データに基づく統計手法を軽視する自動車の監督官庁 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

三菱自動車が、軽自動車などの燃費を水増し偽装していたと報じられた。昨年にはフォルクスワーゲンが排ガス規制逃れの不正をしていたことが報じられており、自動車業界は2年続けて大型スキャンダルとなった。いずれの不正も断じて許されるものではない。自動車メーカーの責任ある者が「良い車を作るため」ではなく「社内で上手く立ち回るため」に働いていたことは大変残念である。

しかしながら、日米欧各国の監督官庁の検査手法にも問題があると言わざるを得ない。三菱自、フォルクスワーゲンのスキャンダルはいずれも、実際のデータに基づいて試験を行っていないことが問題を誘発しているからである。

一般的に言って、「測定条件の多様性」と「正確な測定」はトレードオフの関係にある。燃費にしろ、排ガスにしろ、実際に道路を何度も走らせてあらゆる条件で測定をすればもっとも包括的な試験になるが、一方で走行した状態(走行速度、道路の形状や起伏、天候、ドライバーのクセなど)のばらつきによって測定誤差は大きくなる。例えば、ある車種の燃費を混雑した繁華街で土日にエアコンをかけながら試験し、別の車種を涼しい日に空いた高速道路で試験すれば、もちろん公平ではない。

これまで良く言えば監督官庁は、正確な測定を重視して、条件を決められた状態に固定して数値を測ってきた。しかし、こうした哲学をもとにした測定はもはや時代遅れだ。こうした手法が人為的な不正を誘発するだけでなく、コンピュータによる制御が進んだ現在の自動車では、特定の状態でのみ良い数値を出すような細工はますます簡単になってきているからだ。こうした測定方法によって、実際の燃費が決してカタログ値に近い値にならないという状態になっているが、これは消費者にとって全くナンセンスである。あくまで、実際の走行データに基づいて測定を行うのが科学的なアプローチというものだ。

実際の走行データに基づいて数値を測定すると条件のばらつきにより誤差が大きくなると書いたが、こうしたデメリットを低減できるのが統計学だ。以下の図はそれを概念的に示したものである。

燃費

平均走行速度は燃費に影響を与えられると考えられる。図では、実燃費は5km/lから20km/lとかなりの幅があるが、平均速度と燃費の関係を考慮した上で、35km/hで走行した時の平均燃費を公式な燃費とすれば、値が13km/l前後であることが見てとれる。平均速度以外にも多くの条件を統計モデルに取り込めば、誤差ゼロとまではいかないまでも、かなり実体に即した値を推定することができる。数十年前にはより複雑なモデルでこうした推定を行うことは計算上大変であった。しかし、現在のコンピューターの計算能力やそれに応じた統計手法の進歩を踏まえれば、こうした推定の精度はかなり上がっている。また、データの収集面においても、実際のユーザーの車に測定機器を取り付けてデータを送信するような芸当も昔に比べればハードルが下がっているはずだ。

国土交通省はすでに燃費試験の見直しを表明しているが、従来の手法の延長に拘泥することなく、統計学などの今日的な知見をもとに、より良い基準づくりを目指して欲しい

不正を行う人間の弱さを直すことはできないかも知れないが、テクノロジーで不正を困難にすることは可能なのだから。


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「君はどこにでも行ける」とはどういうことか、図にしてみた -- このエントリーを含むはてなブックマーク

ホリエモンの「君はどこにでも行ける」を読み終えた。とても面白い本だったのだけど、ホリエモンの言う「国境は君の中にある」というメッセージが、私には少しぼんやりとしているように感じられた。そこで「グローバル化とは何か」そして「なぜ外国の人とのコミュニケーションが重要になってきているのか」ということについて、私なりの言葉で説明してみたい。

まず、グローバル化の本質は、世界中を旅行したり、他の国で働いたりすることではない。

実際、日本人が世界を旅するのなら20年前の方がずっと安い値段で色々なところに行けた。各国間の貧富の格差が今より大きく、日本はその最上位に位置していたからだ。当時、大学の夏休み明けに海外旅行帰りの友人と話すと、海外の物価がいかに安いかを語ってくれるのが常だった。昔の方が国の風景の違いも大きく旅の楽しみも大きかっただろう。20年前まで日本にスタバはなかったし、25年前まで北京にはマクドナルドはなかったが、今はどこにでもある。世界各地の美しい風景も、いまはインターネットで簡単に検索できる。

働くという事に関しても、グローバル化は必ずしも世界に出て行くことを意味しない。昔であれば、米国でゴールドマン・サックスのような投資銀行に勤めて一旗あげることも考えられたが、今日、グローバル化した大企業はわざわざ純日本人を米国で採用したりすることは少ない。東京支社なり支店なりで採用すれば済むからだ。

勉強にしても、オンラインの授業が充実してくれば、必ずしも発展途上国から先進国に留学する必要は無くなるだろう。英語にしても、英語圏から各国に情報や人材が流入したことで英語圏にいなくても格段に習得しやすくなっており、意欲的な留学生は既に話せるようになってから米国に来るようになってきている。

「グローバル時代だから英語を習得しないと」というのも、必ずしも正しくない。もしかしたら、早晩機械翻訳が飛躍的に進歩して外国語を話す必要はなくなってしまうかも知れない。

それではグローバル化とは何なのか?

それは一言で言えば「世界中が同じようになること」だ。世界中の富裕層がBMWに乗り、世界中の中間層がiPhoneを使い、アジア各地の大衆が韓流ドラマやAKBグループのライブを楽しむ。世界中の学生がスタバでネット接続してKahn Academyのビデオをみて勉強し、世界中の貧困層がウォルマートで雑貨や食料品を買うようになるまでにも、大して時間はかからないだろう。

図にすると下のようになる。
Globalization.png


グローバル化する前の世界では、住む国によって生活の水準が決まった。例えばアジアについて言えば、日本人の生活は豊かで、韓国や台湾はそれより貧しく、マレーシアやタイはもっと貧しく、中国、インド、ベトナムなどは信じられないくらい貧しい、といった具合だ。だから例えば、富裕層や中間層向けの製品である大型テレビを作るにしても、アジアに限って言えば日本人の好みに合わせて作れば良かった。同じ日本の中でも管理職の給料は工場労働者のそれより高かったが、日本人の誰もが他の国より豊かであることに誇りを持てたし、国民はみな同じ番組や新聞を見て、一体感を持って生活できた。

グローバル化した世界では、財やサービスが国を超えて流通するため各国間の差はどんどん縮まり、それぞれの国に明確な富裕層、中間層、貧困層が生まれる。図は経済的な格差について描いたが、知識や情報のレベルという点でも同じことが言える。世界中の高学歴層や知識階層が、海外の競合他社や研究者の情報を得て知識を深めあう。世界中の多数のホワイトカラーが同じハードウェアやソフトウェアを使って仕事をする。世界中で、同じビジネスモデルに従って同じ製品やサービスが提供される。

国の間の距離が縮まる一方で、仕事の内容や生活の仕方によって、経済、知識、情報に関するばらつきが大きくなり、国民の一体感は損なわれていく。

そんな世界では、これまでと同じように生きているつもりでも、付き合う世界は非常に狭くなっていく。たとえば、グローバル化する以前に「日本の中間層」として生活することは「アジアの中間層」として生活することとほぼ同義(図の左側)だったが、今後は「アジアの旧先進国」かつ「中間層」という非常に小さい交わり(図の右側)で生活することを意味するようになる。

したがって、ビジネスをする上でもそれ以外の仲間を作る上でも、右の図の横方向の繋がりを強めていくことが、豊かな生活を送るための鍵になっていく。世界がどんどん同質化して、わざわざ外国に行く機会は減っても、世界を串刺しにする横のつながりはますます重要になっていく。

国境が心の中で無意識な壁となると、これからの世界を生きる上ではとても狭い世界に自分を追いやることになる。昭和の時代に図の左側のごとく同じ国の中を横に自由に歩き回ったように、これからは図の右側のごとく世界を横に自由に歩き回ればよいということだろう。



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飛び級かあるいはその逆か?〜米国の親達の計算 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

米国で子供を育てる多くの日本人が驚くことの一つは、近年、教育熱心な親の多くが子供を飛び級させるのではなく、逆に子供の学年を遅らせていることだ。米国では義務教育は5歳の年長(Kindergarten)の学年から始まるが、6歳になるまで待つケースがかなり頻繁に見られる。ウォールストリートジャーナルによると、全米で6%の保護者が子供にそうした選択をさせており、その割合は貧困地域で2%であるのに対して、富裕層の多いでは27%にも上る。富裕層の割合が高いのは、米国の高い保育料を1年間余計に出せるのは富裕層だけという側面もあるが、教育熱心な家庭が学年を遅らせているという側面も強い。

あいにくきちんとした統計を持ち合わせていないが、近年そうした傾向は強まっているように感じられる。40〜50歳前後の米国人に聞くと、優秀だったので飛び級したという例を多く聞くように感じられるからだ。

飛び級が grade acceleration とか grade-skipping と呼ばれるのに対し、学年を遅らせるのは米国では (academic) redshirting
と呼ばれる。Redshirtは、スポーツ選手が着るシャツのことで、大学スポーツなどにおいて大会出場のチャンスを増やすために学年を遅らせる戦略をとる人がいることに端を発しているようだ。

なぜ教育熱心な親は、子供の学年を遅らせるのだろうか?彼らの多くが主張することは、子供にリーダーシップとか他の子より秀でているという自信を身につけさせたいということである。リーダーシップをとった経験のような非認知能力が、子供の人生に長期間にわたって影響することは広く知られており、こうした主張にはある程度の説得力がある。

しかし、本格的な調査研究の結果は必ずしも redshirting に肯定的なものではない。入学を遅らせた子供達は、小学校段階においては(1年分早く成長してるので当然ながら)クラスメイト達よりも優れた成績を取る。また、リーダーシップのような能力に関しては、高校においてもそうした効果は認められるようだ。しかし、最終的な学力に対する影響は概ねゼロか逆にマイナスになるというものである。スポーツにおいても、出場機会が成長に繋がるような限られたケースでのみ効果が認められるということのようだ。

それでも、米国人の親達は redshirtingを諦め切れないようだ。「比較的最近のスタンフォード大学の研究者による研究によれば、確かに学力の点ではメリットは小さいかも知れないが、精神的な安定に対しては redshirting は大きく寄与している」と昨年のシアトルタイムズは伝えている。

そんな研究まで持ち出して、なぜ米国の親達は子供の学年を遅らせたいのか。恐らくそこには、有名大学入学を目指す親達の計算があるのだろう。米国では日本と異なり、大学に入るために浪人することは一般的ではなく、入学選考においては9年生〜11年生(日本の中3〜高2に相当)の成績や、高3時点でのテストスコア、それに加えて課外活動や部活動でのリーダーシップの経験などが重視される。「テストスコアを上げるために1年浪人しました」などという言い訳はアイビーリーグには通用しない。だから、逆に予め学年を遅らせておけば自分の子供が周りの子供達より年上なので有利になる、という計算なのだろう。

もしかすると、そうした作戦は個人レベルでは意味があるのかもしれない。実際、有名大学卒の肩書きは米国でもそれなりのブランド価値があるからだ。一方で、社会にとっては、才能に恵まれた子が緩い環境で1年間を無駄にすることは好ましくないように思える。また、能力があるのに勝手に学年を遅らせることは、教育現場に負荷をかけることにもなる。

米国の教育には問題が山積しているが、子供に選択肢を与えるという点で一見好ましく見えるこの制度も問題を孕んでいるようだ。


テーマ : アメリカ生活
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プロフィール

Willy

Author:Willy
日本の某大数学科で修士課程修了。
金融機関勤務を経て、米国の統計学科博士課程に留学。
2009年、某州立大数学科専任講師。2010年、助教。2016年、准教授。

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お勧めの本
1.ルベーグ積分30講
―― 統計学を学ぶために。
   小説のように読める本。
   学部向け。


2.Matematical Statistics and Data Analysis
―― WS大指定教科書。
   応用も充実。学部上級。

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