なぜ英語の科学分野の入門書はナンセンスに見えるのか?
入門書という呼び方は誤解を招くかもしれない。こうした本は、何かの分野を学ぶために初めに読む本という位置づけではなく、その分野の内容を簡単に紹介するための本だからだ。読者が次にもっと難しい本を読むことは想定されておらず、実際もっと難しい本を読むために特段、役には立たない。日本で言えば、大人向けのカルチャー講座のような内容だと思ってもらえればいい。
こうした入門書はフルカラーのハードカバーで500〜1000ページくらいあるものが多く見た目は立派だが、もっとも正確な表現をするとすれば「目次付きの粗大ゴミ」である。
例えば以下はある教科書の「平均」に関する説明のページだが、巨大な本のカラー2ページも使って平均の最初の計算例が終わっていない。

もちろん、私は教える時にも教科書など真面目に読まない。目次だけ読んで、あとはパラパラめくって自分で説明を組み立てるだけだ。
私が今の勤務先で初めて統計学の入門クラスを教えたとき、指定されていた教科書は私から見るとごく普通の(ひどい)統計の入門書だったが同僚の間での評判はとても悪かった。なぜそんなに評判が悪いのだろうかと少し話をしてみると、なんと同僚はその教科書を「読んでいた」ことが判明して驚いたことがある。
しかし先日、数学科の米国人同僚が次のような発言をしていて気付いたことがある。その同僚は、
「うちの学科のTは統計学にはとても詳しいが教科書を選ぶのには向かないね。なぜなら、彼は統計のことは何でも知っていて教科書が必要ないのだから。」
と言ったのである。要するにTは私と同じスタイルなのだ。Tは台湾出身の老教授で、やはり非英語圏出身である。
そこで私が気付いたのは、教科書に対する評価には使用言語が影響しているという点だ。
統計学のアイデアはほぼ全てデータを元にできており、それを数式や数学的イメージを用いて論理的に組み立てていく。簡単化のため、データと数式、数学的なイメージをまとめて「数式」と表現することにすれば、統計学の本質にもっとも近いのは「数式」である。その方法で理解できない人のために、「日本語」や「英語」での説明がある。要するに「日本語」や「英語」の説明は、内容を理解をする上では邪道だと言える。簡単に表現すれば下の図のようになる。

しかし一般的に英語圏の人々の数学的リテラシーは低いので、教科書はほとんどの概念を「英語」で説明することになる。ひどい場合になると、筆者でさえきちんと数式を使って理解できていないのではないか、と思わせるほどである。
これを非英語圏の出身の私が見ると下の図のように見える。つまり、統計学を理解する方法が「数式」「日本語」「英語」の3通りあるとすれば、わざわざ最悪の方法で理解しようとしているようにしか見えないのだ。

さらに言えば、「英語」が「日本語」より分かりにくい理由は必ずしも、語学力の問題だけではない。英語の文章は、箇条書きなどを排して「分かりにくく」書くのが正式であるという文化があるし、例え最短で10単語で説明できる文章であっても、余計な説明をつけて20〜30単語にした上で3回くらい説明するのが説明文のスタイルなのである。分かりにくく書く代わりに直線的に読める文章にはなっているし、わざわざ冗長な説明するのは読解力の低い人や共通認識が違う人にも理解できるようにという配慮なので、これは文化の違いであるとも言える。しかし科学が簡潔さを美と見做している以上、これはほとんどの他国語話者にとっては、あまりセンスの良いものには感じられないはずだ。
統計学の入門書がひどいと感じられるのに比べて、より専門的な本や数学の教科書はそれほど悪くないし、歴史の教科書や、文学作品を読んでいる時も同じようなフラストレーションは起らないという点も以前は不思議だったのだが、上の概念図をもってすれば全て説明できる。
つまり、専門書や数学の教科書は著者も「本質に近いのは数式である」という認識のもとに書いているから違和感がない。また、文学などにおいては言語そのものが本質であるので、例えその文章が難解だったとしても、統計学の入門書を読むような違和感を感じないのである。
このように考えて行くと、本来、数式や図など他の方法で理解すべきものを無理矢理に英語の文章で回りくどく説明するような本、つまり数式やイメージによる理解が難しい読者のために書かれた科学分野の入門書は、外国語話者にとっては特にナンセンスに見えるのではないか。
そして、私のような外国語話者が米国のような完全な英語圏において科学分野の入門書を使って講義することの難しさは、そのあたりにあるのではないかと思う。