数学とは何か? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

(ご注意:一部に性的な例を含みますので不快に
思われる可能性のある方は読むのをお止め下さい。)

日本で学部生をやっていた頃、理工学部の
一般教養科目で数学の歴史について学ぶ科目があり、
授業は、古代ギリシャから始まって近代までの数学の歴史を
俯瞰するものだった。
試験はなく、単位取得のためには「数学とは何か?」という
漠然としたテーマのレポートを出すことが必要十分条件になっていた。

自分含めてこの課題に面食らった数学科の学生たちは、
何回か軽く雑談したのち「これは難しくて書けないだろw」
という結論に至って、みんなで単位を取るのを諦めた。
中途半端に悪い成績がつくと記録に残ってしまうので、
私は「不可」をつけてもらうように教授に頼んだ。

この科目は一般教養科目だったので、
化学科の友達は同じ授業を取っていたのだが、後日聞いたところによると
彼はレポートを提出して難なく単位を取得したらしい。

興味があったのでどんな事を書いたのかと聞くと、
おおよそ「数学は自然科学の道具だということを書いた」(*2)
という答えが返ってきた。
それを聞いて、なぁんだ、と思ったあと、
まあ、それも間違いとは言い切れない、とぼんやり考えた。

大学を卒業した後、時折その問題について考えた。
「数学は自然科学の道具だ」というのは
「数学とは何か?」と言う問に対する答えなのだろうか?
私は違うように思う。

「多くの人は数学を何に使っているか?」とか、
「数学は世の中で何の役に立っているか?」という問であれば、
「数学は自然科学の道具だ」という答えは妥当だろう。
しかし、それは数学そのものが何かを述べたものではない。

「数学とは何か?」と聞かれて
「自然科学の道具」と答えるのは
「飯島愛とは何か?」と聞かれて
「おかず」と答えるようなものだ。

あなたが対象をどう使っているかを答えただけで
対象そのものが何かについて答えているわけではない。

彼女はもうこの世にいないが、
彼女がこの答えを聞いたらどう思うだろうか?
職業意識が高ければ「そう思われて本望だ」と思うかも知れないし、
感情的であれば「私はそんなもんじゃない」と怒り出すかも知れない。

確かに彼女の人生の前半における社会的価値は「おかず」であることだった(*1)。
しかし、彼女や彼女と親しい人たちにとっては
彼女はかけがえのない一個人として様々なドラマや深い闇も持っていたはずだ。
もちろん、大半の忙しい現代人にとってそんなことはどうでもいい。
仮に、彼女の一生が映画化されることがあったとしても、
それが一般大衆の好奇心を満たすための偏った作品になることは
避けられないだろう。


(*1)一方、人生の後半における彼女の価値は人を楽しませることだった。

(*2)これは彼に限らず、数学を使う分野の人が良く使う言い回しだ。
  全く同じとは言えないが、例えば経済学をやっているRionさんは、
  「数学は複雑な対象を明晰に考えるための補助輪のようなもの」
  とブログで表現した。

ブログ内の関連記事:
統計学に必要なもの
統計学=数学的基礎+モデリング
統計モデルは正しいか?






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No title

江戸時代限定で、回答させてください。
答えは、「オタクの遊び道具。」
算額ってご存知ですか。
難しい数学の問題を趣味で解き明かした人が、その証明方法を額に描き込んで神社に奉納することが、江戸時代では一般的に行われていました。
人に知らしめたいから、当時は算額を使ったんだろうけど、今ならウイキとかブログになりますね。
ですので、この知的遊戯は、日本人のすばらしい余暇の使い方(おかず)になったということです。
これで単位が取れるとは思いませんが、、、、

算額

>ぐりぐりももんがさん

ヨーロッパでもつい数百年前まで数学はオタクの遊び道具であったと思います。それが、いきなり「自然科学の道具」に。「何か?」に答えていないから、急に答えががらっと変わってしまうんだと思います。

算額、実際に見たことはないですが高校の時にその手の本を読みました。内接円とか初等幾何の問題が多いイメージです。

No title

「おかず」ワロタwww

頷かざるをえないのが的確な例えである証拠です。

これは結構難しい問題ですよね。たとえば教育に関係するグラントかなんかを取りにいくときに、アウトリーチにからませなければいけなかったりすると、屁理屈でもbroader impactなんかを示さなければならない場合がありますね。数学は基礎を固めるのに色々な分野で必須なわりに、数学自体が目的になる場合は「私たちがこれを研究する意義は?学生に学ばせる意義は?」とかいう部分はどのように正当化しているのか気になります。そもそも聞かれないのかな。

数学の意義

>毒之助さん

>「私たちがこれを研究する意義は?学生に学ばせる意義は?」
>とかいう部分はどのように正当化しているのか

これは難しいです。教育に関しては「文化としての数学」というような方向に持っていくしかないのですが、その場合、正当化できる数学教育の規模というのは哲学と同じくらいの規模になってしまう可能性があり、大学、国、市民を説得するのには不十分で無責任なように思います。しかし、結構な数の日本の数学者がそういう方向を主張しています。

また研究に関しては、「数学は時代を隔てて応用される可能性が高い」というロジックがありますが、(1)そもそも数学の理論は応用よりも先に生まれるのか?、そして、 (2)もしそうなら何を目的として研究すれば良いのか、というのが分かりません。その領域では、数学はアートということになるでしょう。

現状では純粋数学者は、自然科学の道具として数学を教え、文化として数学を研究するというねじれた状態になっています。コルモゴロフは、「きちんとした数学教育を行うためには数学を教える者は自ら研究を行う必要がある」というようなことを言って、このねじれを整合的に説明しようとしていたように思います。あるいは、飯島愛が自分の生活のために進んでおかずになったのと同じと言っても良いでしょう。

まあ私は、統計(応用数学の一部)をやっているのであまり悩む必要がないですが。

数学とは

数学とはトートロジーによって世界を規定する体系でしょうか。何だかそういう話が好きだったころがありました(遠い目。

Re: 数学とは

なるほど、そんな表現の仕方もあるのですね。Rionさんは哲学とか好きそうですね(数学も?)。

No title

アメリカで教員をしておられるWillyさんには釈迦に説法だとは思いますが
そちらでは(グラントを取る為に、ということも含めて)応用数学をやっている教員は半数を優に超えるでしょう。
日本の数学者だけに限定していえば、
彼らは「文化としての数学」という抽象的な主張することによって
議論するという土俵にあがろうとせず、正統的な批判をも回避しているように思います。
数理物理は今でこそ数学科でやってる方は多いですが、昔はこれも受け入れていませんでした。

日本は学問も基本的に輸入ですから、純粋数学だけがいい。
というような昔の欧米のノリの時に輸入して、そのノリが変化せずにそのまま残ってる感じですね。

純粋数学を専攻する方にとっては、言葉は悪いですが二流でもポストを得やすい。
という点でメリットはあるんでしょうが、私のように応用数学をやってる人間からすれば
学部が経済、工学部等と散って勉強会さえろくに開けない。学会については言うまでもない。
とデメリットしかありません。
政治が上手い応用屋が色々と抱き込んで数学科に応用のポストを欧米並みに増やして欲しいんですが
爺さん連中の抵抗が激しくて中々難しいですね。
私大は転換がかなり進んでいて、応用系の学者が欧米並みになりつつありますが
国立がこれではちょっと厳しいです。

No title

>axeさん

私が日本の数学科にいたのは10年前ですが、確かにアメリカに比べて純粋数学者の比率は極端に高いですね。日本の場合、大学と産業界がほとんど分断されているので、純粋数学が重視されやすいのだと思います。人事はすぐには変えられないでしょうが、産業界に応用可能な技術を応用数学者が考えていき、ある程度お金にしていくということが必要なんでしょう。

No title

僕の中の数学は思ってる事を伝える術でもありますね。
その術を大きく五つに分けて、
心情を表すのに一番広範囲にわたるのがemotion。(記号はis a superset of)
emotion ⊃ intuition ⊃ language ⊃ applied math ⊃ pure math
逆にcommunicability、accountabilityが高いのが純粋数学。
emotion < intuition < language < applied math < pure math
何となくここからのパクリですけど(笑)。
http://xkcd.com/435/

例えば僕の愛犬が亡くなって無数の感情が自然に噴き出て、
それを人に伝えたいが挙句言語に通訳しても伝えきれない気持ちのニュアンスが多々ある。
得に不器用な人間程ぎこちない。
不条理ではあるけれども一番正確に考えてる事を包み込むのが感情(トートロジー..)。

逆に愛犬に対する気持ちを理論に乗せた方が、説明できる範囲が有限であっても、
より論理的に、正確的に気持ちを伝えられると思います。
Case in point(笑)。http://wofwof.blog60.fc2.com/blog-entry-153.html
普通は言語なんでしょうけど普通の人は数学の教育がある訳でもないので。

で、数学は何か、とか言語は何か、と改めて問われると。。。

No title

apeescapeさん:

5つの包含関係は僕にはよく理解できないところもありますが、
「communicability, accountability が最も高いのが数学」
というのは僕のイメージとぴったりです。
僕が数学をやっている大きな理由の一つがこれです。
このあたりの記事を見て頂いても分かりますが↓
http://wofwof.blog60.fc2.com/blog-entry-155.html
というわけで、僕のようにコミュ力のない人は数学をやりましょう!(笑)

xkcd 、面白いですね。
math から biology あたりまでは自然科学系のコンセンサスなのに
なんでこんなに面白く描けるんだろう(笑)。
基本的に日本文化の笑いのレベルというのはアメリカより高いだろう
と勝手に思っているのですが、この手のナード系(?)の笑いのレベルは
アメリカの方が高いと感じたりします。

お笑い

お笑いのテーストはそれぞれですが、
日本のお笑いはコラボでやる仕事が多いんでそっちに長けてると思います。(ザ•ドリームマッチとか)
お笑いの年功序列もしっかりしてて、先輩/師匠のもとで技術を磨く期間が凄く長く、
芸が洗練されてるような感じです。
言語の構造のおかげもありますがpun芸が奥深い。

アメリカはスタンドアップや政治風刺が多いけど
もう少しコラボ番組出して欲しいです。
例えばWho's Line is it Anyways?結構好きです。
http://www.youtube.com/watch?v=11lRFvq8miQ

No title

異なるものを、同じものとみなす技術。
とゆうのを聞いてなるほどと思いました。
私も経済学を専攻していましたので
道具として便利だと思います。
なぜこれほど便利なのかといえば
異なるものを同じものとして表現できるからだと思います。

No title

>異なるものを、同じものとみなす技術。

これも重要な側面ですね。
そもそも、数学に限らず学問は
「異なるものを、同じものとみなす技術」なわけですが、
数学はその極端な形と言えそうです。

日本で統計の利用が流行らない一つの理由は、
「異なるものを同じとみなすのに耐えられない人が多いから」
なのではないかと思っています。
統計的な差異に理由を求めてしまうということなのでしょう。
それだけ、細かい所まで気を遣うとも言えるし、
もっと割り切った方が良いところもある、
とも言えそうです。

例えば、二人の営業職員の成績が違った時に、
「結果にばらつきがある」と考える人、
「結果を分けた要因は何だろう」と考える人、
「A君は頑張ったのにB君はなんてザマだ」と考える人がおり、
日本は3番目の人の割合が高すぎるという事です。
プロフィール

Willy

Author:Willy
日本の某大数学科で修士課程修了。
金融機関勤務を経て、米国の統計学科博士課程に留学。
2009年、某州立大数学科専任講師。2010年、助教。2016年、准教授。

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お勧めの本
1.ルベーグ積分30講
―― 統計学を学ぶために。
   小説のように読める本。
   学部向け。


2.Matematical Statistics and Data Analysis
―― WS大指定教科書。
   応用も充実。学部上級。

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