ヘイトスピーチが絶対にダメな理由 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

 日本ではここ数年、外国人が増えたことや経済力が弱くなって自尊心が損なわれたことから、社会への不満が外国人に向く、ヘイトスピーチ(憎悪表現)が社会問題になっている。ヘイトスピーチはより良い社会を築く上であってはならないものだが、日本のように大多数の国民がマイノリティーの痛みを感じたことがなく、またグローバル化の進展度合いが低い国では、なぜいけないのかがあまりはっきりと分からない人も多いのではないだろうか。そこで今回はこの問題を、分かりやすくお金に置き換えることで説明してみたい。


 仮に、あなたが仕事で年収500万円を得ていたとしよう。もし全く同じ労働条件と生活環境で年1000万円貰える代わりに、一日に一回、見知らぬ人から
    "GO HOME JAP!"
と罵られる国や地域があったらあなたはそこに引っ越したいだろうか?

 私がこの質問を一人の日本人にしてみたところ「ノー」と答えたので、「それでは、どのくらいの頻度であれば我慢してその国で働いてみたいか?」と続けて質問したところ「月1回程度なら」という回答を得た。この答えは、普通の日本人の感覚として常識的なものではないだろうか。それでは、これを金額に置き換えてみるとどうなるだろう。月1回、つまり年12回のヘイトスピーチに見合う報酬が500万円(=1000万円—500万円)だと見做していることになるので、ヘイトスピーチ1回あたり40万円のコストがかかっていることになる。ヘイトスピーチが行われる国では必要としている労働者を呼ぶためのコストがそれだけ跳ね上がってしまうというわけだ。(ここでは賃金に置き換えたが、他にも旅行者が減ったり、日本に反感を持つ人が増えるなど様々な経路で損失は生じる。)直感的にはこの額はとても大きく感じられるが、条件を多少変えてみたところで、その額が思ったよりもずっと大きいという事実は動かないのではないだろうか。これは、ヘイトスピーチを行う「話し手」とその痛みを受け止めるマイノリティーの「受け手」の間に、非常に大きな認知ギャップがあるからに他ならない。

 ヘイトスピーチが絶対に許されないのは、「人類みな兄弟」などという理想主義的な価値観からのみ出る結論では決してない。ヘイトスピーチは社会的に「とても高くつく」ものなのだ。

 私は日本国民全員に外国人を大好きになれと言うつもりはない。しかし、ヘイトスピーチのニュースを見るたびに「これをやってる人たちは自分のストレス発散のために日本に巨額の損失を与えているのだな」と思うし、「もしかするとこれをやっている人達は反日なのでは?」とか「日本を陥れるための外国人工作員なのでは?」と疑ってしまうレベルなのである。


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アエラよりジュニアエラの方が内容がまともな件 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

朝日新聞が出している小中学生向けの月刊誌「ジュニアエラ」が創刊100号を迎えた。日本に住んだことがない娘の日本語と日本文化の勉強のために、毎月アマゾンを使ってアメリカまで届けてもらっているのだが、記事は子供向けながら毎回なかなかの力作ぞろいである。

今月号の特集は「旅で学ぶ日本の世界遺産」で、世界文化遺産候補の宗像•沖の島の風景、国宝の写真や歴史的な背景などの説明にはじまって、世界遺産の数が増え過ぎて今後の登録は厳しくなるといった事情までが書かれていた。

(ジュニアエラ今月号の目次ページ↓)
ジュニアエラ

ニュース特集も、「トランプ政権の150日」、「文大統領誕生でどうなる日韓関係」、「小池氏は政権を脅かす存在に化けるのか」、「なぜ歴史教科書に最新研究が反映されないの?」など、社会人、国際人として知っておくべき内容を取り上げている。

手間をかけて取材した記事も多い。毎回、世界の子供達のなかから一人を選んで、その子の生活の様子を写真と本人のメッセージで伝える「子ども地球ナビ」は娘のお気に入りのコーナーの一つだ。今月は、アフガニスタンの少女を取り上げて家族や食事、勉強の仕方などを紹介している。


雑誌を眺めてふと思ったのは「もしかすると、そこらの大人が読んでる雑誌よりずっとまともなのでは?」ということだ。試しに同じ週に発売されたAERA6/19号を調べてみると「やっぱり」と言わざるを得ない。

アエラ中刷り

特集は「最良の友は犬か猫か」で、主なトピックは「ネコがイヌ化する」「犬より安上がりネコノミクスが拡大中」「築地移転延期で頓挫したネズミ退治」と、まあ気晴らしに読むには面白いかもしれないが、はっきりいってどうでもいい内容が並ぶ。

有名人に関する記事も対照的だ。

今月のジュニアエラで紹介されているのは、史上初の性別を分けない演技賞を受賞したエマ・ワトソン、フランス大統領のエマニュエル・マクロン、大関昇進を決めた力士の高安の3人だ。いずれもどの国の人が読んでも、記事としてなるほどと思える内容だろう。

一方でアエラの特集記事は「滝沢秀明×有岡大貴 僕らは同じ輪の中に」。東京勤務のアイドル好き28歳OLはこの記事に胸キュンするのかも知れないが、一言で言えば極東の小さなの国のアイドルがだらだら話しているというどうでもいい記事だ。


ジュニアエラとアエラの内容は、日本社会の縮図だと思う。中学受験生に代表されるような驚くほど洗練された博識なこどもたちと、昔はすごかったはずなのに最新の世界や社会の事情に疎い大人たちが共存するなんだか不思議な国、それが現在の日本の姿である。

たしかに、ジュニアエラには昔真面目に勉強した大人であれば既に知っていることもたくさん書かれている。しかし、大人に必要な内容も、本質的には子供が読むべき内容と大差ないのではないか。それは既に持っている知識をきちんと確認しながら、世界で起きている社会問題や科学の最新事情の中で本当に重要なことを、簡潔に、かつ論理的に理解することである。



テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

東京への人口集中と地方の過疎化は予想以上に進むと思う理由 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年頃に日本の人口減少が始まってから、将来推定人口への関心が高まっている。特に、いわゆる「増田レポート」(地方消滅 - 東京一極集中が招く人口急減 (中公新書))が出てからは、急激な人口減少による地方都市の消滅危機が騒がれるようになった。

増田レポートは単に2010年国勢調査に基づく2013年推計に基づいたものだが、私がより多くのデータを見ていて思うのはむしろ「本当の未来はもっと厳しいのではないか」ということだ。

以下のグラフを見て欲しい。これは、1995年から2010年の4回の国勢調査に基づく東京都と秋田県の推定人口の推移である。首都の東京と、人口の減少率の最も大きい秋田を選んだ。グラフを見ると、東京都の人口予測はほとんど「減る減る詐欺」みたいなもので全く当たっておらず、毎度上方修正されている。逆に秋田県の人口予測は、ほぼ毎度下方修正されている。

東京人口

秋田人口


ちなみに最新の2015年国勢調査の結果(将来推計は未発表)を見ると、またしても東京の人口は予測より増えた。2010年国勢調査に基づく予測では、2010年の1316万人から2015年には19万人増の1335万人となっているが、実際には36万人増の1352万人となった。秋田の人口はほぼ予測通りとなったが、日本の総人口が上方修正されたことから相対的には引き続き下方修正されているとも言える。

そもそも地域別人口予測というのは非常に難しく、例えば、専門の統計屋を200人以上雇っている米国センサス局による州別人口予測も全く当たっていない。

地域別予測が難しいのは、地域間の人口移動が予測しにくいからだ。国をまたいで移動する人は少ないので日本の総人口であればそれなりに予想はつくが、国内での移動を予測するのは困難だということである。推計を行っている社人研も毎度のように「移動率の予測は難しいのでエイヤで決めました」という趣旨のことが書いてある。推計の前提は調査毎に異なるが、ここ20年の調査では移動率が徐々に落ち着くという前提で推定されているものが多い。

今後の人口移動率が推計通りに落ち着くのかどうかは分からないが、私はこの前提にはかなり疑問を抱いている。なぜなら、人口(正確に言えば世帯数)が減少する社会では住宅が余るので住宅確保の困難さが人口移動の制約になりにくいからだ。具体的には、人口集中に一定のブレーキをかけていた東京での住宅確保の困難さが今後、大幅に緩和される。少子化が激しい東京では、ただでさえ人口の自然減で住宅があまるというのに、建築規制の緩和でますます多くの高層マンションが建てられている。住宅の需給が緩み続けるのは必定で、いずれ家賃の下落が新たな需要を呼び起こすだろう。一方、過疎化が進む地方では都市の中心部以外ではもはや住宅市場は成立しておらず、今後価格によって需要が喚起される見込みはほぼない。


社人研による政府公式の人口予測は、あくまで過去の人口データに基づくベースラインを提供しているに過ぎない。総人口が減少する中で建築規制を緩和し自由な競争の中で各地域や自治体が人口を奪い合えば、恐らく現在の政府予測以上に東京への人口集中と地方の過疎化が進むだろう。


<増田レポート>



<近年の住宅政策について>


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大学教員「1600万貰えるから海外移籍」から考える頭脳流出問題 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

一橋大学の川口康平氏が香港科技大のビジネススクールに移籍するにあたり、

研究環境面で一橋が特別負けているとは思いません,
じゃあ何が違うのかというと,あれですね,給料です.

具体的にいうと,一橋の給与は昨年,各種手当を全部ひっくるめて634万円でした.
科技大のオファーはというと,USD144K,日本円で1500-1600万円です.
最高税率は15%らしいので,手取りの変化率は額面以上になります.


等とツイートして話題になっている(ツイッターアカウントはこちら)。

そこで日本の伝統的な職場の外資・外国への人材流出について
いくつか類型を分けて何が問題なのか考えてみたいと思う。


(1)官僚の人材流出

上位官庁に国家公務員総合職で入省する若手官僚の間では、20〜30代のうちに
見切りをつけて外資のコンサルや金融、ITなどに転出するケースが後を絶たない。
もちろん給料は最低でも2倍以上になるだろうし、仕事の内容も枝葉末節や建前でなく
より刺激的なものになる。逆に官庁は政策立案をする上で優秀な人材を失ったことになる。

しかし、こうした人材流出は問題かと言えば必ずしもそうとは言い切れない面がある。
そもそも90年代末以降に官僚になった人達の多くは
初めから労働時間や報酬の面で待遇がよくないことを知っていて、
「社会のため」あるいは「社会を動かすため」に官僚を志しているからである。
2倍以上の給料は、必ずしも彼らが辞職する主因とはなっていないだろう。
そうした志の高い人達が、なぜ官庁に見切りをつけるかといえば、
「社会のためにならない」あるいは「社会を動かすことができない」
と感じるからに他ならない。

もしも、彼らの就いていた職務が
「社会のためにならない」あるいは「社会を動かすことができない」
のであれば、そもそも優秀な人が官僚をやる必要はないので、
彼らが官庁を去ったことは社会的に大きな損失とは言えない。
結局、優秀な人材は必要なところに集まるものだ。

もちろん、現行の官公庁の仕事の仕組みに問題があるという面はあるだろうが、
人材流出はその大きな問題から派生した問題に過ぎない。


(2)企業からの人材流出

古くは80年代頃から現在に至るまでの日系金融機関から外資系金融機関への人材流出、
最近で言えば、コンピューターサイエンス(CS)を専攻する学生やエンジニア、
サイエンティストの米IT企業への人材流出などが挙げられる。
最近CSの分野では
「日本で博士課程に進むと色々と大変だけど、
米国に来たら学費も無料で就職したら給料は3倍だよ。」
などと言われている。実際、そんなところだろう。

ただ、日本企業がエンジニアやサイエンティストを
不当に安い値段で使い倒しているのかというと物事はそんなに単純ではない。
実際、日本の総合電機メーカーが暴利を貪っているかといえばそうではなく
潰れそうな会社もあるくらいなのはご存知の通りだ。
要は日本企業には優秀な人材を使って利益を出せるような経営体制がないという
ことが問題で、安い給料はその帰結でしかない。

面白いのは、日本企業が海外駐在員には高い給料を払っているということだ。
会計士から聞いた話によれば、大企業の米国駐在員は中堅社員でも
人件費ベースで15〜20万ドル位の報酬を得ているはずである。
これは、米国のIT企業で研究開発を行う社員の報酬と同じくらいだ。
つまり、日本企業は海外事業をフロンティアとして開拓することはできて
いるけれども、ITなどの新分野をフロンティアにすることはできていない
ということである。


(3)大学からの人材流出

今回の川口氏の移籍が特徴的なのは、企業部門の移籍ではないけれども
移籍の主な理由が報酬であるという点だ。
労働環境は悪くないし、仕事のアウトプットもどこにいても差はないが、
給料が安過ぎるという訳だ。
同じ仕事に香港の大学は大金払うが日本の大学は払わない。

もちろん、これが川口氏一人だけであれば問題にならない。
賃金水準はもう少し大きな規模での人材の需給で決まるだろうからだ。
それでは、同じようなケースが重なり優秀な方がどんどん流出したとしたら、
日本の大学、文科省、政府、世論はどう反応するのだろうか。
私は、その答えもおおむね明らかであるように思う。
それは「特に何もしない」ということだ。

一つの問題は大衆の嫉妬だろう。
「自分の何倍も給料もらうなんて許せない」というわけだ。
大衆が批判すれば政府はそれには敏感になる。
ただ、問題はもう少し根本的な価値観の問題も孕んでいる。

日本の大学から人材が流出すれば、大したことのない人がポストに就くようになり
研究水準も教育水準も下がる。世界でのランキングも下がるだろう。
その結果、何か困ることがあるだろうか。
経済学の研究が日本国内で進まなくても、
それが日本人の暮らしに十年、二十年のスパンで直接効いてくることはほぼない。
数学や物理学であっても基本的には同様だ。
基礎研究の結果は、論文として公表され世界に発表されるので誰でも利用可能だ。

要するに大学研究者の待遇の問題は、究極的には日本人が
「日本の学術研究のレベルなどどうなっても大した問題ではない」
と考えているいうことから生じる二次的な問題なのである。

そもそも日本の大学教授のレベルは昔から高かった訳ではない。
たった20年前に大学を卒業した私が学生の頃でも
有名大学に学部卒の教科書を黒板に写しているだけの教授がいたものである。
現在の充実した陣容は、日本が高度成長期で身につけた経済力を
ふんだんに投入してようやく高めたものだ。

川口氏が取り上げた大学研究者の報酬の問題は、
財政赤字を拡大させない方が良さそうだという雰囲気の中で
文化的なものの優先順位が低くなってしまったことに対する
大学人としての嘆きなのだと私は受け取っている。


日本の「アカウンタビリティ」は「バカウンタビリティ」だ -- このエントリーを含むはてなブックマーク


1.アカウンタビリティーとは

バブルが崩壊した頃から日本では、アカウンタビリティー(説明責任)という言葉がさかんに使われるようになった。これは、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏が「日本 権力構造の謎」や「人間を幸福にしない日本というシステム」などで概念を広めたことなどが、きっかけになっている。

Wikipediaによれば、この言葉は元々米国で国民に対し税金の使い道の説明するために生まれた。その後、言葉の定義が拡大され、株式会社の株主に対するアカウンタビリティー、金銭の使途に限らず活動の予定や権限行使の合理的理由に対するアカウンタビリティーなどが考えられるようになった。

確かに、日本の政府は国民に対して十分に政策の意義を伝えずに税の使い道を決めることが多いように感じられるし、株式会社は持ち合い制や生え抜き社員による経営という日本的な仕組みの中で株主に対する説明責任が不十分であった。そういった意味で、この言葉は必然的に流行したと言えるし、それなりに社会を良くしたとも言えるだろう。

しかしここ10年ほどの日本を見ると、どうもアカウンタビリティーが社会にとってマイナスになっているという例を非常に多く見かける気がしてならない。いつの間にか「アカウンタビリティ」は馬鹿みたいな説明を求められる「バカウンタビリティ」になってはいないだろうか。

2. 大学の例

例えば、日本の国立大学の研究費の使い方である。文部科学省の役人と大学職員が責任を逃れるために会計ルールを作った結果、例えば「海外出張費を支払う場合には、航空券の半券を提出するのみならず、かかった費用のうち各国の政府に払った税金がいくらであるかをそれぞれ計算すること」などという摩訶不思議なルールができている例もあるという。

確かに大学には多額の税金が投入されておりその使い道はきちんと国民に分かるようになってなければならない。しかし、本当に必要なのは、もっと本質的にどういった目的のためにお金が使われているかという説明ではないだろうか。

例えば、数学科を例にとろう。数学には古代から続く「文化としての側面」と「科学や工学の記述言語としての側面」がある。多くの数学者は文化としての数学を重んじるが、多くの国民が税金を投入してやって欲しいのは主に科学や工学を支えるための数学教育だろう。そこで数学科に求められるアカウンタビリティーとは、例えば「学部向け設置科目は卒業生が就職した企業の7割から賛同を得ています」とか「文化としての側面にもリソースを割いていますが、学科外から要請された設置科目で十分に収益を上げています」という説明だろう。

教授が使った海外出張費の内訳を仔細に計算しても誰にも利益がないし、その結果、本来、教育や研究に使うべき人的リソースを事務手続きに使ってしまっては本末転倒である。


3. 企業の例

企業で従業員が使う経費についても意味もなく細かい説明を求められている例が結構ある。これは単なる損失しか生まないことが多い。

ある企業では、海外転勤の際に渡していた数十万円の支度金を使途が不明瞭である(あるいは転勤のない従業員との公平性を欠く)として廃止して、実費を支給することにした。その結果、実費支給になったのを良いことに、ピアノを海外配送したり、ほんの数千円で買えるようなかさばる家電や家具を大量に送る社員が現れた。しかも、実費支給であるから申請側にも受け付ける側にも余計な手間がかかる。実は、かつての支度金は全く十分な額ではなく、従業員は工夫を重ねて何とか持ち出しが出ないようにしていたのだという。

確かに実費支給は公平で透明な制度ではあるが、経済的にはデメリットばかりである。アカウンタビリティーには非常にコストがかかるのである。そういうことは、すぐに政府や企業を叩く人達には理解できないのだろう。

4.まとめ

アカウンタビリティーという概念が、日本社会の仕組みが国民のためになっていないという反省から広まったのは事実だろう。しかし現在では、経済停滞と格差拡大から生まれた人々の不寛容さや、細部に拘る日本人の国民性が、アカウンタビリティーという概念をコストばかり生む馬鹿らしいものにしてしまっている。政府や企業を運営する人は、形式にこだわったり、責任転嫁を目的とするのではなく、よりよい社会の実現という本来の目的のためにアカウンタビリティーを意識して欲しいものだ。




20代後半が忙し過ぎる件 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

某掲示板「大学院卒業後の進路について悩んでいます」というトピが掲載された
(ちなみにこれは以前の炎上したトピとは違い、私の投稿ではない)。

その内容は、
「22歳の女子大生だけど、修士課程に3年間通って25歳で就職したい。
一方で、いま社会人の彼との結婚や出産は20代でしたいし、
就職したら3年くらいは働いてからでないと仕事も休みにくい。どうしたら良いか?」
というもの。
計算上は最短で28か29歳で出産可能にはなるがそれでもギリギリだ。
他はどの部分も現在の日本の社会常識に照らし合わせて、
ごくごく一般的なもので疑問を挟む余地はあまりない。
あなたがこの相談を受けたらどんなアドバイスをするだろうか?

この相談は少なくとも読者に、
現代の20代後半の人生設計がいかに慌ただしいかという事を理解させる。

例えば相談者の親世代が20代だった30年前であれば、
人生設計上の時間はもっとゆっくり流れていたはずだ。
女性であれば短大を出て20歳で就職。
そのまま同じ会社に何年か勤めて、社内恋愛やお見合いで結婚して寿退職。
20代での出産を考えても、時間は10年近くあった。
一浪して大学を出た男性であっても23歳で就職。
仕事は忙しくても人生設計上でやらなければならないことは結婚くらいだった。
結婚後に転勤があっても、妻もついて行けば良いだけだった。

それと比べて最近20年間の20代後半の人生はどうだろうか。
男女を問わず、修士課程を出てから就職することも珍しくなくなった。
むしろ理系に限れば修士を出ていないと就職でやや不利になることも多い。
すると、現役でも24歳、浪人や留年をすれば25歳以上で就職だ。
しかも就職後は、英語やコンピューターなど個人レベルで
磨かなければならないスキルが格段に増えている。
キャリアアップのための留学や、海外転勤、転職も一般的になり、
その準備や新しい環境への適応には時間がかかる。
お見合いは減り、合コンや街コンを使えばマッチングや
恋愛から結婚に至る迄のプロセスにも時間がかかる。
結婚して共働きなら、転勤は大きな問題になる。
前の世代が当たり前にやっていた20代での結婚や子づくりを
するだけでも、難易度が数レベル上がっているのだ。

私自身も十数年前に24歳で就職して、
28歳で結婚、留学、29歳の時に娘が生まれたが、
怠惰でのんびりした自分の人生の中でも
20代後半は目の回るような忙しさだった。
とても充実した20代後半ではあったが色々と運に恵まれた面も大きい。
大多数の人が、同じスケジュールで人生設計を進めることができるとは
思えないほどのスピードだった。

あまりに大変になりすぎた20代後半の生活を想像して
「恋愛は面倒」「結婚は後にしよう」「子供はもう少し待とう」
「留学はやめよう」「海外には行きたくない」
「転職しなくても安定した職場の方がいい」
などと考える若者が増えるのは当然のことのように思える。


話題を元に戻そう。
22歳の女子大生の願いを叶えるにはどうすれば良いだろうか?
私の答えは単純で「やりたいと思ったことをすぐにやる」というものだ。
彼女が願いを叶えるための最短経路は、

来週:結婚

来年:出産、子育て

25歳:就職

である(もちろん結婚は相手がいるので合意が必要だが)。
実際、このような人生設計は米国では別に珍しくもなんともない。
20代後半の生活が忙しくなっているのは日本だけでなくどこの人でも同じなのだ。

日本でそうした決断を阻んでいるのは、社会の伝統的な価値観だ。

「大学院生は研究に没頭すべき」
「学生はまだ半人前だから結婚すべきではない」
「ましてや学生で出産や子育てなどすべきでない」
「新卒以外は正社員として採用しない」
「25歳を超えた新人など教育しにくい」
「新人は育児休暇など取るべきでない」
「育児休暇は1年間は取りたい」
「結婚はお金がたまってから」
「結婚式の準備には1年間必要」
「子供は3歳まで母親が全面的に面倒を見るべき」

こうした価値観を個人が持つのは自由だが、
少なくとも社会全体で押し付けるべきではない。

日本の若い人の足を縛っているのは、日本社会の伝統的な価値観だ。
イクメンがどうとか、3歳まで抱っこし放題とか、
そういう運動は窮屈な価値観を更に増やして逆効果のように思われる。
日本社会が目指すべきは、

「いろいろな価値観を認める」
「伝統に縛られない」
「失敗してもやり直せる」
「何歳になっても挑戦できる」

という気楽に前向きになれる社会ではないか。


テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

プロフィール

Willy

Author:Willy
日本の某大数学科で修士課程修了。
金融機関勤務を経て、米国の統計学科博士課程に留学。
2009年、某州立大数学科専任講師。2010年、助教。2016年、准教授。

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お勧めの本
1.ルベーグ積分30講
―― 統計学を学ぶために。
   小説のように読める本。
   学部向け。


2.Matematical Statistics and Data Analysis
―― WS大指定教科書。
   応用も充実。学部上級。

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