モーレツに働くとカッコワルイのか?
安倍晋三首相が「働き方改革実現推進室」の開所式で「モーレツ社員の考え方が否定される日本にしていきたい」と述べたそうだ。
やりたいことはなんとなく分からないではない。日本では、労働時間の長さと労働生産性の低さが積年の課題になっている。一人当たりの年間労働時間(2013年、OECD)を見ると、日本の1735時間に対し、米国1788時間、ドイツ1388時間となっており、一時間当たりの労働生産性(2013年、日本生産性本部)では、日本41.3ドル、米国65.7ドル、ドイツ60.2ドルとなっている。日本にサービス残業が多いことを踏まえると、統計の数字以上に実際の労働時間は長く、労働生産性格差は低い可能性すらある。
経済規模や軍事力を背景とした交渉上の優位やIT分野でのイノベーションを活かす米国は別としても、余計な仕事を減らせばドイツ程度の生産性は達成できないだろうかと考えるのはおかしなことではない。一人当たりの所得水準を高くするには新しい需要を作り出さなければいけないので大変だが、短い労働時間で同じ量のものを生産するのはやらなければならないことが見えている分、実現しやすそうに見える。
そんな訳で着眼点は悪くないが、私は「モーレツ社員の考え方が否定される日本」と聞いた時に、違和感や非常に残念な感じがした。それがどこから来るのかといえば、相変わらず「皆で同じ価値観を持って働きましょう。価値観に合わない人はみんなで後ろ指さしましょう。」という村社会のルールで人を動かそうとしているところが古いからだ。
「モーレツ社員がかっこいい社会」の次に来るべきものは、「各自が周囲を気にせず思うように働く社会」であって、「モーレツ社員がかっこ悪い社会」でもなければ「ゆったり働く社員がかっこいい社会」でもない。
いつの時代もモーレツに働く一部の社員が会社や社会を豊かにしてきた。それは、管理の難しい部下をたくさん抱える管理職であったり、イノベーションを生み出す技術者であったり、未開の地に物を売りに行くセールスマンであったりした。そういうモーレツ社員を、会社はそれに見合う報酬を払うことによって報いるべきだし、他の社員は尊重する社会にしなければならない。一方、モーレツに働きたくない社員は、モーレツ社員がすぐ隣りにいても「自分はモーレツ社員ではないのでそこまで働かない代わりに安い給料でも良い」と我が道を行けば良い。
政治がそのためにすべきことは、現代の労働実態に即した法律を作ることや、その法律がきちんと遵守されるように運用することであって、相互監視によって価値観を強制することではない。
現政権になってからの日本の政治は、同調圧力によって国民を動かそうとすることが増えた。「イクメン」、「女性が輝く社会」、「一億総活躍社会」、「ブラック企業の社名公表」などがその代表例だろう。村社会を強化することによって、「育児負担の増加を強制される父親」、「家事育児と就労の両立を強制される女性」、「社会貢献を強制される高齢者」、「評判リスクに怯える企業」を増やそうとする政策だ。暮らしやすい社会とは法律を守っている限り個人が自由に活動を選択できる社会であって、国のために個人の行動が制約されるのでは本末転倒だ。
90年代以降日本経済が衰退する中で、それでも日本が昔より良くなった面も確かにあると5年ほど前まで私は感じていた。プライベートを会社に縛られることは減り、転職は昔より容易になり、働き方は多様化し、結婚に関する価値観も多様化した。
その流れがいまの政権では逆転してしまったように思える。「日本を取り戻す」というのが「村社会を取り戻す」ということなのであれば、非常に残念なスローガンと言わざるをえない。
やりたいことはなんとなく分からないではない。日本では、労働時間の長さと労働生産性の低さが積年の課題になっている。一人当たりの年間労働時間(2013年、OECD)を見ると、日本の1735時間に対し、米国1788時間、ドイツ1388時間となっており、一時間当たりの労働生産性(2013年、日本生産性本部)では、日本41.3ドル、米国65.7ドル、ドイツ60.2ドルとなっている。日本にサービス残業が多いことを踏まえると、統計の数字以上に実際の労働時間は長く、労働生産性格差は低い可能性すらある。
経済規模や軍事力を背景とした交渉上の優位やIT分野でのイノベーションを活かす米国は別としても、余計な仕事を減らせばドイツ程度の生産性は達成できないだろうかと考えるのはおかしなことではない。一人当たりの所得水準を高くするには新しい需要を作り出さなければいけないので大変だが、短い労働時間で同じ量のものを生産するのはやらなければならないことが見えている分、実現しやすそうに見える。
そんな訳で着眼点は悪くないが、私は「モーレツ社員の考え方が否定される日本」と聞いた時に、違和感や非常に残念な感じがした。それがどこから来るのかといえば、相変わらず「皆で同じ価値観を持って働きましょう。価値観に合わない人はみんなで後ろ指さしましょう。」という村社会のルールで人を動かそうとしているところが古いからだ。
「モーレツ社員がかっこいい社会」の次に来るべきものは、「各自が周囲を気にせず思うように働く社会」であって、「モーレツ社員がかっこ悪い社会」でもなければ「ゆったり働く社員がかっこいい社会」でもない。
いつの時代もモーレツに働く一部の社員が会社や社会を豊かにしてきた。それは、管理の難しい部下をたくさん抱える管理職であったり、イノベーションを生み出す技術者であったり、未開の地に物を売りに行くセールスマンであったりした。そういうモーレツ社員を、会社はそれに見合う報酬を払うことによって報いるべきだし、他の社員は尊重する社会にしなければならない。一方、モーレツに働きたくない社員は、モーレツ社員がすぐ隣りにいても「自分はモーレツ社員ではないのでそこまで働かない代わりに安い給料でも良い」と我が道を行けば良い。
政治がそのためにすべきことは、現代の労働実態に即した法律を作ることや、その法律がきちんと遵守されるように運用することであって、相互監視によって価値観を強制することではない。
現政権になってからの日本の政治は、同調圧力によって国民を動かそうとすることが増えた。「イクメン」、「女性が輝く社会」、「一億総活躍社会」、「ブラック企業の社名公表」などがその代表例だろう。村社会を強化することによって、「育児負担の増加を強制される父親」、「家事育児と就労の両立を強制される女性」、「社会貢献を強制される高齢者」、「評判リスクに怯える企業」を増やそうとする政策だ。暮らしやすい社会とは法律を守っている限り個人が自由に活動を選択できる社会であって、国のために個人の行動が制約されるのでは本末転倒だ。
90年代以降日本経済が衰退する中で、それでも日本が昔より良くなった面も確かにあると5年ほど前まで私は感じていた。プライベートを会社に縛られることは減り、転職は昔より容易になり、働き方は多様化し、結婚に関する価値観も多様化した。
その流れがいまの政権では逆転してしまったように思える。「日本を取り戻す」というのが「村社会を取り戻す」ということなのであれば、非常に残念なスローガンと言わざるをえない。
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