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なぜ英語の科学分野の入門書はナンセンスに見えるのか? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

米国の大学で学部生に統計学を教えるのは私の仕事のうちの一つだが、米国の統計学の入門書というのはおしなべて本当にひどい。ここでいう入門書というのは高校数学の統計程度の内容の本の話である。もちろん優れた入門書など一冊も見た事がない。例えばビル・ゲイツなども、米国の科学分野の教科書は分厚いだけで内容がひどいという類いの発言したというのを聞いたことがあるので、実際にひどいのは間違いないのだろう。

入門書という呼び方は誤解を招くかもしれない。こうした本は、何かの分野を学ぶために初めに読む本という位置づけではなく、その分野の内容を簡単に紹介するための本だからだ。読者が次にもっと難しい本を読むことは想定されておらず、実際もっと難しい本を読むために特段、役には立たない。日本で言えば、大人向けのカルチャー講座のような内容だと思ってもらえればいい。

こうした入門書はフルカラーのハードカバーで500〜1000ページくらいあるものが多く見た目は立派だが、もっとも正確な表現をするとすれば「目次付きの粗大ゴミ」である。

例えば以下はある教科書の「平均」に関する説明のページだが、巨大な本のカラー2ページも使って平均の最初の計算例が終わっていない。

統計教科書


もちろん、私は教える時にも教科書など真面目に読まない。目次だけ読んで、あとはパラパラめくって自分で説明を組み立てるだけだ。

私が今の勤務先で初めて統計学の入門クラスを教えたとき、指定されていた教科書は私から見るとごく普通の(ひどい)統計の入門書だったが同僚の間での評判はとても悪かった。なぜそんなに評判が悪いのだろうかと少し話をしてみると、なんと同僚はその教科書を「読んでいた」ことが判明して驚いたことがある。

しかし先日、数学科の米国人同僚が次のような発言をしていて気付いたことがある。その同僚は、

「うちの学科のTは統計学にはとても詳しいが教科書を選ぶのには向かないね。なぜなら、彼は統計のことは何でも知っていて教科書が必要ないのだから。」

と言ったのである。要するにTは私と同じスタイルなのだ。Tは台湾出身の老教授で、やはり非英語圏出身である。

そこで私が気付いたのは、教科書に対する評価には使用言語が影響しているという点だ。

統計学のアイデアはほぼ全てデータを元にできており、それを数式や数学的イメージを用いて論理的に組み立てていく。簡単化のため、データと数式、数学的なイメージをまとめて「数式」と表現することにすれば、統計学の本質にもっとも近いのは「数式」である。その方法で理解できない人のために、「日本語」や「英語」での説明がある。要するに「日本語」や「英語」の説明は、内容を理解をする上では邪道だと言える。簡単に表現すれば下の図のようになる。

入門書-実体


しかし一般的に英語圏の人々の数学的リテラシーは低いので、教科書はほとんどの概念を「英語」で説明することになる。ひどい場合になると、筆者でさえきちんと数式を使って理解できていないのではないか、と思わせるほどである。

これを非英語圏の出身の私が見ると下の図のように見える。つまり、統計学を理解する方法が「数式」「日本語」「英語」の3通りあるとすれば、わざわざ最悪の方法で理解しようとしているようにしか見えないのだ。

入門書-脳内


さらに言えば、「英語」が「日本語」より分かりにくい理由は必ずしも、語学力の問題だけではない。英語の文章は、箇条書きなどを排して「分かりにくく」書くのが正式であるという文化があるし、例え最短で10単語で説明できる文章であっても、余計な説明をつけて20〜30単語にした上で3回くらい説明するのが説明文のスタイルなのである。分かりにくく書く代わりに直線的に読める文章にはなっているし、わざわざ冗長な説明するのは読解力の低い人や共通認識が違う人にも理解できるようにという配慮なので、これは文化の違いであるとも言える。しかし科学が簡潔さを美と見做している以上、これはほとんどの他国語話者にとっては、あまりセンスの良いものには感じられないはずだ。

統計学の入門書がひどいと感じられるのに比べて、より専門的な本や数学の教科書はそれほど悪くないし、歴史の教科書や、文学作品を読んでいる時も同じようなフラストレーションは起らないという点も以前は不思議だったのだが、上の概念図をもってすれば全て説明できる。

つまり、専門書や数学の教科書は著者も「本質に近いのは数式である」という認識のもとに書いているから違和感がない。また、文学などにおいては言語そのものが本質であるので、例えその文章が難解だったとしても、統計学の入門書を読むような違和感を感じないのである。

このように考えて行くと、本来、数式や図など他の方法で理解すべきものを無理矢理に英語の文章で回りくどく説明するような本、つまり数式やイメージによる理解が難しい読者のために書かれた科学分野の入門書は、外国語話者にとっては特にナンセンスに見えるのではないか。

そして、私のような外国語話者が米国のような完全な英語圏において科学分野の入門書を使って講義することの難しさは、そのあたりにあるのではないかと思う。


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テーマ : 英語
ジャンル : 学問・文化・芸術

数学科の大学院に進むとはどういうことか? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

大半の人から数学は無味乾燥なものだと思われている。
いったい数学科の大学院まで行く人は何をやっているのだろうか。
英語の掲示板に「これ以上ない!」
というくらい上手い解説を見つけたので紹介しよう。
(ちなみに原文はこちら

----

質問:

数学科の大学院生は毎日何をして過ごしてるの?
ただ単に机の前に座って考えているだけ?
-- ヤーシャ=バーチェンココーガン, MIT 大学院生

回答:

たいていの場合、数学の大学院に行くっていうことは、
本や論文をたくさん読んで何がどうなってるのか理解することだ。
難しいのは、数学の本を読むっていうのは、
ミステリー小説を読むのとは違うし、
歴史の本を読んだり、ニューヨークタイムズの論説を読むのとも、
違うって言うことなんだ。

一番の問題は、君が数学の最前線にたどり着くまでの間、
概念を説明する言葉さえほとんど存在していないっていうことだ。
例えて言えば、掃除機を一度も見た事がない人に、掃除機の何たるかを
4文字以下の単語だけで説明しようとするようなものだ。

"It is a tool that does suck up dust to make
what you walk on in a home tidy."(*1)
(それは、ちりを吸い上げて家の中の歩くところをきれいにする道具である。)

(*1)この文は4文字以下の単語のみからできている。

この説明はもちろん無いよりはましだろうけど、
掃除機について知りたいこと全てを説明してるわけじゃないよね。
本棚をきれにいにするのに掃除機を使えるのだろうか?
猫をきれいにしたい時には使える?
外をきれいにする時にも使えるんだろうか?とか。

論文や本を書く人はなんとか自分が理解した事を
厳しい制約の下で伝えようとするし、
それは何にもないよりはいいんだけど、
もし掃除機について何か成し遂げたいとしたら
もっといろんなことを知る必要があるでしょ?

せめてもの救いは、数学がこういうギャップを埋めるための
すごく強力な道具だっていうことだ。
つまり、何か概念を思いついた時に、
分かりやすい記号や記法を使い、論理的なルールに基づいて
それをいじってみることができる。
それは、掃除機を組み立てるための仕様書や図のような
ものだと思ってもらってもいい。

つまり、掃除機がどんなもの足り得るのか、そして、どんなもの足り得ないのか、
ってことが100%、何の曖昧さもなく分かるのがいいところだ。
だけど、なんでそんな部品が使われているのかとか、
なんでそんな風に組み立てられてるのか、
なんてことはほとんど分からないというのが問題だ。
手がかりは、暗号みたいな
「それは、ちりを吸い上げて家の中の歩くところをきれいにする道具である。」
という説明だけしかない。

君が大学院生だとしよう。指導教官は君にその分野の重要論文:
「ちりを吸う道具について」を読むように言う。
イントロの部分にさっきの説明文が書いてあって、
それ以外にもっともらしい事もたくさん書いてあるけど、
何が何だかはっきりしない。
論文の大部分は、掃除機の技術的な図とか仕様とかだ。
それで、いくつかの参考文献が載ってる。
「ちりを吸い上げるために空気の流れをどう使うか」
「たくさんのコイルを使ってファンを速く回す方法」
「ワイヤーに繋がった壁の穴から何を得られるのか」

で、何すればいいんだろ?
そのまま言えば、机の前に座って考えるだけ。
でも、それはそんな単純な事じゃないんだ。
第一、タイトルは何だかセックス絡みの隠語みたいじゃないか(笑)。
それから、イントロに大まかな内容が嬉しそうに書いてあるけど、
重要な細部については全くと言っていいほど曖昧なままだ。

テクニカルな図なんかを見ると、本当に混乱する。
でも、一つ一つそれを繋ぎ合わせてなんとかしなきゃいけない。
載ってる計算なんかも自分でやり直して、
ちゃんと理解できたかどうか確認したりする。
時々、自分でやった計算が合わなくて
間違って理解してたことに気付きもう一回その部分を読み直す。
たまに論文が間違ってることもあって、
その時は頭にきたりするわけだ。

そうこうしてうちに、何とかピンとひらめいて掃除機のなんたるかを理解できる。
もっと言えば、もう君は掃除機の専門家の一人と言っていい。
少なくとも、特定の種類の掃除機に関してはね。
どういう風に動くかについての詳細もかなりのところまで分かる。
それで得意な気分になるんだけど、まだそれは指導教官の足下にも及ばない。
彼らは、その掃除機についての研究だけじゃなくて、
他のあらゆる種類の掃除機、例えばルンバみたいなのも分かっちゃってる上に、
空調システムみたいな関連するけど全く違う分野のことまでやってる。

ひとまず、君は、少なくともこのトピックに関して
指導教官と互角に話ができることになって嬉しい訳だけど、
今度はそれに関する論文を書かなきゃいけないっていう不安が押し寄せてくる。

それで、掃除機について何か新しい事ができないか考え始める。
「掃除機を本棚の掃除に使うなんてどうだろう!超便利じゃん!」なんてね。
でもググってみると、それは誰かがもう10年も前とかにやっちゃってる
って分かる。

じゃあ次のアイデアを考えよう。
「掃除機で猫をキレイにするなんてどうだろう!これも超便利じゃん!」
でも、残念、もうちょっと調べてみたら、誰かが既にやってるけど、
あんまりいい結果は出てないみたいだ。
君は自信家だから、力技でなんか編み出して問題を解決しようとしてみる。
で何ヶ月か頑張ってみたら、残念、やっぱりダメだったなんてことになる。

しょうがない、もう少し延長コードについて勉強して、
屋外をキレイにするのに掃除機を使う、っていうのを君は考える。
先行研究を調べたらまだ誰もやってないみたいだ。
君は得意になって指導教官にそのアイデアを伝える。
でも指導教官は、封筒の裏にちょこちょこっと計算して、言う。
「君は何も分かっちゃいない。掃除機を屋外を掃除するのに使う
なんてのはうまく行く見込みがほとんどない。掃除機は外を掃除するには
小さすぎるし、別にずっと便利な道具が既にある。」

こんなことが何年も続いた後、君はついに、
「掃除機を反対にして排気口を水の中に入れると泡が出る」
という事実を論文にする。

君の論文審査委員は、それが何の役に立つのか分からないけど、
なんか斬新だし泡もキレイだから将来何かの役に立つかも知れない、
もしかするとね、なんて思う。

でも君はラッキーだった。
100年後、君のアイデアは他のいろんなアイデアと合わせて
水槽のエアポンプの開発のもとになり、
今をときめく人工的な金魚飼育の研究の重要な道具になった。
やったね!


アホでも数学者になれる法―大人のための数学教室


テーマ : 数学
ジャンル : 学問・文化・芸術

確率と統計、数学と科学 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

WS大では4月の終わりに高校生を対象にした講演会があって、
S教授、K教授、それに私の3人が30~40分ずつ
統計のコースを履修している11年生、12年生(高校2、3年生)の前で話をした。

私は自分が高校生の頃を思い出して
「統計学に興味を持った理由」を話して学生の興味を惹きつつ、
「統計学でウソをつく法」という有名な本からタイトルをもらって
最近の雑誌記事を元に統計でどういうトリックが使われているか、
という話をした。

それに対してK教授はもう少しアカデミックに、
確率論と統計学の違いについて説明した。彼の答えは
「統計学はギャンブラーのためのもので、
確率論はカジノの設計者のためのものだ」

という簡潔なものであった。
これはなかなか上手い説明だと思う。
すなわち、統計学とは、真実が分からない中で
利用可能な情報からどうそれを解明するかを研究する学問で、
確率論とは所与の数学構造の系として性質を導く学問である。
この二つの分野は、数学的手法という意味ではほぼ同じものを
使っているが目的意識にはかなり大きな隔たりがあるように思う。

私は、確率論の難しい理論はあまり知らないけれども、
例えば確率論の人の数理ファイナンスに関するプレゼンを聞くと、
「それはお前の脳内の話だろw」
と思ってしまうことも少なくない。
一方で、確率論の人がファイナンス統計の発表を聞く時には、
「お前は、研究者なのか証券マンなのかどっちなんだw」
と思っているに違いない。

私は「数学は科学ではない」と考えているが、
統計学を科学と呼んで良いかどうかにはちょっと自信がなかった。
しかし、科学(science)の定義を、

Science is an enterprise that builds and organizes knowledge in
the form of testable explanations and predictions about the world.
科学とは一種の試みであり、知識を積み上げたり体系化したりして、
世界に関する検証可能な説明や予測の形をとるもの。(Wikipedia)

とするならば、数学と科学の境界の一部は、
どうやら確率論と統計学の間あたりにあるのだろう。


そう考えると、確率論と統計学はとても近いようで、
その溝はとても深いもののようにも思える。


テーマ : 数学
ジャンル : 学問・文化・芸術

数学とは何か? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

(ご注意:一部に性的な例を含みますので不快に
思われる可能性のある方は読むのをお止め下さい。)

日本で学部生をやっていた頃、理工学部の
一般教養科目で数学の歴史について学ぶ科目があり、
授業は、古代ギリシャから始まって近代までの数学の歴史を
俯瞰するものだった。
試験はなく、単位取得のためには「数学とは何か?」という
漠然としたテーマのレポートを出すことが必要十分条件になっていた。

自分含めてこの課題に面食らった数学科の学生たちは、
何回か軽く雑談したのち「これは難しくて書けないだろw」
という結論に至って、みんなで単位を取るのを諦めた。
中途半端に悪い成績がつくと記録に残ってしまうので、
私は「不可」をつけてもらうように教授に頼んだ。

この科目は一般教養科目だったので、
化学科の友達は同じ授業を取っていたのだが、後日聞いたところによると
彼はレポートを提出して難なく単位を取得したらしい。

興味があったのでどんな事を書いたのかと聞くと、
おおよそ「数学は自然科学の道具だということを書いた」(*2)
という答えが返ってきた。
それを聞いて、なぁんだ、と思ったあと、
まあ、それも間違いとは言い切れない、とぼんやり考えた。

大学を卒業した後、時折その問題について考えた。
「数学は自然科学の道具だ」というのは
「数学とは何か?」と言う問に対する答えなのだろうか?
私は違うように思う。

「多くの人は数学を何に使っているか?」とか、
「数学は世の中で何の役に立っているか?」という問であれば、
「数学は自然科学の道具だ」という答えは妥当だろう。
しかし、それは数学そのものが何かを述べたものではない。

「数学とは何か?」と聞かれて
「自然科学の道具」と答えるのは
「飯島愛とは何か?」と聞かれて
「おかず」と答えるようなものだ。

あなたが対象をどう使っているかを答えただけで
対象そのものが何かについて答えているわけではない。

彼女はもうこの世にいないが、
彼女がこの答えを聞いたらどう思うだろうか?
職業意識が高ければ「そう思われて本望だ」と思うかも知れないし、
感情的であれば「私はそんなもんじゃない」と怒り出すかも知れない。

確かに彼女の人生の前半における社会的価値は「おかず」であることだった(*1)。
しかし、彼女や彼女と親しい人たちにとっては
彼女はかけがえのない一個人として様々なドラマや深い闇も持っていたはずだ。
もちろん、大半の忙しい現代人にとってそんなことはどうでもいい。
仮に、彼女の一生が映画化されることがあったとしても、
それが一般大衆の好奇心を満たすための偏った作品になることは
避けられないだろう。


(*1)一方、人生の後半における彼女の価値は人を楽しませることだった。

(*2)これは彼に限らず、数学を使う分野の人が良く使う言い回しだ。
  全く同じとは言えないが、例えば経済学をやっているRionさんは、
  「数学は複雑な対象を明晰に考えるための補助輪のようなもの」
  とブログで表現した。

ブログ内の関連記事:
統計学に必要なもの
統計学=数学的基礎+モデリング
統計モデルは正しいか?







テーマ : 自然科学
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統計学って何が楽しいの? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

「統計学って何が楽しいの?」
と聞かれて一番分かりやすい答えは、
「別に楽しくないけど」
だと思う。
実際、美しくないからこそ
数学より人気がないのだと思うし。

実際、統計分析というのは
データがよほどキレイでないとうまくいかない。
新しい複雑なモデルを当てはめた場合等は尚更である。
そのため、データのクリーニングや分析には時間がかかるし、
いわゆる雑用のような仕事は非常に多い。

理論的にも基本的な概念が美しく整理されているのか
いまいちよく分からない面もある。
回帰分析には回帰診断というモデルの妥当性を
検証するステップがあるけど、
そんなステップがあること自体、
統計学が整理されない証拠なんじゃないの?
という数学者の意見はそれなりに正しいと思う。

それでも苦し紛れに
統計学の数学的な面白さを描写するとすれば、
不確実性のない数学という道具を使って
不確実なものを記述するモデルを作るところ
が面白いんじゃないかと思う。


テーマ : 数学
ジャンル : 学問・文化・芸術

統計学の経済的付加価値 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

統計学をやっている人の生産性というのは
果たして他の分野と比べてどの程度で
将来的にはどのようになっていくのだろうか?

アカデミックな分野の労働生産性の比較という意味で
大学の教官の分野別の給与を考えてみよう。

ASA (American Statistical Association)は
毎年、統計学分野の大学教官の給与のサーベイを行っており、
これを先日紹介した
AAUP (American Association of University Professors)
による全分野(医学部除く)の平均給与と比べると、
統計学分野の賃金は全体平均よりも10%程度高いであろうことが分かる。

比較的近い数学分野の平均はほぼ全体平均と同じなので、
統計学の労働生産性は賃金水準で見る限り悪くないことになる。

おそらくこの差の直接的な原因は、バイオ統計や遺伝学などの
分野へNIH(National Institute Health)等から潤沢な研究資金
が与えられているということであろう。

もう少し一般化して考えるなら、
統計学は時代に応じて、生産性の高い
「旬の分野」への応用研究を行っている

ということがその理由ということになる。
その際、旬の分野ほどの生産性は得られないものの、
ある程度その恩恵に与れることは間違いない。

こうした一般論から考えていくと、
統計学はほとんど全ての分野で行き詰らない限り、
長期間に亘って平均をやや上回る程度の
安定的な生産性
を上げていくのではないか、
と予想することが出来る。

もっとも、こうしたコバンザメ的な学問が、
学問的に面白いかどうかというのは
意見の分かれるところではある。


テーマ : 研究者の生活
ジャンル : 学問・文化・芸術

統計モデルは正しいか? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

先日のエントリーで取り上げたように、
「統計学=数学的基礎+モデリング」
という風に考えてみると、
モデリングというのは数学的に厳密でも何でもなく、基本的には
「データにうまく当てはまれば良い」
ということに過ぎない。この点で統計学は、
例えば経済学などの、
モデルに予め理論的な制約を課す学問とは哲学を異にする
のだと思う。

例えば、データの正規性(normality)を確保するために
Box-Cox 変換という変数変換の手法がある。
要するに適当なλを選んで、xをx^λに変換することで
変数が正規性を満たすように変換したりするわけだが、
この時のλなどはデータに最も合うものを選べばよい。
(「λが1.24などの中途半端な値では説明が付かない」
という向きもあるが、個人的には別に構わないと思う。)

だれが始めに言ったのか知らないが、統計学には、
"No model is correct, but some are useful."
という金言がある。
統計学では、モデリングをする際に、
そのモデルが正しいかどうか、そのモデルが最良かどうか、
ということはあまり問題にならず、
データとモデルが矛盾しないかどうか
(テストが棄却されないかどうか)、
誤差がどのくらいか、
ということが重要なのではないかと思う。


テーマ : 数学
ジャンル : 学問・文化・芸術

統計学=数学的基礎+モデリング -- このエントリーを含むはてなブックマーク

先日のエントリーで取り上げたように
「統計学は数学か」
というような議論は起こりやすい。

こうした議論が巻き起こる一つの理由は、
人の頭の片隅に、統計学は、現実の世界を完全に正しく説明できていない
という意味で、「厳密でない」という意識があるからではないかと思う。

現実に、例えば倒産のリスクを見積もる統計的なモデルが正しくない
(という可能性が高い)からこそ、銀行や証券会社が潰れたりするわけである。

しかし、これは統計学の数学的基礎の厳密性とは関係がない。
統計学は、
「現象を説明するためのモデリング」
「モデルを説明するための数学(確率論)的基礎」
という2段階に分かれているのだ。

モデルを説明する数学的基礎は、数学的に厳密であり、数学の一部である。
一方、モデリングは、現象を説明するための主観的な近似でしかない。
つまり、
統計学の数学的基礎は、
厳密な数学として切り離すことが可能である。

従って、統計学を数学として研究することも理屈としては可能である。
しかし、統計学の結果は、通常、
「実際に役に立つモデリング」と「その数学的基礎」を合わせたもので
あるべきだと統計学のコミュニティーでは認識されている。
そのため、必ずしも統計学を数学として研究することが
良しとされないのである。


テーマ : 数学
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統計学に必要なもの -- このエントリーを含むはてなブックマーク

昨日、ネットサーフィンをしていたら
mathboy さんの「ブログで復活 数学少年の部屋」
「統計学は数学か?」というエントリーを見つけた。
2ちゃんねるにも、この問題を議論をしているスレッドがありなかなか面白い
(私もかなり書き込んでいる)。

そこで、数学を6年、統計学を4年、
3つの分野の統計実務を約2年ずつやった者として、
私も「統計学とは何か?」について考えてみたいと思う。

抽象論から入るのは少し難解なので、
まずは、「統計学をやるのに何が必要か?」
という側面から攻めてみたい。

誰が最初に言ったのかは知らないが、
「哲学をやるには、紙と鉛筆があればよい。」
「数学をやるには、紙と鉛筆と消しゴムがあればよい。」
という言葉を聞いたことがある。
哲学は自分の思ったことをそのまま書けば良いのに対し、
数学は普遍の真理を追求し、その過程で人間は間違えるので
消しゴムが必要だということだろう。

この格言に一行付け加えるとしたら、
「統計学をやるには、
紙と鉛筆と消しゴムとデータとコンピュータがあればよい。」
となると思う。

数学との差は、データとコンピュータが必要なことである。
これは、統計学の学問としての進歩を易しくしているに違いないだろう。

例えば、
遺伝子データが整備されることによって遺伝統計学の手法が発達したし、
コンピュータの性能向上によって推定が可能になった統計手法もたくさんある。

頭の外にイノベーションがあり、それを頭の中に入れると
内部から新たなイノベーションが起こる。
それが統計学の面白いところだ。

私の尊敬するある数学者は、
「重要な問題を解くのが一流の数学者、
重要な問題を見つけるのが超一流の数学者」
と言った。
統計学では、重要な問題を見つけるのは、数学に比べれば格段に易しいのだと思う。




テーマ : 数学
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統計学の応用分野の日米比較 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

統計学というと、日本ではどちらかというと
アクチュアリー、デリバティブのプライシング、資産運用、
と金融関係の応用に関心を持つ向きが多いが、
こちらの統計学科についていうと、
バイオ関連の応用が7割で、
残りの人達が、エンジニアリング・コンピューターサイエンス関連、
金融関連、社会科学関連、環境関連などを細々とやっているイメージだ。
私の個人的な感覚では、
ヨーロッパの大学でも米国ほどバイオ関連に偏っていないように思う。

米国ではなぜそんなにバイオ関連の応用に偏っているのかというと、
最大の理由は国立保健研究所(NIH)が大学に配分する研究費が、
国立科学財団(NSF)など他の分野の研究費に比べ
圧倒的に大きいからである。
菅裕明著「切磋琢磨するアメリカの科学者たち」に、
そのあたりのことは詳しく書かれている。

一方日本では、特に医学関連については医学部の縄張り意識が強く、
統計学者と医・薬学関係の研究者の分業がまだまだ進んでいない
という側面もあるのではないかと思う。

日本で金融関連の応用に関心が高いのは、
東京が大きな金融センターを持っているという
地理的な面が大きいのだろう。
アメリカでも、コロンビア大の統計学科、NYUの数学科などには、
数理ファイナンス関連をやっている人が比較的多い。

中学生の時、友だちの女の子が「高校は場所と制服で選ぶ」と言っていたが、
アメリカの統計学科を場所で選ぶのも案外悪くないかも知れない。


テーマ : 教育
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プロフィール

Willy

Author:Willy
日本の某大数学科で修士課程修了。金融機関勤務を経て、米国の統計学科博士課程にてPhD取得。現在、米国の某州立大准教授。

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お勧めの本
1.ルベーグ積分30講
―― 統計学を学ぶために。
   小説のように読める本。
   学部向け。


2.Matematical Statistics and Data Analysis
―― WS大指定教科書。
   応用も充実。学部上級。

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