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香港の大学が助教に1600万払う理由 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

前回のエントリー「大学教員"1600万貰えるから海外移籍"から考える頭脳流出問題」では日本からの頭脳流出全般について書いた。

この問題が注目を浴びて分かったことの一つは、日本国内だけを見ている一般の人には世界が専門家に払っている給料水準がよく分かっていないということである。そこで今回は香港の大学がなぜ助教に円換算で1600万円も払うのかということを少し詳しく書いてみようと思う。

(1) 経済学者の給与水準

圧倒的な規模を誇る米国の大学産業では、給与水準は分野毎に決まる。医学部、ビジネススクール、ロースクールなど他の労働市場で付加価値の高い分野の教員の給与が圧倒的に高く、エンジニアリングスクールや経済学科などがこれに続く。

米国の経済学科で博士新卒のテニュアトラックに支払われる9ヶ月分のサラリー(米国の大学では9ヶ月契約が一般的であり人によっては外部からの資金を獲得して追加で1〜2ヶ月分の上乗せがある)は、研究大学の平均で11万5千ドル、上位30校では13万6千ドルである(出典:アーカンソー大レポート)。これは3年前の数字であり、こうした分野の給料は近年高騰しているので来年度は1万ドル程度の上乗せと考えるのが自然だろう。したがって、川口氏が得た14万4千ドルというオファーはおおよそ米国の上位校に匹敵する水準だと言う事ができる。

英語圏の他国のサラリーも米国との裁定が働くが、それでは他の国はどうだろう。中国の一流大学では助教の年俸は30〜40万元程度だという。米ドルに直せば5万ドルくらいになる。米国に比べるとだいぶ安いが、中国の物価は地域による違いはあるものの大雑把にいえば米国の半分くらいである(IMF調べ)。したがって購買力としてはやはり米国の大学と同程度ということになる。また国内の平均所得との比で言えば中国の大学の方が賃金は高いとも言える。

(2)ビジネススクールという環境

同じ経済学者でも、ビジネススクールでは経済学科より更に高額のオファーが貰えるというのが一般的な認識だろう。資金の出所はMBAの学生などが払う高い学費や、卒業生や企業から集まる寄付金である。

一方で、この上乗せの代償もある。高い授業料を払うMBAの学生は授業内容には非常にうるさいことで有名である。彼らのほとんどは学問に興味がないので、分からない授業や自分に役に立たなそうだと感じれば、学問的な価値とは関係無しにすぐに文句を言う。したがって、授業準備もビジネススクールで教える方が大変だろう。

経済学者であれば、できれば経済学に興味を持っている学問的に優秀な学生に教えたいと思う人の方が多いだろうから、需給の面でもビジネススクールの給与は高くならざるを得ない。

また教員に対する英語の要求水準も、経済学科に比べれば格段に高い。「私たちは下手な英語を聞くために高い授業料を払っている訳じゃない」という訳だ。香港やシンガポールのような中華圏の大学ではそこまで高くはないが、それでもアカデミックな学科に比べると高いはずである。

(3)初年俸が重要

これは特に米国で顕著な傾向だが、良い人材を獲得するために初年俸を高く設定することが多い。逆に言えば一旦雇われてしまえば、その後の昇給は限定的なものになる。近年、大学教員の獲得コストは高騰しているので、何年か大学にいる准教授の給料が新任の助教の給料より安いというような逆転現象も見られるのである。これは年功序列の日本とは違うところである。

一方で、英語圏でも昇給のチャンスがないわけではない。スター教授には引き抜きがかかり年俸は高騰する。実際に移籍しなくてもオファーを貰い本気で移る気があれば、カウンターオファーで同額を提示する大学が多い。そうやって実力の高い人の給料は上がっていくのだ。

(4)人材流出問題を抱える香港

いくら香港の大学は世界的評価が高いとは言っても、14万4千ドルというオファーが米国対比でもやや高額であることは確かだろう。これは米国対比で香港の人気が低いということに起因している。

同僚の老教授によれば97年に香港の中国への返還が決まって以降、政治的な不安定さを嫌気して、香港から大量に人材が流出した。そこで香港の大学は給与を引上げて人材を引き留めた。シンガポールの大学の給与が高いのも、香港に対抗して引上げたことが理由だという。

欧米人は同じ英語圏でもアジアに来ることを好まないし、ましてや香港は英語が問題なく通じるのは大学やビジネス街の中心だけで、事実上の中国語圏だ。中国人の米国留学生も母国が好きな人ばかりではなく、できれば米国に残りたいと思う人の方が多い。

それに加えて、こどもを持つ人にとっては教育の問題もつきまとう。中国返還後の香港の公立学校では中国語で教育が行われているので、インターナショナルスクールに通う必要があるが、その数は不足気味だという。特に歴史的経緯からアメリカンスクールは少なくブリティッシュスクールがメインになる。こうした教育環境の問題から赴任を断る外国人は少なくないそうだ。

香港が日本人研究者に人気なのは、こうした特有の問題があまり障害にならないことが影響しているだろう。英語の壁が低いのは日本人にはありがたい。地理的にも食文化も町並みも日本に近くて生活しやすい。いざとなれば、日本に帰る手があるので政治的な不安もそこまでない。子供の教育もインターが難しければ香港日本人学校という選択肢もある。



このように見ていくと、今回の川口氏のケースは幸運ではあったかも知れないが、それほど特殊な事例ではないということが理解できると思う。

確かに日本には大学教員になりたいという人はわんさかいるので、人材が海外に流出したからといって大学の授業ができなくなるほどの事態にはならないだろう。だが、もし日本の大学の研究者の質を維持・向上させたいのであれば、もはや日本の国立大教員の待遇を叩いている場合ではないのである。


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高騰する米国の教科書価格 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

8月下旬になり米国の大学では新年度を控えて、授業準備をする時期だ。今学期担当する授業は2コースとも自分で教科書を選んだのだが、教科書の値段があまりにも高騰していて驚いている。

大学院向けの教科書の値段は、一昔前まで一冊100ドル程度であることが多かった。しかし、今学期使う教科書は、4年前に自分で購入した時には174ドル、現在は270ドルだ。たった4年間で実に50%以上の値上がりである。これはアマゾンでの割引価格で、定価は342ドルだそうだ。

学部初級向けの教科書の値段も高騰している。私が現在の大学に就職した6年前、教科書の値段は150ドル強のものが多かった。米国の学部初級の教科書と言えば、簡単な内容に回りくどい説明をつけて1000ページ位に膨らませたような代物なので、それでも馬鹿らしいほど高いと感じていたが、今年選んだ教科書の販売価格は272ドルである。

私が特別高い教科書を選んだというわけでもないらしい。アマゾンで一番売れている学部向けの微積分の教科書、J.Stewartの"Calculus: Early Transcendentals"も273ドルだ。この本はかなり分厚いし内容もまともだが、あくまで標準的な微積分の内容で特に凝った本ではない。ちなみに、日本のアマゾンで一番売れていると思われる微積の入門書である杉浦光夫の解析入門 (1)は、私のが学生時代とほとんど変わらず3000円程度なので、いつの間にか日米の教科書価格は10倍も開いてしまった。

<なぜ米国の教科書価格はこんなにも上がってしまったのか?>

(1)大学教育への需要の強さ

単純な理由として、米国の大学教育に対する需要が強いという事があるだろう。若年人口の増加、留学生の増加、州政府等からの補助金削減によって、米国の州立大学の学費は9つの州で過去7年間のうちに50%以上上昇した。http://money.cnn.com/2015/05/13/pf/college/public-university-tuition-increase/ 過去30年を遡れば、ほとんどの州で学費は数倍に達している。これは、大学教育の需要の強さを裏付けている。学費の上昇に歩調を合わせるように、教科書も値上げされているというわけだ。

(2)米国の教科書はウドの大木

もう一つの単純な理由として、米国の教科書のページ数が多過ぎるということが挙げられる。例えば、東大出版の統計学入門 (基礎統計学)のページ数は300ページほどだが、今学期私が使う教科書は950ページもあって1ページの大きさも2倍だし、カラーのページも多い。内容は東大出版の教科書よりも少ないと思うが、ともかく量が多過ぎるのだ。紙の値段は電子化すれば解決できるが、著者の手間は量に比例して大きくなる。どうでもいいことまで延々と書いてしまうのが、多民族国家である米国の文化のだめなところである。

(3)教科書を選ぶのは学生ではない

こうした単純な理由以外にも、いくつかの構造的な要因も考えられる。私がある同僚に「最近の教科書は高過ぎて、(デトロイトにある)うちの大学の貧しい学生には買えなくなってしまうのでは?」と聞いた時の答えは「そんなことはない。うちの学生は高いiPhoneを持っているだろう?」という頓珍漢なものであった。携帯電話は学生にはもはや必需品であるし、一度買えば2〜3年はもつ。一科目の教科書の値段と比べられるようなものではない。だが「学生に買わせるものの値段など知ったことではない」という事なのだろう。ちなみに教員がどうやって教科書を入手しているかというと、出版社に電話やメールをして送ってもらうか、それができなければ、前学期に教えた教員から必死になって掻き集めるという具合である。

(4)貪欲な教科書会社

教科書会社があの手この手を使って、教科書の値段を上げようと画策していることも大きな原因の一つだ。例えば、発売されて年数が経つと教科書は中古が多く出回って値崩れする。そのため出版社は、内容が変わってなくても、数学の教科書であれば、練習問題の数字や問題番号を差し替えて使えなくしてしまう。今学期、私が使う272ドルの教科書は、第5版が今年出たばかりだが、第4版の中古であればわずか17ドルで手に入る。それならばと第4版を使う手もあるが、1、2年後にも新たな学生が中古を入手できるかどうか確実でないし、問題の解答などを作り直す手間を考えると最新版を使わないのはなかなか難しいものだ。

近年では、教科書会社は、教科書本体以外に補助教材をオンラインで提供している事が多い。これを期限付きのライセンス制にすれば、学生が中古の教科書を買うのを防ぐ事ができる。例えば、練習問題を穴埋め式にして自動で採点できるようなシステムを教員側に売り込めば、学生は高値のライセンスを買わざるを得ない。ちなみに、私の今学期の授業の教科書では、出版社が大学の書籍部に対し、ライセンス付きでなければ教科書を売らないと通告したようだ。

<教科書をもっと安くすることはできないのだろうか?>

簡単ではないが、いくつかの可能性はあるように思う。

(1) 大学の中で書いてしまう

現在の教科書価格を前提とすれば、大きな大学では自前で教科書を作った方が全体として利益が大きいだろう。例えば、州主導で州立大を協力させて教科書を作らせ無料で配布する。その代わりに、その半分を教科書作成費として学費に上乗せを認めれば良い。社会問題になっている大学の学費高騰を、ささやかではあるが、実質的に抑える効果があるはずだ。

(2) IT業界への期待

電子書籍の普及は、競争を激化させて、教科書価格を下げる事ができるかも知れない。動画配信分野では、日本のGyaoや米国のネットフリックスが既に独自で番組を作成しているのを考えると、AppleやAmazonなどのIT大手が未だに教科書作成に参入していないというのは、やや遅きに失している感すらある。大学教員としては、こうした大企業には、授業中に学生の集中力を削ぐIT機器を開発する前に、教育の質向上のためのコンテンツの開発に力を入れて欲しいところである。


テキサスA&M大に行きます。 -- このエントリーを含むはてなブックマーク


金曜から日曜朝までいます。

土曜の夕方以降は予定が無いため
まさかいないとは思いますがオフ会希望の方はご連絡ください(笑)。


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推薦状について -- このエントリーを含むはてなブックマーク

米国では秋から冬にかけては、大学院や仕事への応募のシーズンであり、
大学で教員をしていると、学生から推薦状を書いてくれと言われることがよくある。
それは、大学院への応募のためだったり、仕事への応募のためだったりする。
私も米国の大学院にアプライする際や、米国で仕事を探す際には
いろいろな先生に推薦状を書いて頂いた。
今年の秋は、3人の学生から相次いで推薦状を頼まれた。
A4一枚程度で学生との具体的関係や学生の能力について書くというのが一般的な形式で、
それに加えていくつかの多岐選択式のアンケートがある場合もある。
こういう仕事はある意味勢いが大事なので、一晩でまとめて3通書いた。
そこで自分で書く側になって分かったことをいくつか書いてみようと思う。


一番大事な事は、推薦状は長所を評価するシステムだということだ。

私は推薦状にわざわざ悪い事を書いたりはしないし、
他の多くの執筆者も同様だろう。その一方で嘘は書けない。
必然的にその学生の長所を書く事になる。

その際に大事な事は、推薦者が学生を良く知っている、ということだと思う。
自分のクラスを取った学生にしても、過去にいくつも自分のクラスを取った学生なら
その学生がもっとも得意だったことについて書く事が出来るし、
一度しか教えた事のない学生でも、少人数のクラスであれば、
その学生の長所についてより詳しく書く事ができる。

最悪のパターンは、定型的な内容のコースを教えたことはあるものの
1対1ではほとんど話した事がないという学生の推薦状かも知れない。
その学生の成績が素晴らしいものであればもちろん問題は無いが、
ごく平均的であったり、出来が悪かったりした場合には書く事が無い。
50人中26番の学生を「クラスで一番優秀でした」と書くわけには
いかないからだ。

推薦者に、自分が将来やりたい事を詳しく伝えるということも大事だ。
推薦者は応募者のことを応募者自身ほど詳しくは知らないが、
選考する側の者が何を考えるであろうか、ということに関しては
応募者よりも詳しく分かることが多い。

例えば、ある学生が大学院に応募する際に推薦状を書いて欲しいと
言って来たので、応募先を詳しく聞いて、その学生が応募する専攻の
教員が興味を持つであろうことを集中的に書いたところ、
彼は前年には不合格となったいくつかの有名校から
入学許可をもらうことができた。
ちなみに、前年の私以外の推薦者は同じである。

その数年後、彼は別の専攻に転向するために大学院に再度応募したい、
と推薦状を頼んできたのだが、
今度は、ともかく色々な専攻に手当り次第に応募すると言ってきた。
応募する分野を絞るようにアドバイスしたが、
彼は聞かなかったので推薦状は一般的なものにならざるをえなかった。
結果は全敗。うまく行かないのではという心配はあったが、
これほどまでにはっきりと結果が出た事に驚いた。

応募者の「スペック」が高ければ
どんなところでも受かりやすくなるという面も確かにあるが、
これはやりたいことを絞って自分の長所を売り込むことも重要だという良い例だろう。

ところで、推薦状というとコネが大事だと思っている人も多い。
これはある程度正しいかも知れないが、このコネが必ずしもアンフェアというわけでもない。
例えば、大学院から同じ大学の別の専攻に移る学生もいるがそうした場合には
「そちらの学科の大学院生を何人か見てきたが、
応募者はその平均以上の成績を取る事ができると思う」
というようにより具体的に学生の能力の高さを示す事が出来るからだ。
これは選考する側にとっては、
全く知らない人が書いた推薦状よりは説得力があるように思う。

米国の大学院等に出願する際には、通常3通程度の推薦状が必要だ。
誰に何を書いてもらえば良いのか想像もつかないことも多いと思うが、
書く側の立場、選考する側の立場に立ってみると、
少しヒントが掴めるのではないだろうか。


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数学のできない大学生を見て思うこと -- このエントリーを含むはてなブックマーク

先日、「大数の法則と中心極限定理を恋愛小説風に語ってみる
というおちゃらけ記事を書いたが、それにはきっかけがあった。
それは、数学のできない大学生のことだ。

私がいるWS大(学部)は入学が易しい。
出願者の母集団は米国のごく平均的な高校生だと思われるが、
その約80%に入学許可を与えている。
大学は入学した全ての学生に対して
数学を最低1科目履修する事を義務付けているので、
かなり数学が苦手な学生も何らかの科目を履修することになる。

私は昨年、そうした数学が苦手な学生向けのコースを受け持った。
学生の数学的知識は、日本の公立中学3年生と同じくらいであったように思う。
公立中学と同じように、できる子は結構できるし、
できない子は平面上の直線の式も覚束ないという感じで、バラツキも結構大きい。
ちなみに、日本では「分数ができない大学生」というのが昔話題になったことがあったが、
アメリカの簡単な数学の授業では 1/2 + 1/3 は、0.833で済むので話題にならなそうだ。

そのコースを教えてみた一番感じた事は、
そのクラスの学生は数学が苦手だというよりも言語能力そのものが低い
ということだ。

先日、やはり似たようなクラスを教えた数学科のティーチングアシスタントの院生と話をしていて、
そもそも問題文を図に直す事ができない学生が結構多いという話になった。例えば、

「ある三角形の二つの角が30度と90度で、その2角に挟まれる辺の長さが1の時、
残りの2辺の長さをそれぞれ求めなさい。」

というような問題があったとき、
そもそも1行目の状況を図に書く事ができないという。

もっとひどい学生になると、英語の文章を理解する事ができないことがある。
驚く事なかれ、学生は純粋なアメリカ人である。
私はある時、

「期末試験の範囲は5~8章と書いてあるが、1~4章は含まれないのか?」

という質問をメールで受けたので、

「1~4章は明示的には含まれないが、5~8章の問題を解く時に
1~4章の知識が必要になることはある。」

と返答した。しかし学生は意味が分からなかったようで、

「結局、1~4章は含まれるのか含まれないのか?」

と再度、尋ねて来た。
試験範囲に関する質問はあらゆるコースで出るが、
通常の大学2年生以上向けのコースであれば私の返答が理解できない学生はいない。

そんな学生達であるから、
試験問題は、授業でやった問題と全く同じ形でないと解けない人が多い。
数字は異なっていても代入することで対応できるが、
問題文の文章構造が異なるともう何が書いてあるのか理解できなくなってしまうのだ。

時々「計量的な問題は苦手だ。概念的なことは良く分かるんだけど。」
という学生もいるが、これは怪しいと私は思っている。
計量的な問題では理解度を試す事が比較的容易であるが、
概念的な問題では理解度を試す事が難しい
からである。
おそらくこのような学生は
「計量的なことが苦手なことは分かっているが、概念的なことが苦手かどうかははっきりしない。」
という状態なのだろうと思う。

例えば小学生が「知識は力なり」という格言を知って、

「私は「知識は力なり」という言葉を読んで感動しました。本当に知識は力だと思います。
私もたくさん知識を付けて力のある大人になりたいです。」

と日記にでも書けば、小学校の先生的には二重丸だろう。
しかし、この作文は基本的に同じ事を3回繰り返して書いただけで、
小学生が本当に文意を理解しているかどうかは全く分からない。

あるいは「"知識は力なり"の意味を説明しなさい」という高校生向けの現代社会の問題なら、

「"知識は力なり"は、16-17世紀イングランドの哲学者フランシス・ベーコンの主張に
基づく格言である。彼が1620年に著した『ノヴム・オルガヌム』第1巻「警句」において
述べているように、人間の知識と力が一致するのは、原因を知らなければ、結果を生み出す
こともできないからである。」

とでも書けば普通の先生は大満足であろう。
ちなみにこれはWikipediaから主要部分をコピペしただけで、
同じく、これを書いた学生が真意を理解しているかどうかは分からない。
実際、私はこの格言の意味をきちんと理解してコピペしたわけではない。

こうして考えていくと、数学が極端に出来ない学生というのは、
実は「言語能力の低さが数学の試験によって露呈した」だけであって
問題は数学力ではないのではないか
、と思えてくる。
こうした学生はおそらく、
他の分野の勉強をするときも、新聞を読むときも、恋愛小説を読むときも、
内容をきちんと理解できていないのではないだろうか。



<余談>

もちろん、数学は言語能力だけで学べるものではない。数的な感覚もある程度必要である。
数学が苦手な学生向けのコースで、私が黒板に、

1 + 2 + 3 + … + 100

と書いたとき、ある学生が真面目な顔をして、

「3と100の間には何があるのですか?」

と聞いてきた。そして他の学生からは笑いが漏れて来なかったのである。




テーマ : 教育
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高校時代はアイデンティティを育てるための期間 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

WS大では昨日で冬学期の授業が終わり、期末試験を残すのみとなった。
今日は授業も試験もなく、学生にとって期末試験に向けて準備するための日だが、
大学は高校生をキャンパスに招いて宣伝のための講演会を開き、
教員はあちこちの部屋に分かれて分野別に講演をした。

高校生がどのくらいこのブログを読んでくれているか分からないが
講演の前に高校生に伝えたことを書こう。


僕は高校生の頃、数学が大好きだった。
ともかく難しい問題を解いたり、難しい本を苦労しながら読み進めるのが好きだった。
得意だったどうかは別として、それが自分のアイデンティティであった。

予定通り大学の数学科に入った僕は、純粋数学を6年間勉強した。
代数的整数論という、いわば純粋数学の花形的な分野である。
しかし、いつ頃からか、おそらく努力と才能の両方が不足していたせいで
理解できないことが増え僕は数学に対する興味を失っていった。

僕は次第に、金融や経済の分野に興味を持ち、金融機関に就職した。
職場で実際にやったのは、主に実体経済や計量モデル、経済統計などに関する調査だった。
いずれも希望して就いた仕事だったし、学ぶところが多かったが、
経済学にたくさんあるアプリオリな仮定にはあまり馴染めなかったし、
統計の仕事は僕の興味からはやや実務的過ぎた。

次第に統計分野に理論的な興味が湧いてきた僕は、
統計学科の博士課程で学び、統計屋として今の数学科の仕事についた。
せっかく大学で働くのだから理論的なことをやろうと考えていたが、
数学者の同僚に比べあまりに数学のできない自分に絶望する事が多く、
やはりもうすこし応用分野に絞らなければ、と感じる今日この頃である。

こうして順を追ってみると、これだけ思考錯誤しながらも
いかに自分の適性を判断するのが難しいかということを改めて認識させられる。

当然ながら、
数学科に行けば周りは全て数学の才能に恵まれた人ばかりであり、
経済関係の仕事に就けば周りは経済学に造詣の深い人ばかりである。
これは私が経験した分野に限らず、
ミュージシャンは音楽が得意な人ばかりだし、
翻訳や通訳の分野は語学が得意な人ばかりだろう。

そんな中で、迷い無く自分のアイデンティティを長期間にわたって維持するのは
私を含めた大多数の平凡な人々にとっては容易でない。


思えば高校時代は様々な友人に囲まれ、
自分がどんな人間であるのかを客観的に知ることができる
最後にして絶好の機会であったように思う。
進路に迷った時、いつも一瞬高校時代を振り返る事で
自分の原点に帰って考え直すことができる。

高校時代に、様々な個性の友人と出会うことは
その後の人生でアイデンティティを確立するための大きな財産である。


テーマ : 高校生活
ジャンル : 学校・教育

大学内のグラント -- このエントリーを含むはてなブックマーク

時々、企業で働いている日本人などに驚かれるのだが、
数学科のように教育メインで経営が成り立っている貧乏な学科は、
夏休みの3ヶ月間は給料が出ない。
リスは冬に備えて秋までに木の実を溜め込んで冬眠するが、
大学教員は夏に備えて春までにお金を貯めておかなければいけないと言う事だ。
しかも夏はずっと寝ているというわけでもない。

NSF (National Science Foundation)などが提供する研究費を獲得した研究者は、
一般的に研究費から2ヶ月分の給与を支出することができるが、
私はまだ獲得したことがない。

うちの大学は、そうした若手のために、
給与あるいは研究費にあてるための1万ドルの資金を
年間15~20件程度与えているのだが
今回、運良くその資金をもらえることになった。

例年応募倍率は概ね4~5倍程度だから、
大学が学科に若手一人当たり2000-2500ドルずつ支給する
ということも可能なのだが、
「競争にして一生懸命やってそうな人にあげた方が研究が捗るんでは」
との思いつきでそのようになっているのだろう。

しかし、応募する方としてはこれが結構面倒くさい。
NSFの応募締め切りの1ヶ月後にこのグラントの締め切りはあるので
基本的にはほぼ同一内容の提案書を出すことができるのだが
ページ数が約半分になる上、審査をする人が分野外の人になるため、
説明文も変えなければならない。
結局、同じアイデアを元に、
どの学科の人が読むか考えながら受けの良さそうな例を加えたりして、
レターサイズ(A4相当)でびっしり8ページの作文をもう一度し直すはめになる。
確かに審査する側からみれば、
専門家が読む前提で書かれたNSF向けの15ページの提案書を丸投げされても困るわけで
そういう要件になっていることもよく理解できるのだが、
応募する方が面倒なことに変わりはない。
まあ、僕は資金をもらう側だから別にそんな文句を言う必要もないのだが、
両側で手間をかけた挙げ句に資金が学内を移動するだけで大学側はいいのだろうか、
と少し考えさせられる。

そんなわけで、毎年いまひとつ腑に落ちないまま作文をしていたが
今年は学科が結構頑張ってくれたようで
平凡な作文にも努力賞がもらえることになって
とりあえずめでたしめでたしである。


テーマ : アメリカ生活
ジャンル : 海外情報

プレゼンテーション能力は語学力とは無関係 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

今学期、私は学科内でTA(teaching assistant)の評価等をする係に加えられており、
今日は数学科の外国人TAのための英語のテストの試験官をやってきた
おいおい、英語のできない人間に英語の試験官やらせるなんてイヤミかよ、
と思いながらも、割り当てる方はそんなことは気にしていないのだろう。

外国人の院生(のうち英語のスコアが一定点に達していない人)は、
まず最初の学期に英語の授業を取らなければならず、
そのコースにパスしないとTAをやることができない。
こうした決まりはほとんどの大学にあるが、
その基準の厳しさは大学によってまちまちだ。
学費の高い私立などは当然その基準が厳しいし、
うちの大学のように優等生でない学生が多い大学も
ある程度厳しくせざるを得ない。
また、西海岸の大学は学生による評価が厳しい傾向にあるため、
要求される英語力も高いように思う。
ただ全般的な傾向としては、近年は要求水準が高くなりつつある。

今日はそのコースの最終試験の試験官をやってきた。
受験者が質問を含めて10~15分間の模擬授業を行い、
それを様々な分野の教員3人がそれぞれ評価する。
それぞれの教員が、
-- Language Use (文法、流暢さ、語彙、理解力)、
-- Pronunciation(アクセントと発音)、
-- Nonverbal Communicaton (アイコンタクトや生徒とのインタラクション)、
-- Communication of Contents (講義内容)
の4項目を1.0, 1.5, ..., 5.0 の9段階で評価
し、
全ての評価を平均して合否を決める。
3.625点が合格最低点だ。

合格しないとTAポジションを当てにして入学する留学生や所属学科に
とっては一大事なので、大抵は合格する。
しかし今日は3人のうち1人が不合格になってしまった。
私も落第点を付けた。

その学生は、他の学生に比べ英語ができなかったのか
というとそういうわけではない。
実は、合格したうちの1人の方が英語は苦手で、
簡単な文章が聞き取れなかったり、発音が間違っていたりした。
板書は丁寧だったが、冠詞の使い方が違うところもあった。

しかし、大事なことは、
発表が苦手であれば事前によく練習をし、
発音が得意でなければゆっくりはっきりと話し、
分からない事があればきちんと聞き返し、
綺麗な板書と単純化した受け答えで
分かりやすく説明する事だ。
英語が苦手なら、英語力を別のところで極力カバーするという
姿勢が一番大事である、と私は思っている。

そういうことができていないと、試験官の賛同も得られない。
実際、アメリカ人の試験官の1人は、一番英語が苦手だが
きちんと準備してきたTAに最も高いスコアを付けていた。

極論すれば、質疑応答を除いて、
プレゼンテーションは英語力とは無関係だ。
英語が話せなくても、事前に全て準備することができる。

英語が出来ないせいでプレゼンテーションが上手くいない、
と思ってしまいがちだし、実際、私もそう感じることがあるが
それ以外の改善策がたくさんあることを理解しておくことがとても大事だ。



テーマ : 英語・英会話学習
ジャンル : 学校・教育

英語は聞き取るより話す方がずっと簡単 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

今年から数学科の中で、ティーチング・アシスタントと非常勤講師の評価と
指導をする係に加えられた。メンバーは、まとめ役の女性の教授、
常勤講師が男女3人ずつ、それに、常勤の教授、准教授、助教(自分)が一人ずつだ。
今日は2回目の会議だった。

この会議は女性の常勤講師3人が、
評価される人がその場にいないのをいい事に
厳しい事を言いまくってストレスを解消し、
それを男性の常勤講師3人がなだめ、
教授、准教授、助教の3人はドン引きしているという構図だ。
ちなみに、まとめ役の教授は誰についているのか良くわからないところが
まとめ役らしいところだ。

なんだかんだ言って中心的な議題は外国人TAの英語の問題なのだが、
そこで再認識したことは、
「英語は聞き取るより話す方がずっと簡単。」
と言う事だ。誰かがそのことに触れたところ、全員が同意した。
その理由は簡単で、
「話すのは自分で全てコントロールできるが、
聞く方は相手に合わせなければならないから。」
ということである。

純粋な日本人の場合、聞き取る方が話すより得意という人も多いので
これは少し興味深いことではないだろうか。

理由はいくつか考えられる。

1. 日本の英語教育のせい

日本の英語教育では、クラスの規模が大きすぎたり、
教師の語学力が十分でないために、
アウトプットの練習をする機会が限られている。
また本来的にインプット重視の授業が行われている。

2. 数学で使う英語が簡単だから

数学で使う単語は、動詞も名詞も限られている。
また、体系が整備されていることもあり、定型表現が多い。
結果として、話すのが簡単である。

しかし、この論理に従えば聞き取る方も簡単になるはずである。
もっとも、学部初級向けの授業などでは
数学をやっているのに数学的でない質問の仕方をする
学生がいるのも原因の一つだろう。

3. 数学科の院生は変だから

実は前から気になっていたのだが、日本人などの外国人に関しては、
数学系の学生はアウトプットが得意でインプットが苦手であり、
人文・社会科学系の学生はインプットが得意でアウトプットが苦手な傾向がある。

人文系・社会科学系にはそもそも英語力が高い人が多く、
そういう人たちは両方が得意なのだが、彼らを除いて考えると、
語学力のインプット/アウトプット能力のバランスは、
扱っている分野による文章の難易度の違いだけでは
説明できないほど大きいように思う。

もしかすると、
数学系の学生は限られた知識を組み合わせて何かを構成する能力が高く、
人文・社会系の学生は膨大な知識を仕入れて理解する能力が高い、
という本来的な適性の違いがあるのかも知れない。


ドクター・ヴァンスの 英語で考えるスピーキング


英語スピーキング スキルアップ BOOK


テーマ : 英語・英会話学習
ジャンル : 学校・教育

ビミョーな時間割決定プロセス -- このエントリーを含むはてなブックマーク

先学期

A教授「来年冬学期のスケジュール仮決定。
数理統計(修士) 火木 16:00-17:50
      確率論(修士) 火木 18:00-19:50」

8月20日

A教授「来年冬学期の大学院向けのコースのスケジュール送ります。
   直したいところがあったら26日の前までに言ってね。
数理統計(修士) 火木 17:30-19:20 (← なぜか変わってる)
   確率論(修士) 火木 18:00-19:50」


8月26日

B教授「来年冬学期の数理統計(修士)のコース担当の人が引退してたので
   統計の人、代わりに誰かやって。」

今日

C教授「僕、数理統計(博士)教えるから来学期はやらない。
    (本音:曜日選べないからやらない。もう変えられないし。)」

D教授「僕、やりたいんだけど、確率論(修士)と時間が被ってる…。
   (たぶん何も気付いていない。)」

自分「じゃあ、僕やります。
  (本音:曜日良くないけど去年やったばかりだから準備いらないし。)」


→ pure math の 人たちが確率・統計に受講者が流れすぎないように
  小細工して時間を重ねたのではないか、と穿った見方もできる。

→ もっとも、数理統計(修士) は原則、確率論(修士)の後に履修すること
  になってるからまあ許容範囲かも。


テーマ : 短大・大学
ジャンル : 学校・教育

学科の事務員が削減された -- このエントリーを含むはてなブックマーク

州立大学は近年どこも財政難で経費の削減を迫られている。
もちろんうちの大学も同様だ。だからこそ、
コピーの数を減らせとか、どうでも良いことが議題になるのだが、
そんなのは単なる目くらましであって、
要するに人件費を減らさなければ経費は減らせない。

教員にしても、学部向けのコースは
修士卒のインストラクターや非常勤講師の割合をもっと増やして
助教以上の教員を減らせば大幅に経費が削れる
のは間違いない。
あくまで感覚的なものだが、
1コースを教えるのに必要な費用は4割くらい下がるだろう。
まあ、そうすると自分も解雇される可能性があるわけだけど。

しかし、現在もっと問題になっているのが、
無駄な事務員がやたらと多いことだ。
数学科には5人のフルタイムの事務員がいて、
概ね以下のような状況になっている。


職員A:事務のまとめ役。ビザ関係、庶務、学生対応を一手に引き受ける。

職員B:会計担当。勤務時間中も不在のことが多い。
    一応仕事はしているが、大学の会計部門との単なる連絡役のことも多し。
    電話をしていない時は大抵 You Tube を見ている。
    昨年、業務用パソコンをウイルスに感染させた。

職員C:教員用テキストの発注が仕事だが、仕事が超雑で単なるボトルネックになっている。
    出版社に自分で問い合わせた方が断然早くて確実。

職員D:セミナー、授業、院生の論文のスケジュール管理と求人情報の転送。
    暇そう。

職員E:年に3回だけ、学科の授業とオフィスアワーのスケジュールを表にしている。
    (スケジュールや教室割を自分でしているわけではない。)
    仕事がないので机の上には常時何も置いていない。
    私は自分の予定しかチェックしていないが、ほぼ毎回間違っている。
    間違いを具体的に指摘しても気付かないことも。

正直、フルタイムの職員が2.5人、
多く見積もっても3人いれば十分こなせそうな仕事だ。
今回、退職することになったのは職員Eだが
正社員の解雇はそんなに簡単ではないはずなので、
おそらくわずかな割り増し退職金をもらって
本人が早期退職を選択したとかそういうことなのだろうと想像。
学科長から来たメールも「職員Eが解雇された」ではなく、
「職員Eのポストが消滅した」という微妙な表現になっている。

研究や教育の根幹は守らなくてはならないが、
世間が不況の中、大学もそのくらいのリストラをするのは当然だろう。


テーマ : アメリカ生活
ジャンル : 海外情報

こんなんでいいのか、うちの学科の修士課程 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

月曜日に数学科のオフィスにふらっと寄ったら
修士課程の中年の外国人学生から声をかけられ、
「私は数学科の修士課程の学生で、
確率統計の修士を取るためにエッセイを書かなきゃ
いけないんだけど、指導教官になってくれないか?」

と頼まれた。

アメリカの修士課程は修士論文が必須ではないので、
この学生の場合は論文は無しで、20~30ページのレポートを書けばよい。
コースワークは既に終わったとのこと。
しかし、もともと電気工学の学生で、
確率論や統計学にあまり興味がなさそうである。
取りあえず確定的な返事を保留しつつ、
今日少し話をしてみたのだが…

私「今までにどんなコース取ったの?」
学生「これがリストなんですけど…」

abstract algebra,
real analysis,
advanced statistical theory,
control and stochastics, …
と数学科の科目が並んでいる。

私「どのコースが面白かった?」
学生「…」

私「コンピューターでデータ分析したことある?」
学生「ありません。」

私「サーベイとデータの分析ならどっちがいい?」
学生「分析やったことないし、サーベイの方が…。」

私「Advanced Statistical Theory って何やったの?」
学生「A先生のだけど、3年前のだし難しくてあんまり覚えていなくて…。」
私「A先生だったら、minimax の話とかしたのかな?」
学生「そうかも知れません…。とにかく理論だけで難しくて…。」

私「あなたは電気工学の人だし、optimal control のクラスなんか
  とってるから安定性とかには興味あるのかな。僕は時系列だから、
  非定常性のテストのサーベイなんてしたらどうかな?」
学生「?????」

私「今までに統計学で何を勉強した?」
学生「あんまりやってないけど、私一生懸命やるタイプ
   だから大丈夫だと思います。」


私「回帰分析はどのくらいやったことある?」
学生「???」

私「例えば、ここに20人の学生が二つのテスト受けた結果の
  散布図があるけど、スコアには相関があるよね。
  だから、トレンドラインを引くと一方が他方で説明できるわけだけど。」
学生「やったことありません。」

私「うーん、そうか。えーっと、線形代数とかはやったよね。」
学生「線形代数?」
私「(あれ?外国人学生だから用語が分からないのかな?)
  行列とか、線形写像とか、カーネルとかについてのことだけど。」
学生「やったことありません。」
私「3×3の逆行列とか意味分かる?」
学生「…。」
私「うーん、統計の計算って全部行列だからなあ…。」

私「カイ二乗検定とかは分かる?」
学生「カイ二乗??」
私「例えば、こういう風に2×2の表があって、
  そこにパターンがあるかを検定するわけだけど。」
学生「検定??パターンがあるかどうかチェック
  するっていう意味は分かりますけど!」

私「じゃあ、分布って何種類くらい知ってる?
  t-分布とかF-分布とかは知ってる?」
学生「…。」
私「正規分布は分かるよね。」
学生「あ、聞いたことあります。」
私「じゃあ、どんな形の分布かな?」
学生「…。」
私「あ、口で説明するの難しかったら黒板に書いてみて。」
学生「…。」

私「うーん、取りあえず基礎的なこと勉強してから
  レポート書いた方がいいと思うんだよね…。
  とりあえず学部向けの統計入門の
  教科書読んで勉強しておいて。」
学生「私、一生懸命やるタイプですから任せといてください!」

私「レポートか…。そうだなあ…。とりあえずレポートは
1) いろんな統計分布の種類について調べて、
  2) その使用例についてまとめ、
3) ソフトを使って計算例を示す
  ってことでどうかなあ。」
学生「計画を書いた紙を提出しないといけないんですが…。
   題名は…「統計分布」でいいんですか?」
私「もうちょっとおしゃれな名前にした方がいいんじゃないかなあ…。
  "統計分布とその応用についてのサーベイ"ってことでどうかなあ。」
学生「あ、なんかいいですね!概略も書かなきゃいけないんですが…。」
私「(自分で書けるわけないよな…。)
   じゃあ、こんな感じで…。
  (テキストパッドにざっと箇条書きにして体裁を整える。)」
学生「ありがとうございます!E-mailで送ってください。」
私「うーん、でもこれで修士のレポート案として認められるんだろうか…。」
学生「大丈夫ですよ!修士のプログラムの長は、統計知りませんから!」
私「そういう問題でもないような…。
  ちょっと他の統計の人に聞いてみるからしばらく保留にしといて…。」
学生「分かりました!あんまり心配しないで下さい!
   私、一生懸命勉強するタイプですから!」

私「…。」

名誉のために言っておくと、修士でも凄くできる学生もいて、
一流大の統計学科の博士課程にそのまま入っても、
間違いなくトップクラスの成績を取れるだろうという人もいる。
また博士課程は学科が学費や生活費を出すので
優秀な学生以外は呼ばない。

しかし、こういう学生を見てしまうと、
数学科に表向きだけ統計コースを作って
統計学の名前をつけた修士号を与える代償はあまりに
大きいと感じるのであった。

注:
自分の大学のことなので書くかどうか迷ったが
どうせ日本語だし書いてしまった。
日本の大学にいたらとても書けない(笑)。


テーマ : 自然科学
ジャンル : 学問・文化・芸術

すごい人の人生は何が違うか? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

2年前にWS大に来て初めての学期に学部向けの統計入門コースを教えたのだが、
この時、光っていた学生の一人にビクター君という学生がいた。

彼は顔の右半分が大きく変形して硬直しており、
目も一つしかないし歯も半分以下しかない。
だから、話す時もどもってしまってゆっくりしか話せない。

しかし、とても人懐っこい子で、授業が終わった後にいつも質問に来るし、
最後まで残って色々話しかけて来る子だった。
「僕はナイジェリアで生まれんだけど中学生の時にアメリカに来たんだ」
「将来は医師になりたいから、このクラスでもAを取らなきゃいけない」
「学費で借金がたくさんできて大変だ」
「車をぶつけてしまって、今週からバスで通うことになった」
と毎回のようにいろいろ私に話をして帰った。

彼は学期の前半にあった中間試験で平均以下の点を取ってしまい、
理解度もあまり高くないようだったので、成績の話は話半分に聞いていた。
数学力にはそれまでの勉強量やセンスの違いによる個人差が大きいので、
苦手な子が途中から頑張っていきなりAというのは結構難しい。

しかし、彼は相当必死に勉強したらしく、
毎週の小テストの答案の数学表現がみるみる洗練されていく。
二回目の中間試験後でみんなの気が緩んだ時期に、
彼はついに単独の満点を取った。
期末試験でも頑張って、彼は結局Aを取って学期を終えた。

先月、大学のホームページのトップに彼の写真が載っているのをふと見つけた。
彼は今年卒業だが、卒業式でカレッジを代表してスピーチするという。

彼は子供の時に、neurofibromatosis という
顔の腫瘍が際限なく肥大する病気にかかり、クラスメイトから相当な差別を受けた。
東ナイジェリアにある病院に行ったが、
医師たちに「打つ手なし」と言われた彼は
「何でもいいからして下さい」泣きながらと頼んだそうだ。

彼が15歳の時、彼の姿が宣教師の目にとまり、
ミシガンにあるボランティアの医師によって手術を受けられることになった。
彼は一人でナイジェリアを離れて、デトロイト郊外のオークパークのシスター
の家に滞在し、度重なる手術を受けつつ、アメリカの高校で学んだ。

彼は、幸運なことにシスターの知り合いの援助を受けてWS大に通える事になった。
化学科に進んだ彼は、自分の担当外の仕事でも問題が起こりそうになると
進んで解決に当たることから、指導教授から最高級の評価を受け
医学部入学に向けて準備中という。

彼が凄いのは、腫瘍を神からの贈り物だと考えていることだ。
彼の人生は腫瘍のせいで大変な苦難を伴うものになったが、
一方でアメリカに渡って夢をかなえるきっかけと原動力にもなった。
腫瘍がなければ――彼がそれなりに優秀な子供だったとしても――
ナイジェリアで平凡な一生を終えただろう。
彼は、自分の腫瘍に感謝している。

人は普段、二つのファクターがある時、起こりうる結果をその和と考える。
最貧国の小さな村に生まれたことと、重い障碍を持って生まれたこと。
その二つの和は日の目を見ない人生を想像して人を絶望させる。
しかし、すごい人間は二つの特殊な組み合わせを
自分のチャンスに変えてしまう。

線形回帰分析という統計モデルでは、
こうした現象をinteractionとしてモデル化する。
こうしたinteractionは無視できる場合が多いが、
常に注意を払わないと重要なことを見逃してしまうこともある。

正しい判断を行うには通常、物事を単純化する必要がある。
しかし逆境に陥ったときには、
interactionに活路を見出すという可能性も忘れずにおきたい。


ビクター君についての詳しい記事はこちら


テーマ : アメリカ生活
ジャンル : 海外情報

数学は教えてもらえません。 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

私はmixiのアカウントを持っているのだが、
某美人人妻(※)のマイミクに加えてもらっていて
そこに面白い日記があったので勝手に紹介したい:

勉強のできる度合いは3つに分けられて
1 人に教えられても理解できない。
2 人に教えられて理解できる。
3 自分の力で本を読んで理解できる。

2の人は学問的に成就できない場合が多い、、、と思う。
わたしはもちろん2なんだけど、2の人の割合はすんごい多い
私は何を隠そう、大学の数学の授業はもちろんちんぷんかんぷんだったけど、
分子生物学でさえあんまり理解できなかった。。
生物なんてほんとに理解しやすい分野なのに。。。
これは都市部で育った塾に頼った勉強をしてる人間に多いんじゃないかと思う。。


え?まじ?そうなの?とちょっと戸惑ったのは、
私にとってはほとんど1と3のパターンしかあり得ないからだ。
自分で本を読んでも分からないことを、
一瞬の空気の震えだけで理解できるはずもない。

実際、数学の授業なんてほとんどまともに聞いたことがない。
非常に真面目に取り組んだ授業でさえ、
板書を丹念に追い、論理な誤りや疑問点を正した上で
ノートを取って後から自分でゆっくり理解するというのが常であった。

これは、別に私が特殊だからではない。
昨年秋に WS大数学科の学科長を長年務めた Lawrence Brenton 教授から
数学科の教員に送られたメールの一部を紹介しよう。

In my humble opinion, the “boring lecture” format is the worst
possible way to teach and to learn mathematics.


(訳)これは単なる私の意見だが「退屈な講義」形式は
数学を教えたり習ったりする上で最悪の方法だ。


Brenton教授は、退屈な講義がいけないと言っているのではない。
講義は退屈だと言っているのだ。

Speaking only for myself, when I was an undergraduate student I rarely attended any
of my lecture classes, finding it a more profitable use of my time to stay home and
read the book. Now that I am a real mathematician, I sheepishly confess that when I
attend meetings, even on topics that I am intensely interested in, I do not usually
get much out of the scheduled talks, in comparison with informal discussions around
the coffee machine.


(訳)個人的な体験から言えば、私が学部生の時、殆どレクチャーに出たことなんてなかったし、
家にいて本を読むのが一番良い時間の使い方だった。数学者になってからも、白状すると、
興味のある学界に参加した時でさえ、発表を聞いても得るものは大してなく、
それに比べれば非公式の談義をコーヒーマシンの近くでする方が余程役に立つ。


数学者ですら、いや、数学者ほど、数学の講義を聞くことに大した意味があると思っていないのだ。

講義をするのは仕事でもあるしそれなりに楽しいものだが、
教えている本人ですら、その授業を聞いたら理解できるとは思っていない。
むしろ、その場で聞いて理解する学生がいると驚いてしまうし、
それは学生にとって講義が易し過ぎるのではないかと感じることもある。
もちろん、講義ノートはきちんと作るし、
それは理解するまで何度も読み直す価値があるように工夫する。
しかし、授業でしゃべっていることというのは、おおよそ
バック・グラウンド・ミュージック程度の価値のものだ。
ないと退屈だが、別に本筋とは関係がない。

良い本と、講義ノートと、質問できる人と、時間と、議論できる友人、
そしてそれらのための快適な場所だけが数学をやる上で本質的なものだ。

数学の授業が分からないという人は、
一度耳栓をして講義に出てみてはどうだろう。
二人で耳栓をして後から先生が何を言っていたか
議論するのも一興かもしれない。

(※) 東電"美人"OL殺人事件みたいなもの。


テーマ : 数学
ジャンル : 学問・文化・芸術

このブログがアメリカでも有名に? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

今年はW大M校時代に知り合いだった女の子が二人も、
採用候補者として面接に来た。

自分:
「あー、ひさしぶりー。」
女の子A:
「ひさしぶりー。そういえば友達から聞いたんだけど、
Willy君、日本語で面白いブログ書いてるらしいじゃん。
読みたいから私も日本語勉強しよっかなー。」

→ 一体、どれだけ情報通なんだ。


テーマ : アメリカ生活
ジャンル : 海外情報

アメリカで教員をするということ -- このエントリーを含むはてなブックマーク

教員生活も2年目の後半になり、だいぶ様子も分かってきた。
日本の大学のことは良く知らないのでなんとも言えないが、
恐らく大きな違いは以下のような点であると思う。

<アメリカの方が大変そうなこと>

通常、研究大学の数学科では各学期に2コース教えることになるが、
一科目を教える手間はかなり大きいのではないかと思う。

それは、授業が週2~4回あるということだけではなく、
宿題や小テストを毎週出すのが通例であることや
一学期間で3回も4回(中間2~3回、期末1回)
も試験をやったりすることが理由である。

また、今の日本の学生の気質を知らないが、
アメリカ人学生ほど容赦なく電子メールを
送りつけてくるとも思えない。

基本的に教員の社会的地位が低いので
学生のクレームが多いということもある。

<日米で異なるがどっちが良いか微妙なこと>

アメリカの大学は日本との対比では
多くの学科別の事務員を抱えていると思う。
しかし、それが教員にとって良いことなのかどうかは微妙だ。
全般的に事務員はやる気がないので、
そういう人たちを通して事務をやることで余計に手間がかかったり、
トラブルが発生したりすることが多いからである。

<日本の方が大変そうなこと>

明らかな違いは米国の大学には基本的に入試事務がないことだ。
入試は、標準テストと書類選考によって行うので
学科の教員が仕事に狩り出されることがない。
広報活動も基本的にやらない。
大学院は学科で扱うが、書類選考のみで試験はない。

その他の雑用についても、
漠然とした印象としてはアメリカの方が少ないのではないかと思う。


そんなわけで、入門的なコースも熱心に教え、
事務手続きのいい加減さが気にならなくて、
入試事務や雑用が全般的に嫌いという人がいたら
米国で教員生活をするのにぴったりだと思う。
(そんな人がいるのかどうかは不明。)



テーマ : 教師のお仕事
ジャンル : 学校・教育

アメリカで数学を教えるということ -- このエントリーを含むはてなブックマーク

数学はユニバーサルな分野であることは疑いがないが、
日本の高校レベル、あるいはアメリカの学部中級レベルくらいまでは、
学生が期待する教え方は大きく異なるように思う。

1.アメリカでは簡潔な説明、日本では詳しい説明

アメリカ人の学生は簡潔な説明を好み、
日本の学生は詳しい説明を好む。

はじめにおかしいなと思ったのは米国W大M校の
大学院に入ったときのTAの研修の時だ。
現役のアメリカ人のTAが出てきて例題を一題解説した。
解説がギャップだらけでとてもじゃないが聞いてられない。
板書も汚い。しかし、教授陣の評価は上々である。
翌日、今度は自分が模擬授業をさせられた。
詳細な説明や板書で臨んだところ、
「回りくどいので簡潔に。
細かい話は必要なら後からすれば良い。」
と言われてしまった。

2.アメリカの教科書は冗長、日本の教科書は簡潔

アメリカの学部入門向け教科書は異常に冗長だ。
余計なことがだらだら書いてあるだけで紙の無駄である。
ちなみに、私が予習する時も教科書はあまり読まない。
目次と要点だけ掴んで教科書は閉じ、
自分で講義ノートを作る。

一方日本の教科書は、説明が簡潔すぎて
背景が分からないことがある。


3.アメリカでは対話を大事に、日本では板書を大事に

アメリカの学生はその場で理解できないと不満に思うし、
学生に向かって反応を聞き出しながら授業をする必要がある。
逆に質問を投げた時は、結構早く反応が返ってくる。

日本は難しいことをノートに書き写して
あとでじっくり考える、というタイプが多い。
日本の予備校講師になるときに言われた事は、
「授業が終わったら生徒にはノートしか残らないんですよ」
ということだ。
日本の予備校で教えた時に、
海外で博士を取った人が数学を教えていたが、
評判が悪くてすぐにいなくなってしまった。


4.アメリカでは自信を持って淀みなく、日本では一所懸命に

日本の予備校で教えていた頃、
ベテランの先生から聞いた話が興味深かった。いわく、
「毎年同じ内容のクラスを持っていて、
少しずつだが改良も加えている。
教え方もより良くなっているはずなのに
なぜか何年も経つと評判が落ちてしまう。」

日本では、新米の先生が一所懸命に伝える
ということに対するウケが良い。

一方で、アメリカの大学の授業では全く逆だ。
全く同じスライドを使って授業をしても、
そのたびに評価は上がっていく。
細かいニーズを拾って改良したりすればなお良い。
あくまでも豊富な経験に基づいた自信に満ちた
授業が好まれる。

5.アメリカでは採点を甘く、日本では成績を甘く


以前にも少し書いたが、
アメリカ人は甘やかされて育てられるので、
間違いを指摘されるのが嫌いだ。
子供が公文式の計算ドリルをやった後で先生に誤りを指摘されると
「一生懸命やったからあっているはずだ!」
と文句を言う子供も結構いるそうである。
数学では誤答を正答にすることはできないが
試験問題が難しかったり、採点が正確であったりすると
自分の名誉が傷つけられたと感じる学生が結構いるようだ。

一方、日本の大学の成績には甘えの構造がある。
内容を理解していなくても単位が与えられ、
単位認定が厳しい教官は「鬼だ」と後ろ指を指される。
これはこれで理不尽というほかない。



そこまで違いが分かっているなら
その国に応じた教え方をすればいいのでは?
ということになるのだが、
そもそも教えるという行為は
過去に自分がやった方法を模倣させるという側面が強く

なかなか上手く割り切れないところが多い。

そして日本の数学教育は米国より優れているのだ、
という自負もそうした割り切りを難しくしている。

米国の大学で教えるということは、
語学のハンディを乗り越えるということだけではないと思う。


テーマ : 教師のお仕事
ジャンル : 学校・教育

学部1年生向けの授業準備 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

今学期はどうも授業の準備が大変だ。

授業というのは一般的に言って
程よいレベルのものを教えるのが一番楽
なのだが、
今学期は学部1年生向けを1コース、修士向けを1コース、
ということで両方とも割と準備に気を遣う。
(学部1年生向けの方は大学生とは行っても
高校で既に数学が分からなくなった人向けのコースだ。)
もっとも、
私の語学力がもっと高ければ学部1年生向けは楽勝だろうし
私の専門能力がもっと高ければ修士向けも楽勝なはずなわけで
一言で言えば自分の能力不足ということに他ならない。

学部1年生向けの授業は大教室で
学生が180人くらいいるのでスライドを使っている。
授業内容を全部スライドにするだけでも
オリジナルな例をいれたりすると
授業時間の2~3倍は準備にかかるが、
全部スライドに書いてあるだけでは
学生は注意力散漫になるだろうからということで
学生用に要所要所を空欄にしたバージョン用意して
公文式のような穴埋めにした。


分散 S^2 とは、_________ を表す指標で
S^2 = _________________ で定義される。



というような感じだ。
やってみると、スライドを作る手間に比べれば
穴埋めバージョンを作るのは大した手間ではない。
授業1時間分あたりで20分くらいあればできる。
(今思ったが、スライドがLaTeX でなければ
もっと早くできそうだ。)

学生が内容をきちんと理解してるのかどうかは分からないが、
とりあえずみんな真面目に聞いているようだ。
幸いマイクロホンを使うようになってからは
不満も出なくなった。

「こんなコース教えるために教員やってるのかなー」
と思いつつ、
「ここまでコストかけてるからには何回か教えたいなー」
という気持ちもあり複雑だ。
来学期以降、同じコースを教えることになれば
既存のファイルの修正・改良で対応できるので準備の手間は大幅に減る。
昔から、コースを初めて教える時には
それなりの準備が必要だったと思うが、
パワーポイント や PDF の プレゼンが当たり前になった現在、
準備のコストは上がっており
一回教えただけではコストを回収できないと感じる。


「手持ちのカード」を増やして、
早く他のことに資源を集中できるようにしたいところだ。


テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

学部生からの苦情メールに返答 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

今学期は、恐ろしいことに
学部1年生向けの初級の数学のコースを受け持っている。
何が恐ろしいかというと、そのコースの受講者の
数学力は概ね日本の公立中学の2~3年生くらいだからだ。
アメリカの名誉のために書いておくとこれは米国でも多分
9年生(=中学3年生)くらいのレベルだと思う。
「y = 2x + 3」が直線を表す式だということを
分かっていない学生も結構多いらしい。
そんな学生に相関係数とか信頼区間とか教えるのは
どうなのかと思うのだが、何故かそういう
カリキュラムになってしまっている。

もう一つ恐ろしいところは、
学部1年生は数学だけでなく、
外国人にも慣れていないことだ。
今日は早速 E-mail で文句を言ってきた学生がいた。
文面は以下の通りだ。

I really don't understand what you lecture in class
because your accent, and I'm having a hard time
understanding the work when I can't understand you.


because `of' も使えない人に英語のこと言われてモナー、
という気もしてしまったが、まあとりあえず黙っておこう。
具体的にどうしてくれとも書いていないので、まあ単なる
嫌がらせなんだろう。

取り合えず「真面目に対策します(キリッ」という姿勢を見せつつ、
でも理解できないのはお前のせいだよと気づかせつつ、
できればそういう面倒な学生はドロップ(登録解除)してくれると嬉しいなー
ということで以下のようなメールを返信してみた。

I am sorry I can not correct my accent immediately,
but I have a few suggestions:

1. Most people get used to my accent after a few classes.
I have not received complaint on my accent in recent years.

2. I am planning to use a microphone, and it may improve the
situation to some extent.

3. If you found accent problems for specific words,
do not hesitate to tell me. I will fix it.

4. If you also do not understand the slides, probably your
difficulty is not only because of my accent.

Of course, you do not have to stick with my class.
In my experience when students do not trust an instructor,
their understanding get significantly worse.
Please drop the course if you would like to.




うーん、なんか最後の4行が露骨な感じ。
どういうメールが一番効果的なんだろうか。
難しいね…。

補記:
声小さいから今日は前の方に来た、とか、マイクロホン使ってくれ、
という要望は他の学生からも来ていた。
200人教室でマイクが壊れてるっぽいと言うのは確かに困る。
マイクが直って多少でも聞き取り易くなるといいんだけど。


テーマ : アメリカ生活
ジャンル : 海外情報

米国の大学で授業を持つ時の留意点 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

秋学期が、先週のはじめで終了した。
午前中の授業(月火水金)と夜の授業(月水)という
非常に悪い組み合わせで最後まで生活パターンに苦しんだ学期だった。
今学期は、統計の授業は学生の受けが非常によく、
一方で微積の授業は受けが悪いという対照的な結果となった。
その理由をいくつかまとめておきたい。

1.雰囲気作りは重要

一つの理由は雰囲気作りに失敗したという点だ。
元々、午前中の授業は真面目で大人しい学生が多く静かになりやすいが
私は特に朝が弱い方なので、朝の微積の授業は
とっつきにくい印象を与えてしまったようだ。

2.授業は自信を持って滑らかにやるべき

米国の大学で授業をして日本と違う思ったのは、
同じ授業を何回も持つと上手くいくようになるということだ。
アメリカの学生は、先生が授業に関して信頼できる人かどうか、
ということを気にする傾向がある。
何度もやっていると確かに授業が「滑らか」になるので
安心するのだろう。
日本でも予備校で同じ授業を何回も教えたが、
むしろ新米で精一杯やっている先生の方が人気が出たりする。
そのあたりは、基本的に先生を敬う儒教圏とは反応が異なるようだ。

3.数学(勉強法)に対する意識のずれ

微積の授業では、まだ数学的に考える
ということに慣れていない学生が多い。
私は中間試験では考えさせる問題を多く出したが、
それが「パターンに当てはめて答えを出す」
ことに慣れてしまっている学生に不評だったようだ。

学期が終わって気づいた事は、
考えさせる問題が得意な学生と
パターン問題が得意な学生は結構ちがうということだ。
数学は先に進むにつれ、
求められる能力が急に変わることがあるので
教える側はスムーズな移行を心がけなければいけない。


上記の点を反省しつつ
今後の改善につなげたいところだ。


テーマ : 教師のお仕事
ジャンル : 学校・教育

プロフィール

Willy

Author:Willy
日本の某大数学科で修士課程修了。金融機関勤務を経て、米国の統計学科博士課程にてPhD取得。現在、米国の某州立大准教授。

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お勧めの本
1.ルベーグ積分30講
―― 統計学を学ぶために。
   小説のように読める本。
   学部向け。


2.Matematical Statistics and Data Analysis
―― WS大指定教科書。
   応用も充実。学部上級。

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