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大学時代に何を学ぶべきか -- このエントリーを含むはてなブックマーク

若い時に何を勉強すべきかは言うまでもなくとても大事だ。しかし、この動きの速い時代に何を勉強すれば良いのかを考えるのはとても難しくなっている。最近、そのことを改めて考えさせられることがあったので少し書いてみたい。



3ヶ月ほど前に、医学関係の研究部門でスタッフとして働いている修士課程の社会人院生2人から「夏に1〜2単位のセミナーコースを開講して欲しい」との相談を受け、3人で相談した結果、混合効果モデルという統計モデルの勉強会を開く事にした。

私はその分野に詳しい訳でもないので、軽い気持ちで院生時代に使ったテキストだった Pinheiro & Bates の Mixed-Effects Models in S and S-PLUS (Statistics and Computing) という本を提案してそのまま使うことになった。この本が出版されたのは2002年と「ほんの」15年前であり、さらに私が統計学科の院生だったのは「ほんの」10年前くらいだったし、それにその分野の入門書としては今でもアマゾンでも常に上位に来る本なので、何も問題はないと考えていた。



しかしセミナーが始まると学生は、本のコードが古いことに不満を漏らすようになった。確かに、オープンソースの統計やデータサイエンスのパッケージは文字通り日進月歩の世界なので、言われてみると実際の処理に関して時代遅れである感は否定できない。学生達は、現場で医療データを分析しているので不満を持つのも無理はない。理論面についても、基礎は変わらないものの、分析用のパッケージが充実してくれば理解すべきモデルの幅も広がる。本の記述が物足りないと感じても不思議はない。私は、たった15年前に書かれた教科書が古臭くなってしまったことにうろたえた。

だが、話はここで終わらない。応用統計の本なので理論面ではどうしても行間のギャップが大きい。セミナーは学生と私を含めた輪講式(順番に発表者を決めて進める方式)でやっていたのだが、準備の途中で式が成り立つ根拠が分からなくなって見直したのは、60年近くも前に出版された佐竹一郎の 「線型代数学」 という教科書だった。日本では数学科の1〜2年生が集中的に学ぶ内容の本である。セミナーの学生達はとても優秀だが、元々のバックグラウンドが数学ではないので、きちんと数学的基礎を追う事ができないことが多い。そして、米国で統計を教える人が足りないのはきちんと基礎を教えられる人が少ないからなのである。





実務家として働いたことのある私が、大学でカリキュラムを決めたり教科書を選んだりする時に一番に考えることは、学生が社会に出た時にその内容が役に立つかどうかだ。そのために、理論的には多少質が下がっても応用面を重視するようにしているし、最近の社会の動向も気にするようにしている。だが、実践的な内容が書かれた教科書がたった10年で陳腐化するのであれば、若い学生達にそうした内容を教えることは正しくないのではないかと再考させられる。18〜22歳という一番、脳が冴えている時期に何を勉強するべきなのだろうか。やはり、若い貴重な4年間には、より普遍性と一般性が高く、現代人として役に立つスキルを集中的に学ぶのが良いということになる。ただ、具体的に何を学ぶべきかは難しい。

古くから欧米の大学が行ってきたリベラルアーツ教育は、元来それに近い考え方だった。リベラルアーツ教育とは、人が自由に生きて行くための本質的なスキルとして、文法、論理学、修辞学などを重視する教育のことだ。アイビーリーグのほとんどはリベラルアーツ教育を行う大学として設立された。そうした考えに沿って今でも、文学、哲学をはじめ、数学、科学などを重視したカリキュラムを組むリベラルアーツ系の大学や学部が北米や欧州などには多い。

だが現在のリベラルアーツ教育の比重が、現代社会に最適化されているかどうかには疑問が残る。

例えばその中心をなす文学や哲学は一部の偉人達の才能によって成り立った面が大きい。そうした成果が偉大だとしても、何十年、何百年の時間をかけて継続的に発展している数学や科学に比べて、相対的な重要性が低下していることは疑いがない。

科学を学ぶこともまた万能ではない。確かに、積み重ねが必要な科学を学ぶことで高い思考力が身に付くとは言える。しかし学ぶ者自身が積み重ねなければならないという制約によって、人の積み重ねたものの上に積み上げれば良いと考える工学にくらべ実用性に劣るという側面がある。過去100年の人類による膨大な積み重ねにより、工学の相対的な重要性が科学に比べて高まっているのもまた疑いがない事実だ。

そして話はふりだしに戻ってしまうが、最新の工学だけを学べばその技術は簡単に陳腐化する。近い将来に陳腐化する技術を一生に一度しかない貴重な時期に学ぶ必要があるのだろうか。

さらに言えば、英語を重点的に学ぶというかつて日本において手堅かった戦略も、自然言語の処理技術の急速な発展によりその将来は不確実なものになってしまった。

こう考えていくと、現在の社会において大学時代に何を学ぶべきかがいかに難しいかが分かる。おそらく最適なミックスは、伝統的なリベラルアーツ教育よりも現代社会の基幹技術である数学や科学に重点をおいたものになる。そして働き始める2年前くらいには、良い仕事に就くための応用技術を学ぶ必要があるだろう。そしてフルタイムで働き始めた後も知識が陳腐化しないよう継続的に応用技術を学んでいく必要がある(これは現在の日本人が弱いポイントだ)。時間的な厳しさを考えると、外国語は高等教育以前に仕事の制約にならない程度のレベルまで上げておくのが最善ということになるだろう。


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テーマ : 大学
ジャンル : 学校・教育

「学者・博士」になりたい小学生に伝えたいこと -- このエントリーを含むはてなブックマーク


第一生命が主に小学1〜6年生を対象にして毎年行っている「大人になったらなりたいもの」の調査において、「学者・博士」が男の子の間で2位になったそうだ。第一生命はレポートの中で「大隅氏がノーベル賞を受賞したころから人気が再燃」と解説している。子供の「未知のことを発見する」、「社会を変える」、「それらによって名を残す」という知的欲求は素晴らしいものであり、そういう心は大切に育てたいものだ。

一方で、近年高学歴ワーキングプアが問題になるなど博士の就職難が日本社会に影を落としている。大きな夢と厳しい現実の狭間で、博士をとり学者を目指す子供やその親はどのようにキャリアを考えていけば良いのだろうか。

日本の一番大きな問題は、「学者・博士」になりたいという子供や若者たちが、いつしか「未知のことを発見する」「それによって社会を変える」という本来の意味を離れて、「大学の中で閉じこもって好きなことだけやる」という狭い意味の「学者・博士」を目指し
ているというところにあると思う。

確かに戦後、日本ではたくさんの人が大学や国立の研究所に雇われて研究者となり、その一部は世界的に活躍してノーベル賞を取ったりした。しかし、多くの研究者がそうしたキャリアを築けたのは日本が右肩上がりで成長していた時代の産物でもある。

近年、多くの分野で大学教員などのアカデミックポストの競争は熾烈を極めている。アカデミックを目指す40代半ばくらいまでの多くの人達は、年配や引退した研究者を見て「昔は良かったのに」とか「自分たちはなんと不運なのか」と思ったことが一度や二度ではないのではないか。

しかし恵まれた時代に大学教員になった人は、その時代の流れに乗ってキャリアに成功したのである。もし彼らが50年後に生まれていたら、大学教員を目指したのかすら定かではない。逆にいまアカデミックを目指している人は、確かに研究能力が高いかも知れないけれども、50年も前に流行った職業にいまだにとりつかれているという意味で社会の流れを読めていないのである。

これからの社会で、真の意味での学者・研究者がどんな職業に就くのかは全く明らかではない。米国などの大手企業の研究者たちが起こすイノベーションの大きさは、長期的に見ても大学の研究者のそれよりもずっと大きなものになる可能性がある。あるいは、同じアカデミックでも資金に恵まれた資源国が多くの研究者を雇うことになったり、教育需要の拡大する人口の多い発展途上国の大学でキャリアを積むのが流行るかも知れない。あるいは、大きな戦争が起こり軍の研究所がイノベーションに大きな役割を担うことになる可能性もある。

別に大学研究者の役割が終ったと言っているのではない。そういうキャリアも依然としてあるけれども、日本はそれを目指す人だけが多過ぎるのである。

こういうことはここ20年くらいずっと言われているが、遅々として状況は改善されていない。若手研究者は企業に行きたくないと言い、企業は博士は役に立たないと言う。それは、人が若い頃に考えていた夢にどうしても捕らわれるからだろう。私自身、24歳の時には大学を去って一般企業に就職したのに、結局は大学に戻ってきてしまったのだからそれは痛いほどわかる。数学科で優秀だった同期の中には、そういうことに苦しむのが嫌だからという理由で敢えて学部を出てすぐに就職した人もいたくらいだ。博士を終え30歳くらいになってそういう事を言われて転身するのはものすごく大変だろうと思う。

だから、もっと若い人に私は言いたい。60年前の人がノーベル賞を取ったのを見てそれを目指すのは、電話交換手だった大好きなおばあちゃんを見て電話交換手を目指すようなものだと。これからどんな人がイノベーションを起こして社会を変えるのか、自分の頭で考え、勇気を持って進むことが大事であると。


日本の英語教育を考える -- このエントリーを含むはてなブックマーク

ツイッターで高校の英語の宿題内容がバズっていたので、これを機会に日本の英語教育について考えてみたい。

1. 問題のツイートはこちら



この宿題は全く役に立たない訳ではないが、一言で言うと効率が悪過ぎる。何が問題なのか見ていこう。

(1) 無駄が多い。

知っている単語も書き写さなければならないというのは効率が悪い。我々はまっさらなコンピューターメモリーではないので、当然ながら単語集には知っている単語もあれば知らない単語もある。恐らく自分のレベルに適した単語集というのは、その中の5〜8割くらいの単語は何となく分かるというものだ。知っている単語を5回づつ書くのは時間の無駄だ。

(2) 単語を使えるようにならない。

「relate 〜を関連づける 関連する」のように英語に比較的近い日本語訳を対応させただけではいくら完璧に覚えても、自分で使えるようにならない。この覚え方は英語の本を読むということに特化した過去の英語教育の遺物である。日本人が英語でアウトプットすることが苦手なのはこれが一つの原因だ。

この単語をどのように使えば良いか、ジーニアス英和大辞典を引いてみよう。

"I relate my good grades to [with] hard work."
(私は自分の成績がよくなったのは猛勉強をしたためだと思う。)

"Cancer of skin, breast and colon are directly related to the intake of fats."
(皮膚ガン、乳ガン、結腸ガンはどれも脂肪の摂取と直接関連しています。)

最初の文章を読めば relate を使うには to や with と組み合わせなければならないケースが多いこと、二番目を文章を読めば受動態で使うには be related to というセットで覚えるのが有用な事や、directly などの形容詞が意味を補うのに便利であることが容易に想像できる。

(3) 頭を使わない。

上の2つの例文を読んで穴埋めや英訳のテストに備えるのと、単語5回と日本語訳1回を書き写して提出するのではどちらが頭を使うだろうか。間違えなく前者だろう。後者は頭を使わないので圧倒的に楽だが、時間当たりで考えれば全く身に付かない方法である。当たり前だが、勉強の時間効率を考えたら、より頭を使って大変な方をやらなければならない。

またこの宿題の方法では、確認せずに進むのでやり終えたところで何人の生徒の記憶が定着するのか疑問である。

(4) 時間がかかりすぎる。

それでもある程度の単純暗記も必要だという結論に至ったとしよう。そうだとしても、英単語を5回ずつ書くのも、日本語訳を1回書くのも時間がかかりすぎる。簡単に覚えられる単語とそうでないものがある。例えば以下の10単語はこの参考書の最初の方に出てくる単語だ。

succeed, accomplish, fulfill, attain, perform, advance, found, establish, compose, constitute

ある生徒はsucceed以外の単語は知らなかったとしよう。それでも、performは名詞形のパフォーマンスが日本語としても使われているからすぐに覚えられるだろうし、fulfillも full と fill を知っていれば覚えやすい。

更に言えば、1回書く時間で何回読めるかを考えどちらが効率が良いか考える必要もある。1回書く時間で4回読めたとして、5回書くのが良いのか、20回読むのが良いのか、2回書いて12回読むのが良いのか?同様に日本語訳はどうか。この宿題の方法は多くの生徒にとって最適解ではない。

2. 国や県、学校は何をすべきか?

意識の高い方は「どんな底辺高校の宿題なんだ」と思われたかも知れないが、この柏陽高校は入学難易度で神奈川県立の上位5校に入る、優等生が集まる高校だ。同校ホームページによると、この春、東大に4人、東工大に13人、横浜国大には28人合格している。世間の人は、卒業生には将来、立派なビジネスパーソンになって海外出張などもこなせるような人材になって欲しいと願っているだろう。それなのに高校の英語教育はどうしてこうなってしまっているのだろうか。国や県、学校は何をすべきなのだろう。

(1) 分業とスケールメリットの追求

私が日々雑務と部活に追われる高校の英語教師だったとして、上のような宿題を絶対に出さないだろうかと考えてみる。もう少しましな方法で出したいとは思うだろうが、上でダメだしした事を全て改善できるかと言えば自信がない。無駄を省くには、何か効率的なプリントなりアプリを作った方が良いだろうが手間がかかる。良い例文を集めるにも時間がかかる。効率的な記憶方法を知るのも単なる一教師にとっては簡単ではない。

まず、学校は英語教師に英語教育に専念させるべきだし、国や県は良いカリキュラムを開発しそれを広く全ての学校で使えるように仕組みを整えるべきである。スケールメリットを活かせば、全部の学校にネイティブスピーカーを配置したり、全英語教員の英語レベルを実用レベルまで引上げるより圧倒的に安いコストでできるはずだ。

(2)教育リソースの傾斜配分

はっきり言ってしまおう。底辺高校で英語教育をする価値はほぼない。将来、英語が必要になるのは、他国の労働者と関わることになるような知識階層だけである。グローバル化で英語が必要な人の数は増えるだろうが、イメージとしてはせいぜい全人口の2割とか3割とかそういうレベルではないかと思う。全員に十分な英語環境を用意できるのは理想的だが、上のツイートからも分かるようにそれは現実的ではない。

従って、生徒の学習意欲が低いような高校では全国規模で開発するオンライン教材などに大部分を依存し、英語力や指導力の高い教員は学習意欲が高い子が多い高校に重点的に配分すべきである。これには大きなメリットがある。例えば、上に挙げた英語の例文を使って、冬休みに英作文のテストをしたとしよう。例文そのままの解答なら採点は簡単だが、生徒が異なる構文を使って答えを書いたときに、それが正しいかどうか採点するにはかなりの英語力が必要である。そのため、そういった試験は日本の高校ではあまり行われない。これは、日本人の英語アウトプット能力の低い大きな原因の一つである。

また、そうした高校では教員が各教科の教育に専念できる体制を敷く代わりに、カリキュラム開発などの面でより重責を担わせるべきだ。


3. 生徒は何をすべきか?

英語を身につけたい中高生へのアドバイスは「最初から高みを目指して」ということだ。学校の宿題であっても、受験のためであっても、本当に大事でないことに多くの時間を使うのは無駄だ。

私は、中学の時も高校の時も英語が大の苦手だった。中学の時は担任が数学の先生だったので私はとても優秀な生徒だと思われていたらしく、英語教員から成績表を受け取った時は「Willy君の成績は間違ってませんか?」と問い合わせたそうだ。高校では進級に必要な点は100点満点の50点だったが、しょっちゅう50点や51点を取った。一歩間違えれば留年していたかも知れない。

そんな私が、24歳で働き始めてから英語の勉強を始め、米国の大学で働くまでになったのを見て、どんな秘密があるのだろうと興味を持つ知人もいた。実のところ、今でも私は英語が苦手だ。しかし私にとって幸運だったことは「英語で全ての生活を送れるようにする」という高い目標があったことと、それを達成するための手段に何の制約もなかったことだ。TOEFLという中間目標はあったが、それとて最終目標ではなかったので、全方位で英語を勉強することをいっとき楽しめたのだと思う。


そろそろ日本は教育でも米国に負けるのでは -- このエントリーを含むはてなブックマーク

「失われた四半世紀」などと言われている日本だが、初等中等教育に限ってはその限りではなく、引き続きそれなりの位置をキープしている。

2011年の国際学力調査TIMSSにおいて、中2数学では日本は570点で42地域中5位(1位は韓国の613点。米国は509点で9位)、中2理科では日本は558点で同4位(1位はシンガポールの590点。米国は525点で10位)である。

生徒の勤勉さ、質の高い教材、教員の知識水準が比較的高いこと、などは引き続き日本が誇れることだ。特に難関中学や一流国立大の入試に見られるように、日本が考える力を重視した教育をしていることは特筆すべき点であり、専門知識に基づいた仕事の分業が十分に進んでいない日本社会の欠点をある程度補っていることは間違いない。

一方の米国では、じっくりと積み重ねが必要な数学や科学、工学等の分野で人材が不足しており、外国人労働者や移民に頼っているのは周知の通りである。

それでは、教育の面で引き続き日本は米国などに対して優位を保っていくことができそうだろうか。私の見方は、初等中等教育に関しては当面の間リードを保てるかもしれないが、実用的な生涯教育に関しては危ないのではないか、というものだ。

日本人は大学に入るまでは確かによく勉強するが、その後はあまり伸びない人が多い。特にフルタイムの仕事についてからは、勉強する機会が極端に少ない。22歳で大学を出てから60歳で引退するまで大して変わらない仕事をすれば良かった時代ならそれでも構わなかっただろうが、必要なスキルがめまぐるしく変わる昨今、このような状況では人的資本が大きく失われる可能性がある。

そもそも初等中等教育の成果はそのまま活用できるものばかりではなく、その上に何を積み重ねるかが大事だ。素因数分解できることが直接役に立つ訳ではなく、その数学的素養の上にどれだけ仕事に使えるスキルを身につけるかだ。アメリカの学生は、そうした勉強を大人になってから続ける人が多い。

私はミシガン州デトロイトにある中規模の大学に勤めている。州内では4〜10番くらいの位置につけるローカルな大学だ。ミシガン州を地理的な条件の似ている北海道に例えるなら私の大学は北海道大ではなく、北海道の中規模の公立大や私立大に相当すると言って良い。

しかし、そんなありきたりの地方大学にもたくさんの社会人大学院生が入学してくる。ビジネススクールやロースクールではなく数学科にである。それは、高校の先生だったり、メーカーのエンジニアであったりする。大学院に限って言えば、これらの学生は学科にとってメインの顧客だ。

今学期、私と機械学習のセミナーをやった地元の修士課程学生Aは、従業員千人弱のマーケットリサーチ会社のミシガン事務所に勤めている。私がこの大学に来て間もない頃、彼は大学4年生で私の数理統計学の授業を取っていた。評価が甘めのクラスで成績はA-かB+。ごく平均的な印象に残らない学生だった。

彼は就職して少ししてから修士課程に入学して、1学期に1つずつコースを取り続けている。修士を取るには10コース程度履修する必要があるので、5年かかることになる。昼に行われるセミナーや授業もあるので会社から許可をもらって大学に来る。5年間で4万ドルほどの学費がかかるはずだがこれも全て会社持ちだ。仮に博士課程に進みたい場合でも、会社から無条件に学費が出るそうだ。仕事でデータを扱いながら、修士課程にもう3〜4年も通っているので、セミナーを一緒にやっている数学科出身の博士課程2年目の留学生より理解度が高い。

彼が日本の難関国立大の入試問題を解けるのかどうかは分からない。しかし同規模の日本企業の地方事務所に勤める日本人が、彼と同程度のスキルを持ってデータを分析できるかどうかと言われれば、疑問を感じざるを得ない。(長く日本で働いていないので、私のこのような認識が誤りであることを願うが。)

日本も20年前は、経費を湯水のように使って人材を育成したり、一見無駄な研究にお金と時間を使ったりする余裕があった。しかし現在では、そうしたことにお金を使うのはもったないとか不公平(例えば製造業であれば仕事に裁量が少なく工場でルーチン作業に従事する従業員に対して不公平)であるとされる風潮が強く、優秀な社員の自助努力に頼っている面がある。

もちろん極端な話をすれば、才能に恵まれ努力さえ惜しまないなら、清掃員をしながら独学しホワイトボードに新しい定理の証明を落書きして数学者になることも可能かも知れない。しかし、社会全体としてそういう仕組みは危険だ。しかも日本は、米英やシンガポール、上海、香港などとは違い、継続的に優秀な頭脳の流入が見込めるわけでもない。

人材を育成してもすぐ豊かになれるわけではないが、人材の育成を怠れば豊かになるチャンスは限りなくゼロに近くなる。社会は平等を保つによって豊かになるわけではなく、時間をかけて育てた人材の一部が成功し、作り出した冨をみんなで分けることによって豊かになっているということを日本社会は思い出すべきだ。


【A級保存版】 在外小学生のための日本語雑誌 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

アメリカ生まれの娘も、4月から日本の小学校5年生相当になった。家では日本語だが、学校では英語しか使わないので2年前くらいから英語の方が強くなってきた。土曜日には日本語補習校に通い、日曜日には補習校の宿題を4時間くらいやっているが、高学年になると、学校の教材だけでは実践的な語彙や読解力の点で学年相当を維持することが難しくなってくる。そこで、いくつか海外在住の小中学生に良いと思った媒体を紹介したい。

1.朝日小学生新聞 (日刊8ページ、月1720円)

小学生専用に作られていて記事がバラエティーに富んでいるのはこれだろう。ただし、日刊なので読むのはやや大変だ。日本では紙媒体だが、海外向けには電子版もある(紙媒体しか読んだことがないので使い勝手は不明。ご存知の方はご教示下さい)。月々1720円と割とリーズナブルな値段だ。

2.毎日小学生新聞 (日刊8ページ+、月1580円)

1に類似する新聞。こちらは毎日新聞電子版を月3780円で購読すると無料で読めるようだ。(同じく使い勝手は不明。ご存知の方はご教示を。)

3.NEWSがわかる (毎日新聞社、月刊、約70ページ、380円)

「10歳からのニュース百科」の副題からも分かるように、主に小学校4〜6年生を対象に作られている。全ページカラーで、マンガや図、写真などが多く、子供には読みやすいかも知れない。読者の投稿ページもある。欠点は値段が安過ぎるためにアマゾンジャパンでの取り扱いがないところだ。定期購読して実家から送ってもらうなどの手順を踏まないと入手できない。


4.ジュニアエラ  (朝日新聞社、月刊、約50ページ、500円)

3と同じく全ページカラーの雑誌だが、上の二つより少し文章が多く内容も少し高度だ。小学校高学年から中学生向けという感じである。こちらはアマゾンジャパンで取り扱いがあり、海外発送も可能。ちなみにアマゾンの北米への送料は1冊だと1050円で、1冊追加する毎に350円追加される。ただし、消費税は免税になる。




5.子供の科学  (誠文堂新光社、月刊、約110ページ、700円)

科学および工作の話題を扱った子供向け雑誌。かなりの分量でおまけ付きで700円というお値打ち価格である。対象は科学が好きな小学4〜6年生を中心に中学2年くらいまでという感じだろうか。カラー50ページ+二色・単色刷り60ページ。アマゾン取り扱いあり。




6.キラピチ (学研、月刊、約120ページ、730円)

「小学生の女の子のためのキャラ&おしゃれマガジン」とのこと。すみっコぐらしなどのキャラクターグッズが3分の1、ファッション3分の1、マンガ3分の1という雑誌。息抜きや、何でも良いから日本語に興味を持たせたいという女の子のために。小学生向けファション誌ながら、あまりぶっ飛んだところはなく親も比較的安心できそう。JSモデル満載で、大きなお友達も楽しめる。アマゾン取り扱いあり。




7.ニコ☆プチ  (新潮社、月刊、590円)

「おしゃれな女子小学生ナンバー1ファッション誌」らしい。娘を都会風にオシャレでスレた子に育てたい方に。男子の落とし方を特集したりと、6と比べて格段にぶっ飛んだ内容。むしろ、大人が読んでネタとして楽しむ雑誌なのではないかとの疑惑もあり。類似の雑誌に 「JSガール」(三栄書房) がある。アマゾン取り扱いあり。

 


テーマ : アメリカ生活
ジャンル : 海外情報

この春、中学を卒業する君へ -- このエントリーを含むはてなブックマーク

卒業おめでとう。
義務教育を終えて君は自由になった。
義務教育なんて形式的なものだと君や多くの大人は思うかもしれないが、僕はそうは思わない。ごくごく標準的な日本の公立高校の入試問題を久々に見るとそのレベルの高さに驚く。

例えば、国語の読解の問題。あれだけ論理的な文章を読んで答えが導き出せるようになっていれば大人になって困ることはない。あとは色々な文章を読んで経験を積むだけだ。例えこれから海外から優秀な移民が入ってきても、果たしてそのうちの何人が君と同じレベルの日本語能力を身につけられるだろうか。日本が日本語圏である以上、君は気付かないうちに大きなアドバンテージを身につけた。

数学もそうだ。僕は米国の大学生に数学を教えている。数学は若い頃にやった方が良いなどとよく言われるが、結局はやる気次第だ。基礎さえできていれば、必要になったときにいつでも学べる。日本の中学までの数学がきちんとできていれば、後から幾らでも学び直せると断言できる。米国の大学で数学に苦労しているのは、中学までの数学がきちんとできていない子ばかりである。

英語もしかり。先日、米国に住む日本人同士で話していて「日本人はなかなか英語を話せるようにならない」という話になった。すると、日米両方で会社を経営されている人が「そもそも、英語なんて中学で習うことで十分なんですよ」と言った。中学までの英語がきちんとできていれば、あとは自習するなり場数を踏むなりすることで、いくらでも上達できる。

ほんの10年前、君は社会で必要なことをほとんど何もできなかったはずだ。一人で学校にも行けず、字も書けず、お金の計算もできなかった。自分で予定を考えることも、学校に持って行くものを揃えることもできなかった。だから、君は、両親や保護者、先生に何度も怒られながら育ってきた。

しかし中学を卒業するいま、君は生きるために必要なことはもう全て学んだ。もう両親や保護者、先生に反抗する必要すらない。自分の責任で好きなように生きれば良いのだから。

そんな中、中学を卒業して25年の僕から3つだけアドバイスがある。


1.自分の好きなことだけをやること

自分の好きなことだけをやって欲しい。だって生きるために必要なことはもう全て学んだのだから。ものを書くのが好きならそれでもいいし、音楽でもスポーツでも、工作でも、数学でもいい。つい先日入学の決まった高校を卒業することさえ、長い人生の中では重要ではない。

実は僕がある大学の付属高校に入ってすぐに考えたのは、高校を辞めることだった。理由は単純で、受験を終えて好きなことだけやろうと思っていたのに、興味のないことをいろいろ勉強しなければならなかったからだ。授業の予習をするだけで一日2時間はかかった。結局、辞めずに高校を卒業したのは、私の夢は数学者になることでそのために大学の数学科に行かなければならないと思ったからだ。数学科に進むためには、その高校を卒業して数学科に推薦してもらうのが最小の無駄で済むのだと理解したのだ。当時は若かったから、僕はその最小の無駄さえ恨んだ。

晴れて数学科に入学して知り合った友人と話すと彼は「高校を一週間で辞めた」という。「だって、くだらなかったから」と。彼は大検を経て数学科に入学してきた。僕は、日本人なら誰でも知っている都内の2つ大学の数学科を出たが、彼と同じような人は知っているだけで3人いる。

なお、敢えて高校に通うメリットを挙げるとすれば、それは刺激を受けられる友人と知り合えることだ。一生懸命勉強して良い高校に入るのは無駄な事ではない。「凄い奴ら」と知り合うことができるからだ。逆に、もし君が高校入試の結果、不本意な高校に通うことになったとしたら、やるべきことはその高校の外にも「凄い奴ら」を見つけて友達になることだ。もし不本意に入学した学校で「大したことない奴しかいない」などと思っていては、君の人生自体が不本意なものになるだろう。

君が優秀であればあるほど保護者の方や先生がうるさく言うのが大学入試だが、これも基本は同じだ。「凄い奴ら」を四六時中間近で見るために、どれだけ受験勉強するかという選択だと思えばいい。

話を戻そう。人間は大人になるにしたがって絶対やらなければならない事は減っていき、好きな事だけをやれば良くなっていく。それなのに、年齢を重ねるのにしたがって、嫌いなことを仕方なくやっている人が増えていくように見えるのはなぜなのだろう。それに対する僕の答えは「大人は楽をすることを覚えるから」というものだ。「一生懸命生きなくても、良い大学にさえ入れば…」「人生に悩まなくても大きな会社に入って文句を言わずに働きさえすれば…」「結婚して夫に尽くしてさえいえば…」といった具合だ。そういう人生を選ぶことは自由だが、「楽」をしているはずなのに「楽しそう」には見えないのが不思議なところだ。僕もしばしば「楽」を選び「楽しくない」時間を過ごして後悔することが多い。


2.一生懸命やること

好きな事だけやる代わりに、本気でやってほしい。世界一、あるいは、せめて日本一を目指すくらいでなければ嘘だ。例えば、音楽なら世界一の作曲家や演奏家を、スポーツ選手だったら世界一のプレーヤーを、工作だったら世界で一番精緻なロボットを作れるエンジニアを目指して欲しい。もし、君の目標が「高校の野球部で4番になる」という程度のものだったら、いますぐ辞めて別の夢を考えた方がいい。そんなのは「くたびれたおじさんやおばさんが考えた高校生の夢」だ。そんなものを夢にしても、くたびれたおじさんやおばさんにしかなれない。

夢が実現するかどうかはまた別の話だ。僕だって高校生のときは世界で一番凄い発見をしてフィールズ賞をとろうと思って数学を勉強していた。残念ながら、というべきか、よく考えたらやっぱりというべきか、夢は叶わなかったが、最初から「微妙なレベルの大学の先生になればいいや」などと考えていたら、何もできなかっただろう。

真剣に日本一になろうと思ったら、考えも多少変わるかも知れない。君は相撲が大好きだとしよう。日本一の力士になれなくても、日本一の行司になることだってできるし、日本一の実況アナウンサー、力士の診断では日本一の外科医になることだってできる。経営に興味があれば相撲協会に日本一の助言ができる経営コンサルになってもいいし、英語が得意なら世界で一番知られた相撲解説者になることだってできる。

日本一になる方法が分からなければ、日本一の人にどうすれば良いか聞きに行ってはどうだろう。大人というのは、多くの高校生が考えるよりずっと頑張ってる若い人には好意的なものだ。僕の大学時代には、毎年グループで一流の数学者にインタビューしにいくという企画があったが、多くの方が時間を割いて快諾してくださった。日本一のロボットを作りたければ、日本一のロボットを作っている会社にとりあえず電話してみてはどうだろうか。

君の夢が野球選手なら、世界一の野球選手にインタビューする事は難しいかも知れない。そんな時にはまず、君を差し置いて世界一になりそうな同年代の人と知り合いになれないか考えてみるのもいい。あるいは、君の夢が何かを発明したり発見したりすることなら、協力して世界一を目指せる友達を探すのもよい方法だ。

「一生懸命やること」は「後悔しないこと」でもある。僕は結構引っ込み思案な方なので、「好きなことをやろう」と思った時に「本当に良いのだろうか」と悩む事が多い。しかし実際には、好きな事を選んで後から後悔する事はほとんどなく、後悔するのはいつも「さぼって一生懸命やらなかったこと」なのだ。一生懸命できなかったら、本当にそれがやりたい事なのかどうか、考え直した方が良いのかもしれない。


3.世の中の役に立つことをすること

好きな事を本当に一生懸命やっているのに結果が出ない、将来の展望が開けない、ということもよくある。この時に大事なのは、自分が一生懸命やっていることが本当に世の中の役に立っているのかを考えることだと思う。

「大人は好きなことだけやれば良い」と書いたが、それが世の中の役に立たなければ食べていけないというのが子供との唯一の違いだ。

例えば、君がある売れないアイドルに入れ込んで、彼女のために献身的にファンクラブを立ち上げる。君は、その娘とファンクラブの運営に四六時中夢中になる。その甲斐あって、誰も見向きもしなかったアイドルに全国から17人のファンクラブ会員が集まった。毎月1人くらい上積みできるかもしれない。しかし会費は月300円で、君自身が食べていくどころか、ウェブサイトの運営費すら捻出できない。

しかし現実に起こることは、こんなに単純ではない。例えば、世界でもっとも美しいと騒がれる数学の理論を君は5年かけて学ぶ。君は世界で30人しか完全には理解していないという、その理論の第一人者が13年前に書いた有名な論文の補題3.2を一部拡張して学会誌に投稿する。証明は完全に正しく美しいが、論文は「枝葉末節」として却下される。君は誰にも認めてもらえず、来年切れるアルバイトの講師の契約に怯える。

誰かが一生懸命やっていることが、本当に世の中の役に立つのかを判断することは非常に難しい。しかし現代社会全体としてみると、お金はあり余っており、情報の伝達速度はもの凄い勢いで上がっているので、世の中に役に立つことがあれば誰かが目をつけてくれる可能性は非常に高くなっている。もし、自分があまりにも浮かばれないと思った時には、自分のやっていることが最善なのかを立ち止まって考えてみることを勧めたい。もしかしたら、その世界でもっとも美しい理論を他の人に分かるように説明し直したら社会に凄いインパクトがあるのかもしれないし、逆に美しいだけで未来永劫意味のない理論をやっているのかも知れない。


ふと、なぜ僕はこんなに当たり前のことを偉そうに書いているのだろう、と恥ずかしくなった。しかし、どうも今の世の中は複雑になりすぎて、当たり前の原則に従って生きることさえ難しくなっているように感じられる。中学卒業という節目で——あるいはそれが高校卒業や大学卒業、転職であっても——、そうした当たり前の原則を振り返ってみても良いのではないかと思った。


テーマ : 生き方
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日本の博士課程は人生の罰ゲームか -- このエントリーを含むはてなブックマーク

「博士課程は職業・日独シンポジウムで日本の遅れ浮き彫りに」という報道が加納学教授のツイッター経由で話題になっていたので、私が感じていることを少し述べたい。


1.米国の博士課程院生の社会的な立場

 私は日本で社会人を経験した後、米国の博士課程に進学し、米国で就職して現在に至っているが、11年間の米国生活の中で一番嬉しかったのは、初めてTA(ティーチング・アシスタント、主に学部生の演習の授業を受け持つ)の契約書をもらった時だった。学費免除や健康保険などの福利厚生を除けばたったの月900ドル程度の仕事だったが、お金を落としてくれる留学生という「お客様」の立場で米国に来た自分にとって、初めて米国社会の一員と認められた事はとても嬉しかった。

 欧州同様、米国においても、博士課程の院生の大半は私と同じ様に給与をもらい、授業料を免除してもらいながら、職業人として社会に認められて生活している。フルタイムの勤務経験があり20代後半〜30代前半で入学する院生も多いので、既に結婚していたり、在学中に結婚したり、子供が生まれたり、というケースも非常に多い。米国人のみならず、中国人、韓国人、日本人、ベトナム人、ウルグアイ人、チリ人と国籍を問わずそうした例を多く見かけるから、大学と社会の雰囲気がそうさせるのだろう。私の妻が妊娠した時、診断をしてもらったのも大学の医務室だった。大学には家族向けの寮もあって、大変質素
な造りながら、そのアカデミックで開放的な雰囲気を好んで住む知り合いも多かった。

 最近考えさせられたのが ask.fm 経由で匿名で受けた次の質問だ。

「大企業を辞めて博士課程に留学し、学位取得前に子供を作る」という決断にリスクは感じませんでしたか。


 前半の「会社を辞めて博士課程に通うこと」には当然、経済的なリスクはある。博士課程も仕事のうちだとしても、修了後により良い仕事が見つかるかどうかは分からない。しかし後半の「子供を作る」という事に関して言えば「在学中が最適なタイミング」という判断には殆ど迷いがなかった。当時、留学についてきた妻はいわゆる専業主婦で時間があったし、私も院生の時の方がより子育てに参加できた。仮に私が卒業後に良い仕事を見つけられなければ、妻も働かなければならないかも知れない。それまでに子供がある程度大きくなっていれば何とかなる。逆に、その時までに子供が育っていなければ出産の機会を失うかも知れない。深く考えるほど、博士課程在学時に子供を育てるのが最も合理的に思える。

しかし実は留学前に日本にいた頃、私も質問者の方と全く同じ事を感じたことがある。留学先候補を調べていた時、日本人の大学院生で奥さんと子供が2〜3人いる方のホームページを見つけて「まだ仕事も見つかってないのに大丈夫なのかなあ」と心配になったのだった。なぜ、私の感覚は180度変わってしまったのだろう。結局のところ、これは博士課程院生に対する世間の目の問題ではないかと思うのだ。


2.日本の博士課程に対する世間の目

日本のアカデミアに残るという選択が非常に過酷である理由はいくつもあるが、その第一関門が「博士課程院生が職業人として認められていない」ということであると私は感じている。日本では、博士課程の学生であろうとも「所詮、学部生活の延長で生活している人達」と捉えられていて、一人前の「社会人」として見做されない。確かに、大学院生は毎朝9時にスーツを着て出勤しなくても良いかも知れない。しかし、自分の責任で研究を進めて将来を決めなければならない博士院生は「勉強半分、交流半分」といった感じの学部生のように気楽ではない。また研究は「頑張ればAが取れる」学部の授業のように一筋縄には行かない。しかもそうした院生は、平均すれば、就職した同期生よりも学部時代にずっと真面目に勉強してきた人達なのだ。例え高額な給与は払われなかったとしても、博士課程の院生には職業人としての社会的地位が与えられるべきだろう。これはお金の問題でもあるが、お金だけの問題ではないのだ。

 「そうは言っても院生は楽なんじゃないの?」と疑い深い世間の目に、補強材料を与えてしまうのが、謙虚な院生の「好きな事やらせてもらってるからお金にならなくても構わない」という立派すぎる態度かもしれない。実際のところ、大学院で「好きな事やらせてもらってるからそれだけで幸せ」なんて言うのは、ビジネスパーソンに例えれば「趣味は仕事だから仕事していれば幸せ」というレベルの超人であって、そんなレベルを標準にすべきではないのだ。

 結婚や出産、子育てに関しても同じ事が言えるだろう。「院生はまだ勉強する立場なのに(or定職についていないのに)結婚など早い」と口には出さずとも思っている日本人は多いだろう。不思議な事に「ビジネスマンはまだ仕事をする立場なのに結婚など早い」という人はいないし、「外資系社員は雇用が不安定なのだから結婚するべきでない」などと言う人も見た事がない。学振研究員に「国からお金を貰いながら産休を取るのか」と文句を言う人はいるようだが、公務員に「国からお金を貰いながら産休を取るのか」という人は不思議といない。

 こうした状況は、特に女性が博士課程に進むのを困難にしているように思えてならない。男性の場合は博士課程進学で結婚が遅れてもキャリアで成功すれば肩書きを活かして、年下の女性と結婚するなどというケースも多い。しかし、出産の年齢的な制約も大きい女性が同じ方法で人生設計をするのは、かなり難度が高くなると言わざるを得ない。これは、一見個人の問題のように見えて、大学の運営にも関わる問題だ。例えば、大学にも性別のクオータ制などの積極的なアファーマティブ・アクションを導入するような場合、女性の進学者が少なければ採用される女性研究者の質も下がる。

もちろん、現実問題として資金の手当の問題はある。例えば、今よりも大学は企業等から研究資金を獲得できるようにする必要があるかも知れない。そのためには、大学教員にも企業から資金を取ってくるインセンティブを増やす必要があるだろう。例えば、米国の大学では外部から獲得した研究資金を一定の額まで自分の給与に上乗せすることができる。一方で、企業にとって、研究者を囲い込むのではなく大学に外注して固定費を減らす方が得になるような仕組みが必要かも知れない。また、院生の義務が皆無だった理論分野などでは、院生の教育義務などを増やす必要もあるかも知れない。分野や大学によっては院生の数を減らすことも必要だろう。そうした問題の細部はここでは考察しない。

ここで強調したいのは、博士課程の院生を経済的に自立できるようにするという課題も重要だが、それと同じくらい、社会が博士課程の院生を職業人として受け入れることが大事だということだ。「人はパンのみに生きるにあらず」と研究者を目指す志の高い若者が、一人の職業人として社会から認められることを誇らしく思わないはずはないだろう。


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グローバル人材を増やすために注目すべき4つの人材層 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

グローバル化が止まらない中で、文部科学省は「世界レベルの人材」を育てるために躍起になっているが、これに対し、木村盛世氏(厚生労働医系技官、医師)が、人材育成の道筋の見えない文科省の方針を批判するエッセイを書かれている。しかし、書かれている事実一つ一つは興味深くてもっともなのだが、全体として何がいいたいのか、具体的に何を改善すべきなのか、今ひとつはっきりしない。実際、当該記事のBLOGOSのコメント欄を見ても、同様の意見が溢れている。そこで、日本が「グローバル人材」とやらを増やすために、具体的には何をすれば、私見を述べてみたい。

そもそも、「グローバル人材」(文科省)、「世界レベルの人材」(木村氏)とは何なのだろうか?文部科学省によれば、「国際的な産業競争力の向上や国と国の絆の強化の基盤として、グローバルな舞台に積極的に挑戦し活躍できる人材」だそうだ。日本の国益を確保し豊かな日本社会を維持するためには、科学技術や政治経済の分野において、国際間の情報交換や交渉において他国に遅れをとらないことが必要で、そのために「グローバル人材」が必要ということだろう。つまり「グローバル人材」の育成は国益のためであって、文科省が国民全体の英語習得レベルを引き上げるためではない。あくまでも主要は目的は国益であって、教育機会の均等ではないことをまずは頭に入れるべきだ。

グローバル人材をいわゆる高学歴層に限定する必要はないが、英語圏の国々が高度な学歴社会であることに鑑みれば、社会の指導層を生み出す一流大学院や、そこへ多くの人を輩出する一流大学の日本人の動向について見ることには意味があるだろう。各種報道に見られるように、米国の大学における日本人のプレゼンスは低く、近年さらに低下している。日本人に人気があり経済的に裕福な人に有利なMBAプログラムでさえ日本人の数は少ない。TOP15に数えられるミシガン大学においても、例年、各年次約500人のプログラムにいる日本人は5人前後で、100人超いるアジアからの外国人留学生の中では非常に少数派である。科学技術系について言えばさらに少なく、韓国人は日本人の5倍、中国人は韓国人の更に5倍いるというイメージを私は持っている。日本人留学生が少ないというと「最近の日本人の若者は内向きで」などと言い出すおじさん達が多いが、現状はそんな生易しいものではない。MBAなどの人気プログラムに関して言えば、日本人の英語力や専門能力が低いので、頑張ってもその程度の人数しか入れない、ということなのだ。若者の内向き批判を繰り返すおじさんたちは、「入ろうと思えばトップスクールのMBAくらいいつでも行けるけど、日本が好きだから行かない」などという「内向きの日本人」がどのくらいいるのか、今一度考えて直してみた方が良い。

それでは実際に、米国の一流大大学院に入るのはどんな層なのだろうか。私は、トップ10に入るMBAプログラムや、著名なPhDプログラムに入った知り合いをそれなりにたくさん知っているが、彼らにはいくつかのパターンがある。それは、

(1)子供の頃、両親の仕事の都合で海外にいた帰国子女
(2)高校あるいは学部の早いうちに1年程度の留学を経験した人
(3)高学歴で、大人になってから受験勉強のノリで英語も一気にマスターした人
(4)語学力に関係なく専門性で勝負している人

の4つである。複数のパターンに該当しているケースも多い。グローバル人材を増やすためには、この有望な4つの人材層に重点的に投資するのが最も効率が良い。この4つの層それぞれを強化する方法を以下で考えてみる。

(1)MBAよりPre-Kに入りたい

バイリンガル教育には様々な研究結果があるが、外国語の習得に最も重要な時期はおそらく4〜9歳くらいである、というのがおおよそのコンセンサスだろう。4歳未満では母語がしっかりしていないために外国語を習得する準備ができていないし、9歳を過ぎるとネイティブに近いレベルの音感や語感などが得られない可能性が高まる。私の娘は米国生まれだが、4歳近くになるまで幼稚園に通ってもほとんど英語を話さなかった。それがPre-K(日本で言う幼稚園の年中)に通った10ヶ月間で、一気にネイティブと対等に話せるレベルになった。義務教育ではなかったので授業料が年5000ドルほどかかったが、後にも先にも、あの期間と金額で同等の教育投資効果が得られることは絶対にないと言い切れる。「私も出来ることなら、今から娘の通ったPre-Kプログラムに通いたい」と友人に冗談で言っているほどである。

斜体文韓国や中国の富裕層などは、わざわざこの時期に母と子だけで留学しにくる猛者も多いが、既に経済的に豊かで平和な日本からこうした行動を期待するのは難しいだろう。実際には、日本人で幼少期に英語圏で過ごしているのは主に父親の仕事の都合で滞在している子女である事を考えると、政府が4〜9歳前後の子女を持つ家庭の海外転勤を促進するような施策をとれば教育効果はかなり高いかも知れない。例えば、この年齢の子を持つ家庭を海外に派遣した企業に補助金を支給するような制度も考えられる。企業に直接的な経済利益が少ないとしても、これが企業の社会的責任であると社会が捉えれば、かなりの推進力になるだろう。

こうした絶好の機会を無駄にしないために、子供が現地の学校で真剣に英語で学ぶようなインセンティブを国が整備するのも一つの手だろう。多くの海外在住子女は、中学あるいは高校入学までに日本に帰るため、現地の学校であまり真剣に勉強しない子も多い。大都市では、日本での受験のために日本の大手進学塾に通って受験勉強する子もいる。これは非常に勿体ないと言わざるを得ない。どうすれば、適切なインセンティブが与えられるだろうか。例えば、最近拡大している帰国子女入試を、旧来の選抜方法ではなく、現地の学校での成績や現地校の教員からの推薦状で査定するような選抜方法にしてはどうか。各学校でこうした選考を行うのは難しいかも知れないが、文科省が評価機関を作って、統一的にノウハウを蓄積すれば十分に現実味があるだろう。

(2)東大入試の免除を

米国の大学院に留学して痛感したことの一つは、20歳未満で留学して来た日本人との英語力の圧倒的な差である。さらにいえば、個人差の方が大きいものの、聴覚力やコミュニケーション力の男女差も無視できず、男性は女性より2割くらい早く留学しないと音が身に付かないのではないかと個人的には思っている。例えば、30歳で留学した女性と同じ音感を身につけるには、男性は24歳で留学する必要があるというイメージだ。また、年齢だけでなく学習環境も語学の上達に大きく影響する。生活の大半を仲間と共にする高校留学、友人との交流が多い学部留学、引きこもって試験勉強する大学院留学では、語学力の伸びは当然異なってくるだろう。早い段階で留学する方が望ましい。

高校や学部の初めでの留学にあたっての問題は、生徒・学生にとっての過大な学習負担である。想定されるグローバル人材像は勉強面も秀でている者と考えれるが、大学受験の準備をしながら、なおかつ留学に堪える英語力を同時に身につけられるスーパー高校生は非常に限られるだろう。また、大学に入学してからにしても、留学と専門分野の学習の両立は大きな負担だ。制度を変更することで一番時間を捻出できるのは、現行の大学入試にかかる労力を削ることだ。これはまずトップの東大がやらなければ効果が薄い。もちろん他の大学でもやるべきだろう。例えば、高校の内容を十分に学習し終えた生徒には、高2の段階で入学許可を出して、大学入学までの留学を義務づけてはどうか。昨今、日本の大学では推薦入試が増えているが、その主眼を単に優秀な生徒を採ることでなく、優秀な生徒に機会を与えてさらに育てることに置くのは、大学と生徒双方にとってメリットがある。


(3)自給自足できる生活力を

大人になってから1〜2年程度の集中的な勉強で、長く海外にいた帰国子女と同レベルの英語のスコアを出してしまうような優秀な人達もいる。大抵高学歴で、一流企業で将来を嘱望されるような社員であるケースが多い。この層は、会社が派遣留学をさせたり、公募の奨学金を獲得して留学したり、働いて貯めたお金を使って留学する。この層について非常に残念なのは、無駄にたくさんの資金を投入して、逆に彼らのポテンシャルを奪ってしまっていることだ。

こうした層に人気の一流大のMBAプログラムというのは、日本で言えばSAPIXのようなものだ。頭が良くてお金持ちのお客さんを集めて、集中的にノウハウの詰まった授業をする。そこから得られる知識や人脈は大きいかも知れないが、大学や社会にとってはあくまでもお金を落としてくれるお客さんに過ぎない。米国をはじめとした英語圏は基本的にお金へのインセンティブで回っている国々だ。自分でお金を稼ぎ、節約しながら生活して初めて社会の一員となり、社会の仕組みが見えてくる。こうした点を考えると、日本人の留学生はMBAプログラムに傾倒しすぎという問題もあるだろう。いわば大学のドル箱であるMBAプログラムは多額の授業料のかかる大人数のプログラムだが、科学技術系や社会科学系、政策系の大学院などには、少人数教育で学内の就労機会に恵まれたプログラムもたくさんある。そして米国の大学院は、学部の専門分野が違った学生でも積極的に受け入れて一からを教育してくれるのが良いところだ。より多くの分野に留学生を送り出せば、人数も増やすことができ、バラエティーに富んだ人材を育てられる。

実際、この層の多くの留学生は、MBAなどの職業系の大学院を除けば、大学からTA/RA(Teaching/Research Asssitantship)として給料を貰いながら大学院を修了できるポテンシャルがある。そうした方が、ずっと本人も多くの事を吸収できるし、費用もかからない。また、派遣留学生に副業を禁止する企業が多いがこれも全くナンセンスである。敢えて例えれば優秀な子供を進学塾にやり、その塾の教材以外で知識を得る事を禁じる、というルールを課しているようなものだ。派遣留学にしても自費にしても、現地で自給自足の経験をする事こそが、英語圏の価値観を理解できる「グローバル人材」になる鍵だ。

アカデミックな留学に関しても、奨学金が実態に即していないというケースが非常に多い。例えば、博士課程に公募の奨学金を獲得して留学するようなケースでは、留学生は大学からの奨学金を貰ったり、TA/RAをやりながら、課程を修了できるポテンシャルがあるのが普通だ。Qualifying Exam と呼ばれる競争的な試験、時間のかかるリサーチ、卒業後の職探しなどのために、一時的に日本からの奨学金を使える事が有利になることはあっても、全てを母国からの奨学金で賄わなければならないのは、よほど能力が足りないケースに限られる。現在の多くの奨学金制度は、人数を絞り過ぎである一方で、一人あたりに過剰な予算を投じているものが多い。これを改善すれば、より多くの日本人がアカデミックな大学院留学や研究留学を経験できることになる。

(4)設計図は日本語でいい

日本には、英語は全くしゃべれないが専門分野の論文なら英語で書ける、というような人もたくさんいる。英語と日本語が非常に異なる言語であることを考えると、こうした能力を持つ人たちに無理に英語を勉強させるのは、専門能力を鈍らせることになりかねない。こうした人材は、英語ができるにしろ、できないにしろ、世界が注目すれば、勝手に「グローバル人材」になってしまうのだから、むしろこうした人材を育てるパスも残しておいた方がよい。国際優良企業と呼ばれる日本の大手自動車メーカーは、車の設計図を英語で書いたから海外で成功したわけではない。

例えば、全授業を英語化する大学が増えたとしても、日本語でほとんどの事を学べる一流大学も少なくとも数十年間は維持することが望ましい。全ての一流大学の教育を英語化するかどうかは、時間をかけて考えれば良い。

(むすび)

グローバル化に対応するにあたって、国民全体の語学力や国際感覚を底上げすることは理想的ではある。しかし例えば公立学校の英語教育の質を抜本的に上げるためには、莫大な予算と年月がかかる。より実態に即した支援制度を整えることで、日本が国際社会から孤立することを防ぐリーダー層を育てることが必要なのではないか。


中学、高校の数学教育は何のためにあるのか? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

先日、ちきりんさんが「下から7割の人のための理科&算数教育」というエントリーのなかで、「今、教えられている内容を前提とすれば、数学や理科に関しては、全体の3割程度の生徒が学べばよい」という意見をブログで述べた。長年ちきりんファンをやってきた数学科教員として、中学、高校の数学教育は何のためにあるのかについて、ここで私見をまとめておこうと思う。

1.どのレベルの数学が不要なのか?

そもそも大多数の日本人は「理科や数学は勉強する必要なし!」と思ってるのだろうか?これは私の想像に過ぎないが、多くの人は、四則演算や、簡単な分数、小数、百分率、簡単な図形など、小学校の算数でやるような内容生活が役に立たないとは思っていないのではないかと思う。昔、所ジョージ氏が 元祖・所ジョージさんの 頭悪いんじゃないの? (ベストセラーシリーズ・ワニの本) の中で、「割り算なんて小学校で教えなくても大人になったらみんな出来るんだから大丈夫!」といったことを書いていたが、それは割り算が生活に必要だから自然に知識として定着することの裏返しである。一方で、よほど数学に恨みを持ってでもいない限り「大学の数学科を廃止せよ!」という人もいないだろう。結局のところ、その中間にある中学や高校の数学について「日常生活の役に立つわけでもないし、専門家になるわけでもないのに全員に本当に必要?」という疑問が湧くのではないか。

2.中学と高校の数学は何のためにあるのか?

結論から言ってしまえば、「現在の数学の中学と高校のカリキュラムは、日本にたくさんの技術者を育てるためのカリキュラムだな」というのが率直な感想である。現在の中学と高校の数学は、理論の厳密さやストーリー性にそれほど注意が払われているわけではなく、一方でよく言われる「論理的思考力」とやらを身につけさせるために最適な、考えさせるようなカリキュラムになっているわけでもない。基本的な関数や微分積分、ベクトルといった内容を中心に基本的な事実がコンパクトにまとめられていて、エンジニアリングや、数学以外の自然科学分野に進む人が将来困らないようにしているのだな、というのがひしひしと感じられるカリキュラムなのである。

もちろん、高校生全員が将来、エンジニアになるわけではない。まさに、7割くらいの人達にとっては中学や高校の数学は不要以外の何物でもない、というちきりん女史の意見はとても正しい。それでは初めから可能性のある3割の生徒だけが学ぶ選択科目にしてしまって良いのか、というのはなかなか難しいところである。例えば、米国の高校では必修となる数学の内容は「東アジアの3年遅れ」と言われる一方で、選択科目を取れば、日本の高校と同等の内容を履修することができるようになっているのだが、実際には生徒の数学力は過去30〜40年あまり、丘から転げ落ちるように転落して、科学技術分野の深刻な人材不足が指摘されているのである。物理や化学に至っては、大学入試で必須でないことから、選択科目を取った生徒でさえ、真面目に勉強しないケースが多いという。それでも米国は、英語が公用語であるというメリットを活かして、科学技術分野で大量の人材を外国から受け入れることで成り立っているが、日本で同様の人材戦略を採ることはできないだろう。つまり、戦後の日本は、全ての生徒に技術者向けの数学や理科を教えて人材の裾野を広げ、7割を犠牲にして、3割の人材を育てたのだと言える。

そうは言っても、中学や高校の数学のカリキュラムは無味乾燥すぎる、という文句も聞こえてきそうだが、技術者を育てるという観点でいうと実は理にかなっている内容が多いのである。以下でいくつかのよくある疑問にお答えしておきたい。

3.公式の暗記は必要か?

日本の算数、数学教育で悪名高いのが、公式を暗記させられることだろう。なぜ、公式を暗記しなければならないのか。それは、実は公式の暗記こそ実用的な数学を学ぶための効率の良い方法だからである。

少し話はそれるが、私自身は大学に入るまで、算数や数学の公式を暗記させられた、と感じたことはほとんどなかった。私が小学校低学年のころ、友達の家に遊びに行って2〜3学年上の友達のお兄さんと話すと、彼は学校の算数の授業で「三角形の面積の求め方」を習っているという。私はそのとき、その友達のお兄さんを畏敬の眼差しで見た。長方形の面積なら簡単だが、三角形はいくら長方形を足し合わせたって作れない。求めるには大きな飛躍が必要なはずだ。「やっぱり上級生はすごいんだなあ!」と感嘆したが、実際自分が上級生になって三角形の面積の求め方を習うと「補助線をひいたら三角形はある長方形の面積の半分」というだけ。「な〜んだ」とがっかりしたのを覚えている。興味のある子なら、「すごい公式を見る → 証明を読んで"な〜んだ"と思う」の繰り返しで勉強すればいい。しかし、そもそも、公式の種明かしに興味を持てない子だっているし、証明がどうしても理解できない子だっているだろう。そんな時に、公式さえ覚えれば誰でも、次のステップに進むことが出来るのが、数学の良い所なのだ。例えば恋愛小説なら、各場面の要約だけ読んで結論を急ぐという事はできない。

また、そもそも公式を当てはめることだって、実はそんなに簡単なことではない。公式を覚えることは、数学を使う上で便利なショートカットだが、一方で理屈を理解せずに公式を当てはめるということは直感に反するので、訓練が必要なのである。

私は米国の大学で日本の高3くらいのレベルの授業をたくさん教えているが、概念のきちんとした理解はおろか、教科書に載っている公式をきちんと場面に応じて当てはめられる学生の数はそれほど多くない。内容にもよるが、せいぜい2〜4割くらいでないかと思う。

実は私も、自分の頭で一から考えるのが好きな方なので、公式を当てはめるのはあまり得意な方でない。院生時代、友人と問題を解いていると、私が一生懸命考えているのを尻目に、友人はいろいろな参考書をあさって便利な公式を見つ出してしまう、といった事は日常茶飯事だった。

公式を当てはめる練習は、色々なレベルで大事なのである。


4.パズル的な数学は必要か?

「百歩譲って、教科書に書いてあることが大事なのは良く分かる。しかし、中学、高校、大学などの入試問題があまりにテクニカル過ぎるのでは?」といった疑問もよく聞かれる。近年の大学入試ではテクニカル問題は減り考えさせる問題が増えた、と主張する向きもあるが、私が見る限り、どう考えてもかなりマニアックな問題がまだかなりある。実際、多くの国の数学の入試問題は、日本ほどテクニカルでパズル的ではないようだ。

入試でテクニカルでパズル的な問題を出題する第一の理由は、単なる知識だけではなく、深い論理的思考力や柔軟な発想力を試そうとしていることだろう。日本において難しい入試問題を課す名門私立中高が、一流大学に多くの人材を輩出し、また一流大学が多くの科学者やエンジニアを輩出している事に鑑みると、あながちこのアプローチが間違っているとは言えない。

しかし、これは日本で特にテクニカルな出題が多いことを完全には説明できないように思う。私は、こうした特徴は、日本社会が専門性よりも現場の試行錯誤を重視して問題を解決しようとする傾向が強いことと関連していると思う。

例えば、私の専門分野の統計学を例にとろう。大企業の経営企画部の若手社員が部長から「毎月の売り上げを予測する式を試作して2日以内に報告するように」と頼まれる。若手社員は経営学部出身で、回りにも統計の専門家はいないので、自力でなんとかしなければならない。しかし、知識も本もソフトウェアも何もなかったとしても、グラフを見ながらなんとなく当てはまりそうな式を時間をかけて丹念に探していけば、データがよほど複雑でない限り、おそらく統計学を駆使して得られるモデルとそう大差ない式に行き着くことができるだろう。そんな時に役に立つのは、高校生の時に受験勉強で1次関数や2次関数をいじくり回した経験かも知れない。2日後になんとかもっともらしい式を作った若手社員から報告を受けた部長は「専門家でもないのに、やはりあの若手は地頭が良い」などと満足するのだ。

多くの人が細かく試行錯誤するパズル的な能力をつける事は、専門化による分業をある程度、置き換えることができる。そうした能力は、専門性をあまり重視しない日本の企業社会では、特に重要になっていると考えられる。


5.中学と高校の数学の本当の問題とは?

以上のように、日本の中学、高校における数学教育は、大量の技術者を養成するという国策、そして現場で試行錯誤をする能力という観点からは、過去にはそれなりに機能してきたのではないかと思う。しかし、その最大の問題は、そのカリキュラムが時代に応じて全く変化していないことだ。

数学教育は、中学、高校、大学の数学教員や文部科学省の役人といった、いわば閉じた世界で数学をやっている人達によって決められている。例えば、統計教育の必要性が叫ばれながらもそれがなかなか進まないのは、現場に統計を使って仕事をした経験がある人が少ないからであろう。統計以外にも、仕事でスプレッドシートやデータベースを扱う機会が増えた現在では、初歩的なブール代数などが高校のカリキュラムに入ってもいいし、モデル化のためにはグラフ理論などが入っても良い。微分積分にしても、定理の導出より近似のアルゴリズムやシミュレーションをもっと重視したカリキュラムにするべきだろう。コンピューター言語を扱う情報科目ももっと比重を置かれるべきだ。

数学のカリキュラムの検討にあたっては、GDPへの貢献度に応じて産業界から委員を選出するなど、よりダイナミックに内容を変えて行かなければならないだろう。いまのような状態では、百年後も高校の数学の授業は大して変わらず、古典文学のような授業になってしまうかも知れない。

6.数学を勉強しなくてすむようにするために

そうは言っても、数学を学ぶことの重要性はやはり低下しているのだろう。世界中のどこに行っても、若い世代の数学力の低下が叫ばれており、特に先進国ではその傾向が顕著だ。しかし、数学のカリキュラムを大幅に「軽量化」するためには二つのことが必要だ。

1点目は、社会全体で専門化による分業を進めることである。数学力のスタンダードが下がった世界では、経理担当者やエンジニア、科学者でさえも、数式の処理やデータの処理などに当たっては、それを専門家に丸投げできるような体制を整えておく必要がある。

2点目は、数学が必要になった時のために、いつでも、どこでも、いくらでも、好きなペースで、無料で学べる日本語のコンテンツを充実させておくことだ。今なら、ウェブ上のコンテンツを開発することになるだろう。思い起こせば、日本でゆとり教育が導入された際、当時の数学者たちは危機感を持って、高校生にも読めるかなりの数の数学の啓蒙書を書いた。日本中の数百万の中高生が、数学の勉強に頭を痛めることから解放されることを思えば、そうしたコンテンツの開発コストは本当に微々たるものに違いない。


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中高英語教員に留学制度は必要か? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

東京都の教育委員会が、来年度から都内の公立中高で英語を教える採用3年目の
若手教員全員を3ヶ月間、海外留学させる方針を決めたそうだ。

見出しを見た時の第一感は「やったらいいんじゃないの」といったところだ。
私は、基本的に、この手の能力開発には賛成である。
そもそも、90年代後半以降の日本人って、
人材を育成するのにはお金がかかるってことを忘れてる。
英語教員の英語力の不足が
英語教育のネックになっていることは確実なのだから、
英語教員にはもっと頑張ってもらわなくちゃいけないし、
そのために年数億程度のお金を使うのは、
新しい校舎を建てたり、毎年校庭を工事したりするよりも、
よっぽど有意義だろう。
教育には、モノじゃなくてヒトが大事だ。
この機会に是非、学校関係の公共工事も削減して欲しい。

「そんなにお金使って贅沢。TOEICやTOEFL、英検みたいな試験を課せばいいだけ。」
みたいな意見もあるけど、私はあまり賛成できない。

第一に、英語が自然言語である以上、
やっぱり現地で運用能力を育てることには意味があると思うからだ。
"How are you doing?"
に対する日本の教科書的な答えは
"Fine, thank you. And you?"
かも知れないけど、スーパーのレジ係に
"How are you doing?"
って聞かれた時にそんな受け答えしたらレジ係の目が点になってしまうだろう。
それに、どうして"bad"とか"terrible"じゃなくて"good"とか"great"
じゃなきゃいけないのか、っていう英語文化も知っておく必要があると思うんだ。

第二に、先生も謙虚に勉強を続けなきゃいけないと思う。
学習者の痛みを常に感じるってことは教育者としてとても大事なこと。
学校の先生って、同じ事を何年も教えてるから、
どうしても生徒に威張り散らすようになっちゃう。
「どうして、こんな基本的な文法もできないんだ!」
みたいな感じに。そういう先生だと生徒の方もやる気をなくす。
「あのセンコウ、ホントに英語しゃべれるのかよ」
みたいな陰口を叩かれたり。
逆に、英語できると思われてた先生が、
「アメリカで固定電話引こうと思ったら、手続きは複雑だし、
英語は通じないし、泣きそうになりました。」
とか言った方が、生徒の方も、
「先生でもそんなに大変なら、俺も真面目に勉強しておかなくちゃ。」
ってなると思うんだよね。
こんな事書いて良いのか分からないけど、
私は実際、留学前に東大の先生にほとんど同じ事を言われた事がある。
もちろん今は英語もペラペラの先生だけど、
そんな人でも留学直後はそうだったんだ。
書き方は悪いけど、中高の英語教員ごときが、
生徒の前で自分の英語が完璧なふりをする必要なんて全然ない。
そういう事を、留学で学んできて欲しい。


じゃあ、東京都のプラン、手放しで賛成なの?
って言われると、やっぱり荒削りなところはたくさんある。
一番ダメだなと思うのは、全員一律に行かせるっていうところ。

世間には企業から留学させてもらうような人もいるけど、
そういう人がそれなりに英語できるようになるのは、
留学前に必死で勉強するからなんだよね。
試験のスコアだって必要だし、その前に仕事でも結果を残さなきゃいけない。
つまり、留学制度のコスパを最大化するには、
それをインセンティブとして使うのが賢いってことだ。

例えば、中高の英語教員の場合は、
TOEFL-iBTで80点以上あるいは90点以上を留学の必要条件にしてはどうか。
取れた人は、3ヶ月留学して英語をブラッシュアップしてもらう。
点数取れない人は、日本の学校で引き続き授業してもらう。
留学から帰って英語力が高まっていれば昇進や昇給をさせればいいし、
点数取れない人は第一段階がクリアできないんだから
当然、昇進や昇級を止めるべき。
そうすれば、英語教員は必死に英語勉強するようになる。
競争が目的じゃないから、全員達成できたら全員留学させればいい。

無条件で留学させることに反対なもっと大きな理由は、
留学の効果に関するものだ。語学力に関する大きな誤解は、
「留学すればいずれは誰でも英語に不自由しなくなる」というもの。
全ての人の最終到達地点が同じ、というのは全然正しくないのだ。
経験則として、留学前の語学力が高い方が、留学後の語学力の伸びも大きい。
それは、よく考えれば自然なことだろう。そもそも、英語がしゃべれない人と
英語で会話しようとする人はいないのだから。


留学制度を導入する一番の利点は、
優秀な教員を集めやすくなるってことだろう。
先生になってからも、勉強したり、研修を受けたりできるし、
またそうしなければいけない、という仕組みにしておけば、
本当に教育や教科に情熱を持った先生を集めやすくなる。
優秀な人を集めるには給料を上げるっていうのは一番簡単に思いつくことなんだけど、
公立学校の予算には限界があるし、下手をすれば、
経済意識が高くてテストが得意なロリコンばかり先生になるという事になりかねない。


う〜ん。でも、Facebookのコメント見ると
今回の都の案にも批判的なコメントがほとんど。
ともかく、今の日本人って嫉妬の塊みたいになってて、
今回みたいな案が出てくるとすぐに叩かれる。
何もかもがネガティブなんだよね。

そうじゃなくて、
英語の先生はもの凄く勉強しなきゃいけないけど、
その代わり留学もさせてもらえるし研修も受けられる、という風にしなきゃいけない。
英語の先生自身は「英語力や英語教育を追求できてやりがいのある職業です」と、
それ以外の人は「自分にはそこまでの覚悟ないけど英語の先生って凄いなあ」と、
思える様な世の中にした方がずっといい。

もちろん、英語に限らず、数学の先生、社会の先生、国語の先生だって、
社会からもっとダイナミックな知識を学べる様な仕組みにしたらいいんだけど、
今回の案は東京オリンピックをきっかけにできたもの。
まずは、オリンピックをきっかけに、
日本を前向きに変える事ができるかどうかが試されてる、
ってことなんじゃないのかな。


テーマ : 英語・英会話学習
ジャンル : 学校・教育

全国学力テストの結果は公表すべきか -- このエントリーを含むはてなブックマーク

静岡県知事が、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)において県内上位86の小学校の校長名を発表した。また、文部科学省が来年度以降、学校別の結果公表を自治体の判断に委ねるとしたことから、学力テストの結果を公表すべきかどうかが、全国的に争点となっている(時事通信の報道)。
現在のところ、学校別の結果を公表する事に関しては、立場によって意見が分かれているようだ。都道府県知事は、44%が公表に賛成、24%が反対と、賛成が上回っているのに対し、市町村の教育委員会では賛成17%、反対79%、市町村長では賛成34%、反対62%と反対が大きく上回っている。また、都道府県の教育委員会では、賛成40%、反対43%、保護者に関しては賛成45%、反対52%と意見が割れている(出所:毎日新聞)。

日本社会全体にとって、公表する事は望ましいのだろうか。学校別の学力テスト結果の詳細が公表されている米国に住む者の視点から、この問題について考えてみたい。

1.教育の機会平等と住宅市場

米国においては、州毎に低学年を除く全学年全生徒学力検査が実施されており、学校毎、学年毎、科目毎に、受験者数、平均点、標準偏差などが詳細に公表されている。筆者の住むミシガン州においては、4段階の到達レベル毎の生徒数や、各学年の男女別、人種別構成、人種別平均点までもが公表されており、結果公表後は誰もが、州教育省のページから直接全てのデータをスプレッドシート形式でダウンロードして閲覧することができる。

米国においてこのような情報が最も大きな影響を与えているのは、授業や学校運営に対してよりも、住居の選択や不動産市場に対してだろう。つまり、教育内容が学力テストの結果に影響を与えているというよりは、学力テストの結果が不動産市場を通じて住民の特性に影響を与えて、学力差が維持されていくという面が強い。こうした地域間格差には、住居の選択に関する情報が増えるというプラス面と、格差が固定化されるというマイナスの面があるだろう。それでは全体としてどちらの面が大きいかと言えば、米国においては、プラス面が勝っていると言ってよい。というのは、米国において、こうした学校間の学力格差を気にする層はそれほど多くないため、必ずしも、経済格差によって保護者の選択肢が狭まるという状況にはなっていないからだ。例えば、ミシガン州において、貧困層の多いデトロイト市は、裕福な北部郊外の都市に比べて大幅に学力テストの結果が悪いが、大半のデトロイト市民にとって郊外に住むのが経済的に不可能かと言えば、必ずしもそうではない。例えば、我が家はボロくて格安だけれども良い学区の中にある家に住んでいるのだが、近所の住民には裕福ではないけれど、子供の教育のためにわざわざ引っ越して来た人が多い。一般的には富裕層は貧困層が近所に引っ越してくるのを嫌がるが、良い学区にボロいアパートがあれば、そんなところにわざわざ引っ越してくるのは、教育熱心な層だから、教育水準の高い富裕層にとっても、それほど問題にはならないというわけだ。

また、中古住宅の流動性が高いことも選択肢を広げるのに役立っている。中古住宅市場の大きな米国では、子供が小中高校に通っている間だけ学区を選んで住むというようなことも大して難しくない。極端な例を挙げれば、近所に住む中国人の家庭は、子供が高校生の間だけ米国の良い学区の高校に通わせるために、コンドを買って母子だけで引っ越して来た(学区内にアパートはない)。3〜4年もすれば、物件を売ってどこかに行ってしまうのだろう。

このように、米国においては、学力テスト結果の公表は住居の選択肢を広げるという点でポジティブに働いている面が強いが、日本でも同様の事が実現するかどうかは明らかではない。ほとんどの国民が良い学区に殺到して、そこの住宅価格が急騰するようなことがあれば、教育機会の平等を妨げかねないことは事実である。情報の公表が社会的にプラスになるかどうかは、価値観が十分に多様化しているかどうかが重要であるということだろう。また日本では、住宅の流動性が低いことも考慮しなければならないだろう。現状の日本の住宅市場を所与とすれば、子供のために引越まで考えることのできる保護者は稀で、学校間格差を受動的に受け入れなければいけない保護者には不満がたまる可能性も否定できない。


2.授業や学校運営に対する影響

日本の学力テストの結果公表に反対する意見として大きいのは、結果の公表が過度な競争を招き、授業が学力テスト対策に偏ってしまうという悪影響を懸念するものである。確かに、教育の本来の目的は、将来直面する未解決の問題に取り組む思考力をつけることであり、そうした目的を、解法や対策が固定化している学力試験によって測るということには無理がある。米国の学力テストにおいては、毎年、問題が似ている事から、各校が対策を施し、平均点は年々上昇の一途を辿るのが通例である。しかしこれは、必ずしも教育効果の改善を意味するものではなく、型にはまった試験対策のために、代わりに失われた何かがあると考える方が自然であろう。

また、米国においては、悪名高い「落ちこぼれゼロ法(NCLB法)」が学力検査においても大きな悪影響を及ぼしている。例えば、ミシガンの学力検査結果の公表にあたっては、NCLB法の精神に基づき、合格点に達した生徒が何%いたか、という点が重視されてきた。その結果、教育水準の高い小学校などでは、おおむね全生徒の90%以上が合格点を取るといった状態になっている。そうした学校では下位10%の生徒の学力を底上げをすることが、更なる評価の改善につながる事になるため、授業を大多数の生徒に適した水準よりも大幅に低くすることになるという弊害が生まれるというわけだ。ごく最近になって、ミシガン州もこうした問題に気付き合格基準を引き上げたが、依然としてカリキュラムは易しすぎる状態に留まっている。米国では科学技術分野の人材不足が叫ばれて久しいが、下位10%の学力水準を引き上げたところで、科学技術分野の人材不足は全く改善しないだろう。

話はそれるが、OECDなど国際的な学習到達度テスト結果を考える際にも、同様の注意が必要だ。このテストで日本の国別順位を上げたいなら、教育内容をこのテストの範囲に絞って落ちこぼれを減らす事が有益だが、より高度な人材を育てたいならば、落ちこぼれが増えるのを覚悟でより多くの内容を教育課程に盛り込まなければならない。

こうした事を踏まえると、学力テスト結果の公表にあたっては、毎年の学力テストの問題に変化をつけ、問題の予測可能性を小さくすることが、いわゆる教育の「連作障害」を避ける上でより重要になってくる。また、優秀な生徒を増やしたいのか、落ちこぼれを減らしたいのか、さらには、一部の科目に秀でた生徒をたくさん育てたいのか、平均的にできる生徒を育てたいのか、についても真剣に議論をし、目的に沿った評価基準を公表する必要があるように思われる。

教育内容を決めるのは、国であり、市区町村であり、学校であり、教員である。本来、当事者が信念に基づいて教育を行えば、付け焼き刃で試験の対策だけするということにはならないだろう。しかしもし保護者が、学力テストの学区別成績に拘るあまりに、近視眼的な対策を強力に求めるようになれば、教育の根幹部分を揺るがすようになる。結局のところ、学力テストの結果公表を有用なものにするためには、結果を真剣に受け止めつつ、長期的な視野に立って物事を眺めるという余裕が社会全体に行き渡っていることが前提となるだろう。


3.どのように公表すべきか

それでは、日本の学力テストの結果はどのように公表すべきだろうか。

第一に必要なのは、社会的な問題に対処しながら、積極的かつ漸進的に公表を進めるのが望ましい、ということである。現在でも、都道府県別の順位は公表されているが、その社会的な影響はそれほど大きくない。それは、都道府県毎の差があるからと言って、沖縄県の人が、いきなり秋田県に引っ越そうとは普通は思わないからである。しかし、学校毎の結果が全て公表されるということになれば、住宅市場や生徒数の動向に大きな影響を与えることになる。大田区から世田谷区に引っ越す事はそれほど難しくないからだ。実際、米国ではテストの成績が上がった学校では、生徒数の増加して、一クラスの人数が増えるということが珍しくない。日本では、一気に学校毎の結果公表するのではなく、例えばまずは市区町村毎の結果を公表し、さらには、より小さなブロック毎、学校毎、と段階的に進めるのが一案ではないかと思う。そうすることによって、生徒数の激変を避けることができるし、過渡期には市区町村内で、生徒の割り振りを調整するということも考えられるだろう。

第二に、公表の形態は過度に格差を煽らないものにすることが望ましい。学校別の順位を全面に出すというのは恐らく最悪の方法だろう。入試で選抜する私立の学校と違い、公立の生徒の学力の幅は大きい。例えば、米国ミシガン州のテスト結果では標準偏差(ばらつきの大きさ)も公表されているが、この結果から逆算するとトップに近い学区の生徒の平均学力偏差値は60程度である。大雑把に言えば、平均的な学校の生徒の8割あまりが偏差値35〜65に収まっているのに対し、トップの学校ではそれが45〜75に収まっていると言う事になる。そのように結果を示せば、オーバーラップが大きい事も分かり、より実態を表した統計になるだろう。各種統計で日本人の学力格差が米国人より小さいことを踏まえれば、学校間格差は更に小さくなるのではないかと予想される。幅の大きさも学校によって違うことを踏まえれば、必ずしも2校の優劣はつけられないため、明確な序列化を避けることもできる。そもそも、数十人から百数十人規模の学年別テスト結果は年による変動も大きいので、厳密に順位を付ける意味はあまりない。


まとめ

学力テストの公表は、国民の知る権利を満たす上で避けては通れない道だろう。そして長い目で見れば、より多くの情報が公表されることは、国民にとって有益なことであると思う。しかし、全ての人が同じ方向を向きやすい日本の国民性を踏まえると、教育の機会均等を確保するためには、米国のような国に比べより多くの注意が必要となるだろう。

 


テーマ : 子育て・教育
ジャンル : 学校・教育

米国に住む日本人小学生の生活 -- このエントリーを含むはてなブックマーク


日本の小学校でも外国語活動が必修科されるなど英語学習熱が高まっている。日本人にとって言葉の構造や音が大きく違う英語の学習はなかなか難しい一方で、英語圏からの帰国子女は、英会話がうまかったり、海外の一流の大学や大学院に合格しやすかったりと、羨望の眼差しで見られることも多い。しかしながら、日本語と英語の両方を習得するためにはそれなりの労力がかかっていることもまた事実だ。そこで、米国在住の日本人小学生として、おそらくごく標準的な生活を送っている、小学2年生の娘の普段のスケジュールを紹介したいと思う。

現地の小学校は月曜日から金曜日までで、午前9時から午後4時までの授業だ。娘の場合は、月曜から木曜までは、その後5時半頃までいわゆる学童保育で友達と遊ぶ。日によっては、学校で催されるお絵書き教室やサイエンス教室などの課外授業などがある日もある。宿題は、今はまだ年度初めのため、ごく簡単な計算プリントを1日1枚、それに加えて、週1回二十くらいの単語を使った英作文と書き取りが出ている程度だ。今後は、1日20分の読書とか、「冷蔵庫にあるものを書き出そう」といった簡単な課題が加わることになるだろう。宿題は、主に月曜から木曜日に出るため、週末にやるものはほとんどない。ちなみに、娘の小学校は少なくとも4割がバイリンガルだが、少なくとも読み書きの能力において、バイリンガルの生徒の学力は、英語のみの子よりも平均すると少し高いように思う。

平日の夜は、夏なら私と散歩に出かけたり、それ以外の季節であれば、家でボードゲームをしたり、日本語や英語の本を読んだりして過ごす。英語の本を読む時間を除けば、生活は全て日本語だ。娘が英語で話しかけた時は日本語に直させる。先日、娘が「でも、ここはアメリカでしょ。」と言うので、「家の中は日本だ。よく覚えておけ。」と言っておいた。妻の実家にSlingboxを設置してもらい、録画した日本のテレビも見れるようにしてあるが、操作性の問題や、回りに日本のテレビを見る人がいないせいで、なかなか気が向かないようだ。

そのほか、金曜日はピアノを習いに日本人のピアノの先生のところへ行っている。米国の小学校では音楽の授業で楽譜を読ませないことも理由の一つだ。毎日少しずつ練習するという習慣も大事だろう。また、学童保育に行く日数が少ない学期は、水泳教室に週1回行っていたこともあった。

土曜日は、車で40分ほどの距離にある日本語補習校に通う。授業は午前8時55分から午後3時15分までだ。国語が3時間に算数が2時間、それに音楽や課外活動が1時間という構成のようだ。あいにく家から離れているので、私は娘を車で送ると、近くの喫茶店や図書館で仕事をして時間をつぶし、そのまま娘を迎えに行く。放課後に、図書室で日本の本とマンガを借りる。海外で日本の本を入手するのはコストが嵩むので、これはありがたい。娘にとって家族以外の日本人の子と触れ合えるのは補習校だけなので、その後は、なるべく友達と遊ばせるようにしている。ついつい私も子供と一緒に遊びたくなるが、子供に社会性をつけさせるためと思い、最近は他の子のご両親などと話すようにしている。娘も友達もなかなか楽しいようで、午後5時近くまで遊んでいることも多い。それでも中々帰りたがらないのが常だ。家に着くと午後5半頃になる。

日曜日は、補習校の宿題をやる日だ。国語と算数だけとはいえ、1週間分を1日で学習する上に、普段も日本語に触れる機会は少ないので時間がかかる。休憩時間を除いて3〜4時間くらいはかかっているだろう。算数はすぐに終わるが、熟語や作文などは、やはり時間がかかる。作文は親の助けもそれなりに必要である。日曜に予定がある週は、土曜の夜や月曜にも宿題を割り振る。

なお、日本語補習校は、他言語の補習校に比べ時間が長いことが多いようだ。中国語、韓国語などの補習校は土曜日に半日で終わるというケースが多い。というのも他言語の補習校が、米国への永住者を対象にしたヘリテージ教育の側面が強いのに対し、日本語補習校では、将来日本へ帰国することを前提としたカリキュラムが組まれていることが多いためだ。

以上のことをまとめると、米国に住む日本人の小学生は、英語で週5日、日本語で週2日勉強し、足りない分は本を読んでなんとか補うという感じだろうか。大雑把に言って、2つの言語を完全に習得するには2倍の学習時間が必要だ。ただし数学や科学的な知識をはじめいわばメタレベルで理解する内容については、一つの言語で学習すれば内容を他言語にも転移させることができるので、それぞれ本来の7割くらいの時間で、なんとか両方身につけるというイメージだろう。それでも、小学4年生にもなれば、完全に両方とも学年相応のレベルでついていくのは相当大変になるようだ。

英語圏の大都市に住む日本人の子どもは、他言語教育の環境に恵まれている。言語ごとに完全に別の環境を作って学ぶことができるからだ。しかし、だからといって、二言語を学ぶ労力が小さいというわけではないという事は、米国で育った日本人や帰国子女と接する全ての日本人に理解して欲しいと思う。

あとがき

実は、この記事を書こうかどうかしばらく迷った。というのは、在米日本人の方や英語圏で子育て経験がある日本人の方にとって当たり前のことしか書けないからだ。それでも、やはり、そうではない全ての方に事情を知って頂きたいと思い、書かせて頂いた次第である。


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男女の学歴格差はどこから生まれるのか -- このエントリーを含むはてなブックマーク

多くの国で誰もが大学に行きたいと思うようになり、大学進学率も高まってきている。
もう少しくわしく男女別に見てみると、日韓を除くほぼ全ての先進国では、
女性の進学率の方が高い。
米国に関して言えば、大学に進む女性の数は男性の1.4倍程度となっており、
4年生大学、大学院修士課程などほとんどの学位で女性の進学率が男性を上回っている。
博士課程に関しては男性がやや多かったが、近年差は縮まっており、
手元に統計がないものの既に逆転している可能性もある。
一般的に言って女性は勤勉でコツコツ勉強するタイプが多いので、
男女差別が少なくなったいま、女性の進学率が相対的に高いのは自然だ。

一方で、日本の大学進学率は
男性が55.6%であるのに対し、女が45.8%となっており
(男女共同参画白書(平成24年版))、
女子の短大進学率(9.8%)を合わせれば男女の差はほぼないものの、
いわゆる上位層を見れば男性優位は依然として際立っている。
東京大学入学者のうち女性はわずかに19%、慶応大学でも30%程度に過ぎない。
ハーバード大やスタンフォード大の入学者がほぼ男女半々であることと比べると
非常に大きな違いがある。

こうした格差の説明として最も一般的なのは、
文化社会的な性差に起因するというものだった。
すなわち、労働環境の問題や子育てに関する日本独特の価値観によって
女性がキャリア的に成功することが難しいとか、
早く学校を出ないと結婚が遅くなるというような考え方に女子が従うと
進学にあまり一生懸命にならないということである。
また、男子の方が全体的に能力のばらつきが大きく、
それが上位層の厚さに影響しているとの説も有力である。

もちろんこうした要因が重要であることは間違いないが、
アメリカで実際に子育てをしていて感じることは、
そもそも日本の学校の選抜制度そのものが、
男子に有利なように設計されているのではないかということである。

第一に、日本では国立大の入試をはじめとして一発勝負型の入試が多いが、
こうした仕組みは、学校の成績の様な日々の積み重ねを評価対象に加える選抜制度に
比べて男子に有利なようだ。一概に比較はできないものの、
例えば慶応大学では学力試験を用いた入試の合格者における女子の比率は3割程度で
あるのに対し、推薦や自己推薦入試など他の区分では女子の比率が5割を超えている。

第二に、日本では試験問題自体も男子に有利な設問になっている可能性がある。
アメリカ数学会の雑誌に掲載されたMertz教授とKane教授の論文によれば、
中学段階の標準学力試験(TIMSS)や、米国の大学進学適性試験(SAT)においては
既に男女の数学力に有意は差はないとの結果が出ている。
ばらつきの大きさに関しても、男女で大きな差はないという。
しかし、この結果は日本の入試の結果とは相容れない。
詳細なデータは持ち合わせていないが、日本では中学入試段階でさえも
男女の算数の平均点や上位層の厚さには大きな差があるようであるし、
例えば今年の東大入試では数学の試験で難問が少なかったために、
女子校の合格者が多かったと言われている(前年比で約1割増)。
日本の入試では出題範囲が決められているため、
問題を難しくするにはパズル的に難しい問題を出さざるを得ないが、
そうした問題は男子の方が得意なようである。
しかし、そうしたパズル的な難問を解く能力はあくまで学力の一部だろう。
女子の受験者にとって、そうした難問がボトルネックになって
進学者を減らしている可能性も高い。

実は私も個人的にはパズル的な問題が好きなのだが、
先日、数学科の博士課程の適性試験問題を作る機会があり、
少しパズル的な問題を作って、他の教官に難色を示された。
その教官はモスクワ大出身の超エリートだが、
試験はあくまで基礎知識や構成力を確かめることを主眼に置くべきと考えていた。

米国では、40年前に6%しかなかった数学の博士号所得者における
女性の割合は30%まで増加した。
これは科学技術分野の人材難に悩む米国にとって大きな変化だ。

かつて日本の大学入試は現在より熾烈で、
奇をてらう難問で志願者を振り落とす必要があった。
少子化と基礎学力の低下が進んだ今、
日本の大学もパズルのような問題の試験で一発勝負をさせるよりも、
基礎知識をきちんと身につけた人、総合的な学習能力の高い人に
広く門戸を開くことが国としての人材の高度化に貢献することになるのではないか。



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【Willyメソッド】10桁×10桁を暗算する方法 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

最近知ったが、1年半前くらいから2桁かける2桁の暗算が流行ってるらしい
「岩波メソッド」などという仰々しい名前がついているから、
「ふーん、どうやるの?」と思って方法をググってみたら、なんてことはない、
魚を書きながら(笑)ちょっと違う順序で計算するだけのことらしい。
まあ、普通に筆算するよりは若干暗算しやすいかも知れない。
(計算方法を紹介したページのリンク
この方法、東京大学医学部在学中の岩波邦明さんが考えたとのこと。
岩波さんっていうから、
「あぁ、岩波書店の創業者にコネがある人か。」
と思ったら出版社は小学館。



「おまえw 東大理Ⅲとか受かったうえに、
たかが2桁のかけ算で本売っちゃうとかどんだけ天才なんだよw」

というのが取りあえずの感想だが、
ちょっと悔しいので、ネタにマジレスと思いつつも、
対抗して新しい「Willyメソッド」でも考えてみよう。

取りあえずセールスポイントは、

「2桁x2桁とかマジしょぼくね?
Willyメソッドなら10桁x10桁でも暗算できるし(キリッ(*1)」 

ということにしてみる。

(*1) MACで半角カナはメンドくさい。

はじめに、小学校時代の記憶が飛んじゃった方のために復習しておくと、
2桁以上のかけ算は九九と分配法則を組み合わせることによって計算できる。
例えば「67x89」であれば、
(60+7)x(80+9)
= 60x80+60x9+7x80+7x9
= 4800+540+560+63
= 5963
という具合だ。
だから2桁x2桁なら、
九九の表を2x2=4回参照した上で、4個の数を足し合わせる必要がある。
つまり九九を計算する時間を別にしても、足し算を4−1=3回しなければいけない。
これが10桁x10桁なら、
九九の表を10x10=100回使った上で、100個の数を足し合わせる必要がある。
つまり九九を計算する時間を別にしても、足し算を100−1=99回はしなければ
ならないので、少なくとも2桁x2桁の33倍程度の時間はかかる。
時間はかかるが計算の難しさはあまり変わらないはずだ。

しかし、10桁x10桁を暗算できる人が少ないのは、
その計算過程でたくさんの数字を記憶する必要があるからだ。

従って、いかに必要な記憶量の少ないアルゴリズムで
計算するかが暗算の鍵
であると言える。
ちなみに筆算は、紙にいくらでも書き込めるという前提で考えられているため、
その意味で最適にはなっていない。

そこで、以下の前提条件の下で10桁x10桁を暗算できる方法を紹介しよう。
(ただし、九九の表は暗記しているものとする。)

前提1)最終的な計算結果は、1桁ごとに紙に書き込んで良い。
前提2)3桁たす2桁(答えが3桁以内のもの)を暗算できる。
前提3)前提2の結果(3桁の数字)を直後の計算開始まで記憶できる。

つまりこの方法では、3桁の数字1つを覚えることさえできれば、
10桁x10桁を暗算できるし、
好きな時点で一時中断することもできるということである。

実際に10桁x10桁を例に説明することもできるが、
足し算を99回行うためあまりに冗長な説明になる。
この方法は何桁x何桁の場合でも適用できるので、
ここでは4桁x3桁を例にとってやってみよう。

(例)3456x789

(答えの一の位)
かけられる数の一の位「6」の上に使用済みの印(・)を付け
(注:印の位置は環境によってずれることがあります)、
一の位どうしを掛け算する(6x9=54)。
答えの1の位「」を書き込み、繰り上がりの「」を記憶する。

   ・
3456x789=      4

(答えの十の位)
「3456」のうち印のついていない中で一番右にある「5」に印をつけ、
「789」の一番右の「9」をかけ(5x9=45)、
記憶していた「5」と足し合わせる(5+45=50)。
答えの「50」を記憶する。

「3456」の「5」の右の数「6」と
「789」の「9」の左の数「8」をかけ(6x8=48)、
記憶していた「50」と足し合わせる(50+48=98)。
「3456」の「6」より右には数がないので、この位はここで終了。
答えの十の位「」を書き込み、繰り上がりの「」を記憶する。

  ・・
3456x789=     84

(答えの百の位)
「3456」のうち印のついていない中で一番右にある「4」に印をつけ、
「789」の一番右の「9」をかけ(4x9=36)、
記憶していた「9」と足し合わせる(9+36=45)。
答えの「45」を記憶する。

「3456」の「4」の右の数「5」と
「789」の「9」の左の数「8」をかけ(5x8=40)、
記憶していた「45」と足し合わせる(45+40=85)。
答えの「85」を記憶する。

「3456」の「5」の右の数「6」と
「789」の「8」の左の数「7」をかけ(6x7=42)、
記憶していた「85」と足し合わせる(85+42=127)。
「3456」の「6」より右には数がないので、この位はここで終了。

答えの百の位「」を書き込み、繰り上がりの「12」を記憶する。

 ・・・
3456x789=    784

(答えの千の位)
「3456」のうち印のついていない中で一番右にある「3」に印をつけ、
「789」の一番右の「9」をかけ(3x9=27)、
記憶していた「9」と足し合わせる(12+27=39)。
答えの「39」を記憶する。

「3456」の「3」の右の数「4」と
「789」の「9」の左の数「8」をかけ(4x8=32)、
記憶していた「45」と足し合わせる(39+32=71)。
答えの「71」を記憶する。

「3456」の「4」の右の数「5」と
「789」の「8」の左の数「7」をかけ(5x7=35)、
記憶していた「71」と足し合わせる(71+35=106)。

「789」の「7」より左には数がないので、この位はここで終了。

答えの千の位「」を書き込み、繰り上がりの「10」を記憶する。

・・・・
3456x789=   6784

「3456」と(789の一の位にある)「9」の掛け算は終わったので、
9の上に印をつける。

・・・・   ・
3456x789=   6784

(答えの一万の位)
「789」のうち印のついていない中で一番右にある「8」に印をつけ、
「3456」の一番左の「3」をかけ(8x3=24)、
記憶していた「10」と足し合わせる(10+24=34)。
答えの「34」を記憶する。

「789」の「8」の左の数「7」と
「3456」の「3」の右の数「4」をかけ(7x4=28)、
記憶していた「34」と足し合わせる(34+28=62)。

「789」の「7」より左には数がないので、この位はここで終了。

答えの一万の位「」を書き込み、繰り上がりの「」を記憶する。

・・・・  ・・
3456x789=  26784

(答えの十万の位)
「789」のうち印のついていない中で一番右にある「7」に印をつけ、
「3456」の一番左の「3」をかけ(7x3=21)、
記憶していた「6」と足し合わせる(6+21=27)。

「789」の「7」より左には数がないので、この位はここで終了。

答えの十万の位「」、答えの百万の位「」を書き込んで計算完了!

・・・・ ・・・
3456x789=2726784


10桁x10桁よりも桁数が多くても計算は可能が、
全てのケースで3桁の記憶で済むのは11桁x11桁までだ。

・・・・・・・・。
確かに計算機を叩けば一発で答えが出るのだけれども、
算数や数学の計算を最小限の記憶にて実行する方法は、
これから少し役立つ場面が増えるかも知れない。
というのも、PCやタブレット、スマホを使った教育用プログラムが増えているからだ。
今のところ、数学教育用のプログラムはほぼ、
「暗記を要求するもの」と「複雑な問題の答えを択一式で回答するもの」に限られている。

一桁の四則演算のような基本的な内容なら前者だし、
中学校以上で本格的な問題なら、たいてい後者である。
後者のケースでは、形式上はコンピューター上だけで勉強が完結するものの、
実際には、学習者が手元で紙に計算をする必要がある。
しかしこれでは、タブレットやスマホの利便性を
最大限活用した学習法とは言えないだろう。

やや話は変わるが、私は中2の時に右手を骨折して、
左手で試験を受ける羽目になったことがあった。
幸いマーク式だったので答えを書き込むのには左手でも支障なかったが、
一番大変だった科目は、計算をほぼ暗算でしなければならない数学であった。
そう考えると、コンピュータソフトを活用した教育はインプットに制約が多いために、
意外と数学と相性が悪いのである。

例えば、2桁x2桁の掛け算の練習問題をコンピューター上に載せたとき、
生徒が紙を使えないとすれば、どのような形式で解答させる方式がベストだろうか。
紙で計算するなら、筆算を使っても良いし、分配法則でばらしても良い。
もしかすると、「岩波メソッド」を使う人もいるかも知れない。
そうなると、計算方法に依存する途中経過を要求することはできないから、
方法に依存しない部分だけを入力させるのが妥当のように思える。
おそらく、計算の最終結果を一の位から順に入力させることになるだろう。
では、もっと桁数が多かったらどうするのか。

そう考えていくと、タブレットを持ってソファーで寝転びながら算数や数学を
勉強するには、記憶量を最小に抑えるWillyメソッドで学ぶのが最適なのである。



テーマ : 算数・数学の学習
ジャンル : 学校・教育

数学は歯みがきチューブのようなもの -- このエントリーを含むはてなブックマーク

18年前に予備校で数学を教え始めた頃から、
「数学は、歯みがきチューブのようなものだ」と教えている。
歯みがき粉のチューブは、フタの底面から見れば丸いし、
正面から見ればほぼ長方形、横から見れば三角形に見える。
それでは歯みがき粉チューブの本当の形は、
丸いのか、四角いのか、三角なのか?というのはナンセンスな質問で、
ご存知の通り、下のような形をしているにすぎない。



数学も似たようなもので、
同じ概念を説明するのにいろいろな方法があって、
習い方によって、それが丸く見えたり、四角く見えたり、三角に見えたりするのだ。

「中学まで数学は得意だったのに高校に入って嫌いになった」とか、
「高校では数学が得意だったのに大学に入って苦手になった」といった話を
とてもよく聞くのだが、それは日本の数学のカリキュラムにおいて
小学校、中学、高校、大学で教える内容があまり親切に接続されていないからだろう。

小学校の算数は日常生活で必要な計算をすることに主眼が置かれている。
中学の数学では、もう少し論理的、言語的に思考する訓練に主眼が置かれ、
出される問題はあたかも論理パズルのようである。
高校の数学は、体系的に事実を公式化し、その公式を正しく使う能力が求められる。
公式当てはめというと無味乾燥なものと考えがちだが、
科学技術立国として大量の技術者を育てる必要があった戦後日本の
国策には非常に適していたということもできるだろう。
大学で数学を専攻する学生は、より論理的に精緻な議論をすることが求められる。
一方、大学院に進めば、精緻な議論ができることを前提として、
より全体感やイメージを捉えることが重要になってくる。

中学のときに数学は丸いと教えられていたのが、
高校になってからいきなり「いや数学は四角いのだ」
と言われれば、面食らって嫌いになる人も多いだろう。
そんな時に、本当は歯みがきチューブなのだということが分かっていれば、
丸い側面から見るのは得意だったということが少しは励みになって、
よし、四角い側面も頑張ってやってやろう、という気になるかも知れない。

このように算数や数学を多面的に見ることは、
海外に住み日本語の補習校と米国の現地校の両方に通う子どもたちにとっては、
もっと早い段階から役に立つ可能性もある。
というのは、日米では計算の方法一つとってもやり方が違うこともあるからだ。
そんなときに、異なる角度から見ればより理解が深まると考えれば、
二通りの方法で勉強するのが必ずしも無駄でないことが分かる。
チューブの形が分かってしまえば、
それが丸く見えても四角く見えても、大きな困難なく理解することができるはずだ。

 


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米国で教育機会の不平等を感じるとき -- このエントリーを含むはてなブックマーク

難関中学や一流大学に合格した人、司法試験に受かった人、
音楽やスポーツの大会で上位入賞した人などは、
もちろん、その成果の大部分が自分の努力によるものだと思うだろう。

しかし、世の中には大きな教育機会の不平等が存在している。
成果のかなり大きな部分が、環境に依存するものであることも事実だ。
こうした不平等の大きさは、日米でどちらが大きいのだろうか?
これを客観的なデータを元にして示すことは意外と難しい。

例えば米国の多くの一流私立大学などでは、教育機会の平等を保つため、
学力や人物の他に、親の学歴、家族形態、居住地域、生活環境、経済状態、
人種などを考慮に入れ、不利なグループに属する志願者を
有利に扱うのが公然の秘密だが、そうしたデータは表には出て来ない。
なぜなら、こうした差別が合憲なのかということに関して
未だに議論が終わっておらず、訴訟リスクがあるためだ(参考記事)。


しかし、米国で子供を育てている実感としては
米国の格差は日本より圧倒的に大きいように感じられる。
そして、その格差は二極化と言われるような単純なものではなく、
何層にも分かれた階級社会のようになっている。

社会的に注目されやすいのは、貧困層の負の連鎖である。
例えば主に貧困層が住むデトロイト市は
人口71万人と島根県全体に匹敵する人口を抱えるが、
市内に住む成人の識字率は53%に過ぎない。
日本でも、高学歴でない両親を持つ子供が良い大学に進むのは難しいかも
知れないが、識字率が53%しかない地区はないだろう。
大阪府の同和地区に限っても識字率は85%を超えている
(大阪市『同和問題の解決に向けた実態等調査報告書』2009年)。
デトロイトのような地域の子供が人並みの教育を受けることは難しい。

中流以上に限れば格差は小さいのかというと、そこにも大きな格差がある。

米国では公立学校別の学力データは公開されており、
教育熱心な家庭はそうしたデータを血眼で読んで良い学区を選ぶ。
例えばミシガン州では、アパートの管理人が住人の人種構成に付いて述べたり、
個人が郵便受けに表札を出したりすることすら禁止されているにもかかわらず、
教育省のウェブサイトを見れば、学校別、学年別、男女別に詳細な人種構成データと
各グループの学力データまで詳細に公開されているのだ。
建前は大事だが、背に腹は代えられぬ、ということなのだろう。

各校の学力データから生徒個人のスコアの分布を割り出して偏差値化すると、
何の入学選抜も行っていない公立学校でも、
良い地区の学校では生徒の平均偏差値が60前後に達する。
これは、生徒の半分が州の上位15%に入っているということになる。
大雑把に日本の公立中学校の話に置き換えれば、
学区内に10校近い公立高校があるのに、
ある中学校では生徒の半分が上位の2校に進学し、
別の中学校では生徒の半分が下位の2校に進学するというイメージである。
日本は教育データがあまり公開されていないので分からないが、
感覚的には格差は米国の方が断然大きいように感じられる。
一般に高所得の世帯の子弟の平均的学力は高いということもあるが、
学区の良い地区の安い住宅には裕福でないが教育熱心の家庭が集まる
ことによる格差も存在する。
実際、学区外からの通学者の生徒の成績は、
学区内からの通学者とほぼ同じであると報告されている。

しかし、環境に恵まれた学校であっても公立学校なのでカリキュラムは貧弱だ。
例えば算数について言えば、東アジアやインド、ベトナム、シンガポール、
ロシアのような熱心な国に比べれば1〜2年は遅れているし、あまり体系的でもない。
また、音楽や体育の授業は、予算カットのせいもあり十分な設備がなく、
気晴らし程度のもののようだ。

格差を感じさせるのは公教育だけではない。
むしろ学校教育以外の習い事において、更なる格差を感じる。
米国の初等、中等教育の段階において一番問題なのは、
経済的な方法で子供に真剣に何かに取り組ませるような
教育体制ができていないことである。

例えば、娘にはサッカー、水泳、絵画、ピアノといろいろと習わせてみているが、
集団での指導は子供を楽しませる事が第一でとにかく教え方がユルい。
また、練習をさせるにしても、事故などを気にしているのか、
ホスピタリティーの基準が違うのか、理由はよく分からないが、
一人づつ練習させるので待ち時間が異常に長い。
水泳教室に娘を連れて行くと、私はベンチで本を読んでいるのだが、
時々顔を上げて娘の方を見ると、十中八九、
娘はプールサイドで順番待ちをしている。
日本だと、大人数のクラスでももっと
流れ作業のようにバンバンやらせる事が多い。
上のクラスも同じプールでレッスンをしているので観察して見ると、
確かに一応みんな泳げるのだが、きちんと教えていないのでフォームはバラバラだ。
センスのいい子や他で泳ぎ方を習ってきたであろう子は綺麗なフォームで泳げるが、
そうでない子は「何とか溺れてはいない」というフォームで
個人メドレーの練習をしている。
意味がないので、この水泳教室は止めさせた。

習い事が、日本の中学校の英会話の授業のよう、
と言えば雰囲気を分かって頂けるだろうか。
ゆるい授業で先生がたくさんの生徒を順番に当てていくだけなので、
50分の授業で平均的な生徒が口にするのは、
"I went to bed at around 11pm yesterday." だけ、
というイメージである。
そんなユルい授業で、英語が話せるようになるわけがない。

もちろん、アメリカにもスポーツが得意な子、音楽が得意な子、
勉強が出来る子などがいるわけだが、そういう子はお金をかけて
個別に先生を雇ってもっとインテンシブにやっているとしか考えられない。

実際、娘のケースでも、ピアノだけは個別指導で、
家でも奴が厳しく指導しているお蔭か、それなりの勢いで伸びている。
しかし、こうして手間とお金をかけられるのは
環境に恵まれた場合だけだ。

良い私立学校に入れれば熱心な先生が懇切丁寧に見てくれて、
こうした問題は解決するかも知れない。
しかし、年間2万ドルを超える学費を払える家庭はそうそうないだろう。
小学校の一年間の授業時間数は千時間弱なので、
一時間あたりでは優に20ドルを超す計算になる。
科目毎に、その分野を専門にする博士課程の学生や
音楽、スポーツのインストラクターを家庭教師に雇っても同じ位の額で
済むかも知れない。

そう考えると、米国でホームスクーリングが流行る理由も分かる。
米国教育省によれば、米国で義務教育期間の子供のうちの3%、
実に150万人もが学校に通わず家庭で教育を受けている。
そのうち、宗教(35%)や障害(2%)などを理由に学校に通わせない親はむしろ少数派で、
学校の教育環境に何らかの不満を持つことを主な理由として上げる親が4割を超す。
グーグル創業者の一人セルゲイ・ブリンは、小学校を出たあと家庭で教育を受けた。
父親は、ロシア出身でメリーランド大数学科の教授であった。
17歳でメリーランド大に入学したセルゲイは、
数学とコンピューターサイエンスを専攻して3年で卒業し、
国費奨学生としてスタンフォード大の博士課程に入学した後、グーグルを創業する。

高学歴層の親の教育に関する関心は高く、
その結果、子供の人生にも大きな影響を与えている。
先日会った統計学者は、娘が数学教育の博士号を取り娘婿も統計学者だそうだ。
彼とディナーに行った際に、
「何か娘に特別な教育をしたのですか」と聞いてみた。
彼は「何も特別なことはしていないけど」と言ったあと、
「娘の中学の数学の先生は簡単な因数分解もできないような問題のある先生だった。
他の保護者も心配なようだったので、
私が州の中高の教員免許を取って娘がいる間、その中学の先生として教えたんだ。
私はたまたまハンガリーの教員免許を持っていたから、
割と簡単な手続きで免許を取れてラッキーだった。」と続けた。


日本でも、早期教育、ゆとり教育の失敗、個別指導の流行などで
教育環境の格差は年々広まっているし、地域間の情報格差も依然として大きい。
しかし、実際に米国で住んでいる肌感覚からすると、
米国での教育の格差は非常に大きいと感じられるのである。


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【五月病になる前に】大学なんて辞めちゃったっていいんだよ -- このエントリーを含むはてなブックマーク

数日前に書いた「【大学新入生に告ぐ】大学は4年で卒業して就職しなさい。絶対にだ。」
には思いのほか反響をたくさん頂いた。
頂いた批判のほとんどはもっともであるし、
逆に思ったより賛同の意見が多かったということもあるのだが、
いま一度強調しておきたいのは私が言っているのは決して極論なんかじゃなく
大学に入る人やその親の誰もが考えておかなきゃいけない事なんだよということである。

もう20年近くも前のことだが、私は某大学の理工学部数学科に進学した。
当時の理工学部は、大学入学時に完全に学科を分ける方式を採用しており、
大学に入学した瞬間から4年間の生活が決まるという仕組みになっていた。
数ある学科の中で数学科は「極楽」と言われ、
単位の取得が最も楽な学科であるという評判であった。
実際、時間のかかる実験もなく単位の認定も厳しくないので
卒業が楽という意味ではこれは確かに正しかったのであるが、
実のところ、半数近い学生は地獄の4年間を過ごす事になる。

学問としての数学は、
高校での数学とは異なり高度に論理と様式で固められた学問である。
高校生の時に、教科書や板書に論理的な誤りがないかを丹念に
確認していたような学生なら全く問題がないが、
入試問題をパターンと認識してゲーム感覚で答えだけ出してきたような
学生には敷居が高い。

数学科に入学した学生はそのことに一年生の5月頃には気付き、
半数以上の学生は自分に数学は向いていないのだと悟って途方に暮れる。
中退して、才色兼備の美女の多い文学部にでも入り直すか?
そんな事が頭をよぎったとしても、実行する学生は一人もいない。
厳しい入試をくぐり抜けてせっかく入った有名大学を
2ヶ月で中退するなどというエネルギッシュな学生はそうそういないものだ。
辞めてしまっては親に見せる顔がない、と考える学生だって多かっただろう。
比較的ハードルの低い転科を考える学生ですら極めて例外的であった。
まだ18〜9歳の子供である。

難しい入試をくぐり抜けた人たちだけあって、
3年生くらいになるとようやく数学に独特な作法に慣れてきて
実力を発揮し始める人も結構いるのだが、
それでも半数弱の人は4年間、耐え難きを耐え、凌ぎ難きを凌ぎ、
数学の事はほとんど分からないまま
なんとか卒業して潰れることは無さそうな会社に就職する。
数学を十分に活かせるような仕事に就かない人も多い。

私はそういった数学科の友人のことを考えるたびに、
彼らにとっての幸せとは何なのだろうか、と考えさせられた。
彼らが知的能力の面で、数学が出来る学生に比べて
そんなに劣っているわけではない。
ただ進路の選び方を間違えてしまったということなのだ。

彼らがその後うまくやっているのか、と言えば幸い答えはほぼイエスだろう。
途方もない苦難に耐えて、4年で卒業して就職した人たちが
そんなに簡単にへこたれるはずはない。
しかし一方で、もし数学が向いてなかったのなら、
1年間を棒に振ってでももう一度別のことに挑戦した方が
ずっとエクサイティングな大学生活を送れたのでは
という気がしてならないのである。


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いい加減、教員を聖職者扱いするのはやめよう -- このエントリーを含むはてなブックマーク

自民党が、公立学校の教員希望者に対して、
3〜5年程度の試用期間を経てから本免許を与える案をまとめたようだ。

結論から書けば、この案が実行されれば公立学校の新任教員の質は一気に低下するだろう。

1.雇用が不安定となり就職先としての魅力が低下

公立学校といえども教員には、教科の指導能力、マネジメント能力、対人交渉力、
とかなり幅広い能力が要求される。
もちろん公立学校に問題のある教員が多々いることも承知しているが、
それでも例えば米国などと比べて、熱意と指導力のある教員が多いのは
十分な待遇を用意しているからだ。
年収も平均で700万円台半ばとごく平均的なホワイトカラーが
就く仕事としては高いし(米国の多くの州では5万ドル台前半)
何よりも教員の雇用は多くの民間企業に比べて安定している。
業務内容の変化は緩やかであるし、一年単位で区切りのつく仕事なので、
女性には産休後に復帰しやすいというメリットもあるだろう。

そこに「当初3〜5年間は試用期間」などという案が通れば、
まともな学生の多くは公立学校教員というキャリア自体を断念するだろう。
仮に9割以上の「仮採用」者が本採用に至るにしても、
わざわざ3〜5年後に「不合格」の烙印を押されて20代半ばで
放り出されるリスクを取ってまで教員になるのは特殊な人に限られる。
「民間企業の正社員はだめだったけど、派遣社員よりは安定しているから」
という学生が、新任教員の平均像となる可能性が大きい。

2.パワーハラスメントが問題化

仮採用期間の勤務成績で本採用を決めるとなると、
学校側は新任教員に対して生殺与奪の権利を持つ事になる。

例えば米国の大学教員はテニュア制度という似た制度を持つが、
これは業績が査読付き論文や、政府系グラント、学生による教育評価など
客観的な指標で測れるということが大前提となっている。

学校現場のような業績評価を主観に頼らなければならない場で同じ制度を採用すれば、
学校や他の教員はこの権利を盾に、経験と称して様々な雑務を押し付けるという
ことになりかねない。仮に大半の教員が善意で新任教員に接したとしても、
インセンティブがある以上、必ず一部の学校ではこの問題が起るだろう。

米国では、公立学校の給与水準が低い事から小中学校の教員は事実上
ピンクカラーと呼ばれる女性が主に就く職業となっているが、
今回提案された制度の下では、試用期間中に産休を取ることに対する
ハードルが高くため、女性からの人気も落ちるだろう。

3.現職の問題教員対策にならない

教員に関する改革に関しては、他の労働問題と同様、必ずと言っていいほど、
既得権者への不利益を避けて新参者が負担を被るかたちで意見がまとまる。
免許の更新制にしても、教育系大学院にしても同様だ。

今回の案はその最たるもので、現存する問題教員の問題を全く解決しない。
平均的な教員が、35年間勤務するとすれば、排除できる問題教員の数は、
全体の35分の1しかいない新任教員の数パーセント程度ということになる
だろう。ある市に1000人の教員がいるとすれば、せいぜい年に
1〜3人程度の「教員に向かない人」を排除できるにすぎないと思われる。
しかも、わずかな問題教員は排除できても上で述べたように
人材の平均レベルは下がる可能性が極めて高い。

効果は非常に限定的であるし、明らかな問題教員を排除する目的であれば、
教育実習の評価を厳しくすることで十分に対応可能なはずだ。
民間企業の採用と異なり4週間も実地での研修が義務づけられた特殊な職種に、
わざわざ試用期間を設ける意義は正当化できない。


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結局のところ、どこの国のおとぎ話か分からないようなこんな不思議な案が
えらい議員先生たちから出てくるのは、
教員は特別な存在であるという誤った固定観念によるものだ。

今回の案を、一般企業、例えば業績不振に陥っているパナソニックかどこかに
置き換えれば、いかに異様な提案であるかがお分かり頂けるだろう。

「業績回復のために社員改革を実施する。問題社員の排除が目的だ。
現在の正社員に特に変更はないが、今後の新卒社員の採用に当たっては
当初3〜5年間を試用期間とし、勤務成績が良好な者のみ正社員として登用する。」

優秀な学生は誰もパナソニックに来なくなるのは、火を見るより明らかである。
月曜日のパナソニックの株価も暴落だ。

今回の提案がパナソニックの例と違うのは、教員の人材価値は株式市場で
取引されていないので暴落が観測できないという点だ。


公立小中学校の教員はじかに子供の成長を助けるという意味でやりがいのある仕事だが、
ストレスレベルも高く、自由度が高い仕事ではない。
勤務条件を大幅に悪化させれば、
志望者が大幅に減少するか、人材のレベルが下がるかのいずれかだ。

現状の雇用制度まで無視して、ステレオタイプで不自然に厳しい制度を
作ったところで、教育は静かに崩壊に向かうだけである。


(私の教育実習を担当した先生が書いた本。)


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【大学新入生に告ぐ】大学は4年で卒業して就職しなさい。絶対にだ。 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

日本の四月は、桜が咲き、
たくさんの新入生や新入社員が新しい環境で勉強や仕事を始める特別な月だ。
私は、多くの人が将来に希望を膨らませて何かを始めるそんな日本の四月が好きだ。
自分が小学校、中学、高校、大学、大学院に入学した日のこと、
初めての職場に入社した日の事を昨日のように思い出す。

私はいわゆる日本でサラリーマンをやってから
いまは米国で博士号を取って大学教員をしているのだけど、
何でそんなに変則的なキャリアになっているのか、
少し書いてみたい。

書いてみようと思ったきっかけは、「発言小町」の次の投稿だ。

大学新入生に「お金が要らないのはあと4年」と告げること(By 高校生の父)

長男がこの春大学に入ります。
そろそろ自立させる準備にかかろうかな、ということで、妻と話し、
以下のような条件を息子に提示しようかなと思っています。

妻との間では、「妥当な条件になっているのではないか」
という結論になっていますが、一般的に見てどうかな?
と不安もあるのでご意見を頂きたいです。

(1)今から4年間は学費・生活費ともに親が完全に負担する。

(2)正当な理由なく留年して学生生活が5年目に入る場合、
その後の学費の半分は自分で働くなどして負担すること。

(3)留学や院進学などで学生生活を延長することは可能だが、
その学びが必要なものだということを親にプレゼンして納得させることが条件。

(4)学生生活が終わっているか否かを問わず、我が家に無料で住めるのはあと4年間。
5年目からは月3万円の家賃兼食費を徴収する。なお家賃兼食費はその後1年ごとに
月1万円ずつ上昇していき、上限はない。
(5年もすれば、自分でアパートを借りたほうが安くなるという設定です)

大学に入学する時点で息子に提示する条件として、いかがでしょうか?


皆さんは、この投稿を読んでどう思われただろうか。

私は「こんな親ばかりだから若者が萎縮するんだな」と思った。
投稿した人は4年で大学を出た典型的な大卒サラリーマンにまず間違いない。
1930代半ば〜60年代に生まれた日本人の多くは、
極めて安定した社会の中で真面目に勉強して進学、就職をし、
身を粉にして働くのと引き換えに会社の手厚い保護を受けて良い生活を送ってきた。
自営業や大学研究職のようなイレギュラーな職業に就いていた人を除けば、
今もなおそうした人生を当たり前のものと受け止め、
無意識のうちに子どもにもそうなって欲しいと願っているのだろう。

私も、モーレツサラリーマンと専業主婦に子供二人という
典型的な昭和のサラリーマン家庭で育った。
大学に入学する前から数学者になりたいと思ってはいたけれども
同時にそれはイレギュラーなキャリアなのだという意識はあったし、
大人になるにつれ、とびきり優秀でもない自分にとって
それが非常にリスクの高いキャリアなのだということも
認識するようになっていった。

先輩の院生から、
「現在の数学系研究職のジョブマーケットは求人倍率0.05倍
(つまり20人に1人しか就職できない)らしい。」
などと言う話を聞いたり、
博士課程の院生が仕事を見つけられずに苦しんでいるのを見て、
「もちろんキャリアは自分の努力次第だけれども
仮に頑張ったところで上手く行かなければ大変なことになる」
と思うようになった。

私は大学院で落ちこぼれて専門分野に対する興味自体を失っていったが、
分野を変えたり環境を変えたりして何とか踏みとどまろうというエネルギーが
湧きおこらずに、ともかく新卒カードを切れるうちに就職してしまおうと思ったのは、
自分が育った家庭のように経済的に何の不安もない豊かな生活を送りたいという、
まわりから無意識のうちに刷り込まれた価値観とプレッシャーが大きかった。

そして実際にめでたく良い職場に就職し、親元を離れ、
忙しくて楽しい充実した社会人生活を送ってみたものの、
結局、経済的安定や社会的地位なんてものは自分をそれほど幸せにはしないようだし、
キャリアに関する悩みはいつまでも消えないのだということに気付いて
もう一度分野を変えてやってみようと思い直したというわけだ。
博士を取った時には、大学入学から実に16年が経っていた。

もちろん、私は大学を4年で卒業したからこそ、
修士を取り、良い職場で経験を積み、留学して大学院に行き直すことができたと
言えない事もないし、別に好き好んで1年間遊んでいたこともない。
しかし大学を卒業して15年経ったいま、
少なくとも大学を4年で卒業すること、修士を2年で取ること、
に大して意味はなかったのだなと感じる。

若さ溢れる大学新入生には、
「大学は4年で卒業して就職しなさい。絶対にだ。」
という両親に対して、
「俺は大学でこれからの事をじっくり考えるんだ。
何年かかるかなんてわかんねーし、辞めるかも知んねえ。
大学は実家から1時間だけど自由に考えたいから一人暮らしさせろ。」
と言い返せるくらいのエネルギーが欲しいところである(※)。

※ ただし裕福な家庭に限る。



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TOEFLを大学入試で義務づけるとどうなるか? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

自民党の教育再生実行本部が、英語試験のTOEFLで一定の点数を
大学入試で義務づける案をまとめたようだ。
この案にはプラスの面もマイナスの面もあるが、私の第一印象は
「あー、TOEFL受けたことがない人が考えた案でしょ」
であった。

1.英語能力試験として優れるTOEFL

まず、TOEFLの最新の形式である TOEFL-iBT について簡単におさらいしよう。
この試験は、米国のETS社によって作られた、ノンネイティブの学生の
米国大学における英語運用能力を評価するための試験だ。
120点満点で、Reading, Listening, Writing, Speaking
の4科目に30点ずつ配分される。
口語と文語、インプットとアウトプットを均等な点数配分で見るテストで、
大学に進むための正に総合的な英語力を試す試験となっている。
基本的に「米国で学生生活を送るのに支障がないレベル」
が満点に設定されていると考えれば良い。
米国の大学院に入るための基準点は90点前後であることが多いが、
これは「学生生活に支障はあるけど、何とかやっていけるレベル」
だと考えると良いと思う。

この試験は、米国の大学が留学生に求める英語力を測るために、
改良を積み重ねて作られており、大学入試や英検やTOEICなどの
試験と比べても断然、英語の運用能力がきちんと測れるように作られている。
難しいけれども、意味のないマニアックなクイズや「無理ゲー」の
ような試験ではないのだ。

こうした点で、TOEFLは大学生に求める英語力を測る試験として
適していると言える。


2.英語教育体制に問題

TOEFLはきちんと英語を勉強してきた人ならそれなりに良い点を取る事ができる試験だ。
もちろん得点を上げるために対策もできる。
しかし、問題は日本にTOEFLの対策をできるような教育体制が
整っているかという点にあるだろう。

日本人は、一般的にライティングやスピーキングなどの
アウトプットが苦手だと言われるが、これは日本人が生まれ持った性質ではなく、
アウトプットをきちんと評価できる中学・高校の英語教員が少ないせいだ。
毎週、宿題などで短いエッセイを書いてその表現や構成を英語教員が添削する、
というような授業が行われていれば、生徒のライティング能力は飛躍的に
向上するだろうが、そこまで力量のある教員が少ないのではないか。

スピーキングに関しても同様だ。
近年はALT(英語指導助手)が導入されていると思うが、
その質や時間数、生徒数に対する教員数の比を考えると、全く十分とは言えない。
私の感覚ではスピーキング能力の上達速度は、1クラスの生徒数に比例する。
例えば、4人のグループで会話を習うと、上達のスピードは1対1の
4分の1程度だということだ。
これは人数に反比例して話す時間が短くなることに加え、
トピックが最大公約数的なものにならざるを得ないことにも起因する。
意味のあるスピードで上達するには、インターネット経由でもいいから、
自分の興味にあった会話を1対1でできるということが必須の条件だと思う。

要するに、これまでの文法や読解重視の英語教育というのは、
必要性から生まれたというよりは、日本の英語教育のリソースの制約下で
考えた次善策という側面が強いと言えるだろう。

現在の教育体制を放置したまま、大学入試の英語をTOEFLに代えると、
教育環境の整った大都市圏の裕福な家庭、
子供を留学させたりイマージョンスクールに入れられる家庭
親が英語を話せるような家庭の子女などが更に有利になることは間違いない。
もちろん、英語力が高い子供が有利になるのは一向に構わないわけだが、
ある程度、教育体制を改善して機会の平等を図ることも必要だろう。


3.TOEFLの大規模かつ公正な運用には疑問

もっと実際的な問題は、TOEFL iBT が日本の大学入試ほど発達した大規模な
仕組みに耐えるほどのシステムになっていないということにある。

TOEFLのライティングは、私が受験した当時、
出題されうる問題は200題程度に限定されており、
原理的には全ての問題を「予習」しておけば解答できるようになっていた。
実際には200のエッセイを準備する時間はないので、
典型的なパターンを練習をするだけで終えるのが普通だが、
英語力が足りない子が何とか高得点を取ろうと思えば、
200のエッセイを暗記させる塾が現れることは想像に難くない。
しかし、それでは英語力向上の点では本末転倒である。

その他のセクションにしても、基本的には同じ問題が繰り返し使われる。
TOEFL受験者は守秘義務にサインする必要があるが、
他の受験者に問題を漏らしたとしても、その捕捉は容易でない。
また受験者個人だけとっても、何度も受験すれば、
同じ問題が出題されることもあるのである。

留学熱が高い中国や韓国では試験問題の情報交換が頻繁に行われ、
ETS社は、これらの国で受けたコンピューターベースの
試験スコアを無効にしたことがある。
その結果、裕福な韓国人などは、
わざわざ大阪までTOEFLを受けにやって来ていたのである。
韓国人の友人によれば、大阪の受験会場の近くのスタバは、
韓国人受験生の溜まり場になっていたそうだ。

もしも政府が英語教育を本当に改善したいのであれば、
実用的な英語試験の開発を自ら行うべきだろう。

現状のまま、TOEFLの受験を全受験生に義務づければ、
受験者は大学受験生だけで50万人程度になる。
各受験生が5回試験を受け、毎回約2万円の受験料を払えば、
それだけで毎年500億円の受験料がETSに落ちる計算になる。
政府が少しばかりの予算をつけて検討すれば、
TOEFLと同じ程度に英語の運用能力を図ることのできる試験を開発し
公正に運用することも十分できるのではないだろうか。



(かつてやった参考書)


テーマ : 英語・英会話学習
ジャンル : 学校・教育

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Willy

Author:Willy
日本の某大数学科で修士課程修了。金融機関勤務を経て、米国の統計学科博士課程にてPhD取得。現在、米国の某州立大准教授。

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お勧めの本
1.ルベーグ積分30講
―― 統計学を学ぶために。
   小説のように読める本。
   学部向け。


2.Matematical Statistics and Data Analysis
―― WS大指定教科書。
   応用も充実。学部上級。

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