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日本人が米国で働いた場合の年金事情 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

以前、学会で会った日本人の方に「米国で働くと年金はどうなりますか?」
という質問をされたことがあるので、在米日本人の立場から少し書いてみたい。
ただし、私は年金の専門家でも何でもないので、以下はあくまで参考情報であり
正確な仕組みや金額などについては各自でお調べ頂きたい。

1.公的年金

現在の年金の仕組みでは基本的に、
日本で働いている間は日本の年金制度に保険料を払い、
米国で働いている間は米国の年金制度に保険料を払うことになる。
したがって、日本で15年、米国で20年働いた人なら将来、
それぞれの納付期間に応じて両国から年金を受け取るというわけだ。

ただし日本の国民年金については、海外在住者でも任意で加入することができる。
ある程度の経済的余裕がある人の場合は、米国で働きながら日本にも保険料を
納めているという人もいるようだ。

逆に、米国に在住しているが働いていない学生などの場合、
どちらの国にも保険料を納めていない期間が発生することになる。
また、学生ビザでTAやRAなどの仕事をしている場合にも、
暦年ベースで当初5年間は米国の年金に加入できないといった特例がある。

なお、日米とも原則的には10年以上の保険料を納めないと年金を受給できないが、
現在では日米社会保障協定により、納付期間と国外在住期間の合計が10年を超えれば
年金を受け取ることができる。したがって、多くの人にとっては支払った年金保険料
に見合う額が貰えなくなるという心配はなくなった。

一方、米国は累進年金という複雑な制度を取っているため、
他の国などから年金収入がある人に対して米国の社会保障年金を減額する
WEP(Windfall Elimination Provision)という制度もある。
米国での就労期間が30年未満の場合は、就労年数に応じてこの制度が適用される。

次に両国各々の制度についてだが、
実は、日本の公的年金制度(国民年金+厚生年金)と米国の年金制度(Social Security)は制度としては非常に似ている。日本の制度が元来、米国の年金制度を参考にしている点が多いからである。

米国も日本と同様、労使折半で給与に比例した額が給料日ごとに差し引かれる仕組みだ。
保険料率は、日本では18.3%、米国では15.3%である。
ただし米国の保険料は、うち2.9%ポイントは高齢者向け医療に使われている。
また、保険料の上限が決まっているのも日米で共通している。

一番気になるのは年金額だが、計算方法が異なるので一概には比べられない。
例えば、日本の厚生年金給付が保険料に比例しているのに対して、
米国では累進的になっており、年収の多い人ほど損な仕組みになっている等の違いがある。
参考までに、私が標準的なケースの試算をしてみたところ、
同じ年収であれば米国の給付額が1.6倍程度になった。
保険料の差を考慮すると米国の給付が2倍弱ということになる。

働いていない配偶者、つまり主婦や主夫の年金はどうなっているだろうか。
米国ではこうした人の年金は、配偶者の半分ということになっている。
日本では、専業主婦(主夫)が年金保険料を払っていないことが問題になっているが、
意外なことに、日本より米国の方が専業主婦(主夫)は恵まれているという訳だ。

さて、もっと肝心なのは現在の計画通り年金が貰えるかということだろう。

残念ながら、両国とも年金の持続性には疑問符がついている。

米国では2037年頃には、社会保障基金(Social Security fund)の
残高がゼロになると予測されている。残高がゼロになった場合、
収支を均衡させるには単純計算で約2割の減額になるという。
実際には様々な手を使って減額幅を圧縮させるだろうから、
目安としては「最悪2割減る」と考えれば良いかもしれない。

日本の制度は、以前のエントリー(http://wofwof.blog60.fc2.com/blog-entry-687.html)
で考察したように、マクロスライドを忠実に実行すれば破綻はしないが、
受給額は35年後に約4割減というものだ。

簡単にまとめれば、
米国の年金は日本に比べると太っ腹ではあるが、
制度の将来は全くといっていいほど無計画で不確実性を伴うと言える。



2.退職金・企業年金

日本の退職金や企業年金にあたるものは、米国にもあるが、
当然ながら企業や大学によってその制度は異なる。

私のいる大学では、勤続3年目から
従業員が給与の5%以上を確定拠出年金(403b)に拠出し
大学がそこに給与の10%分を追加拠出するという制度になっている。
ハーバード大のようにいろんな意味で私の在籍する大学と違う大学でも、
大雑把に言えば年収の10%程度を大学側が積み立てるという事になっている
ようなので、大学としてはある程度標準的なケースとは言えるだろう。

403b(401kの非営利団体版)とは、従業員や企業が税引き前の所得から
資金を拠出して積み立て、59.5歳以降になると引き出せるという仕組みだ。

例えば35年間働いたケースを考えてみよう。
大学は33年間、毎年の給与の10%を積み立てることになる。
確定拠出なので給付額は何に投資したかによって異なり確定しないが、
教職員保険年金組合の確定年金の予定利率は私の口座では3.6%なので、
インフレ率を年2%とすれば実質利回りは1.6%ほどだ。

退職時点での受け取り総額を等比数列の和の公式で計算すれば、
年収を一定と仮定した場合には、実質でその4.3倍程度になる。
オーダーとしては日本企業等の退職金と大差ないだろう。
ただし、これは課税前の金額なので、
その額を退職後に運用しながら少しずつ引き出すことになる。

米国の方が好都合な点もある。企業が毎年一定の割合を拠出するので、
転職を何度しても基本的に不利になることはないという点だ。
米国では同じ会社に何十年も勤める人の割合が低いので、
それに合わせた制度になっているということだ。

なお一部の大学や企業などには、確定拠出ではない独自の年金制度が
残っていてこれはかなり大盤振る舞いのものもあるようだ。

裕福な市の市役所は、その極端な例だ。
ロサンゼルス市では、年間20万ドル以上の年金を貰う元公務員が8人いるそうだ。
念のため書いておくが、この額を公的年金に加えて受け取っているのである。
警察署では給与100ドルあたり71ドルの年金費用がかかっている。
(出所)http://www.latimes.com/projects/la-me-el-monte-pensions/


3.私的年金

上の2つに加えて引退後の生活に備えたい人は、
確定拠出年金に追加拠出するのが一般的だ。
運用益が非課税になるメリットがあるし、
税引き前所得から拠出すれば、老後の税率が低い人には節税効果があるからだ。

州立大の大学教員の場合は最大で
上に述べた403bへ年18,000ドル(50歳以降は24,000ドル)、
類似の457bへ年18,000ドル(50歳以降は24,000ドル)、
雇用主と関係ないIRA(または税引後所得から拠出のRoth IRA)へ
年5500ドル(50歳以降は6,000ドル)まで拠出することができる。
夫婦とも大学教員というようなケースではこれを二人分使えることになる。

企業などにおいては、403bの代わりにほぼ同様の401kがあり、
IRAは同じで、457bは使えない。

これらの積み立ては元は給料の一部なのであるが、
こうした多額の積み立てから得られる株式の売却益や配当、
債券や年金の利子が非課税になるメリットは大きく、
米国人の投資を促進していると言えるだろう。


4.まとめ

このように見て行くと、日本と米国の年金制度は一定程度似通っており、
日本のサラリーマンを辞めて米国の企業や大学に転職するというケースでも
常識的な額の年金は貰えるので、過度な心配はなさそうだ。

一方で老後の年金受け取りに関しては、米国で日本の年金を受け取る、あるいは、
日本で米国の年金を受け取る手続きが必要になり、煩雑であることには注意が必要だ。
数年間だけ米国に勤務してその後日本に永住帰国するケースでは、
この外国から年金を受け取る面倒を避けるために、10%の税金と
高い所得税を払って現金化してしまう人もいるようだ。
この場合は、合計で残高の40%程度を差し引かれることになる。
退職後に分割して受け取れば平均税率は10%台半ばだろうから、
現金化によってだいぶ損をすることになる。

日米両国で働く場合には、単に両国の年金制度を理解するだけでなく、
様々な可能性を考慮しつつ最適なリタイアメント計画を立てる必要が
あるということだ。


テーマ : アメリカ生活
ジャンル : 海外情報

ヘイトスピーチが絶対にダメな理由 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

 日本ではここ数年、外国人が増えたことや経済力が弱くなって自尊心が損なわれたことから、社会への不満が外国人に向く、ヘイトスピーチ(憎悪表現)が社会問題になっている。ヘイトスピーチはより良い社会を築く上であってはならないものだが、日本のように大多数の国民がマイノリティーの痛みを感じたことがなく、またグローバル化の進展度合いが低い国では、なぜいけないのかがあまりはっきりと分からない人も多いのではないだろうか。そこで今回はこの問題を、分かりやすくお金に置き換えることで説明してみたい。


 仮に、あなたが仕事で年収500万円を得ていたとしよう。もし全く同じ労働条件と生活環境で年1000万円貰える代わりに、一日に一回、見知らぬ人から
    "GO HOME JAP!"
と罵られる国や地域があったらあなたはそこに引っ越したいだろうか?

 私がこの質問を一人の日本人にしてみたところ「ノー」と答えたので、「それでは、どのくらいの頻度であれば我慢してその国で働いてみたいか?」と続けて質問したところ「月1回程度なら」という回答を得た。この答えは、普通の日本人の感覚として常識的なものではないだろうか。それでは、これを金額に置き換えてみるとどうなるだろう。月1回、つまり年12回のヘイトスピーチに見合う報酬が500万円(=1000万円—500万円)だと見做していることになるので、ヘイトスピーチ1回あたり40万円のコストがかかっていることになる。ヘイトスピーチが行われる国では必要としている労働者を呼ぶためのコストがそれだけ跳ね上がってしまうというわけだ。(ここでは賃金に置き換えたが、他にも旅行者が減ったり、日本に反感を持つ人が増えるなど様々な経路で損失は生じる。)直感的にはこの額はとても大きく感じられるが、条件を多少変えてみたところで、その額が思ったよりもずっと大きいという事実は動かないのではないだろうか。これは、ヘイトスピーチを行う「話し手」とその痛みを受け止めるマイノリティーの「受け手」の間に、非常に大きな認知ギャップがあるからに他ならない。

 ヘイトスピーチが絶対に許されないのは、「人類みな兄弟」などという理想主義的な価値観からのみ出る結論では決してない。ヘイトスピーチは社会的に「とても高くつく」ものなのだ。

 私は日本国民全員に外国人を大好きになれと言うつもりはない。しかし、ヘイトスピーチのニュースを見るたびに「これをやってる人たちは自分のストレス発散のために日本に巨額の損失を与えているのだな」と思うし、「もしかするとこれをやっている人達は反日なのでは?」とか「日本を陥れるための外国人工作員なのでは?」と疑ってしまうレベルなのである。


大学時代に何を学ぶべきか -- このエントリーを含むはてなブックマーク

若い時に何を勉強すべきかは言うまでもなくとても大事だ。しかし、この動きの速い時代に何を勉強すれば良いのかを考えるのはとても難しくなっている。最近、そのことを改めて考えさせられることがあったので少し書いてみたい。



3ヶ月ほど前に、医学関係の研究部門でスタッフとして働いている修士課程の社会人院生2人から「夏に1〜2単位のセミナーコースを開講して欲しい」との相談を受け、3人で相談した結果、混合効果モデルという統計モデルの勉強会を開く事にした。

私はその分野に詳しい訳でもないので、軽い気持ちで院生時代に使ったテキストだった Pinheiro & Bates の Mixed-Effects Models in S and S-PLUS (Statistics and Computing) という本を提案してそのまま使うことになった。この本が出版されたのは2002年と「ほんの」15年前であり、さらに私が統計学科の院生だったのは「ほんの」10年前くらいだったし、それにその分野の入門書としては今でもアマゾンでも常に上位に来る本なので、何も問題はないと考えていた。



しかしセミナーが始まると学生は、本のコードが古いことに不満を漏らすようになった。確かに、オープンソースの統計やデータサイエンスのパッケージは文字通り日進月歩の世界なので、言われてみると実際の処理に関して時代遅れである感は否定できない。学生達は、現場で医療データを分析しているので不満を持つのも無理はない。理論面についても、基礎は変わらないものの、分析用のパッケージが充実してくれば理解すべきモデルの幅も広がる。本の記述が物足りないと感じても不思議はない。私は、たった15年前に書かれた教科書が古臭くなってしまったことにうろたえた。

だが、話はここで終わらない。応用統計の本なので理論面ではどうしても行間のギャップが大きい。セミナーは学生と私を含めた輪講式(順番に発表者を決めて進める方式)でやっていたのだが、準備の途中で式が成り立つ根拠が分からなくなって見直したのは、60年近くも前に出版された佐竹一郎の 「線型代数学」 という教科書だった。日本では数学科の1〜2年生が集中的に学ぶ内容の本である。セミナーの学生達はとても優秀だが、元々のバックグラウンドが数学ではないので、きちんと数学的基礎を追う事ができないことが多い。そして、米国で統計を教える人が足りないのはきちんと基礎を教えられる人が少ないからなのである。





実務家として働いたことのある私が、大学でカリキュラムを決めたり教科書を選んだりする時に一番に考えることは、学生が社会に出た時にその内容が役に立つかどうかだ。そのために、理論的には多少質が下がっても応用面を重視するようにしているし、最近の社会の動向も気にするようにしている。だが、実践的な内容が書かれた教科書がたった10年で陳腐化するのであれば、若い学生達にそうした内容を教えることは正しくないのではないかと再考させられる。18〜22歳という一番、脳が冴えている時期に何を勉強するべきなのだろうか。やはり、若い貴重な4年間には、より普遍性と一般性が高く、現代人として役に立つスキルを集中的に学ぶのが良いということになる。ただ、具体的に何を学ぶべきかは難しい。

古くから欧米の大学が行ってきたリベラルアーツ教育は、元来それに近い考え方だった。リベラルアーツ教育とは、人が自由に生きて行くための本質的なスキルとして、文法、論理学、修辞学などを重視する教育のことだ。アイビーリーグのほとんどはリベラルアーツ教育を行う大学として設立された。そうした考えに沿って今でも、文学、哲学をはじめ、数学、科学などを重視したカリキュラムを組むリベラルアーツ系の大学や学部が北米や欧州などには多い。

だが現在のリベラルアーツ教育の比重が、現代社会に最適化されているかどうかには疑問が残る。

例えばその中心をなす文学や哲学は一部の偉人達の才能によって成り立った面が大きい。そうした成果が偉大だとしても、何十年、何百年の時間をかけて継続的に発展している数学や科学に比べて、相対的な重要性が低下していることは疑いがない。

科学を学ぶこともまた万能ではない。確かに、積み重ねが必要な科学を学ぶことで高い思考力が身に付くとは言える。しかし学ぶ者自身が積み重ねなければならないという制約によって、人の積み重ねたものの上に積み上げれば良いと考える工学にくらべ実用性に劣るという側面がある。過去100年の人類による膨大な積み重ねにより、工学の相対的な重要性が科学に比べて高まっているのもまた疑いがない事実だ。

そして話はふりだしに戻ってしまうが、最新の工学だけを学べばその技術は簡単に陳腐化する。近い将来に陳腐化する技術を一生に一度しかない貴重な時期に学ぶ必要があるのだろうか。

さらに言えば、英語を重点的に学ぶというかつて日本において手堅かった戦略も、自然言語の処理技術の急速な発展によりその将来は不確実なものになってしまった。

こう考えていくと、現在の社会において大学時代に何を学ぶべきかがいかに難しいかが分かる。おそらく最適なミックスは、伝統的なリベラルアーツ教育よりも現代社会の基幹技術である数学や科学に重点をおいたものになる。そして働き始める2年前くらいには、良い仕事に就くための応用技術を学ぶ必要があるだろう。そしてフルタイムで働き始めた後も知識が陳腐化しないよう継続的に応用技術を学んでいく必要がある(これは現在の日本人が弱いポイントだ)。時間的な厳しさを考えると、外国語は高等教育以前に仕事の制約にならない程度のレベルまで上げておくのが最善ということになるだろう。


テーマ : 大学
ジャンル : 学校・教育

アエラよりジュニアエラの方が内容がまともな件 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

朝日新聞が出している小中学生向けの月刊誌「ジュニアエラ」が創刊100号を迎えた。日本に住んだことがない娘の日本語と日本文化の勉強のために、毎月アマゾンを使ってアメリカまで届けてもらっているのだが、記事は子供向けながら毎回なかなかの力作ぞろいである。

今月号の特集は「旅で学ぶ日本の世界遺産」で、世界文化遺産候補の宗像•沖の島の風景、国宝の写真や歴史的な背景などの説明にはじまって、世界遺産の数が増え過ぎて今後の登録は厳しくなるといった事情までが書かれていた。

(ジュニアエラ今月号の目次ページ↓)
ジュニアエラ

ニュース特集も、「トランプ政権の150日」、「文大統領誕生でどうなる日韓関係」、「小池氏は政権を脅かす存在に化けるのか」、「なぜ歴史教科書に最新研究が反映されないの?」など、社会人、国際人として知っておくべき内容を取り上げている。

手間をかけて取材した記事も多い。毎回、世界の子供達のなかから一人を選んで、その子の生活の様子を写真と本人のメッセージで伝える「子ども地球ナビ」は娘のお気に入りのコーナーの一つだ。今月は、アフガニスタンの少女を取り上げて家族や食事、勉強の仕方などを紹介している。


雑誌を眺めてふと思ったのは「もしかすると、そこらの大人が読んでる雑誌よりずっとまともなのでは?」ということだ。試しに同じ週に発売されたAERA6/19号を調べてみると「やっぱり」と言わざるを得ない。

アエラ中刷り

特集は「最良の友は犬か猫か」で、主なトピックは「ネコがイヌ化する」「犬より安上がりネコノミクスが拡大中」「築地移転延期で頓挫したネズミ退治」と、まあ気晴らしに読むには面白いかもしれないが、はっきりいってどうでもいい内容が並ぶ。

有名人に関する記事も対照的だ。

今月のジュニアエラで紹介されているのは、史上初の性別を分けない演技賞を受賞したエマ・ワトソン、フランス大統領のエマニュエル・マクロン、大関昇進を決めた力士の高安の3人だ。いずれもどの国の人が読んでも、記事としてなるほどと思える内容だろう。

一方でアエラの特集記事は「滝沢秀明×有岡大貴 僕らは同じ輪の中に」。東京勤務のアイドル好き28歳OLはこの記事に胸キュンするのかも知れないが、一言で言えば極東の小さなの国のアイドルがだらだら話しているというどうでもいい記事だ。


ジュニアエラとアエラの内容は、日本社会の縮図だと思う。中学受験生に代表されるような驚くほど洗練された博識なこどもたちと、昔はすごかったはずなのに最新の世界や社会の事情に疎い大人たちが共存するなんだか不思議な国、それが現在の日本の姿である。

たしかに、ジュニアエラには昔真面目に勉強した大人であれば既に知っていることもたくさん書かれている。しかし、大人に必要な内容も、本質的には子供が読むべき内容と大差ないのではないか。それは既に持っている知識をきちんと確認しながら、世界で起きている社会問題や科学の最新事情の中で本当に重要なことを、簡潔に、かつ論理的に理解することである。



テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

東京への人口集中と地方の過疎化は予想以上に進むと思う理由 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

2008年頃に日本の人口減少が始まってから、将来推定人口への関心が高まっている。特に、いわゆる「増田レポート」(地方消滅 - 東京一極集中が招く人口急減 (中公新書))が出てからは、急激な人口減少による地方都市の消滅危機が騒がれるようになった。

増田レポートは単に2010年国勢調査に基づく2013年推計に基づいたものだが、私がより多くのデータを見ていて思うのはむしろ「本当の未来はもっと厳しいのではないか」ということだ。

以下のグラフを見て欲しい。これは、1995年から2010年の4回の国勢調査に基づく東京都と秋田県の推定人口の推移である。首都の東京と、人口の減少率の最も大きい秋田を選んだ。グラフを見ると、東京都の人口予測はほとんど「減る減る詐欺」みたいなもので全く当たっておらず、毎度上方修正されている。逆に秋田県の人口予測は、ほぼ毎度下方修正されている。

東京人口

秋田人口


ちなみに最新の2015年国勢調査の結果(将来推計は未発表)を見ると、またしても東京の人口は予測より増えた。2010年国勢調査に基づく予測では、2010年の1316万人から2015年には19万人増の1335万人となっているが、実際には36万人増の1352万人となった。秋田の人口はほぼ予測通りとなったが、日本の総人口が上方修正されたことから相対的には引き続き下方修正されているとも言える。

そもそも地域別人口予測というのは非常に難しく、例えば、専門の統計屋を200人以上雇っている米国センサス局による州別人口予測も全く当たっていない。

地域別予測が難しいのは、地域間の人口移動が予測しにくいからだ。国をまたいで移動する人は少ないので日本の総人口であればそれなりに予想はつくが、国内での移動を予測するのは困難だということである。推計を行っている社人研も毎度のように「移動率の予測は難しいのでエイヤで決めました」という趣旨のことが書いてある。推計の前提は調査毎に異なるが、ここ20年の調査では移動率が徐々に落ち着くという前提で推定されているものが多い。

今後の人口移動率が推計通りに落ち着くのかどうかは分からないが、私はこの前提にはかなり疑問を抱いている。なぜなら、人口(正確に言えば世帯数)が減少する社会では住宅が余るので住宅確保の困難さが人口移動の制約になりにくいからだ。具体的には、人口集中に一定のブレーキをかけていた東京での住宅確保の困難さが今後、大幅に緩和される。少子化が激しい東京では、ただでさえ人口の自然減で住宅があまるというのに、建築規制の緩和でますます多くの高層マンションが建てられている。住宅の需給が緩み続けるのは必定で、いずれ家賃の下落が新たな需要を呼び起こすだろう。一方、過疎化が進む地方では都市の中心部以外ではもはや住宅市場は成立しておらず、今後価格によって需要が喚起される見込みはほぼない。


社人研による政府公式の人口予測は、あくまで過去の人口データに基づくベースラインを提供しているに過ぎない。総人口が減少する中で建築規制を緩和し自由な競争の中で各地域や自治体が人口を奪い合えば、恐らく現在の政府予測以上に東京への人口集中と地方の過疎化が進むだろう。


<増田レポート>



<近年の住宅政策について>


テーマ : 政治・経済・時事問題
ジャンル : 政治・経済

香港の大学が助教に1600万払う理由 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

前回のエントリー「大学教員"1600万貰えるから海外移籍"から考える頭脳流出問題」では日本からの頭脳流出全般について書いた。

この問題が注目を浴びて分かったことの一つは、日本国内だけを見ている一般の人には世界が専門家に払っている給料水準がよく分かっていないということである。そこで今回は香港の大学がなぜ助教に円換算で1600万円も払うのかということを少し詳しく書いてみようと思う。

(1) 経済学者の給与水準

圧倒的な規模を誇る米国の大学産業では、給与水準は分野毎に決まる。医学部、ビジネススクール、ロースクールなど他の労働市場で付加価値の高い分野の教員の給与が圧倒的に高く、エンジニアリングスクールや経済学科などがこれに続く。

米国の経済学科で博士新卒のテニュアトラックに支払われる9ヶ月分のサラリー(米国の大学では9ヶ月契約が一般的であり人によっては外部からの資金を獲得して追加で1〜2ヶ月分の上乗せがある)は、研究大学の平均で11万5千ドル、上位30校では13万6千ドルである(出典:アーカンソー大レポート)。これは3年前の数字であり、こうした分野の給料は近年高騰しているので来年度は1万ドル程度の上乗せと考えるのが自然だろう。したがって、川口氏が得た14万4千ドルというオファーはおおよそ米国の上位校に匹敵する水準だと言う事ができる。

英語圏の他国のサラリーも米国との裁定が働くが、それでは他の国はどうだろう。中国の一流大学では助教の年俸は30〜40万元程度だという。米ドルに直せば5万ドルくらいになる。米国に比べるとだいぶ安いが、中国の物価は地域による違いはあるものの大雑把にいえば米国の半分くらいである(IMF調べ)。したがって購買力としてはやはり米国の大学と同程度ということになる。また国内の平均所得との比で言えば中国の大学の方が賃金は高いとも言える。

(2)ビジネススクールという環境

同じ経済学者でも、ビジネススクールでは経済学科より更に高額のオファーが貰えるというのが一般的な認識だろう。資金の出所はMBAの学生などが払う高い学費や、卒業生や企業から集まる寄付金である。

一方で、この上乗せの代償もある。高い授業料を払うMBAの学生は授業内容には非常にうるさいことで有名である。彼らのほとんどは学問に興味がないので、分からない授業や自分に役に立たなそうだと感じれば、学問的な価値とは関係無しにすぐに文句を言う。したがって、授業準備もビジネススクールで教える方が大変だろう。

経済学者であれば、できれば経済学に興味を持っている学問的に優秀な学生に教えたいと思う人の方が多いだろうから、需給の面でもビジネススクールの給与は高くならざるを得ない。

また教員に対する英語の要求水準も、経済学科に比べれば格段に高い。「私たちは下手な英語を聞くために高い授業料を払っている訳じゃない」という訳だ。香港やシンガポールのような中華圏の大学ではそこまで高くはないが、それでもアカデミックな学科に比べると高いはずである。

(3)初年俸が重要

これは特に米国で顕著な傾向だが、良い人材を獲得するために初年俸を高く設定することが多い。逆に言えば一旦雇われてしまえば、その後の昇給は限定的なものになる。近年、大学教員の獲得コストは高騰しているので、何年か大学にいる准教授の給料が新任の助教の給料より安いというような逆転現象も見られるのである。これは年功序列の日本とは違うところである。

一方で、英語圏でも昇給のチャンスがないわけではない。スター教授には引き抜きがかかり年俸は高騰する。実際に移籍しなくてもオファーを貰い本気で移る気があれば、カウンターオファーで同額を提示する大学が多い。そうやって実力の高い人の給料は上がっていくのだ。

(4)人材流出問題を抱える香港

いくら香港の大学は世界的評価が高いとは言っても、14万4千ドルというオファーが米国対比でもやや高額であることは確かだろう。これは米国対比で香港の人気が低いということに起因している。

同僚の老教授によれば97年に香港の中国への返還が決まって以降、政治的な不安定さを嫌気して、香港から大量に人材が流出した。そこで香港の大学は給与を引上げて人材を引き留めた。シンガポールの大学の給与が高いのも、香港に対抗して引上げたことが理由だという。

欧米人は同じ英語圏でもアジアに来ることを好まないし、ましてや香港は英語が問題なく通じるのは大学やビジネス街の中心だけで、事実上の中国語圏だ。中国人の米国留学生も母国が好きな人ばかりではなく、できれば米国に残りたいと思う人の方が多い。

それに加えて、こどもを持つ人にとっては教育の問題もつきまとう。中国返還後の香港の公立学校では中国語で教育が行われているので、インターナショナルスクールに通う必要があるが、その数は不足気味だという。特に歴史的経緯からアメリカンスクールは少なくブリティッシュスクールがメインになる。こうした教育環境の問題から赴任を断る外国人は少なくないそうだ。

香港が日本人研究者に人気なのは、こうした特有の問題があまり障害にならないことが影響しているだろう。英語の壁が低いのは日本人にはありがたい。地理的にも食文化も町並みも日本に近くて生活しやすい。いざとなれば、日本に帰る手があるので政治的な不安もそこまでない。子供の教育もインターが難しければ香港日本人学校という選択肢もある。



このように見ていくと、今回の川口氏のケースは幸運ではあったかも知れないが、それほど特殊な事例ではないということが理解できると思う。

確かに日本には大学教員になりたいという人はわんさかいるので、人材が海外に流出したからといって大学の授業ができなくなるほどの事態にはならないだろう。だが、もし日本の大学の研究者の質を維持・向上させたいのであれば、もはや日本の国立大教員の待遇を叩いている場合ではないのである。


大学教員「1600万貰えるから海外移籍」から考える頭脳流出問題 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

一橋大学の川口康平氏が香港科技大のビジネススクールに移籍するにあたり、

研究環境面で一橋が特別負けているとは思いません,
じゃあ何が違うのかというと,あれですね,給料です.

具体的にいうと,一橋の給与は昨年,各種手当を全部ひっくるめて634万円でした.
科技大のオファーはというと,USD144K,日本円で1500-1600万円です.
最高税率は15%らしいので,手取りの変化率は額面以上になります.


等とツイートして話題になっている(ツイッターアカウントはこちら)。

そこで日本の伝統的な職場の外資・外国への人材流出について
いくつか類型を分けて何が問題なのか考えてみたいと思う。


(1)官僚の人材流出

上位官庁に国家公務員総合職で入省する若手官僚の間では、20〜30代のうちに
見切りをつけて外資のコンサルや金融、ITなどに転出するケースが後を絶たない。
もちろん給料は最低でも2倍以上になるだろうし、仕事の内容も枝葉末節や建前でなく
より刺激的なものになる。逆に官庁は政策立案をする上で優秀な人材を失ったことになる。

しかし、こうした人材流出は問題かと言えば必ずしもそうとは言い切れない面がある。
そもそも90年代末以降に官僚になった人達の多くは
初めから労働時間や報酬の面で待遇がよくないことを知っていて、
「社会のため」あるいは「社会を動かすため」に官僚を志しているからである。
2倍以上の給料は、必ずしも彼らが辞職する主因とはなっていないだろう。
そうした志の高い人達が、なぜ官庁に見切りをつけるかといえば、
「社会のためにならない」あるいは「社会を動かすことができない」
と感じるからに他ならない。

もしも、彼らの就いていた職務が
「社会のためにならない」あるいは「社会を動かすことができない」
のであれば、そもそも優秀な人が官僚をやる必要はないので、
彼らが官庁を去ったことは社会的に大きな損失とは言えない。
結局、優秀な人材は必要なところに集まるものだ。

もちろん、現行の官公庁の仕事の仕組みに問題があるという面はあるだろうが、
人材流出はその大きな問題から派生した問題に過ぎない。


(2)企業からの人材流出

古くは80年代頃から現在に至るまでの日系金融機関から外資系金融機関への人材流出、
最近で言えば、コンピューターサイエンス(CS)を専攻する学生やエンジニア、
サイエンティストの米IT企業への人材流出などが挙げられる。
最近CSの分野では
「日本で博士課程に進むと色々と大変だけど、
米国に来たら学費も無料で就職したら給料は3倍だよ。」
などと言われている。実際、そんなところだろう。

ただ、日本企業がエンジニアやサイエンティストを
不当に安い値段で使い倒しているのかというと物事はそんなに単純ではない。
実際、日本の総合電機メーカーが暴利を貪っているかといえばそうではなく
潰れそうな会社もあるくらいなのはご存知の通りだ。
要は日本企業には優秀な人材を使って利益を出せるような経営体制がないという
ことが問題で、安い給料はその帰結でしかない。

面白いのは、日本企業が海外駐在員には高い給料を払っているということだ。
会計士から聞いた話によれば、大企業の米国駐在員は中堅社員でも
人件費ベースで15〜20万ドル位の報酬を得ているはずである。
これは、米国のIT企業で研究開発を行う社員の報酬と同じくらいだ。
つまり、日本企業は海外事業をフロンティアとして開拓することはできて
いるけれども、ITなどの新分野をフロンティアにすることはできていない
ということである。


(3)大学からの人材流出

今回の川口氏の移籍が特徴的なのは、企業部門の移籍ではないけれども
移籍の主な理由が報酬であるという点だ。
労働環境は悪くないし、仕事のアウトプットもどこにいても差はないが、
給料が安過ぎるという訳だ。
同じ仕事に香港の大学は大金払うが日本の大学は払わない。

もちろん、これが川口氏一人だけであれば問題にならない。
賃金水準はもう少し大きな規模での人材の需給で決まるだろうからだ。
それでは、同じようなケースが重なり優秀な方がどんどん流出したとしたら、
日本の大学、文科省、政府、世論はどう反応するのだろうか。
私は、その答えもおおむね明らかであるように思う。
それは「特に何もしない」ということだ。

一つの問題は大衆の嫉妬だろう。
「自分の何倍も給料もらうなんて許せない」というわけだ。
大衆が批判すれば政府はそれには敏感になる。
ただ、問題はもう少し根本的な価値観の問題も孕んでいる。

日本の大学から人材が流出すれば、大したことのない人がポストに就くようになり
研究水準も教育水準も下がる。世界でのランキングも下がるだろう。
その結果、何か困ることがあるだろうか。
経済学の研究が日本国内で進まなくても、
それが日本人の暮らしに十年、二十年のスパンで直接効いてくることはほぼない。
数学や物理学であっても基本的には同様だ。
基礎研究の結果は、論文として公表され世界に発表されるので誰でも利用可能だ。

要するに大学研究者の待遇の問題は、究極的には日本人が
「日本の学術研究のレベルなどどうなっても大した問題ではない」
と考えているいうことから生じる二次的な問題なのである。

そもそも日本の大学教授のレベルは昔から高かった訳ではない。
たった20年前に大学を卒業した私が学生の頃でも
有名大学に学部卒の教科書を黒板に写しているだけの教授がいたものである。
現在の充実した陣容は、日本が高度成長期で身につけた経済力を
ふんだんに投入してようやく高めたものだ。

川口氏が取り上げた大学研究者の報酬の問題は、
財政赤字を拡大させない方が良さそうだという雰囲気の中で
文化的なものの優先順位が低くなってしまったことに対する
大学人としての嘆きなのだと私は受け取っている。


海外就労者は国民年金に任意加入した方が得か? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

駐在員を除く海外就労者の場合、年金は在住国の制度に入るのが基本となっているため、
引退後は日本にいた頃の年金と海外で働いて得た年金を納付額に応じて受け取ることになる。

一方で海外在住であっても、日本の国民年金に任意加入して保険料を納めることもできる。あくまで任意加入なので、ある程度の経済的余裕のある人にとっては、保険料を納めるかどうかは純粋な投資判断となる。この投資判断をガチで検討してみようと思う。

1.国民年金は加入者に不利になりにくい仕組み

こんにちの日本人が持つステレオタイプからすれば、少子高齢化が進み政府の財政も悪化している日本で保険料を納めるのはバカ、ということになるのだろうが、実はこの投資判断はそんなに簡単ではない。

橘玲氏の著書 「お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方」 にもあるように、国民年金は厚生年金とは異なり強制的に納付させることが難しいため、投資商品として著しく不利なものにすることは制度設計上難しいのである。国民年金が2分の1を国庫負担として運営しているのも、元をたどればこうした背景があるからだ。

一方で誤解なきように付け加えておくと、強制徴収が可能な厚生年金が将来的に大きく払い損になることは巷で語られているように、かなり確度は高い。



2.いくつかのオプションの考慮

さらに国民年金には付加年金という任意の制度があるが、これはさらに投資商品としての魅力がないと成り立たない。そこで政府は付加年金をたった2年間受給すれば名目ベースでトントンになるという制度を設けている。仮に20年受給できれば、掛け金の10倍が返ってくる計算になる。したがって、もし保険料を納めるのであればこの付加年金にも加入するのが当然得だ。

次に、年金の繰り下げ受給について考えてみよう。つまり年金開始年齢を遅らせれば支給が増えるという仕組みのことだ。これが得かどうかはもちろん受給者が何歳まで生きるかによるが、基本的には繰り下げた方がメリットが大きい。より遅い時点から多くの金額をもらった方が「長生きする経済的リスク」に備えられるからである。

念のため、65歳からと70歳からの受給額を具体的に計算してみよう。現在、国民年金を5年繰り下げた場合の受給額は42%割り増しになる。平成22年生命表によると、20〜60歳のうちもっとも期待寿命が短い20歳男性のケースで平均80.1歳まで生きられる。この場合、65歳からなら10.1年、70歳からなら15.1年、年金を受け取れることになる。受給期間の比は1.50(=15.1/10.1)となるので、実は65歳から受け取ると想定した方が若干有利だ。
一方、期待寿命がもっとも長い60歳女性のケースでは、平均88.4歳まで生きられるので、受給期間の比は1.37となり70歳から受給の方が若干有利となる。しかもこれらの数字は、平成22年に亡くなった人から計算した値であり、将来の平均寿命はより長くなることが想定される。

現在の簡単な生命表は厚生労働省のサイトで見ることができる。いくつか他のケースを示しておくと、40歳男性では平均80.8歳、40歳女性なら平均87.2歳まで生きられる。 

3.現在の受給額を元にした試算

そこで以下では、付加年金に加入して70歳から受給というケースを考える。

現在の年金保険料は月額16260円。これに付加保険料の400円を加えると、16660円となる。
受け取る保険金は納付期間に比例するので満額の場合を計算すれば十分である。

40年間納付した場合の保険料を現在の価格で計算すると、
16660 (円/月) × 480 (月) = 7,996,800 (円)

一方、受け取り保険金は年額780,100円を42%割増で受給するため、
780,100 (円/年) × 1.42 = 1,107,742 (円/年)

となる。この比は13.85%となるので、納めた保険料総額の13.85%を70歳以降、
毎年受け取ることになる。年金は物価にスライドするのでこれは実質ベースの数字だ。
米100キロの保険料を納めると、毎年米13.85キロ分の年金を受け取れるという具合だ。

平均余命をもとに、70歳以降で何年間年金を受給できるかの期待値は上で示した通りで、20歳男性で10.1年 → 受け取りが納付の1.40倍
40歳男性で10.8年 → 受け取りが納付の1.50倍
40歳女性で17.2年 → 受け取りが納付の2.38倍
60歳女性で18.1年 → 受け取りが納付の2.51倍
となる。

4.将来の年金財政悪化を織り込む

日本では年金が破綻するという噂に事欠かないが、各種の資料を使えばそれなりにまともな試算を出すことは可能であるように思える。人口構成や生産性上昇率に合わせて、年金額を減らすマクロ経済スライドというものだ。現在の年金財政の問題は、このマクロ経済スライドが様々な政治的な力によってフルに反映されない仕組みになっていることである。例えば、物価も賃金も上がらない年には、年金の減額を抑制するというような仕組みが取られている。

そこで、将来にわたってこのマクロスライドがフルに適用されるケースを考えよう。財政の悪化に忠実に合わせて年金が減額されると想定するということだ。マクロスライドにも各種の前提があるので、必ずしも最悪のケースを想定することにはならないが概ね悲観的な推計だと言えるだろう。現在、マクロスライド率(年金を減額すべき率)は年0.9%などと報道されているが、団塊ジュニア世代が引退する頃には労働力人口の減少が顕著になるので、このスライド率は年2.0%に達する(下図)。これが掛け算で効いて年金額はどんどん減額されることになる。

マクロスライド

現在40歳の人が75歳の時に受け取れる年金をこの方式で試算してみると、年金は現在の58.3%に留まると試算される。すると、実質的な受給額は、男性なら納付の0.87倍、女性なら納付の1.39倍まで減る事になる。

年率換算すると、男性の場合は実質的な受給額の価値が年約0.4%のマイナス成長、女性の場合は年約0.95%のプラス成長となる。

現在、年齢が既にいっている人ならばマクロスライドが効いてくる前に逃げ切れるのでもっと貰えると言えるし、もっと若い人なら更に減らされる可能性が高いと言える。

5. 払った方が得か損か?

判断は資産運用の代替手段をどう見積もるかによるので、一概に結論を出すことはできない。

例えば将来にわたって年1%のインフレを想定した場合、円で金利ゼロの預金に寝かせておけばその実質的な価値は年に1%減ずることになるので、男女どちらのケースでも年金保険料を払った方が得になる。

年1%の国債で運用するなら、実質の運用利回りは0%なので、年金を払うのは男性なら損で女性なら得ということになる。

仮に株式投資で年3%で運用できるなら、男女とも自分で運用した方が得ということになる。

結局のところ投資商品としての国民年金は、運用でどの程度のリスクを取れるかに大きく依存してしまう程度の、非常に微妙なレベルの利回りだということだ。少子高齢化が進む日本では、国庫負担が2分の1だから払った方が絶対得という巷のフィナンシャルプランナーのアドバイスは必ずしも鵜呑みにすべきではないと言えるだろう。


「学者・博士」になりたい小学生に伝えたいこと -- このエントリーを含むはてなブックマーク


第一生命が主に小学1〜6年生を対象にして毎年行っている「大人になったらなりたいもの」の調査において、「学者・博士」が男の子の間で2位になったそうだ。第一生命はレポートの中で「大隅氏がノーベル賞を受賞したころから人気が再燃」と解説している。子供の「未知のことを発見する」、「社会を変える」、「それらによって名を残す」という知的欲求は素晴らしいものであり、そういう心は大切に育てたいものだ。

一方で、近年高学歴ワーキングプアが問題になるなど博士の就職難が日本社会に影を落としている。大きな夢と厳しい現実の狭間で、博士をとり学者を目指す子供やその親はどのようにキャリアを考えていけば良いのだろうか。

日本の一番大きな問題は、「学者・博士」になりたいという子供や若者たちが、いつしか「未知のことを発見する」「それによって社会を変える」という本来の意味を離れて、「大学の中で閉じこもって好きなことだけやる」という狭い意味の「学者・博士」を目指し
ているというところにあると思う。

確かに戦後、日本ではたくさんの人が大学や国立の研究所に雇われて研究者となり、その一部は世界的に活躍してノーベル賞を取ったりした。しかし、多くの研究者がそうしたキャリアを築けたのは日本が右肩上がりで成長していた時代の産物でもある。

近年、多くの分野で大学教員などのアカデミックポストの競争は熾烈を極めている。アカデミックを目指す40代半ばくらいまでの多くの人達は、年配や引退した研究者を見て「昔は良かったのに」とか「自分たちはなんと不運なのか」と思ったことが一度や二度ではないのではないか。

しかし恵まれた時代に大学教員になった人は、その時代の流れに乗ってキャリアに成功したのである。もし彼らが50年後に生まれていたら、大学教員を目指したのかすら定かではない。逆にいまアカデミックを目指している人は、確かに研究能力が高いかも知れないけれども、50年も前に流行った職業にいまだにとりつかれているという意味で社会の流れを読めていないのである。

これからの社会で、真の意味での学者・研究者がどんな職業に就くのかは全く明らかではない。米国などの大手企業の研究者たちが起こすイノベーションの大きさは、長期的に見ても大学の研究者のそれよりもずっと大きなものになる可能性がある。あるいは、同じアカデミックでも資金に恵まれた資源国が多くの研究者を雇うことになったり、教育需要の拡大する人口の多い発展途上国の大学でキャリアを積むのが流行るかも知れない。あるいは、大きな戦争が起こり軍の研究所がイノベーションに大きな役割を担うことになる可能性もある。

別に大学研究者の役割が終ったと言っているのではない。そういうキャリアも依然としてあるけれども、日本はそれを目指す人だけが多過ぎるのである。

こういうことはここ20年くらいずっと言われているが、遅々として状況は改善されていない。若手研究者は企業に行きたくないと言い、企業は博士は役に立たないと言う。それは、人が若い頃に考えていた夢にどうしても捕らわれるからだろう。私自身、24歳の時には大学を去って一般企業に就職したのに、結局は大学に戻ってきてしまったのだからそれは痛いほどわかる。数学科で優秀だった同期の中には、そういうことに苦しむのが嫌だからという理由で敢えて学部を出てすぐに就職した人もいたくらいだ。博士を終え30歳くらいになってそういう事を言われて転身するのはものすごく大変だろうと思う。

だから、もっと若い人に私は言いたい。60年前の人がノーベル賞を取ったのを見てそれを目指すのは、電話交換手だった大好きなおばあちゃんを見て電話交換手を目指すようなものだと。これからどんな人がイノベーションを起こして社会を変えるのか、自分の頭で考え、勇気を持って進むことが大事であると。


日本の「アカウンタビリティ」は「バカウンタビリティ」だ -- このエントリーを含むはてなブックマーク


1.アカウンタビリティーとは

バブルが崩壊した頃から日本では、アカウンタビリティー(説明責任)という言葉がさかんに使われるようになった。これは、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏が「日本 権力構造の謎」や「人間を幸福にしない日本というシステム」などで概念を広めたことなどが、きっかけになっている。

Wikipediaによれば、この言葉は元々米国で国民に対し税金の使い道の説明するために生まれた。その後、言葉の定義が拡大され、株式会社の株主に対するアカウンタビリティー、金銭の使途に限らず活動の予定や権限行使の合理的理由に対するアカウンタビリティーなどが考えられるようになった。

確かに、日本の政府は国民に対して十分に政策の意義を伝えずに税の使い道を決めることが多いように感じられるし、株式会社は持ち合い制や生え抜き社員による経営という日本的な仕組みの中で株主に対する説明責任が不十分であった。そういった意味で、この言葉は必然的に流行したと言えるし、それなりに社会を良くしたとも言えるだろう。

しかしここ10年ほどの日本を見ると、どうもアカウンタビリティーが社会にとってマイナスになっているという例を非常に多く見かける気がしてならない。いつの間にか「アカウンタビリティ」は馬鹿みたいな説明を求められる「バカウンタビリティ」になってはいないだろうか。

2. 大学の例

例えば、日本の国立大学の研究費の使い方である。文部科学省の役人と大学職員が責任を逃れるために会計ルールを作った結果、例えば「海外出張費を支払う場合には、航空券の半券を提出するのみならず、かかった費用のうち各国の政府に払った税金がいくらであるかをそれぞれ計算すること」などという摩訶不思議なルールができている例もあるという。

確かに大学には多額の税金が投入されておりその使い道はきちんと国民に分かるようになってなければならない。しかし、本当に必要なのは、もっと本質的にどういった目的のためにお金が使われているかという説明ではないだろうか。

例えば、数学科を例にとろう。数学には古代から続く「文化としての側面」と「科学や工学の記述言語としての側面」がある。多くの数学者は文化としての数学を重んじるが、多くの国民が税金を投入してやって欲しいのは主に科学や工学を支えるための数学教育だろう。そこで数学科に求められるアカウンタビリティーとは、例えば「学部向け設置科目は卒業生が就職した企業の7割から賛同を得ています」とか「文化としての側面にもリソースを割いていますが、学科外から要請された設置科目で十分に収益を上げています」という説明だろう。

教授が使った海外出張費の内訳を仔細に計算しても誰にも利益がないし、その結果、本来、教育や研究に使うべき人的リソースを事務手続きに使ってしまっては本末転倒である。


3. 企業の例

企業で従業員が使う経費についても意味もなく細かい説明を求められている例が結構ある。これは単なる損失しか生まないことが多い。

ある企業では、海外転勤の際に渡していた数十万円の支度金を使途が不明瞭である(あるいは転勤のない従業員との公平性を欠く)として廃止して、実費を支給することにした。その結果、実費支給になったのを良いことに、ピアノを海外配送したり、ほんの数千円で買えるようなかさばる家電や家具を大量に送る社員が現れた。しかも、実費支給であるから申請側にも受け付ける側にも余計な手間がかかる。実は、かつての支度金は全く十分な額ではなく、従業員は工夫を重ねて何とか持ち出しが出ないようにしていたのだという。

確かに実費支給は公平で透明な制度ではあるが、経済的にはデメリットばかりである。アカウンタビリティーには非常にコストがかかるのである。そういうことは、すぐに政府や企業を叩く人達には理解できないのだろう。

4.まとめ

アカウンタビリティーという概念が、日本社会の仕組みが国民のためになっていないという反省から広まったのは事実だろう。しかし現在では、経済停滞と格差拡大から生まれた人々の不寛容さや、細部に拘る日本人の国民性が、アカウンタビリティーという概念をコストばかり生む馬鹿らしいものにしてしまっている。政府や企業を運営する人は、形式にこだわったり、責任転嫁を目的とするのではなく、よりよい社会の実現という本来の目的のためにアカウンタビリティーを意識して欲しいものだ。




プロフィール

Willy

Author:Willy
日本の某大数学科で修士課程修了。金融機関勤務を経て、米国の統計学科博士課程にてPhD取得。現在、米国の某州立大准教授。

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