飛び級かあるいはその逆か?〜米国の親達の計算 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

米国で子供を育てる多くの日本人が驚くことの一つは、近年、教育熱心な親の多くが子供を飛び級させるのではなく、逆に子供の学年を遅らせていることだ。米国では義務教育は5歳の年長(Kindergarten)の学年から始まるが、6歳になるまで待つケースがかなり頻繁に見られる。ウォールストリートジャーナルによると、全米で6%の保護者が子供にそうした選択をさせており、その割合は貧困地域で2%であるのに対して、富裕層の多いでは27%にも上る。富裕層の割合が高いのは、米国の高い保育料を1年間余計に出せるのは富裕層だけという側面もあるが、教育熱心な家庭が学年を遅らせているという側面も強い。

あいにくきちんとした統計を持ち合わせていないが、近年そうした傾向は強まっているように感じられる。40〜50歳前後の米国人に聞くと、優秀だったので飛び級したという例を多く聞くように感じられるからだ。

飛び級が grade acceleration とか grade-skipping と呼ばれるのに対し、学年を遅らせるのは米国では (academic) redshirting
と呼ばれる。Redshirtは、スポーツ選手が着るシャツのことで、大学スポーツなどにおいて大会出場のチャンスを増やすために学年を遅らせる戦略をとる人がいることに端を発しているようだ。

なぜ教育熱心な親は、子供の学年を遅らせるのだろうか?彼らの多くが主張することは、子供にリーダーシップとか他の子より秀でているという自信を身につけさせたいということである。リーダーシップをとった経験のような非認知能力が、子供の人生に長期間にわたって影響することは広く知られており、こうした主張にはある程度の説得力がある。

しかし、本格的な調査研究の結果は必ずしも redshirting に肯定的なものではない。入学を遅らせた子供達は、小学校段階においては(1年分早く成長してるので当然ながら)クラスメイト達よりも優れた成績を取る。また、リーダーシップのような能力に関しては、高校においてもそうした効果は認められるようだ。しかし、最終的な学力に対する影響は概ねゼロか逆にマイナスになるというものである。スポーツにおいても、出場機会が成長に繋がるような限られたケースでのみ効果が認められるということのようだ。

それでも、米国人の親達は redshirtingを諦め切れないようだ。「比較的最近のスタンフォード大学の研究者による研究によれば、確かに学力の点ではメリットは小さいかも知れないが、精神的な安定に対しては redshirting は大きく寄与している」と昨年のシアトルタイムズは伝えている。

そんな研究まで持ち出して、なぜ米国の親達は子供の学年を遅らせたいのか。恐らくそこには、有名大学入学を目指す親達の計算があるのだろう。米国では日本と異なり、大学に入るために浪人することは一般的ではなく、入学選考においては9年生〜11年生(日本の中3〜高2に相当)の成績や、高3時点でのテストスコア、それに加えて課外活動や部活動でのリーダーシップの経験などが重視される。「テストスコアを上げるために1年浪人しました」などという言い訳はアイビーリーグには通用しない。だから、逆に予め学年を遅らせておけば自分の子供が周りの子供達より年上なので有利になる、という計算なのだろう。

もしかすると、そうした作戦は個人レベルでは意味があるのかもしれない。実際、有名大学卒の肩書きは米国でもそれなりのブランド価値があるからだ。一方で、社会にとっては、才能に恵まれた子が緩い環境で1年間を無駄にすることは好ましくないように思える。また、能力があるのに勝手に学年を遅らせることは、教育現場に負荷をかけることにもなる。

米国の教育には問題が山積しているが、子供に選択肢を与えるという点で一見好ましく見えるこの制度も問題を孕んでいるようだ。


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この春、中学を卒業する君へ -- このエントリーを含むはてなブックマーク

卒業おめでとう。
義務教育を終えて君は自由になった。
義務教育なんて形式的なものだと君や多くの大人は思うかもしれないが、僕はそうは思わない。ごくごく標準的な日本の公立高校の入試問題を久々に見るとそのレベルの高さに驚く。

例えば、国語の読解の問題。あれだけ論理的な文章を読んで答えが導き出せるようになっていれば大人になって困ることはない。あとは色々な文章を読んで経験を積むだけだ。例えこれから海外から優秀な移民が入ってきても、果たしてそのうちの何人が君と同じレベルの日本語能力を身につけられるだろうか。日本が日本語圏である以上、君は気付かないうちに大きなアドバンテージを身につけた。

数学もそうだ。僕は米国の大学生に数学を教えている。数学は若い頃にやった方が良いなどとよく言われるが、結局はやる気次第だ。基礎さえできていれば、必要になったときにいつでも学べる。日本の中学までの数学がきちんとできていれば、後から幾らでも学び直せると断言できる。米国の大学で数学に苦労しているのは、中学までの数学がきちんとできていない子ばかりである。

英語もしかり。先日、米国に住む日本人同士で話していて「日本人はなかなか英語を話せるようにならない」という話になった。すると、日米両方で会社を経営されている人が「そもそも、英語なんて中学で習うことで十分なんですよ」と言った。中学までの英語がきちんとできていれば、あとは自習するなり場数を踏むなりすることで、いくらでも上達できる。

ほんの10年前、君は社会で必要なことをほとんど何もできなかったはずだ。一人で学校にも行けず、字も書けず、お金の計算もできなかった。自分で予定を考えることも、学校に持って行くものを揃えることもできなかった。だから、君は、両親や保護者、先生に何度も怒られながら育ってきた。

しかし中学を卒業するいま、君は生きるために必要なことはもう全て学んだ。もう両親や保護者、先生に反抗する必要すらない。自分の責任で好きなように生きれば良いのだから。

そんな中、中学を卒業して25年の僕から3つだけアドバイスがある。


1.自分の好きなことだけをやること

自分の好きなことだけをやって欲しい。だって生きるために必要なことはもう全て学んだのだから。ものを書くのが好きならそれでもいいし、音楽でもスポーツでも、工作でも、数学でもいい。つい先日入学の決まった高校を卒業することさえ、長い人生の中では重要ではない。

実は僕がある大学の付属高校に入ってすぐに考えたのは、高校を辞めることだった。理由は単純で、受験を終えて好きなことだけやろうと思っていたのに、興味のないことをいろいろ勉強しなければならなかったからだ。授業の予習をするだけで一日2時間はかかった。結局、辞めずに高校を卒業したのは、私の夢は数学者になることでそのために大学の数学科に行かなければならないと思ったからだ。数学科に進むためには、その高校を卒業して数学科に推薦してもらうのが最小の無駄で済むのだと理解したのだ。当時は若かったから、僕はその最小の無駄さえ恨んだ。

晴れて数学科に入学して知り合った友人と話すと彼は「高校を一週間で辞めた」という。「だって、くだらなかったから」と。彼は大検を経て数学科に入学してきた。僕は、日本人なら誰でも知っている都内の2つ大学の数学科を出たが、彼と同じような人は知っているだけで3人いる。

なお、敢えて高校に通うメリットを挙げるとすれば、それは刺激を受けられる友人と知り合えることだ。一生懸命勉強して良い高校に入るのは無駄な事ではない。「凄い奴ら」と知り合うことができるからだ。逆に、もし君が高校入試の結果、不本意な高校に通うことになったとしたら、やるべきことはその高校の外にも「凄い奴ら」を見つけて友達になることだ。もし不本意に入学した学校で「大したことない奴しかいない」などと思っていては、君の人生自体が不本意なものになるだろう。

君が優秀であればあるほど保護者の方や先生がうるさく言うのが大学入試だが、これも基本は同じだ。「凄い奴ら」を四六時中間近で見るために、どれだけ受験勉強するかという選択だと思えばいい。

話を戻そう。人間は大人になるにしたがって絶対やらなければならない事は減っていき、好きな事だけをやれば良くなっていく。それなのに、年齢を重ねるのにしたがって、嫌いなことを仕方なくやっている人が増えていくように見えるのはなぜなのだろう。それに対する僕の答えは「大人は楽をすることを覚えるから」というものだ。「一生懸命生きなくても、良い大学にさえ入れば…」「人生に悩まなくても大きな会社に入って文句を言わずに働きさえすれば…」「結婚して夫に尽くしてさえいえば…」といった具合だ。そういう人生を選ぶことは自由だが、「楽」をしているはずなのに「楽しそう」には見えないのが不思議なところだ。僕もしばしば「楽」を選び「楽しくない」時間を過ごして後悔することが多い。


2.一生懸命やること

好きな事だけやる代わりに、本気でやってほしい。世界一、あるいは、せめて日本一を目指すくらいでなければ嘘だ。例えば、音楽なら世界一の作曲家や演奏家を、スポーツ選手だったら世界一のプレーヤーを、工作だったら世界で一番精緻なロボットを作れるエンジニアを目指して欲しい。もし、君の目標が「高校の野球部で4番になる」という程度のものだったら、いますぐ辞めて別の夢を考えた方がいい。そんなのは「くたびれたおじさんやおばさんが考えた高校生の夢」だ。そんなものを夢にしても、くたびれたおじさんやおばさんにしかなれない。

夢が実現するかどうかはまた別の話だ。僕だって高校生のときは世界で一番凄い発見をしてフィールズ賞をとろうと思って数学を勉強していた。残念ながら、というべきか、よく考えたらやっぱりというべきか、夢は叶わなかったが、最初から「微妙なレベルの大学の先生になればいいや」などと考えていたら、何もできなかっただろう。

真剣に日本一になろうと思ったら、考えも多少変わるかも知れない。君は相撲が大好きだとしよう。日本一の力士になれなくても、日本一の行司になることだってできるし、日本一の実況アナウンサー、力士の診断では日本一の外科医になることだってできる。経営に興味があれば相撲協会に日本一の助言ができる経営コンサルになってもいいし、英語が得意なら世界で一番知られた相撲解説者になることだってできる。

日本一になる方法が分からなければ、日本一の人にどうすれば良いか聞きに行ってはどうだろう。大人というのは、多くの高校生が考えるよりずっと頑張ってる若い人には好意的なものだ。僕の大学時代には、毎年グループで一流の数学者にインタビューしにいくという企画があったが、多くの方が時間を割いて快諾してくださった。日本一のロボットを作りたければ、日本一のロボットを作っている会社にとりあえず電話してみてはどうだろうか。

君の夢が野球選手なら、世界一の野球選手にインタビューする事は難しいかも知れない。そんな時にはまず、君を差し置いて世界一になりそうな同年代の人と知り合いになれないか考えてみるのもいい。あるいは、君の夢が何かを発明したり発見したりすることなら、協力して世界一を目指せる友達を探すのもよい方法だ。

「一生懸命やること」は「後悔しないこと」でもある。僕は結構引っ込み思案な方なので、「好きなことをやろう」と思った時に「本当に良いのだろうか」と悩む事が多い。しかし実際には、好きな事を選んで後から後悔する事はほとんどなく、後悔するのはいつも「さぼって一生懸命やらなかったこと」なのだ。一生懸命できなかったら、本当にそれがやりたい事なのかどうか、考え直した方が良いのかもしれない。


3.世の中の役に立つことをすること

好きな事を本当に一生懸命やっているのに結果が出ない、将来の展望が開けない、ということもよくある。この時に大事なのは、自分が一生懸命やっていることが本当に世の中の役に立っているのかを考えることだと思う。

「大人は好きなことだけやれば良い」と書いたが、それが世の中の役に立たなければ食べていけないというのが子供との唯一の違いだ。

例えば、君がある売れないアイドルに入れ込んで、彼女のために献身的にファンクラブを立ち上げる。君は、その娘とファンクラブの運営に四六時中夢中になる。その甲斐あって、誰も見向きもしなかったアイドルに全国から17人のファンクラブ会員が集まった。毎月1人くらい上積みできるかもしれない。しかし会費は月300円で、君自身が食べていくどころか、ウェブサイトの運営費すら捻出できない。

しかし現実に起こることは、こんなに単純ではない。例えば、世界でもっとも美しいと騒がれる数学の理論を君は5年かけて学ぶ。君は世界で30人しか完全には理解していないという、その理論の第一人者が13年前に書いた有名な論文の補題3.2を一部拡張して学会誌に投稿する。証明は完全に正しく美しいが、論文は「枝葉末節」として却下される。君は誰にも認めてもらえず、来年切れるアルバイトの講師の契約に怯える。

誰かが一生懸命やっていることが、本当に世の中の役に立つのかを判断することは非常に難しい。しかし現代社会全体としてみると、お金はあり余っており、情報の伝達速度はもの凄い勢いで上がっているので、世の中に役に立つことがあれば誰かが目をつけてくれる可能性は非常に高くなっている。もし、自分があまりにも浮かばれないと思った時には、自分のやっていることが最善なのかを立ち止まって考えてみることを勧めたい。もしかしたら、その世界でもっとも美しい理論を他の人に分かるように説明し直したら社会に凄いインパクトがあるのかもしれないし、逆に美しいだけで未来永劫意味のない理論をやっているのかも知れない。


ふと、なぜ僕はこんなに当たり前のことを偉そうに書いているのだろう、と恥ずかしくなった。しかし、どうも今の世の中は複雑になりすぎて、当たり前の原則に従って生きることさえ難しくなっているように感じられる。中学卒業という節目で——あるいはそれが高校卒業や大学卒業、転職であっても——、そうした当たり前の原則を振り返ってみても良いのではないかと思った。


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20代後半が忙し過ぎる件 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

某掲示板「大学院卒業後の進路について悩んでいます」というトピが掲載された
(ちなみにこれは以前の炎上したトピとは違い、私の投稿ではない)。

その内容は、
「22歳の女子大生だけど、修士課程に3年間通って25歳で就職したい。
一方で、いま社会人の彼との結婚や出産は20代でしたいし、
就職したら3年くらいは働いてからでないと仕事も休みにくい。どうしたら良いか?」
というもの。
計算上は最短で28か29歳で出産可能にはなるがそれでもギリギリだ。
他はどの部分も現在の日本の社会常識に照らし合わせて、
ごくごく一般的なもので疑問を挟む余地はあまりない。
あなたがこの相談を受けたらどんなアドバイスをするだろうか?

この相談は少なくとも読者に、
現代の20代後半の人生設計がいかに慌ただしいかという事を理解させる。

例えば相談者の親世代が20代だった30年前であれば、
人生設計上の時間はもっとゆっくり流れていたはずだ。
女性であれば短大を出て20歳で就職。
そのまま同じ会社に何年か勤めて、社内恋愛やお見合いで結婚して寿退職。
20代での出産を考えても、時間は10年近くあった。
一浪して大学を出た男性であっても23歳で就職。
仕事は忙しくても人生設計上でやらなければならないことは結婚くらいだった。
結婚後に転勤があっても、妻もついて行けば良いだけだった。

それと比べて最近20年間の20代後半の人生はどうだろうか。
男女を問わず、修士課程を出てから就職することも珍しくなくなった。
むしろ理系に限れば修士を出ていないと就職でやや不利になることも多い。
すると、現役でも24歳、浪人や留年をすれば25歳以上で就職だ。
しかも就職後は、英語やコンピューターなど個人レベルで
磨かなければならないスキルが格段に増えている。
キャリアアップのための留学や、海外転勤、転職も一般的になり、
その準備や新しい環境への適応には時間がかかる。
お見合いは減り、合コンや街コンを使えばマッチングや
恋愛から結婚に至る迄のプロセスにも時間がかかる。
結婚して共働きなら、転勤は大きな問題になる。
前の世代が当たり前にやっていた20代での結婚や子づくりを
するだけでも、難易度が数レベル上がっているのだ。

私自身も十数年前に24歳で就職して、
28歳で結婚、留学、29歳の時に娘が生まれたが、
怠惰でのんびりした自分の人生の中でも
20代後半は目の回るような忙しさだった。
とても充実した20代後半ではあったが色々と運に恵まれた面も大きい。
大多数の人が、同じスケジュールで人生設計を進めることができるとは
思えないほどのスピードだった。

あまりに大変になりすぎた20代後半の生活を想像して
「恋愛は面倒」「結婚は後にしよう」「子供はもう少し待とう」
「留学はやめよう」「海外には行きたくない」
「転職しなくても安定した職場の方がいい」
などと考える若者が増えるのは当然のことのように思える。


話題を元に戻そう。
22歳の女子大生の願いを叶えるにはどうすれば良いだろうか?
私の答えは単純で「やりたいと思ったことをすぐにやる」というものだ。
彼女が願いを叶えるための最短経路は、

来週:結婚

来年:出産、子育て

25歳:就職

である(もちろん結婚は相手がいるので合意が必要だが)。
実際、このような人生設計は米国では別に珍しくもなんともない。
20代後半の生活が忙しくなっているのは日本だけでなくどこの人でも同じなのだ。

日本でそうした決断を阻んでいるのは、社会の伝統的な価値観だ。

「大学院生は研究に没頭すべき」
「学生はまだ半人前だから結婚すべきではない」
「ましてや学生で出産や子育てなどすべきでない」
「新卒以外は正社員として採用しない」
「25歳を超えた新人など教育しにくい」
「新人は育児休暇など取るべきでない」
「育児休暇は1年間は取りたい」
「結婚はお金がたまってから」
「結婚式の準備には1年間必要」
「子供は3歳まで母親が全面的に面倒を見るべき」

こうした価値観を個人が持つのは自由だが、
少なくとも社会全体で押し付けるべきではない。

日本の若い人の足を縛っているのは、日本社会の伝統的な価値観だ。
イクメンがどうとか、3歳まで抱っこし放題とか、
そういう運動は窮屈な価値観を更に増やして逆効果のように思われる。
日本社会が目指すべきは、

「いろいろな価値観を認める」
「伝統に縛られない」
「失敗してもやり直せる」
「何歳になっても挑戦できる」

という気楽に前向きになれる社会ではないか。


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日本人はなぜボトル入り飲料水の原料が水道水だと不満なのか -- このエントリーを含むはてなブックマーク

J-CASTニュースが「コストコで発売されているボトルウォーターの原料が水道水だったため、物議を醸している」と報じた。う〜ん、このネタ、海外の日本人コミュニティーでも定期的に鬼の首とったように非難する人がいるのだが、何が気に入らないのだろう。

まず、水道水もミネラルウォーターも軟水が多い日本では、基本的に水の味は大差ない。そのため、ミネラルウォーターには「天然に取れた水」という付加価値が必要で、売られているボトルウォーターはほぼ全てミネラルウォーターだ。



一方でアメリカの水質は場所によってかなり異なる。そのため、水道水も場所によって軟水から硬水まで幅広いし、ミネラルウォーターの水質も採水地によって異なる。日本で有名なクリスタルガイザーも(少なくとも米国では)採水地が何箇所かあるので、ラベルに採水地が書かれている。以前クリスタルガイザーが好きでよく飲んでいたのだが、先日安売りで買ったら、妻も私も以前飲んだものと違ってあまり美味しくないと感じた。採水地が違うものだったのだろう。



そんなわけで、米国ではミネラルウォーターの水質もブランドや採水地によって差があり使いにくい面がある。通常の水道水を成分調整しておいしくしたPurifiedウォーターには合理性があるということなのだ。

以前、ウィスコンシン州に住んでいた時に友人と議論になったことがある。紅茶を淹れる時に、ミネラルウォーターを使った方が美味しいか、水道水で入れた方が美味しいかという問題だ。

友人が、
「紅茶は軟水の方が美味しいから、水道水で淹れた方がおいしい」
と主張したのに対し、妻と私は、
「ミネラルウォーターで淹れた方が実際においしい!」
と主張して意見が噛み合なかったのだ。

実は、どちらもある意味では正解だ。

日本の水道水は軟水なので、輸入物の硬水のミネラルウォーターを使うよりおいしく淹れられるケースが多いだろう。

一方で、ウィスコンシン州の水道水はかなりの硬水で、水をコップに入れて何時間か置いておくと白いミネラル分(カルシウム?)が浮いてくるほどだ。それで紅茶を淹れると数分で真っ黒になってしまう。味も香り高くならない。買ってきたミネラルウォーターが軟水なら、そちらで淹れた方が断然おいしいというわけだ。

その後、我が家では買って来たミネラルウォーター(我が家では常に最安値のものを買うのでブランドはいつも違うのだ)が硬水だと、紅茶を淹れた時においしくないということに気付き、飲料水はミネラルウォーター、紅茶にはPurifiedウォーターを使っていた。飲料水もPurified ウォーターでも良いのだろうが、ミネラルウォーターを飲んでいるのは気分的な問題だ。あとは、多少味に(ブランドによる)ばらつきがあった方が飲んでて楽しいという事もあるかも知れない。

いま住んでいるミシガンでは、水道水は軟水だし、買って来るミネラルウォーターもほとんど軟水だ(ただし、以前に硬水だったものを外しているせいもある)。しかし水道水は水道管のサビのせいなのか少し臭いがあり、ボトルウォーターほどおいしく淹れられないので、アイスティーにはミネラルウォーターを使っている。

いずれにしても、ミネラルウォーター、Purifiedウォーターにはそれぞれの使い道があり、「水道水由来だからだまされた」というようなものではない。J-CASTの記事では、水道水だから安く売れるのだと書かれているが、そもそも米国のボトルウォーターは安く、ミネラルウォーターでも安売りで500mlのものが一本15セント程度。Purifiedウォーターでも2〜3セント安い程度だ。

Purifiedを買っている人も別にコストコにぼられてる訳ではないのでご安心あれ。


【就活】採用担当者が志望動機なんて聞いてどうすんの? -- このエントリーを含むはてなブックマーク

先ほどツイッターに

と投稿したところずいぶん反響があったので言いたいことをまとめておきたい。

日本の「シューカツ」においてはその企業への「志望動機」とやらが依然として重視されている。リクルートキャリアの就職白書2015によると、78%の企業が採用基準で重視する項目として「その企業への熱意」を選んでおり、その比率の高さは全項目中で堂々の2位になっている(ちなみに1位は「人柄」だそうだ)。

リクルート

確かに応募者が持っている「この職種につきたい」とか「この業界で働きたい」という希望を聞くことには合理性があるだろう。しかし、特定企業へのこだわりを重視することにどれほどの意味があるのだろうか。私も学生時代に就職活動をしたので各企業への志望動機は必死に考えた。しかし、フルタイムで何年か働いてみて感じることは、学生の頃に抱く企業へのイメージなど大した意味はなく、実際にそこで働いて見なければ実体は分からないということだ。そもそも同じ業界・同じ職種で、企業によってそこまで個人との相性があるかどうかは定かでないし、ましてやそんなことを外部から判断できるとは思えない。

そもそも採用側と応募者側の間には、募集するポジションと応募者とのマッチングに関して大きな情報格差があって、採用側が圧倒的に多くの情報を持っている。新卒の場合にはその差は特に大きい。採用側は、自分の会社なり組織にどんな業務があり、従業員がどのような条件で働き、どの部署でどんなタイプの人が活躍しているかを知っている。したがって、応募者が採用された場合にどういったところで活躍できるかかなりのところまで予測できる。一方、応募者の方は例え企業研究などをした所で非常に表面的な事しか分からない。採用側はそんな「素人」に自社の職場への空想コメントを並べてもらって何がしたいのだろうか。

もちろん、面接官が応募者に
「なぜ弊社を希望したのですか?」
と聞くのは別に悪いことではない。例えば技術系の職種であれば、その企業でやっている特定分野の開発に興味があるのかも知れない。また、横浜に住んでいる人がわざわざ岩手県の会社に応募したら、志望動機は何なのか採用担当者は気になるだろう。だが、ほとんどの応募者は、大まかな志望業界や特定の職種への関心があり、それに当てはまる企業をいくつか受けてみるという感じではないだろうか。それは別に排他的な選択をした結果ではない。

具体的に考えてみよう。損保会社で志望動機を聞かれた学生が、
「保険の新分野の商品開発に興味があるので損害保険会社で働きたいです」
と答えたとする。それに対して、
「なぜ他の損害保険会社ではなく弊社を希望するのですか?」
と重ねて質問するような採用担当者がいたら、
「冴えない面倒くさい面接官だな。」
と私なら思う。
会社案内を読んだくらいでは、損害保険会社の商品開発をする上で会社によって職場環境がどのように違うのかまで知ることは不可能だ。業界トップ企業なら待遇は良いかもしれないが、そんな自明な事を応募者に聞いてどうするのだろう。そこは、採用担当者が自分の会社をアピールして応募者に来たくなるようにさせるのが本来やるべきことだ。志望者を増やして採用側が損する事は何もない。

こんな愉快な話もある。私が日本の学生時代に、後に働く事になる職場に応募した際、リクルーターの方に「なぜこの会社に就職したのですか?」と質問してみた。するとリクルーターは「就職課に置いてあった応募ハガキの山のてっぺんから3枚取って応募しました」というのだ。3社とも名の通った企業ではあったが、業種も職種もバラバラだ。私はこの話を額面通りには信じていないが、今考えると就職活動に対するその人の精一杯の皮肉だったのではないかとも思う。

私は英語圏数カ国で就職活動をして、大学も企業も受けに行ったが「どうしてこの業界の中でウチに応募したのか」などというナンセンスな質問を英語で受けたことは一度もない。みな、その職場で働く事がいかにハッピーで素晴らしいかをアピールし、ほとんど見込みがなくても「君には是非来て欲しい」とラブコールを送るのだ。また、職場に採用候補者が訪れた時にそんな質問をしたこともない。採用するつもりで呼んでいるのだから、そこで自分の職場をアピールできずに無意味な質問で採用候補者を追い込めば、アンプロフェッショナルな印象すら与えかねないからだ。日本の「シューカツ」は世界の常識からはかけ離れている。

それでも日本企業の採用において「その企業への熱意」という不思議なものが重視され続ける理由は、もっと残念なところにあるのではないかと思う。

1つめは、内定者が辞退した時に人事部の採用担当者が責められるということだ。採用担当者としては、第一志望の可能性の高い候補者の方が安心だ。しかしそれは責任逃れをしたい人事担当者の私利私欲のためであって、実際に人を獲得する現場の職員は少しでも職務遂行能力の高い人を欲しているのではないだろうか。

2つめは、思い詰めた人を採用すれば多少の無理を押し付けても文句を言わず一生懸命働くだろう、という安心感だ。一生懸命やりさえすれば利益が出た冷戦時代の名残とも言えるし、ブラック経営の兆候とも言える。

3つめは、自社をアピールするための手法として利用出来ることだ。「我が社はこんなに凄いんです」とアピールすれば誰もが怪しむが「我が社の凄い点を考えてください」と言えば(結論は所与なのに)自分で考えたような気になり、納得感が高まるのだろう。宗教が、繰り返し信者に修行をさせて忠誠心を高めさせるようなものだ。

いずれにしても、まともな労働環境の職場を作るのに「企業への熱意」とやらが好ましいとは思えない。

もう、採用候補者に意味のない質問ぶつけて疲弊させるのは止めてはどうだろうか?

それとも、「キチョハナカンシャ」の次は「オンシャシャフーマッチ」でも流行らせますか?


アメリカ迷惑電話対策事情 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

日本でもアメリカでも迷惑電話が好きな人はいないだろうが、アメリカの迷惑電話の回数は極端に多い。ここでは主に家の電話の話をするが、携帯も同様だ。理由は色々とあるだろう。米国では、電話帳に自分の電話番号を載せないという選択をすることができるが、なんと電話会社から「載せないための手数料」を取られる。これは米国に引っ越して来た時にびっくりした。また、各種手続書類に電話番号を記入すると、グループ会社間でそれを共有されてしまい、色んな所から電話がかかってきてしまうということも多い。要するに、個人情報保護が日本ほど徹底していないのである。

電話の内容は様々だ。単なるセールス、教会や慈善団体の寄付のお願い、各種アンケートから、
「UPSで現金500万ドルを自宅に送りましたが届きましたか?」
などという訳の分からないものまである。ロボットで自動的にたくさんの家にかけてつながってからオペレーターを割り当てるものや、そもそも人を使っておらず自動音声で
「Congratulations! You got a free Bahama cruise!」
等と語りかけてくるものなどイラっとくるものも多い。

こうした迷惑電話を防ぐにはどうすれば良いのだろうか?

一応、アメリカにはアメリカ連邦取引委員会(FTC)の運営する Do not call registry というサービスがあり、テレマーケティング業者は、このリストに登録した消費者に電話をかけてはいけないことになっている。この仕組み、迷惑電話の80%をブロックできるという触れ込みなのだが、実効性はかなり微妙だ。私もこのリストには登録しているのだが、少なくとも2〜3日に一回はマーケティングの電話がかかってくる。

ブロック機能がついている家庭用電話機ものもあるが、私の持っている電話機は30件しか登録出来ないし、登録した番号からかかってきても一度は電話機が鳴ってしまう。

実は、私はOomaと言うインターネット電話サービスを使っているので、家庭用の電話料金は払っていない。正確に言えば、政府が課す手数料だけ払っているが、月に4ドル程度だ。Oomaは、月9.99ドルで迷惑電話をブロックできるサービスをやっているが、詳細が分からないし、少々高くて二の足を踏む。私はともかく、毎月かかるような費用が嫌いなのだ。スポーツクラブはとうの昔に辞めてしまったし、携帯電話は月3ドルのプリペイドだ。

そんなわけで、古典的なアプローチではあるが、コール・ブロッカーを買う事にした。少し調べたところ、家庭用電話に取り付ける売れ筋のコールブロッカーには2種類あって、一つはブラックリスト方式。迷惑な番号を自分で登録してブロックするもの(例えばこれ)。個別の番号もブロック出来るが、例えば、246−810で始まる全ての番号をブロックすることもできる。例えばフロリダ州オーランド(リゾート関係の迷惑電話が多い)をまとめてブロックしたりできて便利だ。ただし新しい迷惑電話をブロックできないのは心もとない。もう一つの方式は逆に、登録した番号の着信のみを受け付けるホワイトリスト形式だ(例えばこれ)。迷惑電話は基本的に100%ブロックできるが、今度は全ての電話番号を登録するのが面倒だ。

とりあえず、ブラックリスト方式のものを買って取り付けてみた。今の所、在宅中に迷惑電話を取ったことはないので、まあ機能していると言える。

もっとも、多くの人が、機械学習を使った優秀なスパムメールフィルターを利用している現状と比べて、このコールブロッカーの現状はまだまだとても原始的だ。スマホのアプリに関しても機械学習を使っているものは無いわけではないようだが、あまり普及しているようには感じられない(私が情弱だから見つけられないのだろうか)。特にネットワークと接続されない家庭用電話機に関しては、情報の便利な更新方法がないのかも知れない。程度問題だが、いたちごっこにもなるだろう。

しかし、迷惑電話を自動的に拒否出来るような仕組みはもう少し充実して欲しいものだ。


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最低賃金は大幅に上げるべき -- このエントリーを含むはてなブックマーク

政府が最低賃金(全国平均)を1000円に引上げる方針を発表した。現在の最低賃金は、798円なので約25%増ということになる。当面は年3%程度引上げる計画のようだ。一見それなりに大きな目標に見えるが、様々な点を考察すると、むしろ年3%では遅過ぎるくらいであるということが分かる。各方面から、点検してみよう。

1.経済学の基本的な考え方

自由で完全な競争が成り立っている経済では、最低賃金引き上げは単に雇用を減少させる。賃金は既に需給によって決まっているのだから、最低賃金を800円から1000円にすれば時給800円や900円の仕事は単に消滅してしまうというわけだ。その結果、失業率が上昇するから生産水準も低下する。

しかし、実証分析の分野においては賃金引き上げの雇用や景気への影響は必ずしも明らかでない。転職活動のコストが高い場合には、労働者が不当に安い賃金に甘んじたりする場合には最低賃金引上げは望ましいし、仮に雇用を減少させる効果があっても雇用調整に時間がかかっている間に、所得の増加が景気をよくしたりすることもあるからだ。

2.海外との比較

日本の最低賃金は、所得中央値(100人中50〜51番目の人の所得)の39%(2014年、OECD調べ)でOECD加盟国28カ国中25位である。これは実質所得が3万ドルを超えるOECD加盟国の中では、米国(37%)、チェコ(37%)に次いで低い。フランスは61%、イギリスは48%である。多くの東欧諸国や韓国などでは30〜40%前後だった最低賃金を過去15年の間に40〜50%まで引上げた。チェコは最低賃金は低いが、ジニ係数(所得のばらつきを表す指標)で見た貧富の格差は世界最低水準で、全体として社会福祉が機能していると言える。残るのは米国と日本だけだ。

最低賃金2014

その米国でも、近年引き上げの動きが相次いでいる。米国の最低賃金は国や州、市が下限を決める方式をとっている。例えば、国全体の最低賃金は7.25ドルだが、イリノイ州では最低賃金が8.25ドルなので、イリノイ州の雇用主は賃金を8.25ドル以上にする必要があるという具合だ。民主党は、7.25ドルの最低賃金を2020年までに12ドルに上げる法案を提出した。これは民主党の提案は選挙対策としての一面があるにしても、各州や各市でも生活費の高い都市部をかかえる州を中心に大幅引き上げが相次いでいる。報道されているように、LA、シアトル、サンフランシスコなどでは段階的に15ドルまで上げる法案が可決された。マサチューセッツ州では、2017年1月までに現在の9ドルを11ドルに、ハワイ州では現在の7.75ドルを2018年1月までに10.1ドルに段階的に引き上げられる(各州の最低賃金のまとめ)。

日本の最低賃金引き上げは、国際的に見ると完全に外堀を埋められた状態と言って良い。

3. 日本の現況

(1)雇用環境

経済学の見地からにフラットに考えると、最低賃金引上げにあたっては失業率の水準が一つのキーになるだろう。最低賃金の引き上げによる負の影響は、主に失業の増加だからである。日本では、失業率が3.1%と20年ぶりの水準まで低下、有効求人倍率も1.24と23年ぶりの高水準を維持している。この水準は他国との比較でも雇用需給がタイトであることを示しており、最低賃金引上げには追い風のように見える。

(2)生活の維持

最低賃金労働者の生活の維持という観点からしても、現在、最低賃金の引き上げは必要度合いが高い。私が高校生だった90年代、首都圏(都外)のファーストフード店の時給は600円代後半だった。当時は団塊ジュニア世代が学生であり、アルバイトの確保は容易だったのも一因だろう。しかし最低賃金が今ほど問題になる事はなかった。これは、働き手が多かったということのみならず、団塊世代の多くが安定した豊かな暮らしを送っていたために、その扶養下にある子供の時給が低くても社会的な問題にはならなかったのである。学生は親から十分な生活費をもらい、もっぱら遊ぶための金をアルバイトで稼いでいた。最低賃金労働者が自活したり、学費や生活費を自分で稼いだり、という現在では当然、話は違ってくる。

(3)国際競争力への影響

最低賃金を上げれば、賃金が上がった人は喜ぶに決まっている。一方で、他国との価格競争を行っている製造業では競争力が低下する。しかし、そうした問題も重要ではないように見える。第一に、日本の輸出依存度は15%(2014年)に過ぎず、最低賃金引き上げが経済にプラスとなったと言われるドイツ(同39%)の4割程度に過ぎない。第二に、近年の円安で多くの輸出企業の損益分岐点はかなり下がっている。第三に、近年では国内の労働力不足や電力供給の不安定をきっかけに海外移転が進み、そもそも国内のコストが輸出量にあまり反映されない体質になっていることがあげられる。

(4)相対賃金をどうしたいか

最低賃金を上げた時に相対的にデメリットを受けるのは、当然ながら最低賃金よりも高い賃金をもらっている層である。日本の競争力が低いのは専門性が低く年齢ばかり重ねた正社員の賃金が年功序列によって高過ぎることであるが、最低賃金の引き上げはこうした歪みを是正する効果がある。これは国全体にとっては望ましい事のように思える。安倍政権は年2%のインフレを達成するために、賃金も年2%程度上げたいと考えているようだが、相対的な賃金水準をどうしたいかという視点が欠けているように見える。余裕のある大企業に賃上げを要請した時に起こる事は、いわゆる「大企業のおじさん達」の賃金を更に上げることに他ならない。むしろ、歪みを拡大させようとしてきたことになる。

(5)消費増税の影響緩和

2017年4月には2%の消費増税が行われる予定だ。この時、もっとも影響を受けるのは支出の自由度が低く消費性向が高い低所得者層だ。食料品への非課税措置が検討されているのも、元をたどればそれが理由である。より効率的な政策は、低所得者層への給付を行うことだが、最低賃金の引き上げは少なくとも勤労者世帯についてはもっと望ましい政策だ。働かない人にお金をばらまくのと、働いても貧しい人の賃金を上げてあげることのどちらが好ましいは明らかだろう。

(6)物価や小売店への影響

最低賃金を引上げると、ファストフード店など低賃金労働者を多く使う業態では値上げや利益圧迫が問題となるように思えるが、実際には逆だ。業態によって異なるが、低価格飲食店の人件費比率は25%程度である。仮に全ての人件費が最低賃金だったとしても、
25%の賃上げによってコストは6%程度上昇するに過ぎない。同じ利益率を確保するための値上げ幅は8%弱に留まる。380円の牛丼は410円程度になるが、それを利用する最低賃金労働者の収入は25%増加するのだ。総じて最低賃金引き上げの「低価格産業」に対する影響はプラスだと考えられる。


こうして見ていくと最低賃金引き上げは、かなり勝算の大きな賭けであるように見える。「消費増税が9割」の日本の経済政策であるが、それを実施するためには、経済的弱者の救済と有権者の支持は必須だ。増税の影響を緩和するためにも、2〜3年のうちに最低賃金を2割ほど引き上げて、他の先進国と同水準にするのが政治的のも経済的にも望ましいのではないだろうか。


昭和のままの経済統計のしくみ -- このエントリーを含むはてなブックマーク

日経電子版が、「麻生財務相が10月16日の経済財政諮問会議で、消費や賃金といった経済統計の精度を高めるよう提案した」と報じた。これは日本に限った話ではないが、経済統計に関しては集計方法や利用方法があまりに旧態依然としており、経済予測の正確性に悪影響を及ぼしているので、少し解説しておきたい。

大局的に見れば、経済統計の正確性が問題になるのは、低成長下でより細かい数字が経済政策の方向性に影響を与えるからだ。経済成長率が10%の時には0.5%ポイントの誤差はあまり問題にならないが、成長率が0.5%の時に0.5%ポイントの誤差は政策の方向性に大きな影響を与える可能性がある。

一方で、経済指標の計測が近年難しくなっているという構造的な要因も存在する。例えば、個人や企業の経済活動を調査する際、時間に伴う変化を少ないノイズで観測できるのは、選ばれた標本を継続的に調査するパネル調査という方法だ。この方法は、企業の倒産や合併が少なく、新しい産業の勃興が起こらず、個人は同じ会社で正社員として働き続ける、というような安定した社会では調査が容易だが、近年のような世の中の変化の早さと、不安定な雇用の下ではどうしてもノイズが大きくなりやすい。日本の多くの経済統計は1970年頃に整備されたが、安定した時期に作られたこうした経済統計の仕組みは現代にそぐわなくなってきている。

それでは、経済統計や経済予測の精度はどのようにして高められるのだろうか。その答えは技術革新にある。役所が事務員に数字を打ち込ませて、何億円もかけたコンピューターシステムに平均だけ計算させて発表する、という旧態依然とした姿を変えなければならない。具体的には以下の通りだ。

1.調査方法 ー 調査は簡潔に。詳細は情報技術で

調査を行う側は基本的に「調査オタク」なので色々な項目を調べようとする。ところが、これは統計の精度向上にはむしろマイナスであることが多い。調査の負担を増やすと、時間などのリソースに余裕のあるグループしか回答しないという問題が生じるが、こうした標本数の減少や偏りを、事後の統計処理でカバーすることは非常に難しいからだ。例えば、ボランティアの回答者に丸一日かけて回答させた「仕事の繁忙度について」の調査結果がナンセンスであることはすぐに納得頂けるだろう。米国では、日本よりずっと多くの調査が行われているが、よりきちんとした機関が行う調査ほど項目が少ない。各項目の重要性や相関を統計的に考慮すれば、項目を絞ることができるからだ。全国民を対象にするセンサス調査などはかなり項目を絞っている。

より詳しい情報を得るためには、企業の会計システムと統計の集計をリンクさせたり、POSシステム、インターネットの検索データ、クレジットカード、携帯電話などから調査目的のデータ取得を進めることが必要だ。


2.集計方法 ー 誤差を減らすための統計手法の導入を

多くの経済統計は、発表される平均値を算出する際に単純に数字を足しあわせて回答数で割っているわけではなく、層化抽出という方法をとっている。例えば、人口比では60歳未満と60歳以上の調査対象が半々なのに、回答者は60歳以上が9割というような状況を考えよう。すると回答を単純に平均しても実体に即した値が出ないので、二つのグループ(層)を別々に集計して、あとで人口比を使って平均を取るという具合に集計している。

しかし、この方法でも対応出来ないことは数多い。例えば年齢の低い程回答率が低いならば、60歳以下の層に分けても回答が比較的高齢層に偏ってしまう。逆に、層を極端に細かく区切ると、回答が欠けた場合の影響が大きくなり、誤差を増幅するという問題が発生する。

こうした問題に対処するためには、集計ロジックの中で、例えば局所回帰分析などより進んだ統計手法を使う必要だが、経済統計の作成部門や、それを補助する集計システムの作成部門は、そこまで統計の専門家にリソースを割いていない。


3.利用方法 ー 個票データの直接利用を

当たり前だが1万人が回答した調査であれば、各項目に1万の数字が集まる。現在の経済統計で行われていることは、この1万の数字から平均というたった一個の数字だけを発表することだ。そして、経済学者は、たった1つの失業率、たった1つのインフレ率、たった一つの平均所得を取ってきて、ああでもないこうでもないと、何ヶ月も分析を重ねている(実際には県ごと、項目ごと、業種ごと等にも集計されるが大雑把に言えば大差ない)。こんな方法では予測の精度の改善は大して望めない。個票データを異なる統計間でひも付けて一カ所に集めた上で、膨大な数字から直接、経済予測を試みるべきである。

もちろん、機密情報の保護が担保できる限りは、個票データを利用しやすい形で(紙ベースや、神エクセルではなく、データベースの形で)一般に公開することも重要である。この公開に関しても、統計的な操作を施して機密性を向上させることが可能だ。ただし、データやそのひも付けが充実するほど個別企業や個人の特定は容易になるため、世論がプライバシーの保護にうるさい日本では公開できる範囲は狭くなるだろう。



このように見て行くと分かるように、経済統計の質を向上させるために必要なのは技術革新である。数字を聞き取って打ち込む事務員や、その管理職、数字を合計して回答数で割るシステムの細部を徹夜で詰めているシステム屋の尻を叩いても解決しない。

統計作成部門がトップレベルの専門家を雇い権限を与えて統計を設計し直す。統計屋とデータサイエンティストを擁するシステム業者を雇って開発させる。政府が組織横断的に統計作成部門と経済予測部門を統合する。そして、経済学者とデータサイエンティストを雇って、協力させて予測を行う。これが、これからの経済統計と経済予測の精度を向上させるために必要なことなのである。


高齢者がアメリカに住むのは大変だと実感した出来事 -- このエントリーを含むはてなブックマーク

今朝、シャワーを浴びた後で朝食を食べようと一階に下りると、妻が
「もう聞いてよ!朝から大変だったよ。」
と話しかけてきた。なになに?と思って話を聞いてみると、コンドミニアムの向かい側のユニットに住んでいるお年寄りの女性が膝を痛めて歩けなくなり、這って助けを求めに来たそうだ。彼女はずっと一人暮らしで、親戚や知人等が訪れてくるところも見た事がない。年齢は70歳前後だろうか。5年前に我々がコンドに越してきた頃はずいぶん元気そうだったが、2年ほど前に病気で入院した際にずいぶん痩せて近所を心配させていた。その後、病気からは回復して元気になったように見えたが、最近は体重が増えたせいか、膝を痛めたのだろう。

彼女は「運転はできるから、駐車場まで歩くのを手伝って欲しい。」と妻に頼んできた。距離は20〜30メートルくらいだろうか。私が手伝えれば多少は良かったのだが、たまたまシャワーを浴び始めたところだったので、妻は「今、夫はすぐには来れないので、私がやります。」と言って体を支えて何とか車まで連れて行った。途中でバランスを崩して一度倒れてしまい、妻はアザまでできてしまった。妻は妻で大変だったが、その女性も歩けない体で運転して病院まで行くのはかなりに大変だっただろう。無事に病院までたどり着いていれば、病院の車寄せから助けを呼んだのだろうと想像される。

実は彼女は、2〜3ヶ月ほど前にもどこかを痛めて歩けなくなったことがあり、救急車が来ていたことがある。意識はしっかりしていたし、助けがあれば何歩か歩くことはできたので、今回と同じような状況だったように見えた。何故今回は、救急車を呼ばなかったのだろうか?

その答えは、9割方明らかである。救急車を呼ぶのにお金がかかるからだ。そのコストは地域差や移動距離による違いはあるものの大雑把に言って、500〜1000ドルくらいと言われている。確かによほどのことがない限り、庶民が自腹で払おうと思える額ではない。

健康保険はないのだろうか。米国の65歳以上のお年寄りの多くは、国が提供するメディケアと呼ばれる保険に入っている。いわば、65歳以上限定の国民皆保険制度である。しかし、医療価格が日本の5倍とも7倍とも言われる米国では、メディケアの財政は急速に悪化しており、保険がカバーする範囲は最低限に抑えられている。救急車を呼んだ場合の自己負担は20%となっているようだが、保険が適用されるのは心臓発作を起こしたとか、大事故に遭って出血多量というように生死に関わる緊急の場合に限られる。

そう考えていくと向かいに住むその女性の状況は、大体想像がつく。数ヶ月前に膝を痛めて歩けなくなり救急車を呼んだ。入院して治療を受け家に帰ったが、後にその救急車の費用が全額自己負担になると知って仰天したのだろう。今回タクシーすら呼ばずに自分で運転していくことを選んだ事を考えると、かなり経済的に困窮しているのかも知れない。

彼女のような状況は決して珍しくなく、むしろ米国で一人暮らしをするお年寄りの典型的な姿だろう。経済レベルは中の下、下手をすれば中の中くらいなのかも知れない。古くて小さなコンドミニアムとはいえ持ち家があり、新車をリースし、元気だった4年前にはイタリア旅行に行く、と1週間あまり出かけていたこともある。物腰も柔らかく、そんなに貧しい生活を送ってきた人のようには見えない。

米国の医療制度に関しては、国民皆保険でないことが話題にされることが多いが、自由価格の制度のもとで医療費が異常に高騰した米国は、もはや皆保険が達成されただけでは、どうにもならないところまで来ているというのが実態なのだ。




日本の博士課程は人生の罰ゲームか -- このエントリーを含むはてなブックマーク

「博士課程は職業・日独シンポジウムで日本の遅れ浮き彫りに」という報道が加納学教授のツイッター経由で話題になっていたので、私が感じていることを少し述べたい。


1.米国の博士課程院生の社会的な立場

 私は日本で社会人を経験した後、米国の博士課程に進学し、米国で就職して現在に至っているが、11年間の米国生活の中で一番嬉しかったのは、初めてTA(ティーチング・アシスタント、主に学部生の演習の授業を受け持つ)の契約書をもらった時だった。学費免除や健康保険などの福利厚生を除けばたったの月900ドル程度の仕事だったが、お金を落としてくれる留学生という「お客様」の立場で米国に来た自分にとって、初めて米国社会の一員と認められた事はとても嬉しかった。

 欧州同様、米国においても、博士課程の院生の大半は私と同じ様に給与をもらい、授業料を免除してもらいながら、職業人として社会に認められて生活している。フルタイムの勤務経験があり20代後半〜30代前半で入学する院生も多いので、既に結婚していたり、在学中に結婚したり、子供が生まれたり、というケースも非常に多い。米国人のみならず、中国人、韓国人、日本人、ベトナム人、ウルグアイ人、チリ人と国籍を問わずそうした例を多く見かけるから、大学と社会の雰囲気がそうさせるのだろう。私の妻が妊娠した時、診断をしてもらったのも大学の医務室だった。大学には家族向けの寮もあって、大変質素
な造りながら、そのアカデミックで開放的な雰囲気を好んで住む知り合いも多かった。

 最近考えさせられたのが ask.fm 経由で匿名で受けた次の質問だ。

「大企業を辞めて博士課程に留学し、学位取得前に子供を作る」という決断にリスクは感じませんでしたか。


 前半の「会社を辞めて博士課程に通うこと」には当然、経済的なリスクはある。博士課程も仕事のうちだとしても、修了後により良い仕事が見つかるかどうかは分からない。しかし後半の「子供を作る」という事に関して言えば「在学中が最適なタイミング」という判断には殆ど迷いがなかった。当時、留学についてきた妻はいわゆる専業主婦で時間があったし、私も院生の時の方がより子育てに参加できた。仮に私が卒業後に良い仕事を見つけられなければ、妻も働かなければならないかも知れない。それまでに子供がある程度大きくなっていれば何とかなる。逆に、その時までに子供が育っていなければ出産の機会を失うかも知れない。深く考えるほど、博士課程在学時に子供を育てるのが最も合理的に思える。

しかし実は留学前に日本にいた頃、私も質問者の方と全く同じ事を感じたことがある。留学先候補を調べていた時、日本人の大学院生で奥さんと子供が2〜3人いる方のホームページを見つけて「まだ仕事も見つかってないのに大丈夫なのかなあ」と心配になったのだった。なぜ、私の感覚は180度変わってしまったのだろう。結局のところ、これは博士課程院生に対する世間の目の問題ではないかと思うのだ。


2.日本の博士課程に対する世間の目

日本のアカデミアに残るという選択が非常に過酷である理由はいくつもあるが、その第一関門が「博士課程院生が職業人として認められていない」ということであると私は感じている。日本では、博士課程の学生であろうとも「所詮、学部生活の延長で生活している人達」と捉えられていて、一人前の「社会人」として見做されない。確かに、大学院生は毎朝9時にスーツを着て出勤しなくても良いかも知れない。しかし、自分の責任で研究を進めて将来を決めなければならない博士院生は「勉強半分、交流半分」といった感じの学部生のように気楽ではない。また研究は「頑張ればAが取れる」学部の授業のように一筋縄には行かない。しかもそうした院生は、平均すれば、就職した同期生よりも学部時代にずっと真面目に勉強してきた人達なのだ。例え高額な給与は払われなかったとしても、博士課程の院生には職業人としての社会的地位が与えられるべきだろう。これはお金の問題でもあるが、お金だけの問題ではないのだ。

 「そうは言っても院生は楽なんじゃないの?」と疑い深い世間の目に、補強材料を与えてしまうのが、謙虚な院生の「好きな事やらせてもらってるからお金にならなくても構わない」という立派すぎる態度かもしれない。実際のところ、大学院で「好きな事やらせてもらってるからそれだけで幸せ」なんて言うのは、ビジネスパーソンに例えれば「趣味は仕事だから仕事していれば幸せ」というレベルの超人であって、そんなレベルを標準にすべきではないのだ。

 結婚や出産、子育てに関しても同じ事が言えるだろう。「院生はまだ勉強する立場なのに(or定職についていないのに)結婚など早い」と口には出さずとも思っている日本人は多いだろう。不思議な事に「ビジネスマンはまだ仕事をする立場なのに結婚など早い」という人はいないし、「外資系社員は雇用が不安定なのだから結婚するべきでない」などと言う人も見た事がない。学振研究員に「国からお金を貰いながら産休を取るのか」と文句を言う人はいるようだが、公務員に「国からお金を貰いながら産休を取るのか」という人は不思議といない。

 こうした状況は、特に女性が博士課程に進むのを困難にしているように思えてならない。男性の場合は博士課程進学で結婚が遅れてもキャリアで成功すれば肩書きを活かして、年下の女性と結婚するなどというケースも多い。しかし、出産の年齢的な制約も大きい女性が同じ方法で人生設計をするのは、かなり難度が高くなると言わざるを得ない。これは、一見個人の問題のように見えて、大学の運営にも関わる問題だ。例えば、大学にも性別のクオータ制などの積極的なアファーマティブ・アクションを導入するような場合、女性の進学者が少なければ採用される女性研究者の質も下がる。

もちろん、現実問題として資金の手当の問題はある。例えば、今よりも大学は企業等から研究資金を獲得できるようにする必要があるかも知れない。そのためには、大学教員にも企業から資金を取ってくるインセンティブを増やす必要があるだろう。例えば、米国の大学では外部から獲得した研究資金を一定の額まで自分の給与に上乗せすることができる。一方で、企業にとって、研究者を囲い込むのではなく大学に外注して固定費を減らす方が得になるような仕組みが必要かも知れない。また、院生の義務が皆無だった理論分野などでは、院生の教育義務などを増やす必要もあるかも知れない。分野や大学によっては院生の数を減らすことも必要だろう。そうした問題の細部はここでは考察しない。

ここで強調したいのは、博士課程の院生を経済的に自立できるようにするという課題も重要だが、それと同じくらい、社会が博士課程の院生を職業人として受け入れることが大事だということだ。「人はパンのみに生きるにあらず」と研究者を目指す志の高い若者が、一人の職業人として社会から認められることを誇らしく思わないはずはないだろう。


テーマ : 大学
ジャンル : 学校・教育

プロフィール

Willy

Author:Willy
日本の某大数学科で修士課程修了。
金融機関勤務を経て、米国の統計学科博士課程に留学。
2009年、某州立大数学科専任講師。2010年、助教。2016年、准教授。

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お勧めの本
1.ルベーグ積分30講
―― 統計学を学ぶために。
   小説のように読める本。
   学部向け。


2.Matematical Statistics and Data Analysis
―― WS大指定教科書。
   応用も充実。学部上級。

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