ハーバードじゃないとだめなのはだめ -- このエントリーを含むはてなブックマーク

東大に受かるくらいの学力の高校生が、
ハーバード大など米国の一流大学を目指すケースが増えているらしい(記事)。
ツイッターでは批判的な意見も多いようだが、
私は基本的に良い動きだと思うし応援したい。

別に優秀な人がみんな海外を目指すべきだとは思わない。
東大に入れるくらい頭の良い人はきちんとした人生計画さえ立てれば、
一生、日本で余裕のある暮らしが送れるだろう。
いや、そんなに保守的にならなくても、
日本から世界に新しいモノやサービス、研究成果などを
発信することだってもちろん可能だ。
今までだって、日本はそうやって豊かになってきた。

しかし人材交流がグローバル化する中で
日本人が相対的に孤立する傾向が強まっていることは
日本社会にとってリスクファクターとなっており、
若くて優秀な人の一部が積極的に海外に出ていくことは望ましい。


「大人になってからだって海外に行くチャンスはあるのだから、
わざわざ学部から行かなくても
大学院からでもいいし働き始めてからでも良い。」
というような意見もよく聞く。
しかし、私はこの意見に諸手を挙げて賛成はできない。

実際、私は社会人になってからの大学院留学組だが、
英語力の面でも、社会への適応という面でも、
学部からの留学と大学院からの留学では決定的な差があると感じる。
(さらに言えば、留学時の年齢によっても異なる。)
その差は、小学生と中学生の学力差とか、
東京出身者と地方出身者の感覚の違いよりもずっと大きい。

もちろん、英語力は努力や才能による部分も大きいし、
社会への適応能力は個人差や性格による差も大きい。
しかしそれは、「極めて優秀なら」、「多大な努力を惜しまないなら」、
「とてもアメリカ的な考え方の人なら」、
挽回できるという程の大きな差である。

例えば、米国のトップスクールのMBAプログラムには
日本人が毎年50〜100名程度が入学しているはずだが、
MBA関係者の話などを聞く限り、
そのうち純粋に米国内で就職しているのは10名未満だろう。
もちろん、留学生の中には日本からの派遣留学や
日本国内で良い条件で就職する人が多いが、
これらトップ校のMBAの卒業生でさえも大半は、
米国社会で英語圏からの卒業生と
互角にやっていく事は難しいのだ。

18歳で海外の一流大学に入学するメリットは非常に大きい。
唯一例外があるとすれば帰国子女など、
大人になる前に十分な海外経験がある場合だろう。

もちろん、18歳で全く違う環境に飛び込むのは相当なエネルギーが必要だろう。
しかし、そのエネルギーはペイする可能性が高いと思う。
確かに、留学した学生が幸せになるかどうかは本人次第だが、
社会的な成功に関して言えば、それは金融市場の裁定取引のようなものだ。
まだ多くの人が気付いていないことをきちんと考えてやれば、
誰もが気付いていることに労力を費やすより大抵の場合成果は大きい。
しかも日本企業は現在、明確に海外で活躍できる人材を求めている。

もしも日本からアイビーリーグへの志願者が1万人、
東大への志願者も1万人ということになれば、
その時はもはや留学は良い選択肢ではないかも知れない。
しかし現状では、かなりの先行者メリットを享受できるだろう。


最初に、日本の高校生が海外の大学を目指すのは
「基本的に」良い動きだと述べた。
ここで、2つほど懸念材料を述べておきたい。

1つは、米国の一流大学が「大学受験ゲーム」の延長として
「優秀な受験生」の興味を引くだけで終わってしまうことだ。
首を傾げたくなるのが「ハーバードと東大を併願する学生」がいることだ。
米国式の教育を受けたいのならば、
ハーバードでなくても良い大学はたくさんある。
なにしろ米国の研究大学の規模は、日本の10倍なのだ。
それに加えて、質の高いリベラルアーツカレッジも多くある。
選択肢を広げれば高い確率で入学許可をもらえるだろうし、
例えばそのレベルの学生が州立トップ校にも入れないとは思えない。
そうした大学でも質の高い教育を受ける事は十分に可能だし、
大学院で一流私立に移ることもできる。
「ハーバードやイェールじゃなければ東大」というのは、
「フィレミニオンがないなら寿司」というような滑稽さがある。

国際化の点で望ましいのは、
予備校が「ハーバード大20名合格!」と書いて
宣伝できるようになることではなく、
どこの有名大学に行ってもちょっとした会が
開けるくらいの数の日本人学部生がいて、
他国の社交的な学生の多くが卒業までに
2人位は日本人の友人を作れるような
状況を作り出すことではないか。


もう1つの懸念材料は、格差の固定化である。
東大(京大でもいい)がすごいのは、
日本人であれば本人の努力と能力次第で誰でも入学できることだ。
学費は年50万ほどだし、貧しい家庭であれば貸与奨学金を受ける事もできる。
幼い頃からお金をかけて、楽器やマイナースポーツ、
英会話などを習う必要もない。
真面目に学校で勉強し、問題集で練習し、少しばかり塾に通えば良い。

一方で、米国の大学はそうではない。
有名私立では学費と寮費だけで年5万ドルを超えるケースも珍しくない。
入学にはペーパーテストだけでなく、芸術やスポーツ、課外活動の実績が必要だ。

英語学習に関しても、日本で生きた英語を学ぶ環境は平等ではない。
裕福な家庭は、子供をインターナショナルスクールにいれることもできる。
また大都市圏の中流以上の家庭であれば
ネイティブの家庭教師を雇うことは難しくないかも知れないが、
そうした機会がどれほど与えられるかは親の情報力や英語力にも依存する。
小さな町や貧しい家庭では(インターネットが問題をある
程度解決したにせよ)そうした機会も限られる。

必死でこうした困難を乗り越えてたとしても、
アイビーリーグのアドミッションオフィスが、
あなたが睡眠時間を削って手伝った娘の願書と、
教育コンサルタントがアドバイスした現職大臣の令嬢の願書を受け取ったら
どちらに入学許可が与えられるだろうか?


繰り返すと、全ての優秀な高校生が海外の大学を目指す必要はないし
それは現実的でもない。
しかし、一部の優秀な高校生が海外の大学を目指す事には、
本人にとっても、社会にとっても、大きなメリットがあるのではないか。


テーマ : 海外留学
ジャンル : 学校・教育

米国の圧倒的な教育格差 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

これ、頭の良い中学3年生だったら十分理解できるよね?
と考えながら丁寧に作ったスライドを、ゆっくり解説する。
学生が退屈しないようにスライドは要点が穴埋め式になっており、
教室のスクリーンには答えが赤字で表示されるようにした。
次のスライドへ・・・、とPCのボタンを押すと、
「先生、ちょっと待って」と、ある学生が進行を止める。
どうも彼には話を聞きながら穴埋めをするのは難しいようだ。
一枚戻って少し時間を取っていると、
今度は突然、ノートPCの画面を見ながら笑い出す別の女子学生。
こちら側からは分からないが、授業のスライドではなく
ユーチューブでも見ているのだろう。
私の勤めるWS大学の「数学が苦手な学生向け」の授業の一風景である。

WS大の学生の質はピンキリだが、
大学の入試統計などから考える限り、
恐らくこの授業を履修している学生の典型は
米国の公立高校をごく平均的な成績で卒業した
数学が若干苦手な学生といったところだろう。

こんな体たらくで、この超大国の将来はどうなるのだろうか?
その答えは、
「大丈夫。米国のリーダーになる人間は別のところで教育されているから。」
ということになるのだろう。

米国の名門私立高校 Choate Rosemary Hall に
在学していた現役女子高生、岡崎玲子氏が書いた
レイコ@チョート校」を読んだ。
女子高生の体験談を元に書いた本ということで侮っていたが、
ほぼ全寮制のキャンパス生活や授業の様子が活き活きと
テンポよく描かれており、エクサイティングな本である。
プレップスクールでの勉強の大変さや、著者の頑張りと共に、
教員達の情熱、そして、この国のリーダーがどうやって育てられているのかが
手に取るようによく分かる本である。

詳しい内容に興味がある方には実際にを手に取って頂く事にして、
ここでは、米国の名門私立高校の教育が、
なぜそんなに手の込んだものになっているかという背景を簡単に説明しよう。

米国の私立高校には、日本の私立と大きく違うところが3つある。
1つめは、いわゆる大学入試に備える必要がないこと、
2つめは、その学校数や学生数が少ないこと、
3つめは、授業料が非常に高額なこと、である。


1.大学入試に備える必要がないこと

もちろん米国のプレップスクールも、多くの卒業生を名門大学に入学させる。
その比率は日本の名門高校ほどの比率ではないにしても、
アイビーリーグやそれと同等の私立大学に卒業生の2割程度を
入学させる学校はいくつも存在する。

しかし、名門大学の入学選考に学力考査がないという点が日本とは大きく異なる。
選考はごく易しい共通テスト(SATあるいはACT)と高校の内申書の他は、
数学オリンピックで代表になったとか、
部活のキャプテンを務めた、
スポーツの大会や音楽コンクールで優勝した、
というような「付加価値」の部分で決まる。

その結果、各高校は、
各生徒の付加価値を伸ばすためにはどうすれば良いのか、
各生徒の将来のためにどんな教育をすれば良いのか、
ということを独自に考えなければならない。
これは、経済面でも、熱意の面でも、
膨大なエネルギーを必要とする作業なのだろうと想像される。
例えば、そのためには、各分野の研究者レベルの教員を揃えて
生徒にその分野の研究の仕方を体験させたり、
海外に提携校を探して長期留学プログラムを組んだり
する必要も出てくるだろう。

もし日本で文部科学省が、
「これから大学入試を廃止するので、
各校はその信念に基づいてベストの教育をするように」と言い出したら、
東大合格率の高さが自慢の名門高校の校長も、
その大変さに途方に暮れるのではないか。


2.名門高校の数や学生数が少ないこと

上記のことを踏まえると、
そんなにたくさんの良い私立学校があるわけはないし、
仮に資金力と情熱に溢れた私立学校であっても
そんなにたくさんの学生を受け入れることができないということは
容易に想像できるだろう。

例えば、私が住んでいる富裕層の層が厚いミシガン州南東部においても
都市圏人口が500万人を超えるにもかかわらず、
特筆すべきカリキュラムを持った私立高校は、
Cranbrook, Green Hills, Detroit Country Day (*1)
の3校程度しかなく、
入学定員はそれぞれ百数十名〜二百名ほどに過ぎない。

日本の首都圏に私立の小さな進学校が20校しかない状態、
と表現すれば日本との違いを納得頂けるのではないだろうか。

(*1) Detroit Country Day の "Day"は、
寮制のプレップスクールではなく「通学する学校」
であることを敢えて表す単語である。

3.授業料が非常に高額なこと

カリキュラムを独自に組み立てるということの大変さ、
そして、数少ない資金力と情熱に溢れた学校だけが
そうした教育を提供できるという事情を考えれば、
授業料が極めて高額になることも想像に難くないだろう。

レイコ@チョート校の著者、岡崎玲子氏が通った
Choate Rosemary Hall の寮生の学費は年間5万ドルである。
もちろんこの他に、日用品や旅費、課外活動に関する経費がかかるはずだ。
高校4年間の学費は、米国の中流家庭の家が一軒建つ金額である。
上に挙げたミシガンの私立3校に関しても、
通学の場合の学費で年間2万〜2万5千ドル程度と、
購買力で見て日本の私立高校の軽く2倍以上の額となっている。


こうして見て行くと米国の有名私立学校は、
経済面、能力面の両面で恵まれた限られた子供たちだけが
通う事のできる特別な学校であることが分かる。

米国には、
本当に頭の良い子や自分から勉強してきた子以外は
生き残るのが難しい荒廃した公教育がある一方で、
こうした恵まれた環境で育ったごく一握りの人たちだけが
受けられる別の教育もあるのである。


テーマ : 子育て・教育
ジャンル : 学校・教育

白人は米国のリーダーで居続けられるのか -- このエントリーを含むはてなブックマーク

数日前の記事だが、ニューヨークタイムズが
ニューヨーク市におけるアジア系の高校生の割合は16%に過ぎない
にもかかわらず、公立トップ数校におけるアジア系比率が6〜7割
にも達していると報じた(元記事)。

ちなみに記事のタイトルは、
"For Asians, School Tests Are Vital Steppingstones"
(アジア人にとっては、学校のテストが人生の大事な一歩なんだよ)
である。
米国の初等・中等教育が危機的な状況にあり、
学校以外でも一生懸命勉強するアジア系の独壇場になりつつあるのに
未だに危機感を抱けないアメリカ人の姿が浮き彫りになっていて興味深い。

こうした現象は、ニューヨークに限らない。
私の住むデトロイト圏北部においては、アジア人人口が6%程度である
(ただし子供に限るともう少し比率が高いと思われる)にもかかわらず、
公立トップ校への進学者数の7〜8割がアジア系である。

記事では貧しい家庭に育つ中華系の高校生の写真が大きく取り上げられているが、
実際には、経済的にも既に白人はアジア系に負けている。
6年前のセンサス局調べによると、
25歳以上のフルタイム労働者の平均賃金は、
アジア系4万2千ドル、白人4万ドル、黒人3万2千ドル、
ヒスパニック2万7千ドルだ。
米国の賃金は学歴による格差が大きいため、
現在の米国の若者の人種間学力格差を考えるとこの差は広がる一方だろう。
ニューヨークタイムズが貧しいアジア人学生を取り上げたのも、
人種間闘争を煽らないための配慮とさえ思えるほどだ。

どうしてここまで大きな教育格差ができてしまうのだろうか。
これは、日本などにおけるステレオタイプに反して、
米国ができる子供の能力を伸ばす教育をしていないことに原因があるだろう。
その結果、子供の能力よりも教育に対する文化的な違いが、
成果に如実に現れてしまっている。

ニューヨークタイムズの記事に対する関心はかなり高かったようで
白人、アジア人双方の知人が、facebookでコメントを残していたが、
そこに書かれていたことのほとんどは、
「努力は才能よりずっと大事だ」、
「弱音を吐いてないで一生懸命頑張れ」
という内容であった。

米国の初等教育では、"gifted" とか "talented" という言葉が好んで使われる。
これは、一見子供の才能を伸ばす良い教育のように思われるが、
実際のところは、「教えなくても能力が高い子」だけが
生き残れるという教育になっているのだ。

私が米国大学院の博士課程に入ってまず驚いた事は、
第一に、生粋のアメリカ人が非常に少ないということであり、
第二に、そうしたアメリカ人の学生はなかなか頭が切れるということである。
出来の悪い米国人学生も中にはいるが、
そういう学生は最初の1〜2年のうちにドロップアウトして、
本当に頭の良いアメリカ人だけが残る。
一方のアジア系はと言うと、
頭の善し悪しにかかわらずなんとか頑張って試験をクリアし
大半が卒業していく。

こういう現状を見ていると、頭の良い生粋の米国人はたくさんいるのに、
勤勉でないせいで多くの人が良いキャリアのスタートラインに立てていない
ということが、よく理解できる。

それでも、アジア系が米国を牛耳ってる感じがしないのはなぜだろうか。
これは単なる時差の問題である。
米国は米国人が足りない分野だけに優先して移民を受け入れてきた。
具体的には STEM (Science, Technology, Engineering, Mathematics)
と呼ばれるテクニカルな分野であり、
人気のあるビジネスや法律、また医療系の専門職などでは
引き続き、生粋の米国人が優先的に仕事を確保してきた。
実際、多くの頭の良い生粋の米国人は、こうした分野に進み、
苦労が多い割に実入りの少ないと考えられてきた STEM 分野を
避けているのが現状である。

しかし今後は、こうした「生粋の米国人に人気の分野」においても
アジア系が幅を利かせてくる事になるだろう。
なぜなら、今後はアジア系移民の第二世代が活躍することになるからである。
現在、米国には1千4百万人ほどのアジア系がいるが、
このうち1千万人が外国で出生した人であり、
しかもそのうち3百万人は過去10年間に米国に移民した。
近年、米国への移民が難しくなり要求される学歴水準が高くなっている事を考えれば、
これらの移民の第二世代が労働市場に
大きなインパクトを持ってくることは想像に難くない。

30〜50年後、米国の企業経営者、弁護士、医師、研究者
などの社会の指導層の多くがアジア系で占められることになる。
その割合は半数に迫るかも知れない。
しかしそれは米国にとって、
悲観すべきことというよりもむしろ望ましいことだろう。
なぜなら、世界人口の6割を占めるアジアの優秀な頭脳が
米国に引き寄せられた結果に過ぎないからだ。


テーマ : アメリカ生活
ジャンル : 海外情報

全ての学生に数学は必要か? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

ニューヨーク市立大の政治学の教授 Hacker氏が書いた
"Is algebra necessary?"(代数は必要か?)が話題になっている
原文 と 評論つき日本語記事)。

氏の述べていることを簡単にまとめるなら、

-- 学校での数学の教え方は旧態依然としており社会のニーズに即していない。

-- 多くの学生が、数学のせいで高校や大学をドロップアウトしたり、
  良い大学に入れなかったりしている。

-- その結果、数学以外の才能を持つ人材を無駄にしている。

-- 多項式の計算や微積分などは自然科学を学ぶ学生など一部のものとすべき。

-- 一般の学生向けには、消費者物価がどう作られてるとか、
  量的感覚を重視した科目を教えるべき。

ということのようだ。
そんなに無茶苦茶なことは言っていないように見えるが、
多くの数学者は記事に激しく反応しており
うちの数学科のメーリングリストもハチの巣を突いたようになっている。

そこで論点を整理してみよう。

1.数学科の教授達は何故激しく反発するのか?

人が怒っている時は大抵、相手の言うことがある程度正しいと思っていることが多い。
私の仮説は、数学科の教授達は、社会でどのくらい数学が有用かについてあまり
自信がないのではないか、ということだ。例えば、上の記事で出ている消費者物価に
ついてきちんと知るには、線形回帰分析 や ラグ作用素の多項式の操作は必須だし、
日本の高校レベルの代数計算の知識なしにまともな理解ができるとは思えないが、
現にある数学科の教授はそのことを知らなかった。数学の実社会での必要性を本当に
理解しているのは、企業や研究機関の研究・開発担当者や企画立案担当者であって、
数学を専門にやっている研究者とは限らない。

次に、仮に数学が社会にとって非常に重要だとしても、数学力が活かせる職業に
つく学生が少ないのは動かし難い事実だ。Hacker氏は、多項式の操作程度の
数学を必要とする職業に就く学生は5%程度しかいない、と主張している。
もちろん「数学の知識が活用可能な仕事」は5%よりはるかに多いだろうが、
進学率が上がる中で、いわゆる知的な職業に就かない大卒が増えているのは確かだろう。
このことは、大学の存在意義を危うくしている。数学科に限らず大学教員は、
いまのところ「大学は知的職業に就くための学びの場である」という
大義名分を維持しなければならない。

第三に、現実問題としてHacker氏の提案は数学科の財政に直結する問題を含む。
数学科の財政は、全学生や全ての理工系学生に向けた必修科目で支えられている。
大学院向けの授業等は基本的にそこで作った貯金で運営しているに過ぎない。
そうした科目が大幅に削減されれば学科の存亡に関わるし、
内容を変更するにしても、それが特定の分野寄りであった場合には、
他の学科が設置科目の獲得に乗り出す可能性がある。
したがって立場上は反発せざるをえない。


2.授業の内容は古くて役に立たないのか?

恐らく改善の余地はあるだろう。それは科目の内容に限らず方法論に及ぶ。

例えば、関数のグラフの極値や交点、接線などは、実社会でも応用できる場面が多いが、
必ずしも全ての式変形を理解できなくても、コンピューターを使って数値的に
扱う事でも、かなりの部分まで対応できるだろう。

急進的な改革派は、それにも満足せず、定量的な説明の代わりに定性的な説明
で教えることを求めるかも知れない。「比例」を例にとれば、
(x,y) = (1,2), (2,4), (3,6), (4,8), ...
といった具体的な数値による説明が、
「二つの量の比が一定の時に、この二つの量は比例するという」
といった説明に置き換わる事になる。そういう教科書は実際に存在する。
恐らく「一定」とか「比例」とかを穴埋め問題にしてテストをすると
数値例の「6」や「8」を穴埋めにするより高得点になり、
「理解が深まった」という結論になるのかも知れない。

ただし、こうした方法論は、
カリキュラム全体として今までのところあまり確立しておらず、
特に後者の例ではうまく行きそうにない。
今回のHacker氏のような提案も真剣に検討する価値はあるが、
本人も具体的にどうすべきか分からずに丸投げしているというのが実態だろう。

別の問題として、米国の数学の授業に対する不満は、制度的な問題に起因している部分もある。
米国では全学部を通して、数学科が数学の授業を統括する色彩が強い。
例えば、日本であれば経済学部に設置された「経済数学1」のような科目が、
米国では数学科設置の「解析学1」に置き換わるというような感じである。
講義する側は、特定の応用を視野に入れていないので、「抽象的すぎる」と
いった批判は出やすくなるだろう。
一方で、果たして数学のような科目を「ローカライズ」して教えることあが
ベストなのかも疑問である。


3.全学生に数学は必要か?

答えはノーだろう。
恋愛小説家以外のほとんどの知的な仕事に数学は役に立つだろうが、
残念ながら大卒者全員が知的な仕事に就くわけではない。
この手の疑問に対する私の答えは、以前に「数学を勉強する事は無益」で述べた。
要は、数学力は多くの頭脳系の仕事でアドバンテージになるし、
数学が出来ない人が増えるほどそのアドバンテージも大きくなるものの、
誰でも大学に入れる時代に別に全員が数学を学ぶ必要はない。

数学が選抜に使われすぎているというのは確かだろう。
手先が器用でコミュニケーションもうまい青年が、
数学ができなかったせいで歯学部に
入学できなかったら社会にとってマイナスかも知れない。
しかし、他の方法なら多くの学生の才能がもっと活かせるのかというと、
それは非常に疑問が残るところだ。
数学が選抜に使われているのは、試験実施の簡単さ、公平性に加えて、
潜在能力を測る指標として有用だからだろう。


4.数学の将来性

数学は、自然科学の言語と呼ばれてきたものの、
21世紀に科学の相対的な重要性が20世紀ほど高いままになるのかは分からない。

しかし、仮に人々の生活における自然科学の相対的なプレゼンスが低下したとしても、
人間が、財産なり、寿命なり、幸福なり、何かを最大化しようとして生きている限り、
解析的手法の重要性が低下することは当分ないように思われる。

また、人間やコンピュータの意思決定が離散的である以上、
離散的な構造を研究する学問の重要性も低下しないだろう。

数学の抽象度が科学や工学の特定分野に比べて高い以上、
分野の重要性が急激に変化することは考えにくい。

確かに、将来活用されうる数学は
過去に蓄積された数学的知識とかなり異なる可能性も高く、
教育カリキュラムには時としてダイナミックな変更が必要だ。

しかし、数学や数学教育の有用性に対する疑問は、
カリキュラムの老朽化という点を除けば、
ほとんど学歴に関するインフレに起因していると
いうことを認識しておく必要があるだろう。


テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

東京大学には入ったけれど・・・ああ進振 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

東京大学で教鞭をとる伊藤乾氏の「東京大学には入ったけれど・・・ああ無常」
ずいぶんと話題になっているようだ。
記事の内容を手短かに言えば、
東大の1年生はパターン化した問題はよくできるが
自分の頭で考えることができない子が多い、
そんな方法では大学や社会では通用しない、というよくある問題提起である。

氏の主張にはもっともだと思うところもあるが、私が違和感を感じたのは
氏が問題提起しているのが東大教養学部での話だという点である。

東京大学は進学振り分けという制度を採用しており、晴れて東大に入学した学生は
2年の夏学期までの成績によって希望の学科に進学できるかどうかが決定される。
全ての学生の成績は(一部の例外を除き)同一の基準で平均が計算され、
理科1類から薬学部へは何点以上、理科2類から医学部なら何点以上、
と点数の大小によって定員は埋められていく。
もちろん、各科目の成績も単一の数値で序列化されているのは言うまでもない。

この仕組みは大学入試となんら変わらない。
結局のところ必要なのは、きちんと点数になるレポートや答案を書く技術であって、
文章力や構成力のような大学受験では重視されない能力が必要という点で
質的な違いはあるにせよ、クリエイティビティを刺激するのとは
ほど遠いシステムであるように思われる。

百歩譲って、東大教養学部の進学振り分けが
クリエイティビティを育てるシステムであったとしよう。
そのクリエイティビティは100点満点で評価されている。
90点以上のクリエイティビティの学生が100人いる時に、
89点のクリエイティビティには何の意味があるのだろうか。

クリエイティビティは、本来そういう類のものではない。
他人がやっていないことを作り出す能力がクリエイティビティであり、
それは自分の経験や得意なことを組み合わせて、
他の人がまだ思いついていないことをやることである。
「ある難解な定理の証明を世界で101番目に理解した人」、
「あるデリバティブ取引を開始した7番目の金融機関」、
「太陽電池を9番目に開発した電器メーカー」
などにそれ単独では何の価値も与えられないのが世の中だ。
他の人がやったことをできるようになるのは、
「リクリエーション」でしかない。

論理的に言えば、単一指標でクリエイティビティを測ることは不可能ではない。
選考過程に曖昧さがあるにせよ、ピアレビューのある雑誌や研究計画では
レビューワーは論文のクリエイティビティに点数を付けるし、
ノーベル賞のような賞は、その大きさを比較して決められる。
しかし、全部のテストやレポートの点数の平均というような
小学生でも思いつ簡単な指標でクリエイティビティを測ったり、
学生に自ら考えるインセンティブを与えることは難しいだろう。

東大がそうした中でも現在の教養学部を維持しているのは、
- 知識を吸収させるためには取りあえず点取り競争が効率的である
- 官僚養成学校として教養を重視している
- 専門を決められない学生に1年半の猶予を与える
という側面が強い。

伊藤氏が受けたようなクレームが専門課程で聞かれることは稀だろうし、
仮に1年からいきなり専門教育を初めたとしても
同様の不満はほとんど聞かれないだろう。

結局のところ、もし氏が述べているような不満を無くしたいならば、
学生に意識改革を促すよりも、現在の教養学部の仕組みを変更すべきだろう。

基礎学力と潜在能力が最も高い東大の新入生に
引き続き、得点獲得ゲームをさせる必要はないのではないか。


テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

娘のIT教育 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

娘が日本語補習校の小学1年生になったので、これを機会にノートパソコンをプレゼントした。
といっても、新品ではなく、私が以前に使っていたThinkpad X61s のお下がりだ。

子供用のパソコンのおもちゃは以前から持っていたのだが、
親と一緒に学校の宿題の調べ物をネットで調べたりしているうち、
本物のパソコンが欲しくなったようだ。
「なんでパソコン欲しいの?」
と娘に聞いたところ、
「おもちゃのはアクティビティとか決まってるし、Googleとか使えないでしょ」
ということらしい。
娘には何とかコンピューターの扱いに早くなれてほしいと思っていたので、
与えるにはちょうどいい機会だと思って渡した。
いまや、早い家では3~4歳からパソコンを与えると読んだ。

取りあえず、Google Chrome と MARUOエディタ(秀丸英語版)しか入れてないが、
お絵描きソフトやテーブルゲームなども入れてあげようと思う。

ただし、やはり利用時間や有害コンテンツのことは心配である。
ウイルス対策ソフトのESETに入っているペアレント・コントロールとGoogleのセーフサーチで、
取りあえず、アダルトや犯罪コンテンツは最低限規制したが、
例えばこのくらいのレベルのお色気写真は表示されてしまう。

自分や友達の名前を画像検索して、
同名のグラビアモデルが表示されてしまうというパターンが多い。

もっと心配なのは、ネット掲示板やチャット等で個人情報を答えてしまうことだ。
このあたりはフィルターで概ね解決できるとは思うが、
やってはいけないことはきちんと教えなければいけない。
自分が子供の時に無かったものだけに、いろいろと試行錯誤が必要だ。

使いこなせるようになったら、
是非とも「統計学+ε」のアクセス数を超えるブログを書いて欲しいものである。


テーマ : 育児
ジャンル : 育児

娘にオセロで負ける -- このエントリーを含むはてなブックマーク

一時、娘に算数を教えていたのだが、
あまり好きでも得意でもないようなので
昨年末頃に思い切ってやめて、
とりあえずテーブルゲームをやることにした。
算数は、学校で少し進んだら再開しようと思う。

オセロ、チェス、バックギャモン、将棋、はさみ将棋、
ダイヤモンドゲーム(アメリカではChinese Checkersと言う)などをやっている。
娘は基本的にパターン認識が苦手で思考速度も遅いので
ちょっとその頭を心配していたのだが、
なぜかゲームは結構強いので、最近は少し安心している。

ダイヤモンドゲームとバックギャモンは大人と互角の勝負をする。
ポーカーやバックギャモンのような確率的なゲームは娘は大抵好きだ。
将来、麻雀好きになることは間違いないと思っている。

そして、昨日ついにオセロで負けてしまった。
暗記系や運のゲームなどならともかく、
数学系の研究者が6歳の子供にオセロで負けるのは
かなり情けない感じがするが、娘の成長がうれしくもある。
ちなみに我が家の第一回リーグ戦の結果は以下の通り。

---------------------
勝  スコア  負
---------------------
娘  39ー25 自分
奴  50ー14 娘
自分 34ー30 奴
---------------------

最近、僕は奴にはほとんど負けていないのだが、何故か娘に負けた。
二人で研究しているので手を読まれやすいのかもしれない。
娘は序盤が正確で、きちんと一番いい場所に「中割り」してくるし
「辺」の確保も定石通りしっかり打ってくる。
終盤はまだ読みと経験が足りないようだ。
序盤が弱く終盤が強い「奴」とは正反対だ。

今回は全員1勝1敗というはっきりしない結果に終わったので、
大人げなく次回はきっちり2勝したい。
先日、本も買ったので、もう少し娘と研究して
少なくとも奴を2敗に追い込むという意気込みでやろうと思う。


テーマ : 育児日記
ジャンル : 育児

娘の英語文章力~錬金術師への道 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

先日、娘の通うキンダーで保護者面談があり奴と一緒に行ってきた。
ちなみに、キンダーは1年生になる前の年に通う幼稚園のことで
小学校の中にある。

この学校は公立だが、教育熱心で
幼稚園にも関わらず毎日のように宿題が出る。例えば、
「Zで始まる単語を4つ書いて絵や写真を貼って提出」
というようなものだ。
娘は誰に似たのか他の子と同じ単語では不満らしく、
地球儀を見て Zimbabwe とか Zambia とか人によっては
一生使わないであろう単語を書いて満足している。

クラスでは、文章を書く練習も始まった。
娘は家では日本語を使っているので、
他の子に比べて少し言葉が遅れているのでは、
と心配していたが結構頑張っているようだ。

先週やったプリントの質問文は、
"If a leprechaun granted you one wish,
what would you wish for?"
というものだった。
ちなみに leprechaun とはアイルランドの妖精で
Saint Patrick's Day にちなんで登場したらしい。

多くのクラスメイトが、
"I want candy." (*1)
"I would like some gold." (*2)
"I wish for gold." (*3)
"I wish for an i-Pad". (*4)
などと書く中、娘は、
"I wish I had a leprechaun machine that makes gold."(*5)
と書いた。
「Goldだけじゃあげたら無くなっちゃうけど、
マシーンがあればまた作れるでしょ!」
ということだそうだ。
とりあえず奴と二人で娘を絶賛し、
「それはいいアイデアだ!よし、将来はMBAだ!」
と相変わらず親バカな我が家である。


注:
なお、幼稚園児なのでスペルは結構間違っている。
上の回答は、実際には、
(*1) I wont candy.
(*2) I wond like some gold.
(*3) I wish ?????? gold.
(*4) An I-Pad.
(*5) I wish I had a leprechaun mashn taet meks gold.
となっていた。


テーマ : 海外の子育て
ジャンル : 海外情報

東大は秋入学に移行すべきか? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

東京大学の懇談会が秋入学へ移行を求める中間報告をまとめたようだ。
背景には、英語圏の大学の勢いへの危機感がある。

全ての分野における研究・教育水準をまとめて客観的に比べるのは難しいが、
例えば米国の一般雑誌のUS News 社がまとめた論文一本あたりの
引用回数スコアでは、東大は既に香港大に抜かれている。
東大がアジア・ナンバーワンの座を確保しているとは言えなくなった。

しかも、教育機関としての大学の国際ランキングでは、
近年、外国人教員や外国人学生の比率が重視されており、
日本のように研究・教育水準は高くても大半が国内の教員と学生
という大学は、不利な扱いを受けるようになった。

もちろん、苦戦しているのは日本の大学だけではない。
昨年の震災後、被災した地域の研究者に対し、
海外の大学からの引き合いがきたことが話題になったが、
一番多かったのはドイツの大学からのオファーであった。
実績のある先進国の大学であっても、非英語圏の大学が人材獲得に
苦労していることは想像に難くない。

そんな中、せめて入学時期を英語圏の大学に合わせようと
検討されているのが、東大の秋入学であると言える。

私は、この案に、単なる時期の変更ならば反対、
相乗効果が期待できる他の施策とセットなら賛成である。

反対の理由は以下の通りだ。

1.高校卒業から大学入学までに5ヶ月のギャップを作るメリットが不明

仮に高校までの学校を現状のまま4月始まりとした場合、
東京大学に入学する学生には5ヶ月間の空白が生じることになる。
しかし、学生がこの期間を有効に活用できるかどうかは疑問だ。

例えば、将来的に英語圏の大学院への留学を目指すケースを考えよう。
現行制度の下では、日本の学部を3月に卒業して、
米国の大学院に9月に入学することになる。
卒業後、5ヶ月間の空白が生じるが、学生は既に専門分野の勉強・研究を
始めているので、卒業後も研究生や日本での修士課程の学生として
勉強を続けることもできるし、留学に備えて語学学校に通ったりする
こともできる。
この5ヶ月の代わりに高校を卒業してすぐに5ヶ月の空白を作っても、
学生がこの期間をそこまで有効活用できるとは思えない。
つまり、留学を視野に入れた場合ですら、デメリットの方が大きい。

東京大学はこの点に関し、新入学生に対して
十分に効果的なプランを提示する必要がある。


2.入試時期に問題が生じる

現行のスケジュールをそのまま5ヶ月間ずらした場合、
入試は7月下旬~8月中旬となるが、
そのような制度の下では他大学に入学して仮面浪人する学生が続出するだろう。
競合する大学が現行通りのスケジュールで年度を始めた場合、
授業が成り立たなくなる恐れがある。
一つの大学だけが年度を変更する事は極めて特殊であり
制度として成り立たない可能性が高い。

一方で、入試を従来と同じ2月下旬~3月上旬とした場合、
学生は、5ヶ月間、全ての義務から解放される事になる。
これもデメリットが大きい。
アドミッション・プロセスが非効率で時間のかかる米国の大学では、
事実上、高校2年生までの成績と試験スコアでアドミッションが決まるが、
高校3年生(Grade 12)の学生が勉強しなくなるという
デメリットが見られている。

3.海外からの学生は結局増えない

海外からの留学生が増えないのは、入学試験と授業が日本語で
行われているのが主因と考えるのが自然だ。
東大が4月入学だから留学生が増えない、という主張には根拠がない。
4月から始まるから日本の大学に就職したくない、
という話も聞いた事が無い。

結局のところ、年度の初めを変えても外国人留学生は集まらず、
香港などの大学に対抗する事はできないだろう。


もちろん、天下の東京大学の懇談会がこんな基本的なことを
分かっていないはずがない。
東大が秋入学に移行するということは以下の2つの施策と
セットで行われるということが前提だろう。

1.入学試験、授業を英語で行う

入学試験を英語または、英語・日本語の両方で行う。
また、全ての授業を英語で履修できるようにする。
この結果、年度に一度しか開講されない科目は全て英語の講義となる。
ギャップに関わる非効率は解消されないが、多くの留学生や教員の
受け入れにつながるためメリット面は大きくなる。

日本は世界に誇る科学技術立国であるので、
全ての研究大学で英語の授業しか受けられなくなることには私は反対だが、
いくつもの研究大学がある中、そんな大学が一つくらいはあった方が
多様性の観点から望ましいだろう。

2.全ての学校の年度を変更する

大学のみならず、全ての学校の年度を9月開始にする。
必要に応じて、学年の区切りや小学校入学年齢を調整する。
これにより、ギャップに関わる非効率は解消される。

あるいは、全ての学校の年度を変更することが難しければ、
大量に飛び級を認めるという案もある。
入学時期を5ヶ月遅らせるのであれば、
少なくとも半分程度の学生を高校3年途中からの飛び級として受け入れる。
これによって全ての問題が解決するわけではないが、
ギャップが生じる事に対する非効率や仮面浪人といった問題は
部分的に解決される。


どちらも大掛かりなものではあるが、
こうした施策と合わせて秋入学が実施されれば、
一定の効果を見込む事ができるだろう。


この報告が提起していることは、単に
入学式に満開の桜が見られなくなる、
といった小さな問題ではないことは確かだ。


テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

幼稚園バスの中で -- このエントリーを含むはてなブックマーク

住んでいるT市の公立の小中高校は1月3日から授業が始まった。
最高気温は氷点下だし、何もこんなに寒い1月に3日から
授業を始めることはないと思うのだが、
夏休みを楽しみたい人や、
夏休みに短期の仕事をしたい教員や高校生が多いということなのだろう。
授業は、途中に1週間の春休みと何回かの定休日を挟んで6月15日頃まで続く。
年度が終わる日は地域や学区により、結構大きく異なるようだ。
地域によっては5月中に終わるところもあるし、遅いところは6月下旬まである。
こうした差は公立校の間でも学力の差となって現れるのかも知れない。

6歳になる娘は現在、キンダー(幼稚園年長に相当)に通っており、
先学期は朝は車で送ってもらい、帰りは迎えに来てもらって歩いて帰っていたのだが、
1月からは通学用のバスに乗りたいと言い出した。
アメリカの子供は友達と遊ぶ機会が少ないので、
確かにバスで通学した方が友達と話せて娘のためにもよいだろう。

もっとも、僕が幼稚園の年長組の頃はバスの中は退屈なことが多く、
友達と話をしていない時は、ずっと数を数えていた。
ある時に1から数え始め、次の日はその続き、とどんどん続けていき、
卒園までに54000くらいまで数えた。
もちろん、こんな壮大なプロジェクトが進行中であったことは
誰にも秘密にしていた。
ある日、一つ年下の友達と隣に座ったので僕は、
「知っている中で一番大きい数はなに?」と尋ねた。
その子が「120」と答えるので、
「120の次の数は121なんだ。それは120より1大きい数だよ。
その121よりもさらに一つ大きい数は122だ。2は1より一つ大きいからね。
122よりもさらに一つ大きい数は何だと思う?それは123だよ。
どうしてかというと、123の3は2よりも1大きいからね。・・・」
となるべく詳しく、時間をかけてその友達に説明し続けた。
その友達は、130くらいまで大人しく聞いたあとで、
「もういいや」と言って他の子と話し始めた。
僕は、その年下の友達が新たに10個の数を覚えた事にとても満足しながらも、
まだまだ続きがあるのに途中でやめてしまった友達が少し不満でもあった。

130までまじめに聞いていたその友達は
きっと立派な大人になったのではないかと思う。
リア充とコミュ障の人生は、幼稚園の頃から分かれてしまっているのだ。

娘はバスの中で何を考えるのだろう。



小さいお友達用




大きいお友達用(高校生以上)


テーマ : 育児日記
ジャンル : 育児

少年よ、サラリーマンになれ -- このエントリーを含むはてなブックマーク

My Life After MIT Sloan の Lilac さんが久々に
「大人になっても夢を持ってよいということ」
をエントリーして大きな反響があったようだ。
そこで応援と宣伝を兼ねて私も前から思っていることを書きたいと思う。
それがタイトルの通りだ。

私は、日本で学生をしていた頃、
中高生向けの進学塾で数学を教えていた。
その塾は優秀な生徒が多く集まるところで、
毎年、東大や医学部に多数の合格者を出していた。

そんな中、合格祝賀会や合格体験記特集で語られる卒業生の将来の夢は
大抵、医師になる、弁護士になる、大学の研究者になる、のいずれかだった。
もちろんそうした職業は、知的好奇心を多いにそそり、
社会の役にも立つので、それが立派な夢であることは間違いない。
しかし、自分が年齢を重ねるにつれて不安になってきたのは、
彼らのような学業優秀な高校生も
極めて限られた職業のことしを知らないのではないか
ということだ。

先進国の雇用のほとんどは企業から生まれ、
我々が享受している、ハイブリットカー、顔を認識してくれるカメラ、
スマートフォン、SSNサイト、検索エンジン、といったほとんどの
イノベーションもまた、一般企業から生まれているものだ。
むろん、創業者や経営者の強力なビジョンとリーダーシップは
そういうイノベーションに必要不可欠だろうが、
それを組織的に支える人たちが最終的には実現している。
工学やマネジメントのような分野では企業は主要な役割を果たしているし、
数学のように最もアカデミックな分野ですら
民間企業からも国際会議の全体講演者が出る。
そうした状況を踏まえれば、
世の中の面白い仕事の大半は企業の中にあるはずだし、
もっと多くの子供が「あの企業に入りたい、こんな企業を作りたい」
と言った夢を語る世の中になった方が将来は明るい。

夢というと、野球選手になりたい、歌手になりたいと言うような、
良く言えば「大きな夢」、実際には「単なる思いつき」であることが多い。
「保育士」「教師」「医者」「弁護士」「科学者」なども、
子供の目に留まりやすいという点で「思いつき」であったり
親による刷り込みであったりすることも多いだろう。

大人は、中高生が「こんなサラリーマンになりたい」という夢を持てるくらい
子供たちに企業における仕事のことを詳しく説明するべきだし、
会社員として働く大人は
純粋な心の中高生が「こんな会社に入りたい」
と思えるくらい魅力的な会社にするように努力すべきだ。

私が中学生のとき、一人だけ、
将来はこの会社に入ると決めていた同級生がおり、
彼は専門学校を出て計画通りそこに入社した。
その会社が近年多額の利益を計上しているのも
おそらく偶然ではないだろう。


テーマ : 夢へ向かって
ジャンル : 就職・お仕事

Fランク大学生は大学で何を学ぶべきか? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

少子化が進み、希望すれば誰もが大学に入れる時代になって久しい。
競争率が低くほぼ全入の大学は入試難易度が設定されないことから
Fランク大学などと呼ばれるが、そうした大学の一つ、
日本橋学館大学(以下、N大学)の授業シラバスが最近ネットで話題になっている。

英語ならアルファベットの書き方から指導し、中学校レベルの英文法を一からやり直す。
数学なら少数や分数の計算からやり直す、
国語なら原稿用紙の使い方から教える、といった具合だ。
こうした「割り切った」カリキュラムには、もちろん賛否両論あるだろう。
一世代前の大学に行きたくても行けなかった人からは、
「そんな基礎学力もない人が大学にいくなんて資源の無駄遣い」
との声も聞こえてきそうだ。

だが、学生とその親が授業料を払ってきちんと大学に通う(通わせる)意思がある以上、
そうした学生にどういう教育を施すべきかを考えて
最善を尽くすのが大学の使命というものだろう。
そうした意味で学生のレベルに合わせて基礎からやり直す、
というN大学の姿勢には一定の評価はできる。

しかしそうした状況の下であっても、大学と学生は、
大学は社会に求められる人物を育てるための職業教育の場
であるという意識を失ってしまってはならない。
できることは限られていたとしても、
一人一人の能力に合わせて、年齢に見合った、
社会に役立つ能力を身につけることが大切である。
むしろ、研究大学の学生よりFランク大学の学生の方が、
年齢に見合ったなんらかの実務能力を身につける必要性は高いといえる。
なぜなら、大学院に行って更に勉強したり、
幹部候補生として企業に多額の教育投資をしてもらえる可能性が低いからだ。

年齢に見合った能力というのは必ずしも、
高度な科学、工学、哲学、文学、芸術、法律、経営等に
について学ばなければならないということではない。

例えば、
「取りあえずエクセル(あるいはワード)の使い方だけは誰よりも詳しいです」
「ホームページだけは作れます」
「報告書の書式や書き方だけはとりあえず分かります」
「アンケートの取り方だけは分かります」
というようなことでも構わないと私は思う。

むしろ、高度な数学が分からないからこそ、
社会に出てからはデータ処理の裏方に回らなければならないわけだし、
立派な報告書を書くことができないから、
せめて事務処理の部分でエクスパートにならなければならないのだ。

基礎学力は大事だが、
私は社会人になってから原稿用紙を使ったことは一度もない。
事務作業では表計算ソフトを使うために分数を知っている必要はあるが、
ほとんどの人にとって二つの有理数を通分する機会は全くない。
アルファベットが読めないのは困るだろうが、
卒業後、中学の英文法が本当に必要な人はどのくらいいるのだろうか。

そうした知識はもちろん持っている方が望ましいのは間違いないが、
「十分な能力のある人が、高校までに身につける知識」
であって、大学生になってから全員が必死に挽回するべきものなのかどうかは正直疑問だ。

むろん、基礎学力のない学生に、無理に難しい数学を教えたり、
「環境システム概論」のような名前だけ高級な科目で、
意味もなく大学生気分だけ味わせるようなカリキュラムは最悪だが、
基礎学力一辺倒というのも大学教育のあるべき姿ではないだろう。

大学教育は社会に合わせてダイナミックに変わりながら、
学生のレベルに合わせて必要な職業的な知識を教えることが大事だ。

米国では近年、レベルの低い総合大学に比べ、
コミュニティー・カレッジやテクニカル・カレッジといった実務的な
コースを教える大学の人気が高まっており、地方政府もそうした
大学に予算を重点配分するようになっている。
できない学生には基礎学力の充実をと謳う総合大学には、
授業スタイルを変えたくないという大学教員の固執も見え隠れする。


特に日本人は大学に入るまでに筆記試験をたくさん経験するので、
静的な学問を粛々と学ぶ「小・中・高校的な価値観」に支配されすぎている。
「中学数学を●時間で学べる本」や
「ぼけ防止計算ドリル」がベストセラーになっている社会は病気だ。
教科書とノートと筆箱を持って真面目に授業を
聴いていさえすれば良かった古き良き日への憧憬。
それなのに真面目にやらずに落ちこぼれたことに対する罪悪感と後悔。
あるいは、できる学生であればそれに対する優越感と中毒症状。
そうした勉強パターンに固執するのは、
学生にとっても、教員にとっても、ある意味で心地が良い。

しかしそういった感覚を思い切って拭い去り
自分なりに一人の大人としてできることを身につけることが、
大学生と社会にとって望ましいことではないか。


テーマ : 短大・大学
ジャンル : 学校・教育

創造性をどう伸ばすか? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

実社会で「創造性」が語られる文脈は大きく分けて二つあり、
一つは会社のような組織で社員のアイデアをいかに潰さずに
活かすかというマネジメントに関するテーマで、
もう一つは子供の創造性をどう育てるかという能力開発に関するテーマだ。
ここでは後者について考えたい。

子供の創造性を伸ばす上でも、
社員のアイデアを潰さないことと同様、
子供の表現したことを如何に否定せずに伸ばしていくかが
重要であることは想像できる。
しかし、さらに話を推し進めて、
子供の創造性を伸ばすためにどんな教育をすべきかとかいうことになると、
どうも議論に飛躍が増えてくる。

まず見られるのが、既存の教育方法を否定しつつもその根拠がおかしいものだ。
例えば、東洋経済7月2日号でネットイヤーグループ社長の
石黒不二代氏は次のように述べている。

数学でも公式や解き方を教えてもらい、それを記憶している。
だから、記憶力のいい人、教科書と参考書を多く読んだ人が勝つ。
論理的に考えることとはまったく関係がない。



そもそも、日本でまともな教育を受けた人なら、
数学で公式や解き方を暗記しろなどとは教えられていないはずだ。
文部省検定の教科書でも定理の証明や説明に多くのページが割かれているし、
どうしても避けられない例外を除けば、
証明できない定理を使うような事はやっていない。
論理的に理解することに重点が置かれるはずなのだ。
しかも、まともな国立大学ではパターン暗記で
解けるような問題はあまり出題されない。
上のような主張をする人は、要するに、
中学・高校時代に授業が理解できなくて
仕方なく公式や解き方だけ覚えて試験を乗り切った苦々しい記憶を
自分で無意識に美化して問題をすり替えているにすぎない。

さらにいうと、
「記憶力と論理的に考えることとはまったく関係がない」
という部分も見当違いだ。
例えば数学では、論理的に意味を理解して初めて
その内容を長期に渡って保持することができる。
きちんと理解したことだけを長期間覚えておくのは動物の本能的な習性だろう。
他の分野においても知識を互いに関連付けることで理解が深まると同時に、
その内容を長期に渡って保持することができる。
英単語でも文脈の中で覚えるほうが、覚え易いし応用も効く。
語呂合わせの暗記ですら、
複数の事象を関連付けることによって記憶力を上げている。
論理的な繋がりを考えることと記憶力は最も密接に結びついているのだ。



既存の教育の否定とセットでよく語られるのは、
アメリカ式の受け売りで、創造性を育てるために
ディスカッションやディベートの機会を増やせというような意見だ。
確かに、平均的に日本人にはそういう訓練が不足しているという面はあるだろう。
しかしそれを初等・中等教育にそのまま持ち込んで当てはめるのは危険だ。
ディスカッションやディベートのような訓練は、
基礎学力がきちんと備わった人にとってのみ意味のあるものだ。
台形の公式が正しいかどうかとか、
ニュートンはなぜりんごで重力を発見したのか、
とかいうことを延々と議論しても仕方ないのである。

確かに、ディスカッションやディベートのある授業は眠くならないかもしれないが、
想像性を伸ばすというのは、もっと当たり前で地道な訓練だろう。
私は、想像性を伸ばす上で重要なことは単純に以下の3点だと考えている。

1.論理的構成力

既存の結果を使うことと
自分で新しいものを作りだすことの最大の違いは、
自分で一から構成する必要があるかどうかということだ。

厳しい競争社会で詰め込み式の教育を受けた発展途上国の人は
研究する段になって想像力が乏しいと言われることが多い。
(もちろん、全ての人に当てはまるわけではない。)
この大きな理由は
論理的に自分で組み立てることを省略してきたために
構成力が不足しているということだろう。

こうした力を鍛えるためには、
数学では公式を証明する力や他人に説明する能力を重視すれば良いし、
国語では言葉の本来的な意味を抽象的に考えたり、
文章の構成を論理的に分析する力を鍛えればよい。
歴史、地理、政治、経済などであれば
史実よりも必然性に重きを置いて教えればよいし、
英語では構成力が必要なアウトプットをより重視すればよい。


2.圧倒的な知識量


世の中では既存の結果に上乗せする形で、新しい成果が出る。

エンジニアリングは学問の発想自体が、
既存の結果の上に新しいアイデアや改良を加えるという形だ。

自然科学は、科学者の論理的構成力により重点が置かれるが、
既存の結果がどこにあるかを踏まえて研究を進める事が大事だ。

ビジネスは他国での成功モデルと国内の社会事情を合わせたり、
新しい技術と既存のビジネス環境の組み合わせを
考察することによって生まれる。

いずれにしても、
十分な知識を仕入れておく事、
どこに知識が存在しているかを抑えておく事、
によって、新たな組み合わせで別のものを創造できる
可能性が格段に高まるのだ。

教育の現場に当てはめると、
数学であれば、調べないと分からないような
難解な公式の証明を課題に出す事で調査能力を鍛えてもいいし、
複数人で相談して問題を解かせることで、
公式を知っている人がどれだけ得をするか実感させてもいい。
もちろん、公式を当てはめるだけの数学の試験でも、
知識を整理して正しく使うことの大切さを教えることはできる。
他の科目であれば、インターネットや参考文献でよく調べないと
良い文章が書けないようなレポート課題を与えればいい。

3.ネットワーキング能力

個人の論理的構成力や情報収集能力には限界がある。
知りたい情報があれば、
直接それに詳しい個人や組織に問い合わせるという経験を積む事で、
ネットワーキングの能力は向上していく。

小学校の自由研究はそういう点でも面白いと思うが、
日本の教育ではそのような機会は
たいてい大学の卒論くらいまでないし、
下手をすれば大学でも卒論がない学部・学科もある。
中学や高校でも、ネットワーキングの必要性を意識した形で
似たような課題を与えることは有益だろう。



人々は創造性という言葉の神秘的な響きに思考停止して
奇想天外なことを考えなければという強迫観念に囚われがちだが
創造性とは、運と生まれつきに左右される部分を除けば、
論理的構成力、知識量、ネットワーキングという
ありきたりだが身につけるのに骨が折れる能力の組み合わせだろう。


テーマ : 学習
ジャンル : 学校・教育

娘の算数教育3 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

娘に数字を覚えさせるため、トランプで神経衰弱やスピードを
4歳になる少し前からやってきた。

娘も5歳半になったので、そろそろ確率論の勉強(笑)も
ということで、ポーカーとブラックジャックを教えた。

1)ポーカー


いろいろな役を覚えてもらうため、
誰かがストップをかけてから一巡するまで手札の交換を続けるという
(日本でよくある)ローカル・ルールでやっている。

役が10種類あることや、同じ役の中での強弱があるので
結構覚えるのが大変かと思ったのだが意外とそうでもない。
オセロやチェスのような完全情報ゲームだと、
しばらくの間は大人が手を抜かないと子供はなかなか勝てないが、
運に左右されるゲームだと子供も結構勝てるし、
負けてもそれほど悔しくないので、結構楽しいようだ。

戦略も結構、自分で考えているようだ。
「A(S),4(H)、7(D)、10(C)、K(H)」
(S=スペード、D=ダイヤ、C=クラブ、H=ハート)
などと引くと、AとKを残してストレートを狙いつつ、
更にAやKを引くとフルハウスに切り替えるなど、
結構、臨機応変にプレーしている。


2)ブラック・ジャック

カジノでポピュラーな手札の点数の合計を21点に近づけるゲーム。
実際のルールはもっと複雑だが、ローカル・ルールを設定。
ゲームは、手札を引く部分とチップを賭ける部分に分かれる。

(手札を引く部分)
初めに、双方にカードを2枚ずつ配る。
2~10のカードは数字通りの点数、
絵札は10点、Aは1点か11点かを事後的に選べる。
2枚のうち、1枚は公開され、1枚は配られた人だけが見られる。
点数が足りないと感じた時は、カードを何枚でも追加して引く事ができる。
引いたカードは公開されない。
賭けが終わった後で、21点以下であれば点数が多いほうが強く、
21点を超えた場合は負けとなる。
(ただし、相手も21点を超えている場合は引き分け。)

(賭けの部分)
双方がカードを引き終わったところで、
まずチップを1枚ずつ賭ける。
手札に自信がある場合はチップを追加することができる。
ただし、手持ちが少ない側のチップの総額が上限である。
多くのチップを賭けた方が無条件に勝ちとなり、
チップの枚数が等しい時は手札の強弱で勝敗を決する。


娘はまだ5歳なので実は一桁の足し算も暗記していないのだが
頭の中で数えながらプレーしている。
当初は一桁の足し算と筆算を教えてから、
ブラックジャックを教えようとも思っていたのだが、
足し算の練習をしているうちにこっちが飽きてしまったので
ブラックジャックをやりながら、足し算を教える事にした。
一度、数え間違えたらしく手札の合計が32点になるという事態が発生したが、
そういうことは滅多に起こらないし、
足すのもどんどん速くなってきている。
賭ける時の作戦はまだまだの感があるが、
結構楽しそうにやっている。



二つのゲームを教えてみて思ったことは、
子供は確率に左右されるゲームが結構好きだということだ。

一方で奴の方は完全情報ゲームは滅法強いのに、
ポーカーをやると、
「偶然に左右されるゲームって好きじゃないんだよね…」
などとぶつぶつ文句を言っている。

確率的な感覚や勝負勘を鍛えるのは、
やはり小さいうちの方が良いのかもしれない。




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娘の算数教育2 
娘の算数教育 
神経衰弱(トランプ)
トランプを投げる娘



テーマ : パパ育児日記。
ジャンル : 育児

日本が英語力向上に関して取り組むべきこと -- このエントリーを含むはてなブックマーク

ここ1~2年の日本のマスコミが急に
「若者の内向き志向」だとか「若者はもっと海外に目を向けるべき」
みたいなことを盛んに言い始めて、
アメリカにいても面食らうほどだ。

たしかに「縮小する日本」ではビジネスチャンスは小さくなるし
研究リソースも少なくなるから、より多くの人や企業が
海外に出て行かないどいけないというのはある程度正しい。

一方で、
大多数の日本人にとって英語の習得が必要なのかは正直疑問だし、
実現可能であるかどうかも相当疑わしい。
個別の論点については過去に何度か論じてきたが(*1)
どうやら英語教育に関するそうした違和感は、
日本の強すぎる横並び意識から来ているのではないか、
と思うようになった。

(*1)参考:
「小学校の英語教育は必要か?」
「企業はなぜTOEICに拘るのか?」

簡単のため、英語力と専門能力をそれぞれ3レベルに分けて考えよう。
大まかな目安として、上位1%、上位10%、それ以下、
の3分類と考えて頂ければ良い。
すると国民は3×3で合計9つの層に分かれる。
どちらの能力でも上位1%に入らない人が
社会的に重要な役割を果たすとは考えられないので
どちらかの能力において上位1%に入る人の分布を考える。
日本の各年次で言えば2~3万人、労働人口で言えば
百万人前後が対象になる。

私は、英語力あるいは専門能力で上位1%に入る日本人が
例えば、中国や韓国などに負けているとは思っていない。

日本の平均的教育水準は高いし、高い所得を背景に「生の英語」
にアクセスできる機会も豊富に存在する。

しかし、問題は2つの能力の組み合わせだ。
日本人の分布を特徴を極端に言えば、下図のようになっている。
濃いグレーは比率が比較的高いグループである。
英語力-日本人

右下のセルに入る典型的な人たちは、
英語のしゃべれないプロ野球選手や研究者、大企業の経営者などであり、
左上のセルに入るのは、
英語好きの語学留学生や、海外生活の長い帰国子女などである。


一方で、米国より所得がかなり低い国の出身者の分布は
大雑把に言えば下図のようになっている。


英語力-日本人以外


そうした国の出身者にとっては
英語を身につけて米国などで活躍することは
専門知識の習得や経済的繁栄にとって必要条件であるので
優秀な人ほど高いモチベーションを持って語学を習得する。
国内に留まるのは「少し落ちる」人材であるし、
一方で「英語が好き」という理由だけで高い語学力を
身につけるだけの環境は整っていない。
例えば、普通の中国人やインド人が米国への語学留学のために
ビザをもらうことはできない。大多数の人にはお金もない。


この二つの分布を比べれば、何が違うのかは明らかだろう。
日本は専門能力と語学力を兼ね備えた人材が不足しているのだ。
そうした事実は、経営、研究、政治といった分野で
日本のプレゼンスを保つ事が難しいことを意味する。
これまでの日本は、高い技術力と経済力でそうしたマイナス面をカバーしてきたが、
こうしたアドバンテージは今後小さくなっていく可能性が高い。

そんななか、日本から出てくる英語教育関係の施策は
相変わらず下図で表されるような内容だ。


英語力-日本人が考える

政府は、小学校の英語教育のようにマスを対象とした施策を中心に考えているし、
大企業は、社員の英語力の「底上げ」を目指して管理職に
TOEICのスコアを義務づけたりしている。
こうした施策は、乱暴に言えば、
「割とどうでもいい人」を別のセルに移動させているに過ぎず予算の無駄だ。

日本が本当に考えなければいけないのは下図の矢印だろう。
矢印は細くなるので、より集中的に投資する事が出来る。

英語力-やるべき

例えば、右下段から右中段、右上段への矢印としては、
優秀な生徒を集める難関国立中学
に入学した生徒を全員1年間国費で留学させてみる。
3000人いるとしても、年100億円位あれば可能だろう。
全員が、将来高い専門能力をつけて活躍するわけではないが、
その比率を考えれば十分にペイする投資になると思われる。

上段左から中央、右への矢印としては、
やはり日本の大学なり企業なりが、
語学のできる人材に投資して専門能力を引き上げる努力をもう少しするべきだろう。
既に人材獲得に窮して帰国生をたくさん受けいている大学はともかく、
伝統的な日本企業はこれまで多様な学生を取ろうとする意識が低かった。
ただし、これまで人を見てきた経験からすると
この右向きの矢印は上向きの矢印よりも難しいように思える。
しかしもしそうだとすれば、今の政府がやっていることは尚更
「行き場のない人を増やしている」ということに気付く。

教育の機会平等はもちろん大事だが、
戦略的に人材に投資することは
最終的に一国の平均的な豊かさを引き上げる上で重要なことだ。


続きを読む

テーマ : 英語
ジャンル : 学校・教育

娘の語学能力の発達 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

将来、日本に住むのか米国に住むのか決まっていない娘には
日本語と英語を両方完全に使えるようになって欲しいと思ってる。
変化を観察しているといろいろと面白いので、
このあたりでまとめておく。

1.語学環境

家では生まれてから今まで完全に日本語を使用。
テレビもたまに英語の番組を見る他は、
日本のテレビ番組を録画したものを見せている。
また日本語の本の読み聞かせをし、ひらがなやカタカナの練習をさせている。
娘が英語で話しかけて来た時のみ英語で答えるが、
すぐに日本語に戻す。

当然ではあるが、プリスクール(幼稚園)では完全に英語を使用。
ほかに日本人は全くいない状態。
2歳半~3歳半:プリスクールに 2.5(時間/日)×3(日/週)
3歳半~4歳半:プリスクールに 3(時間/日)×4(日/週)
4歳半~5歳半:プリスクールに 7(時間/日)×5(日/週)
3歳半以降は放課後に少し友達と遊ぶように。

2.英語力

2歳半~3歳半:
― フレーズなど単純なものだけ少し理解。
― 大文字が分かる。

3歳半~4歳半:
― 先生の言うことはおおよそ理解し、友達の言うことも一部分かる。
― 5~6単語程度の短い文章は自分で作ることができるようになる。
― 自分からは必要な時以外はあまり話さない模様。
― 大文字がおおよそ書ける。

4歳半~5歳半:
― 先生、友達とほぼ問題なくコミュニケーションが取れるようになる。
― 起こったことを複数の文章で説明したりできるようになる。
― 英語で独り言を言うようになる。
― 簡単な単語のスペルを覚えて書くことができるようになる。
― ボキャブラリー、時制、冠詞の選び方などはネイティブに劣る。
― 大人が言う複雑な文章までは理解できない。

3.日本語力への副作用

3歳頃まで:比較的言語の習得が早い傾向。
4歳:語学力はほぼ同じだが、日本の子供に比べ話すのがややゆっくりである
5歳:日本語の習得ベースがややゆっくりに。
   難しい質問への答えをごまかすようになる。やや集中力が落ちる。

4.気づいたこと


― 家が日本語環境の場合、学校での滞在時間は英語の習得スピードにかなり効く
 (これは、幼児期のバイリンガル研究の結果とはやや異なる気がする。)

― 話せるようになっても、実際にたくさんしゃべるようになるには時間がかかる
 (サイレント・ピリオドと呼ばれる。ただし、これは性格の問題が大きいと思われる。)

― 4歳半頃から「○○ちゃん(自分の名前)、英語得意じゃないからなぁ」と言い始める
  その頃から上達ペースが上がったような気がする。
  苦手意識は、必要性の認識の裏返しなのだと思う。


5.当面の課題

― 娘を含め家族全員の第一言語は日本語なので、
家では引き続き日本語をどんどん覚えさせる。

― 友達と遊ぶ機会が少なくなりがちなので
  プレイデートなどをなるべく積極的にやるようにする。
  (米国人は英語力に問題がなく、インド人など多数派の移民は
  人種毎に固まって頻繁に子供同士で遊ぶ。)

集中力をつけさせる
 (英語環境に長い時間いることで、分からないことや難しい
  事柄になると受け流してしまう傾向があるため)

4月からは土曜日は日本語の補習校にも行っているし、
小学生くらいになれば人並みに、スポーツ、音楽、
チェスなどの思考訓練もやらせる必要があるわけで
やはり二ヶ国語をやりながら生活しなければいけない
子供は大変だと思う。


その分、当面お受験がないということで納得することにしよう。


テーマ : 育児日記
ジャンル : 育児

都内のN大が来年度に学部新設 -- このエントリーを含むはてなブックマーク


都内大手私大のN大学に勤務する友人から聞いた話なのだが、
N大では2012年度から新たに
「ホワイト・カラー学部」を新設する予定だそうだ。
近年、企業が新卒採用で求める条件が曖昧化しており、
同大就職課と教員がニーズを再検討したところ、
これからのホワイト・カラーに求められるのは、
工学や理学、社会科学など個別の専門能力ではなく、
コミュ力、行動力、熱意、といったソフト面であるという結論に至ったという。

そこで大学界の守旧勢力の反対を押し切って、
思い切ってそうした能力の育成に特化する
ホワイト・カラー学部を新設し、
・コミュ力学科 (Dept. of Communication Physics)
・行動力学科 (Dept. of Behavioral Physics)
・熱意学科 (Dept. of Passion)
の3つの学科を設置して各100名程度(詳細未定)
募集することがほぼ決まったそうだ。

コミュ力学科は、力学、ミクロ経済学、ファジー理論など
分野横断的に教官を集めて、コミュニケーション力という
一見曖昧な能力を体系的に身につけるカリキュラムを目指すという。
理論だけでは机上の空論なので、
ホステスなど会話のプロも招いて
格安の「ノミニケーション講習」などを
検討している教官もいると聞いた。

行動力学科は、街頭での発声練習に始まり、
募金活動やヒッチハイクなど、
フィールド・ワークを豊富に取り入れる予定だそうだ。
演劇家などからパフォーマンスの指導も
取り入れることも検討しているようだ。

熱意学科は、職人やプロスポーツ選手など一芸に秀でた
人材に対する取材やケーススタディーを中心に行う。
忍耐強い人材を育てるため、例として、
円周率の5万桁暗記、毎日10回の般若心経の写経、
といった特別課題に与える単位も導入予定だ。

思い切った学部名に合わせて、
具体的に、外資金融、コンサル、商社など人気業界の
内定人数に目標を設置する予定とのことである。



こうした学部・学科は国際的にも非常にユニークだが、
「大学で本当に学ぶべきことは何か?」
を問う意欲的な取り組みとして評価したい。
分野横断的な学部を新設できるのは大規模なN大の強みだろうが、
需要が大きければ他大も同様の学部の新設を迫られるだろう。


テーマ : 就活
ジャンル : 就職・お仕事

京大のカンニング事件について思ったこと -- このエントリーを含むはてなブックマーク

aicezuki による大学入試でのカンニング事件が話題になっている。
NHKはニュース速報まで出したらしい。
騒ぎすぎとの声も出ているが、一生を左右する試験で
このような形の不正が見つかれば騒ぐのが当然だろう。

1.一番の問題は監督体制

最大の問題点は、入学試験の監視体制だ。
予備校生 aicezukiがやったことが問題なのではなく、
カンニングをした者がYahoo知恵袋に投稿するまで
発覚しなかったことが問題
である。
ほとんどの者はわざわざ証拠の残る方法で
カンニングしようとは思わないはずだ。
これは氷山の一角と見るほうが自然である。
辞書を見る、隠し持った公式集やメモを見る、他の人の解答を見る、
と言った程度のカンニングは相当程度横行していると見て
間違いないものと思われる。

大学の大教室は階段状になっていることが多く、
他人の答案が見やすい上に机の形状から死角が多い。
試験の重要さに比べて大学入試の監督体制は
甘すぎるといわざるを得ない。

2.カンニングは摘発ではなく、予防が大事

今回の事件を見ても分かるが、
カンニングの発見やその事実の証明というのは
非常にコストがかかる上に大した効果を挙げられない。
今回あれだけ騒いで、摘発したのはたった1人だけだ。

今回は、正式に警察に依頼しているから大学の立場は安全だが、
大学の定期試験のカンニングなどでははっきりした証拠を抑えないと
教員側が名誉毀損やアカデミック・ハラスメントで訴えられる
と言った恐れもある。
米国の大学では教員の立場があまりにも守られていないことが多く、
カンニングの摘発は一切しない、という教員もいるほどだ。
私は、W大M校時代、友人と答案を写しあうというカンニングを
2組4人分摘発したことがあるが、処分を下すのはかなり面倒くさい。

一人ずつ呼び出して面接をし、
酷似した二つの答案を見せながら、
「不正をしなければここまでの類似はあり得ないから
何も言わなければ双方零点とする。」
と伝え、事実関係を認めれば成績は下げるが単位は
与えるという条件で妥協点を探す。
アメリカ人の学生はあまり怒られずに育ってきているので
あまりの修羅場にガクガク震えていた。
双方にかなりのコストがかかるし、教員側にもリスクがある。
今回も、大学側は答案の再チェックや、
警察対応などでかなりの手間を費やしたはずだ。

そうした、混乱や手間を考えれば、来年の入試では
荷物の持ち込みは禁止、筆記具は大学側が用意、監督員は大幅増員、
程度の対策をするのは十分理に叶っている。
また、逆に1枚程度のメモを持ち込み可能とすることで、
カンニングによる不正や不公平を予防することもできる。

試験問題を複数用意して、他人の解答を
見ることを難しくするのも良いかもしれない。
国語や英語はともかく、数学や理科のような科目では
数値や条件を少し入れ替えれば同様の類題を作るのは簡単だし、
選択問題では選択肢の順序等を入れ替えればカンニングは難しい。

3.新たなビジネスチャンスも


携帯電話の妨害電波を流す電子機器はかなり売れるだろうし、
荷物の持込を禁止するためには
移動式のロッカーなどのサービスも流行るかもしれない。

逆に、大学側が十分な不正対策をしないならば、
受験問題の質問にリアルタイムで答える有料サービスなんかが
大流行することになってしまうだろう。


テーマ : 大学受験
ジャンル : 学校・教育

小学校の英語教育は必要か? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

今年の4月から小学校では5、6年生に週1時間程度の英語の授業が必修となる。
英語が国際語であるという点、低年齢の方が語学の習得が容易である点を考えれば、
日本人の英語力向上に望ましいことは論を待たない。
しかし、論点はもはやそんなところではないだろう。
具体的にカリキュラムや政策としての妥当性が問われる段階である。


1.コンセプトは悪くない

まず、小学校の英語教育の目的をおさらいしてみよう。
小学校英語の主な目的は以下のように要約される。

外国語を通じて、言語や文化について体験的に理解を深め、
積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、
外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませながら、
コミュニケーション能力の素地を養う。
『新小学校学習指導要領』(平成20年3月公示)



体験を通して外国語の概念的な理解やモチベーション
の向上を図ろうということである。
つまり、小学校英語は中学英語の前倒しではなく、
啓蒙的な側面が強いということだ。
これは時間的な制約や効果を考慮すると
良い方向性であるように思う。

2.もっと早くはじめるべき

外国語学習の臨界期は9歳前後と言われており、
それ以降では習得能力が著しく落ちると言われている。
小学校5年生からでは、現在より相対的には良いものの
わずかな効果しか見込めない。
そもそも啓蒙が目的であるのなら、
もっと早い2~3年生くらいの時期に授業を組むべきだろう。

3.ネイティブスピーカーにこだわるべき

コミュニケーションや音声、文化の理解を深めるのなら、
外国人教員に教えさせることが必須だ。
小学校に英語教員がいないということは裏を返せば、
中学・高校と異なり、
英語教員が英語を話せないことがばれて恥をかいたり
不適格英語教員の雇用問題に発展することもない、
ということだ。

担任に英語を教えさせるという方針は、
竹槍でB29を落とすようなものだ。
彼らにそんなアドバンテージがない事は明らかだし、
多大な時間を準備に当てる必要も出てくるだろう。
その分、他の教科や課外活動に充てられる労力は
低下せざるを得ない。
小学校教員の多くは志の高い人たちだと思うが、
何でもできるスーパーマンではない。
人を雇用する立場にある者なら、
労働者に不得意な事をさせている余裕などない
ということは分かるだろう。
従来の業務に加え、英語も教えなくてはならなくなった
教員の方々には同情の念を禁じえない。

わざわざ毎週の1時間を潰して、
英語の素人に授業をさせるのは、
教員の側にも生徒の側にも不幸だ。
時間数を減らしてでも、時間当たりの質の高い教育を
全ての当事者にメリットがある形で提供すべきだ。

4.義務教育としての妥当性

義務教育は、国民全員に必要な知識を教え、
平等な機会を与えることを目的とすべきだ。
「読み、書き、そろばん」という言葉に代表されるように
そこには最低限必要なものを凝縮させることが大事だ。

実用レベルの英語教育は今後の日本人に
「最低限必要な知識」と言えるだろうか?

残念ながら、私はそうは思わない。
例えば、中・高等教育が全て英語で行われていた香港ですら、
大学に行かない多くの庶民は実際には英語を話せないのだ。
母国語と全く異なる言語を自由に操る能力は
「より多くの」日本人にとって「必要」となり、
「全ての」日本人にとって「望ましい」ものになりうるが、
今後国際化が進んでも、
仮に日本の経済的・文明的優位が相当程度失われても、
そうした能力は将来にわたって
「知識のナショナル・ミニマム」とはならないだろう。


5.日本人の英語力を向上させるには

仮に、外国人教員を使って小学校2~3年生という
早い時期に質の高い英語の啓蒙教育を実施できたとしても、
実際の英語力の向上には当然ながら不十分だ。

英語が使える人材を増やすには
義務教育を超えたところで対応する必要がある。

学校で啓蒙教育をした上で、
意欲的な生徒や教育熱心な親が
追加的な経済的・時間的負担をして
英語の授業を受けられるようにするのが現実的だ。
コストを抑えるために、
学校は放課後の校舎を提供したり、
受講生と教員・英語学校の仲介をしたりすることができる。
本当に貧しい家庭には政府が補助金を導入しても良い。

医療と同じで、国益となる英語教育を
一律・無料で十分に提供することは困難だ。
そうした現実を踏まえて、
学校は他の教育機関との連携を進めるべきである。

連携といえば、学校と塾の連携は全く進まないが、
英語に関しては、塾と学校の対立と二つの点で異なる。

第一に、進学塾と学校が対立するのは、
教えている教科が重複しているからである。
小学校の英語教育に関しては、
少なくともそうした問題は起こらない。
中学ではクラスのレベル分けを
する必要には迫られるだろうが、
学校では先生が得意な文法や読解を中心に教え、
課外ではコミュニケーションに重点を置く
という方法で住み分けは可能だろう。

第二に、実用レベルの英語教育にかかるリソースは
小学校のキャパシティーを超えている。
音楽の授業を想定すれば分かり易い。
小学校にも音楽の授業はあり役に立っているが、
大人になって人前で使えるレベルまで楽器を使い
こなせるようにはならない。
そうした希望を持つ子供や親は、
お金と時間をかけて音楽教室に通っている。
それに文句を言っている人はいないし、
それが原因で小学校の音楽の授業が
崩壊しているわけでもない。


人々は教育に関しては幻想を持っており、
政治的な思惑も絡んで理想論に傾きがちだ。
しかし、地方財政の厳しい状況と
教育がそれに占める割合の大きさを考えれば
より現実的、効率的に教育改革を進めなければならない。


テーマ : 英語・英会話学習
ジャンル : 学校・教育

高校時代に一番印象に残った授業 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

先日の記事のコメント欄で日本の中等教育の話をして、
自分の高校時代の事を少し思い出した。

以前に少し書いたことがあるが、私の高校は
卒業すれば全員が大学に進学できる仕組みだったので
とてものんびりした高校時代だった。
そんな中、授業が後々の人生に影響を与えたのは
往々にして雑談の部分だったように思う。

一番印象に残っているのは高校3年のドイツ語の読解の授業だ。
この授業は、"Wissen ist Macht (知は力なり)" という哲学書の
ような文章を一年間かけて読むという授業である。
僕はドイツ語が一番の苦手で全く分からなかったので、
文系のO君が作ってくれた日本語訳を暗記して
なんとか落第点を取らないように努めた。
難解なので、日本語訳を一度読んだくらいでは意味が分からない。
2度、3度と読むうちにおぼろげながら意味が分かる、
そんな感じの本だった。

こんな感じの一節があった:
「科学はあらゆる方向に広がりながら一点に収束していく。」
生徒は何のことだか全然分からない。
そもそも発散と収束は全く反対のものだ。
それに先生がいろいろとコメントをつけていく。
授業中は殆ど寝ていたので詳しく覚えていないが、
私の最終的な解釈は、
「知は専門分化の過程を辿りながら
最終的には一つの真実を解明するためのものだ」
というような感じであった。そして、
「高校でつまらない科目がたくさんあったり
大学で専門の勉強で行き詰まったりすることはあっても
真実に近づけば見晴らしの良い場所が開けているのだろうなあ」
と当時の自分なりに感心した。
これは、自分の世界観に影響を与えた。

また、別の日にうとうとしながら授業を聞いていたら、
先生がどこかの文の注釈として
「人生っていうのは、要するに"問い"ですね。
"問い"がなくなったら人生はもう終わりなんだよ。
そうでしょう、佐藤君。」

とか言っている。
この先生は、生徒の名前を覚えておらず、
ありがちな名前を適当に言っていくので、
質問に答えなければいけないのは
いつも田中君や佐藤君なのだ。
「ああ、いい言葉だなあ…。」
と最初はぼんやりと思ったが、
これも僕のその後の思想的な部分に深く影響を与えた。
究極的な目標があるにしても大事なのは過程を楽しむことだ、
というのはあの高校の教育のテーマであったように思う。

そんな先生も時々やる気を出して、
佐藤君や田中君以外にも質問してくる。
僕が授業をきかずにぼんやりしていると、
「Willy君、デデキントって知ってる?」と聞いてきた。
無理難題を吹っかけれられたと思って同級生が苦笑している。
「実数の切断を考えた人ですか。」
と答えたら、その先生は
「じ、じっすうの切断って言うのは、
き、極めて重要な概念でね、、、!」
とか言ってびっくりしている。
その後、その先生は私をひいきにしてくれて、
ドイツ語の質問はされなくなった。
得意な事があると得をすることもあるなあ、
と思ったのを覚えている。

期末試験が近づいた頃、
クラス一の秀才がその難解な本を開いていたのをたまたま見た。
なんだかあちこちが塗りつぶしてある。
よく見ると、彼はなんと、
僕が全く読んでもいないその難解な哲学書のドイツ語の
前置詞を全部塗りつぶして覚えている
のだった。
絶対敵わないくらいすごい奴がいる、
ということも知った授業でもあった。
今頃きっと立派な科学者になっているに違いない。

今から振り返れば、
高校時代にもっと真面目に勉強すべきだったと思うが、
そんな雑談ばかり印象に残った高校時代は楽しかった。


テーマ : 高校生
ジャンル : 学校・教育

プロフィール

Willy

Author:Willy
日本の某大数学科で修士課程修了。
金融機関勤務を経て、米国の統計学科博士課程に留学。
2009年、某州立大数学科専任講師。2010年、助教。2016年、准教授。

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