教員の本分は質の高い授業をすること
小中高の学校教員の長時間労働が話題になっている。
優秀な先生が高給を貰って、最高の授業をするために日夜頑張っているという話であればそれも美談になりうるが、そういう話ではなさそうである。長時間労働の原因は、部活動であったり、保護者への対応であったり、事務書類の提出であったりする事が多いようだ。
教員がそうした労働環境に置かれる事の問題は、本来の主要な業務であるはずの教科の指導レベルが落ちてしまうこと、本当に教科に情熱を持った人が先生にならなくなってしまうこと、である。
現状では教科指導というもっとも重要なはずの点で日本の学校は塾に後塵を拝しているように思う。
私は中学時代、地元の公立中学校と地元の小さな塾に通っていた。塾というと入試のために必要な事だけ詰め込むというイメージもあるが、少なくとも私の経験では正反対であった。
その塾の国語の先生は、2年間も自分の名前すら明かさないようなとても文学オタクっぽい中年の男の先生であったが、授業では常にとても丁寧に文章を解説した。その解説を聞くだけで、問題の答えを聞かなくても、自分の読み方のどこに問題があるのか、どこを間違えたのかが、自然に分かってしまうような解説である。本を読むのは嫌いだった私だが、塾の国語の授業で文章を読むのが私は好きになっていった。その先生は、文学史、文法、漢字、古文のような知識がメインになるような事にはほとんど時間を割かず、ひたすら生徒の読解力や文章力をあげることに集中していた。力のある先生にしかできない授業だったように思う。今でも私の国語力の原点はそこにあると思っている。
その塾の英語の先生は、その教室の室長で厳しい先生であった。その先生の授業は、重要な事項をかなりのスピードで何度も何度も反復する形式だった。プリントが一斉に配られ、全速力で解いていく。一枚のプリントには15問くらいの問題が並んでいるが、同じような内容を繰り返し学ぶので殆どの問題はすぐに解ける。分からないのは、せいぜい一問か二問くらいだ。先生はランダムに生徒を当てていくが、不思議と私が当てられるのは解けていない問題なのだ。何だかいつも運が悪いななどとぼんやり思っていたが、ある時、その先生は私を
「Willy、お前、その問題が解けていないのは3回目だぞ!」
と叱った。要するに私はお調子者の上に英語だけ成績がイマイチなので、その先生は私がどの問題を解けないのか全て暗記していたのである。もちろん、英語の基礎を叩き込まれたお陰で、それは米国で暮らす今でも役に立っている。
数学の先生は、とてもリラックスした雰囲気の授業をした。私はいつも、タケダという苗字で何となく肌が緑っぽい「インゲン君」(信玄とインゲンをかけている)という友達と一緒に喋りながら問題を解いていた。国語や社会では意見がぶつかりあうと議論が進まないのに、数学ではアイデアを出しあうと問題が早く解けていくのが楽しくて私は数学を好きになり、数学科に進んだ。授業を受けていた別の同級生の一人も数学科に進んだようだ。
素晴らしい先生ばかりの塾だったと思うが、私にはその小さな塾の先生が中学校の先生よりも良いお給料を貰っていたとは思っていない。実際、その教室は私が卒業してから一年後には潰れてしまい、別の校舎に合併されてしまったほどだ。
一方で残念ながら、私が中学校で受けた授業の中で塾の授業ほど印象に残っているものはない。なぜこんな事になってしまっているのだろうか。
一つの理由は、中学教員という仕事がマルチタスクすぎて、文学オタクの先生のような教科にだけ秀でた存在を許さないことだろう。もう一つのもっと重要な理由は、たとえ優れた教員がいても、中学校が各々の先生の魅力を十分に引き出すような体制になっていないということだ。レベル分けがされていないことで有意義な指導ができなかったり、授業を妨害する子を追い出す事ができないような体制になっていたり、雑務に忙殺されるせいで準備や自己研鑽がおろそかになったりする。
事務仕事や保護者対応、生活指導、部活動指導などは本来、別に人を当てるべき業務だ。必修になった小学校の英語なども同様である。部活を一生懸命指導する先生はいても良いと思うが、あくまで各々の教員の強みを活かすような仕組みにしなければならない。理解が早く意欲的な子にどんどん新しい事を教えることと、授業について行くのが大変な子が落ちこぼれないように教えることもまた、違う能力が必要だろう。
子供が減っていく中で、ただなし崩し的にクラスの人数を減らしたり複数の担任をつけたりするのではなく、業務を切り分けて分業を進めれば、より先生の魅力を引き出し有意義な授業ができる体制になるのではないだろうか。
優秀な先生が高給を貰って、最高の授業をするために日夜頑張っているという話であればそれも美談になりうるが、そういう話ではなさそうである。長時間労働の原因は、部活動であったり、保護者への対応であったり、事務書類の提出であったりする事が多いようだ。
教員がそうした労働環境に置かれる事の問題は、本来の主要な業務であるはずの教科の指導レベルが落ちてしまうこと、本当に教科に情熱を持った人が先生にならなくなってしまうこと、である。
現状では教科指導というもっとも重要なはずの点で日本の学校は塾に後塵を拝しているように思う。
私は中学時代、地元の公立中学校と地元の小さな塾に通っていた。塾というと入試のために必要な事だけ詰め込むというイメージもあるが、少なくとも私の経験では正反対であった。
その塾の国語の先生は、2年間も自分の名前すら明かさないようなとても文学オタクっぽい中年の男の先生であったが、授業では常にとても丁寧に文章を解説した。その解説を聞くだけで、問題の答えを聞かなくても、自分の読み方のどこに問題があるのか、どこを間違えたのかが、自然に分かってしまうような解説である。本を読むのは嫌いだった私だが、塾の国語の授業で文章を読むのが私は好きになっていった。その先生は、文学史、文法、漢字、古文のような知識がメインになるような事にはほとんど時間を割かず、ひたすら生徒の読解力や文章力をあげることに集中していた。力のある先生にしかできない授業だったように思う。今でも私の国語力の原点はそこにあると思っている。
その塾の英語の先生は、その教室の室長で厳しい先生であった。その先生の授業は、重要な事項をかなりのスピードで何度も何度も反復する形式だった。プリントが一斉に配られ、全速力で解いていく。一枚のプリントには15問くらいの問題が並んでいるが、同じような内容を繰り返し学ぶので殆どの問題はすぐに解ける。分からないのは、せいぜい一問か二問くらいだ。先生はランダムに生徒を当てていくが、不思議と私が当てられるのは解けていない問題なのだ。何だかいつも運が悪いななどとぼんやり思っていたが、ある時、その先生は私を
「Willy、お前、その問題が解けていないのは3回目だぞ!」
と叱った。要するに私はお調子者の上に英語だけ成績がイマイチなので、その先生は私がどの問題を解けないのか全て暗記していたのである。もちろん、英語の基礎を叩き込まれたお陰で、それは米国で暮らす今でも役に立っている。
数学の先生は、とてもリラックスした雰囲気の授業をした。私はいつも、タケダという苗字で何となく肌が緑っぽい「インゲン君」(信玄とインゲンをかけている)という友達と一緒に喋りながら問題を解いていた。国語や社会では意見がぶつかりあうと議論が進まないのに、数学ではアイデアを出しあうと問題が早く解けていくのが楽しくて私は数学を好きになり、数学科に進んだ。授業を受けていた別の同級生の一人も数学科に進んだようだ。
素晴らしい先生ばかりの塾だったと思うが、私にはその小さな塾の先生が中学校の先生よりも良いお給料を貰っていたとは思っていない。実際、その教室は私が卒業してから一年後には潰れてしまい、別の校舎に合併されてしまったほどだ。
一方で残念ながら、私が中学校で受けた授業の中で塾の授業ほど印象に残っているものはない。なぜこんな事になってしまっているのだろうか。
一つの理由は、中学教員という仕事がマルチタスクすぎて、文学オタクの先生のような教科にだけ秀でた存在を許さないことだろう。もう一つのもっと重要な理由は、たとえ優れた教員がいても、中学校が各々の先生の魅力を十分に引き出すような体制になっていないということだ。レベル分けがされていないことで有意義な指導ができなかったり、授業を妨害する子を追い出す事ができないような体制になっていたり、雑務に忙殺されるせいで準備や自己研鑽がおろそかになったりする。
事務仕事や保護者対応、生活指導、部活動指導などは本来、別に人を当てるべき業務だ。必修になった小学校の英語なども同様である。部活を一生懸命指導する先生はいても良いと思うが、あくまで各々の教員の強みを活かすような仕組みにしなければならない。理解が早く意欲的な子にどんどん新しい事を教えることと、授業について行くのが大変な子が落ちこぼれないように教えることもまた、違う能力が必要だろう。
子供が減っていく中で、ただなし崩し的にクラスの人数を減らしたり複数の担任をつけたりするのではなく、業務を切り分けて分業を進めれば、より先生の魅力を引き出し有意義な授業ができる体制になるのではないだろうか。
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