無い数学のような分野においても、
複数の定義や記法がありうる場合にはTAが講師に合わせなければならない
ということは明確にルールとして決められているのだが、
彼女は自分で勝手な方法で教えて学生を混乱させ、
命じられた仕事も、勉強が忙しいから、とか面倒だから、
というような理由で断ったりしたのである。
これはもちろん、彼女の人格的な問題に起因するところが大きいと思うのだが、
その話を聞いた韓国人の友人の解釈は異なっていた。

「彼女は、WillyよりもTAを長くやっているでしょ?
だから自分のやり方でやっていいと思ってるんだよ。
もう一人のTAは新入生だから真面目で一生懸命でしょ。」

というのだ。
(ちなみに、このケースでは私の方が年齢と在学年数は上であった。)

中国人は上下関係を決める上では、
他の国ではやってはいけない方法で中華文化を持ち込むことが多くある。
例えば、米国では姓を呼び捨てにすることはマナーの上であり得ないが、
「中国人で目上の立場にある人」というケースに限っては、
姓を呼び捨てにしてくることがある。

例えば、韓国は年齢による上下関係が非常に厳しい社会だが
韓国人は米国社会においてはそれが通用しないということを知っているので
他の国の人に対しては年齢によらず同じように接しようと努める。
インドは厳しいカースト制を持つが、例えば外国人との交際
に際してはあまり拘らないことが多いようだ。
しかし、多くの面でフレキシブルな中国人も、
どうやら上下関係の肌感覚という点では
他の文化の人に対して、非常に違和感のある振る舞いをしてしまうようだ。

現在の日中の経済関係を考えると、どちらの国においても、
日本人が中国人上司の下で働く状況は、
その逆のケースに比べて圧倒的に少ないだろう。
しかし、そうしたことになった場合は注意する必要がある。
それが中華文化の圏外であれば、譲れない一線を強く主張する必要があるし、
中華文化の圏内であれば、より難しい対応を迫られるだろう。



政治的に「反日教育をするすぐ隣りの大国」が日本にとって
やっかいな存在であることは間違いないが、
これだけグローバル化した世界において
日本人が中国人と付き合わずに済むということはあり得ない。
彼らが持つネットワークに食い込むことは極めて重要だ。

多くの問題を抱える国の国民と仲良くするのは簡単ではないが、
例えば日本に住む中国人の中には
少なくとも日本が大嫌いな人は少ないだろうし
日本語を話せる人も多いだろう。
まずは、難易度の低い彼らともう少しコミニュケーションを
とることからはじめてはどうだろう。


テーマ : 中国問題
ジャンル : 政治・経済

カスタマー・ハラスメント -- このエントリーを含むはてなブックマーク

日本に一時帰国して1ヶ月になるが気になることの一つは、
飲食店などにあまりにも態度の悪い顧客がいることである。

1.地元のマクドナルドにて:

ヤンキー中学生3人「(席から)ねえ、ちょっと、水3つ!」
店員「かしこまりました!」

ヤン「ちょっと!水まだなの?」
店員「はい、ただいまお持ちします!」

店員「お待たせ致しました!」
ヤン「おせーんだよ!」
店員「申し訳ございません!」


2.新宿のラーメン屋にて:

おっさん「中華風ラーメンと餃子!」
店員A「かしこまりました。」
おっさん「大盛りにして。」
店員A「はい。半ライスがサービスになりますが、お付けしますか?」
おっさん「いらねえよ!チャーシュー何枚入ってんの?」
店員B「3枚です。それと別の種類の肉も何枚か。」
おっさん「ふーん。」

(約1分後)

おっさん「このラーメン、玉子はいってんの?」
店員B「入っておりません。」
おっさん「じゃあ、追加して。」
店員B「かしこまりました。」

(約1分後)

おっさん「おい、メンマは入ってんだろうな?」
店員B「中華風は入っていないんですが…。」
おっさん「ラーメンにメンマ入ってないってどういうことだ!」
店員B「申し訳ございません。」
おっさん「俺この前、喜多方行ってきたけど、ラーメンはメンマ入ってたぞ!」
店員B「申し訳ございません。」
おっさん「メンマ入ってないラーメンとか無いだろ!」
店員B「申し訳ございません。」
おっさん「メンマ追加して!」
店員B「かしこまりました。」

(約1分後)

おっさん「おい、ワカメ入ってんの?」
店員B「ワカメは入っておりませんが。」
おっさん「おい、何にも入ってねえじゃねえか!ラーメンって、麺だけか?」
店員B「中華風は、キュウリとチャーシューと…。」
おっさん「ねぎは入ってんの?」
店員B「入ってます。」
おっさん「じゃあ、ネギ大盛りで!」
店員B「追加トッピングだと料金かかってしまいますが…。」
おっさん「たくさん頼んでるんだからサービスでつけとけよ!」
店員B「かしこまりました。」

(約1分後)

おっさん「何でも追加してたら、すげー高くなっちまうじゃねえか!
     いくらになったか計算して。」
店員B「ただいま係の者が計算しますので。」
店員A「1510円です。」
おっさん「ん…?おい!計算したら1570円じゃねえか!おまえ60円損すんぞ!」
店員B「申し訳ございません。」
おっさん「客に値段教えてもらうって、この店どうなってんだよ!」
店員B「申し訳ございません。」
店員A「数字を読み間違えました。申し訳ございません!」

(数分後)

店員A「お待たせいたしました。中華風ラーメン大盛りです。」
おっさん「うん。ウマイ。」
店員B「ありがとうございます!」


態度の悪い顧客がいるのは、必ずしも
日本人のモラルが低下したせいとも言い切れない。
実際、応対している店員も大半が日本人だからだ。

つまり、日本は商売する側が顧客の振る舞いを何でも許容する事で、
働く側には不必要にストレスやコストがかかるようになっている。
一見、負荷がかかっているのは働く側だが、結局のところ、
顧客満足度を向上させるためのコストは顧客に跳ね返ってくる事も多い。

また、そうした社会の仕組みは、働くのを嫌がったり怖がったりする若者が増える原因や、
労働者世代と引退世代が対立する火種にもなっているだろう。

確かに、アメリカのように誰もが体面を気にして苦情を言わず
サービスレベルが低下してしまっては困るが、
お金を払う側がもう少し譲歩すれば、
日本はより良い国になるのではないだろうか。


テーマ : これでいいのか日本
ジャンル : 政治・経済

ニュースの読み方:関越道バス事故 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

世の中には二つの利害が対立していることが多く、
そのせいで、良い悪いは別として世の中の仕組みはなかなか変わらない。
ただしこうした綱引きにはいくつか例外がある。
一つのパターンが、何かをきっかけに一方のサイドの立場が弱くなる場合だ。
そうした時には、雪崩を打ったように一気に世の中の仕組みが変わる。

今回の関越道バス事故はその一つとなるだろう。
ご存知の通り、ゴールデンウィークに入って間もなく、
関越道でバスの事故があり7人の方が亡くなった。
この事故が悲しい出来事であることには変わりないものの、
日本では年約4800人(2010年警察庁調べ)、
つまり毎日約13人の方が交通事故で亡くなっている。
新幹線や鉄道の事故は滅多に起こらないため、
その大半が自動車やバイクの事故によるものであることは
暗黙のうちに誰もが知っているはずだ。
今回の死者は毎年亡くなる人数の0.1%に過ぎない。

バスの運転手はスケジュール的に厳しい勤務であったようだが、
運輸業従事者の勤務実態として常軌を逸していたかどうかの判断は難しい。
しかし、その判断がどうなったとしても
今回の事故を各関係者なりに総括すると次のようになるだろう。

鉄道・航空会社:
(これを機に長距離バスを規制強化して鉄道・飛行機の需要を拡大したい)
→ 「過酷勤務だ!勤務条件を改善しろ!」

バス運転手:
(これを機に労働条件を改善して欲しい。)
→ 「過酷勤務だ!勤務条件を改善しろ!」

官僚:
(もう一度似たような事故があれば責任問題になる)
→ 「過酷勤務だ!勤務条件を改善しろ!」

一般市民:
(もし自分が乗っていたらと思うと心配だ)
→ 「過酷勤務だ!勤務条件を改善しろ!」

マスコミ:
(市民も官僚も規制強化賛成なら便乗しない手はない)
→ 「過酷勤務だ!勤務条件を改善しろ!」

バス会社:
(今は逆風。大人しくしているしかない)
→ 「分かりました。改善します。」


通常時であれば、安い利用料金を享受している一般市民と
バス会社が規制強化反対の声を上げるだろうが、
これだけ大々的に犠牲者が出ている中で声を上げるのは難しいだろう。

労働条件改善派が世論を見方につけたければ、泣いている遺族の映像でも流して
「規制強化反対論者は、強欲なバス会社のために尊い命が犠牲になっても良いのか!」
とでも言えば、9割の人は「そうだそうだ」と賛成してくれるだろう。

乗り合いバス市場は2002年に運賃許認可などの点で規制緩和され、
高速ツアーバス連絡協議会によると、データのある2005-2009年の
4年間だけで20倍に増えたという。
各関係者の思惑を考えると、こうした流れが
ここで逆流をし始める可能性はかなり高いと言えるだろう。

一人の運転手の一瞬の居眠りが世の中を変え、
5年後には新幹線並みの値段の高速バスが走っているかも知れない。
社会とは本当に予測不能で儚いものだ。


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テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

日本で働くこと、米国で働くこと ―― 時間感覚と就労意識 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

僕が米国で働いているのは、米国で仕事が見つかったからであり、
それ以上でもそれ以下でもない。
しかし、どうして英語もロクに話せない自分が米国で働いているのだろう
と更に考えるともう少し抽象的な答えに行き着く。
それはアメリカ社会の時間や不確実性に対する感覚が
自分に割と合っていたということだ。


答えの糸口は小学生の頃にさかのぼる。
僕は、モーレツサラリーマンと専業主婦という典型的な昭和の家庭に育った。
そして今でも強烈な記憶として残っているのは、子供の頃、
自分の両親の生き方をどうしても自分と重ねられなかったことだ。

子供というのは大人から見ると一見能天気なように見えて
いろいろなことに悩んでいる。
友達、親、兄弟、先生といった人間関係は
自分では全くコントロールできないし、
将来自分がどうなっていくかということは想像もできない。
子供は圧倒的な不確実性の中に生きていて、
それが逆に生きているということの証でもある。

しかし、子供の僕から見た両親や世の中の大人は全く違って見えた。
父親は朝から晩まで一所懸命働いていたし、
母親は今の主婦より一所懸命家事をしていたと思うが、
大変だけれどもそこは完全な予定調和の世界であって
大きな不確実性も悩みも何も無いように思えた。
就職をし、結婚した時に一生の全ての予定はほぼ決まり幸せな人生を送ることができる。
悩むのは、どんな家に住もうか、どんな車を買おうか、どこに旅行に行こうか、
といった極めて形式的な事だけだ。

僕は自分がそういう大人になることが信じられなかったが、
同時に、それが大人になるということなのだ(!)と信じていたし、
そうした安定した状態をとても羨ましくも思った。
中学、高校、大学、社会人と自分が年齢を重ねていく中で、
人生の見通しが立つということに恐怖を感じつつも
大きな期待も持っていた。

しかし、めでたく就職して働く中で徐々に分かってきたことは、
僕にとっては、残りの人生で何をしていこうか、
という悩みの大きさがちっとも変わらないことだった。
自分の年齢が小学生だった頃の自分の両親に近づいて行く中で、
生きるということに対する感覚は
小学生の時の自分と大して変わらないままだった。
自分はアダルトチルドレンなのではないかと疑う事もあるが、
とにかく、自分にとってはこの先の何十年にもわたる人生の計画を
決めてしまうということが感覚として不可能なのだ、
ということが分かってきた。
結果として、同じ仕事をずっと続けるかもしれないし、
どこかでまた別の事をやりたくなるかも知れない。
確かに仕事に連続性は必要だが、
連続していることと固定していることは別問題だ。

そういう人にとって、アメリカは日本よりも断然住みやすい。
アメリカ社会は非常に不確実で、
日本のような安定した社会に比べて割に合わないと思う事も多いが、
結局、今後の事を固定する恐怖が不確実性に対する恐怖を上回ってしまう。

僕は、昭和的な安定した人生が良くない、と言っているわけでは決してない。
正直言って、僕は両親が安定した人生を送ってくれたことに感謝しているし、
自分もそういう人生を送る事ができたら幸せだっただろうとも思う。
自分は娘に、両親が自分に与えてくれたのと
同じだけの安定や贅沢を与えることはできない。

言いたいのはそういうことではなくて、
生まれ持った時間や不確実性に対する感覚というのは簡単には変えられないということだ。
傾向としては日本人は安定した人生を送るのに適した性格の人が多いと感じるが、
そうではない人もたくさんいるはずだ。
幸い、今の日本はいろいろな時間やリスク感覚の人に対応したキャリアが存在しているし、
海外で働く事に対する敷居も下がってきている。

職業やキャリアパス、働く場所を決める上で、
それが自分の時間や不確実性に対する感覚に合致しているかということは、
仕事の内容とともに、とても大事だ。


テーマ : 仕事
ジャンル : 就職・お仕事

海外から振り返る3・11 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

東日本大震災が起こってから間もなく1年になる。
亡くなった方のご冥福を改めてお祈りするとともに、
いまなお震災による被害に苦しんでいる方には
前向きに頑張って頂きたいと心から願う。
今日は、海外に住む日本人から見た3・11について書きたい。

1.全ての関心は日本に

震災は米国時間では金曜日の未明に起こり、
金曜日から春休みでハワイのカウアイ島に行く予定であった私は
インターネットニュースで震災のことを知った。
大きい地震ではあったが、
震源が比較的地震に強い東北地域であったこと、
また、取引中であった東証に大きな混乱がなかったことから、
被害は限定的なのではないか、
というのが最初の印象だったのを覚えている。

空港に行くとニュースでは津波のことを大きく取り上げており、
ロサンゼルス空港につくと日本の報道関係者が、
日本行きの便に乗れなくなった人を探して
インタビューをしていた。
ハワイのコンドミニアムに連絡すると、
津波の危険があるので一晩閉鎖して全員避難しているという。
幸運にも中西部の雪による飛行機の遅延で
ロスで一泊足止めを食らったため混乱に巻き込まれずに済んだ。

ハワイに着くと、ニュースは震災と津波、原発事故一色で
その重大さに気付き、部屋にいる間はテレビに釘付けになった。
震災一色だったのは最初の4~5日だっただろうか。
その後も関連ニュースは多く流れたが、
リビア関連のニュースなども増えるようになってきた。


2.日本と感覚がずれはじめる

1~2週間ほど経つと、
主要な問題が原発事故であることが明白となり、
エネルギー供給問題と温暖化CO2削減問題に影響が出るだろう、
ということが分かって来た。

CO2削減問題に注目している人はいるだろうかと検索すると、
(確かブルームバーグが)
日本が京都議定書に対するのモラトリアムを要求するのでは
という記事を配信しているものの、日本発の記事が無い事が
分かり、さらに1週間ほど経ってからブログ記事を書いた。

事故のなかった原発は止めずに稼働させる方が
無難な判断であろうと思ったが、
同時に日本人のリスク感覚からすれば
過剰反応が起こるに違いないとも思った。

民主党政権はずいぶん叩かれていたが、
リスクに敏感な日本であれだけの大事故が起こっているのに
パニックにならなかった点を鑑みれば
割とうまくやった方ではないか。

一方でこの時期、米国で良かったと思う事は、
日本を支援するための募金活動やセールが頻繁に行われ
米国人にとって日本を身近に感じる機会が多かったことである。
大学でも、ベークセール(手作り菓子の販売収益を寄付するセール)
や講演会などが行われた。


3.日本に対する違和感と無関心

私は、日本から東洋経済などを送ってもらって読んでいるのだが、
震災を境に、状況が落ち着いた後も、雑誌は震災関連記事ばかりになり、
おしなべてつまらなくなった。

例えば、
太平洋側の沿岸部や福島の農業は甚大な被害を受けたが、
その経済規模は小さく元々競争力の低い産業である。
大事な事は、そうした地域にいた方々を
なるべくスムーズに新しい土地や産業に移す事であり、
そうしたことを支える上でも、
それ以外の地域・産業を強化して、
被害地域を支えることが必要がある。

しかし、世論の関心はほとんどいつも「復興」にあった。
大前研一などこうした動きに異を唱えた人も多いが、
私も「復興」というアイデアに賛同できない。

何かを持っていることと、
それがなくなった時にもう一度手に入れることは別だ。
過去のしがらみがなくなった時、
往々にして最良の選択肢は
かなり異なる方角に進むことだ。

多くの日本人が勤勉で優秀であるにもかかわらず、
長期にわたって日本の経済停滞している原因の一つは、
新しいことをやる勇気が足りないことにある。
朝から晩まで一生懸命働く事は尊いが
時として、頑張りすぎずに失業して全く別の仕事に移る方が、
社会のためになるということが少なくない。
それが社会や経済の柔軟性につながるからだ。
日本には、「柔能く剛を制す」ということわざがあるのに
過去半世紀の日本は「剛」ばかりだ。

政府主導で沿岸の被害地域の高台に
新しい町を建設する「エコタウン構想」に至っては
日本の為政者の感覚は、旧社会主義国のそれと大して
変わらないのだな、という印象を抱くに至った。

昨年夏の節電に関する動きも、
被害を受けた地域・産業以外を強化して被害地域を支える
という感覚からすると違和感を感じざるを得なかった。
震災直後の大規模停電の恐怖をテコにした
集団ヒステリーのようなものであったと思う。
叩かれるのを承知で何度か節電反対のブログエントリーをしたが、
その後出てきた電力使用量や供給能力のデータ、
貿易赤字の推移や、製造業の新製品の遅れなど
何を見ても当時の日本の世論と政治判断は常軌を逸していた。

全般に震災後の日本は、
外から見ると以前にも増して不可解になった。


4.紅白

娘は年末の紅白が好きなので、
日本から録画してもらったものを毎年送ってもらっているのだが、
これまた震災一色で日本に対する違和感の総決算という感じであった。
「フクシマ」を歌詞に複数回入れれば誰でも紅白に出れるというのは、
明らかに便乗だろう。

紅白初出場の少女時代は、
AKBよりもスタイルが良くてダンスもうまい。
AKBが勝っているのはきわどいランジェリー姿の時の
セックスアピールだけで、
アジア諸国から見た現在の日本の姿にぴったりである。

思えば2011年は、震災以外にも、円高やタイの洪水もあり、
製造業を初めとした日本企業は大きく苦しんだ。
いまや米国では、テレビのブランド力トップはサムスンだし、
CESでも存在感があるのは韓国企業のようだ。また、
ヒュンデやキアの車はトヨタやホンダより遥かに見栄えが良い。
(日本の独壇場になっている分野もあるにはあるのだが・・・。)


一方で、一年の区切りを大事にする日本人は、
紅白で2011年を最後に振り返ることで
きっと2012年からはまた気持ちを新たにして
頑張るに違いないと感じた。
実際、今年になって日本の雑誌も少し外に目が向き始め
面白いと思えるようになってきている。



震災から1年を迎えた今、海外から分かりやすい形で
存在感を示せる日本に戻って欲しいと願っている。


テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

北朝鮮に食料支援を -- このエントリーを含むはてなブックマーク

金正日が死去したらしい。

反日教育や拉致問題、核開発疑惑などで日本での北朝鮮の評判はすこぶる悪いが、
私は、日本政府は北朝鮮政府が少しでも長く存続するように
食料支援などを行うべきであると思う。
なぜなら、北朝鮮の現体制が崩壊した場合の国際情勢の変化が
日本にとって好ましくないものになる可能性が高いからである。

北朝鮮の独裁体制が崩壊した場合、
1) 中国に併合される、2) 中国寄りの政府が樹立される、
3)米韓寄りの政府が樹立される、4) 韓国に併合される、
といったパターンが考えられるが、
1) と 2) のパターンになれば、
中国の東アジアでの影響力が強まる事で日米韓などの旧西側諸国のいずれにも好ましくない。
一方、4)の場合には統一朝鮮の東アジア地域での軍事的プレゼンスが相当高まり、
やはり日本にとって好ましくないだろう。相対的に良いのは 3)のケースだろうが、
そのケースでも長期的な韓国のプレゼンス増大は避けられない。

個人交流レベルの問題としても、超のつく反日国の国民が一気に
西側諸国に流入してくるのを考えるだけでもうんざりしてしまう。

また、日本の近年の対北朝鮮政策は強硬一辺倒であるが、
こうした政策が交渉において成果を上げているとは言いがたい。
交渉の行き詰まりは日本の北朝鮮に対する影響力を低下させている。

日本政府は、あからさまに対北朝鮮政策を変更しなくても、
拉致問題とのバーターで食料支援を用意したり、
核開発問題の前進と引き換えに経済制裁の一部解除を提案したりすることもできるだろう。
福島の原発事故の影響で、安全基準値を満たしながら日本国内でさばくことの
できない農産物を支援に回すことも可能かもしれない。

日本から見て北朝鮮が敵国であるのは間違いないが、
国際関係は複雑で、強硬路線が日本の国益にかなうとは限らない。
混乱に乗じて、日本政府は対北朝鮮のプレゼンス強化を狙うべきだ。


  

過去の関連エントリー
【本】日米同盟 vs. 中国・北朝鮮 ~ アーミテージ・ナイ緊急提言


テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

自分用メモ) MAC で使う TeX の スタイルファイルの置き場所 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

コンピューターが得意でない私にとって、10年以上前から
TeX (数式処理のための言語。雑に言うと理系用のワープロみたいなもの。)
の設定はいつも苦痛の種だ。

MAC (OSX 10.6.5)を入手したのだが、
TeXそのものは大学のおっちゃんがインストールしてくれたらしい。
次はテキストエディタだろうと思い取りあえずTexmaker という人気のあるテキストエディタを入れた。
ここまでは割りと順調で、article (論文用の書式)と beamer(プレゼン用の書式) の
サンプルファイルはすぐにPDF化できた。

が、自分で作ったスタイルファイルの読み込み方が分からない。ネットで調べると、
「指定の場所にファイルを置いて、mktexlsr という呪文を ターミナル なるウィンドウに入力して…」
などと書いてある(そういえばWindowsでもそうだった)のだが、
指定の場所は作業環境によるのでいまいち良く分からないし、
mktexlsr と入力すると、MAC君はなんか作業をしたみたいだけど「書き込めませんでした」
みたいな不穏なメッセージが出ている。試してみてもやはりスタイルファイルは読み込めない。
2時間くらい試行錯誤してようやくネットで以下の説明を発見。

> Personal .sty files should be places in ~/Library/texmf/tex/latex/ where ~
> is your HOME directory and you create folders as necessary.
>
> On the other hand, what are you trying to install? MacTeX 2008 is a full
> TeX Live 2008 distribution and has many packages already installed. I'd try
> to use the package you need without installing anything at first; you may be
> amazed to find out it is already installed and available to you.
>
> Good Luck,
>
> Herb Schulz
> (herbs at wideopenwest dot com)



Source: http://www.tug.org/pipermail/macostex-archives/2009-April/040098.html

フォルダを作って、指定の場所に置くだけで良いらしい。
いろいろやったが、要するに場所が間違っていたのだ。
ようやく解決して、めでたしめでたし。

しかし、誰かTeXもWordみたいに簡単にインストールできるようにしてくれないかなぁ。


プロフィール

Willy

Author:Willy
日本の某大数学科で修士課程修了。金融機関勤務を経て、米国の統計学科博士課程にてPhD取得。現在、米国の某州立大准教授。

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1.ルベーグ積分30講
―― 統計学を学ぶために。
   小説のように読める本。
   学部向け。


2.Matematical Statistics and Data Analysis
―― WS大指定教科書。
   応用も充実。学部上級。

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